新作紹介『トーキングヘッズ叢書THNo.90 特集・ファム・ファタル/オム・ファタル』高槻真樹

新作紹介『トーキングヘッズ叢書THNo.90 特集・ファム・ファタル/オム・ファタル』高槻真樹

 SF界を含め多彩な執筆陣で毎回話題を呼ぶ季刊アート誌『トーキングヘッズ』もいよいよ90号。大台が見えてきました。先鋭的な切り口を特徴とする本誌ですが、今回の特集は意外にも「ファム・ファタル/オム・ファタル」です。
 ジェンダー面での議論が進む現在、「悪女に魅了され、だまされた」なんていう男の愚痴は、単なる偏見の告白でしかないのかもしれません。しかし今回は、普段あまり目にすることのない男性版「オム・ファタル」もセットになっているところがポイントです。
 私たちは「魅了」を狭くとらえすぎていたかもしれません。今回の特集で紹介された、実に様々な事例は、考え直すためのきっかけとなってくれるでしょう。
 梟木「かぐや姫の正体」は、日本最古のファム・ファタルに迫ります。ミステリアスな存在としての「かぐや姫」と翻弄される男たちの物語は、手を替え品を替え描かれてきました。それでいて、かぐや姫本人は謎の存在のままという指摘はまさにその通り。それで誰もおかしいとは思わなかったということは、読者としての私たちも、彼女に翻弄されている、ということなのかもしれません。
 浦野玲子「虚実皮膜のファム・ファタル的女優論」は、全7ページの大作評論で、ジェンダー的議論を踏まえた上で、映画において繰り返し「男を籠絡する」存在として描かれてきた、ファム・ファタルに挑みます。必ずしも顔立ちが整った女性が選ばれているとは限らず、男が求めるキャラクターを機敏に察知し、仮面を着けたり脱いだりと巧みに立ち回れる者がファム・ファタルと呼ばれるようです。それはむしろ、権力に抗い、自由を求める、人間らしい生き方のひとつと言えるのではないでしょうか。
 とはいえ、フィクションの中では悲劇として受容されるファム・ファタルたちも、現実の世界に飛び出すと、とんでもない惨劇を生んでしまうことがあります。阿澄森羅「毒婦たちの事件簿」は、江戸期の「妲己のお百」にはじまる事件史をひもといて、「毒婦」とそしられた女性たちの実像に迫ります。近年の連続不審死事件の主人公たちに至っては、むしろ普遍的な理解を拒む、ホラーめいた異様な世界が立ち現れます。
 水波流「美貌と奔放さで男を虜にした女奇術師・松旭斎天勝」もまた、実在したファム・ファタルとしての女奇術師を紹介しています。ほぼ記録に残せない舞台芸人の世界では当然のことかもしれませんが、かくも同時代を熱狂させた人物が、現在はまったく忘れ去られているというのは驚きです。性的規制が厳しかった戦前に、薄衣だけをまとった妖艶なコスチュームで観客の度肝を抜いたとか。ブロマイドは現在も残されており、今見てもギョッとさせられるインパクトがあります。
 宮野由梨香「オペラ『カルメン』-見いだされる「魔性の女」」は、典型的なファム・ファタルとされる歌劇のヒロインを、カルメン自身の視点から読み直すことに挑みます。カルメンに恋するドン・ホセの視点では、移り気で身勝手な女にしか見えなかったのかもしれませんが、実は確固たる信念を持ち、理不尽な要求は頑としてはねのける、芯の強い人物であることが浮かび上がってきます。ドン・ホセは、「こうあってほしい女」の姿を一方的に投影し、カルメンがそこから外れると怒っていただけだったのです。
 さて、それではオム・ファタルの方はどうでしょうか。歴史上もっとも有名なオム・ファタルといえば、この人です。馬場紀衣「ジャコモ・カサノヴァの艶なる恋」を見てみましょう。詩人・作家・聖職者で高身長かつ容姿端麗だったそうですから、もてるのも無理はない。ただ、1000人と寝たと豪語しつつも、自らを磨く努力も忘れず、いつも相手の女性たちの幸福を願い気遣っていたそうです。もてる秘訣は、容姿よりも相手への細やかな配慮。これは現代にも通じる価値観かもしれません。
 とはいえ、なぜそんなにもてるのか、本人も含めてよく分からないまま終わってしまった人もおりました。私が執筆した「オム・ファタルとしてのスタンリー・キューブリック」はまさにそうです。SF映画の金字塔「2001年宇宙の旅」をはじめ、超大作の傑作を連打し続けた巨匠ですが、没後に記録が検証される中で、実は人を巧みに籠絡し、薄給でこき使った末に手柄は独り占めという、なかなか黒い人であることが分かってきました。原作者のアーサー・C・クラークですら、言葉巧みに丸め込まれ、映画の興行収入はほとんどもらえなかったそうです。この場合、セックスは関係なし。気がつけばみんな奴隷となっているという、なかなかにおそろしい世界です。
 岡和田晃「交錯するファム・ファタルとオム・ファタル」は、『ねじの回転』などで知られるヘンリー・ジェイムズの第一長編『ロデリック・ハドソン』を、ファム・ファタルとオム・ファタルの対決小説として読み替えてみせます。まさに頂上決戦。ゴースト・ストーリーの古典とされる作品を書いた巨匠は、第一作から只者ではなかったというわけです。
 近づいてはいけないとわかっているのに、人は、ファム・ファタルやオム・ファタルに魅了されてしまいます。誘惑する当人たちも、悪意をもって誘っているとは限りません。意図せずに相手を破滅に追いやっているのかもしれない。でも、破滅が待っていると分かっていても、ついついのめりこんでしまう甘美さが、そこにはある。本書で紹介されているのは、そんな、危険だからこそつい触れてみたくなる世界です。
 今回の特集をひととおり読み終えて感じるのは、むしろ「人と繋がりたい」という人間の欲望の強さでした。ただ友達になるだけでは満足できなくて、誰かの特別な唯一無二の存在になりたいという願望は、誰にでもあるのではないでしょうか。
 ある意味で、これは侵略SFめいた世界です。侵略者は、常に円盤に乗って外宇宙からやって来るとは限りません。『盗まれた街』『ゼイリブ』のような、気が付けば支配されている恐怖を直感的に理解できるのは、誰もが無意識に手を焼いているからこそでしょう。
 「魅了」という行為は、私たちの無意識の奥深くに眠る欲望のスイッチをパチンと入れてしまいます。普段忘れがちですが、私たちは、「無意識」という異質な存在と同居しています。私たちの一部でありながら、知覚できず制御もできない。ほんのささいなきっかけで、あなたは何者かに乗っ取られるかもしれない。
 自分が自分でなくなる恐怖と本当の自分になれる安堵感。「本当はこうしたかったんだろ」と囁かれると、ぐうの音も出ません。見えていたけど、見ないふりをしていただけなんだ。その瞬間に気付いてしまうからなのです。
 彼女との出会いを語っていたはずが、気が付けば私自身の話になっている。メビウスの帯のようにぐるっとひねって、すべては私の心の中に立ち戻る。でもそれは振り出しに戻ったのではなくて、気が付けば「私」が「彼女」になってしまったのかも……。本特集に収められた数々のファム・ファタル/オム・ファタル譚をたどるうちに、これらは侵略SFでもあり、内宇宙のSFでもあるのではないか。そんな結論に至りました。PWを読む読者諸氏ならば、大いに想像力が刺激されるはずです。
 特集記事以外も充実しています。岡和田晃の「山野浩一とその時代」は、はや19回目。今回は、『いかに終わるか 山野浩一発掘小説集』(小鳥遊書房)の大反響を得て、小説家としての山野浩一の価値が、没後もまったく衰えていないことを示してみせます。
 巻末の恒例「特選街レビュー」では、水波流の劇評「PLEASE PLEASE EVERYONE」が注目です。近未来の教育施設を舞台に、善意の人々が対立し、正解のない状況に誰もが途方に暮れます。そしてついには、観客すら劇中に取り込まれ、あなたの意見はと問われてしまうのです。現実の過酷さを見事に切り取った一幕、ぜひ立ち会いたかったものです。
 20年にわたる大河連載の最終盤を切り取った、西村遼による「ナポレオン~覇道進撃~22巻」評も興味深いものです。長谷川哲也によるコミックは著名ですが、まだ続いていたのかと驚く人も多いでしょう。エルバ島脱出後のナポレオンたちを老いて枯れた存在として描くというのも斬新です。
 様々なジャンルの目利きによるメディア評の数々は、気になるものばかり。付箋を貼りまくりたくなること請け合いです。