俺がもっとも美しいと思うもの。それは姉さんの夜髪だ。
世界のあらゆるものよりも深い黒色、髪全体に小さな星々が瞬いていた。左側の側頭部には月が浮かび、肩甲骨ほどまで伸びた毛先には銀河があった。それらは目を凝らさないと気づけなくて、何も知らない人からすれば、つややかで美しい黒髪にしか見えなかっただろう。
もちろん姉さんも生まれ時からそんな髪だったわけではない。夜髪をまとったのは姉さんが十四歳、俺が八歳の時だった。
ある日の晩、姉さんが帰ってくると髪に夜空が浮かんでいた。その髪はなに、とたずねると姉さんは小さな声で言った。
「これは夜髪っていうの。夜空を染め写したの」
俺は続けて、どうして夜に染めたの、とたずねた。
「私は夜を愛しているから。ハル君にはまだ分からないと思うけど」
当時の俺には意味が分からなかった。夜は暗くて静かで、怖くて心細いもの。そんなものを愛するなんて変だなと思った。
それなのに夜髪に心を奪われた。手を伸ばせば届く距離に夜空が広がり、ぼうっと眺めているだけ全てを忘れてしまう。尋常でない美しさだったのだ。俺の人生において『美しさは力を持つ』と教えてくれたものでもあった。
けれど、俺以外は姉さんの髪が変わったことに気づかなかった。それがどうしてなのか分からなくて、俺は姉さんにたずねた。
「どうしてだろうね。私にも分からない」
俺が少しがっかりしていると、姉さんは「あっ」と言った。
「今度、美容師さんに聞きに行ってみよう」
数日後、俺たちは美容師の元に向かった。人気のない寂れた停留所でバスから降り、山道を登っていく。夕方になり夜の気配が近づいてくる山は少し怖かった。
しばらく歩いていると、突然拓けた場所にやってきた。その周辺だけ背の高い木々や傾斜もほとんどない。そんな場所の中央に古びた木の椅子がぽつんと置かれていた。
「すみませーん」
姉さんのか細い声が山に吸いこまれる。
「おかしいなあ、いつもここにいるって聞いていたんだけど」
「こんなところで髪を染めたの?」
「うん。夜空がきれいに見える場所じゃないと、夜髪にはならないんだって」
姉さんが空を見上げる。僕も同じように視線を向けると、茜色の空の片隅に夜の黒が滲み始めていた。結局、この日は美容師に会えず暗くなる前に山を下りた。
この日から十数年後まで、俺と姉さんが二人きりで出かけることはなかった。
元々、俺たち姉弟は性格こそ似ていなかったが、仲は悪くなかったのだ。幼い頃は姉さんの後ろをついてまわっていたし、ねだれば遊び相手にもなってくれた。姉さんは内気で物静か、俺は活発で騒がしかった。
ただ、姉さんが高校生になった頃から、その内向的な性格が強まっていった。今まで持っていた柔らかさや穏やかさが消え、暗い顔をする時間が増えた。元から明るい性格ではなかったけれど、家では部屋に閉じこもり、家族と会話する時間もぐんと減った。
特に変わったと思ったのが起きている時間帯だった。姉さんは完全に夜型の人間となり、真夜中になっても部屋の灯りは消えず物音が聞こえた。
この頃から俺が声をかけても無視されることが増え、姉さんに対してネガティブな印象を持ち始めた。些細なことから口喧嘩にもつながった。こちらに非があると自覚している場合でも素直に謝れず、俺たちの間にできた溝は深まっていった。
大人になった今ならば、理解できるのだ。
姉さんは勉強ができたので、地元から離れた進学校へ通っていた。知り合いのいない真新しい環境の下、日夜勉強に追われて、さらに思春期という多感な年ごろだった。ストレスや人間関係、将来への怖さが姉さんを不安定にさせたのだろう。
でも当時の俺にそんな見方は出来なかった。自分の物差しだけで事を見て、気に入るか気に入らないかを決めていた。あまりに幼かったのだ。
姉さんと険悪な関係になったものの、俺は家族として最低限の関係を断つことだけはしなかった。
なぜならば、姉さんには夜髪があったから。
日常でふと目にする夜髪。姉さんの成長につれて夜の闇は深まり、星の灯りは輝きを増していた。姉さんと顔を合わせる時間が減った分、髪を見られる時にはまぶたの裏に焼きつくように凝視した。
やがて姉さんは都会の大学へ進学し、実家を離れることになった。引っ越しの数日前には家中がそわそわした空気で満たされ、新生活の訪れを肌で感じた。
引っ越し前日の夜のことだった。俺は変な時間に居眠りをしてしまい、夜中にお風呂に入った。風呂上がり、リビングに行くと窓が開いており、カーテンが風を受けてはためいていた。まだ春先の三月、空気は冷たかったから窓を閉めようと近づいた。
庭に姉さんが立っていた。空を見上げて動こうとしない。
「寒いから閉めたいんだけど」
夜髪がひるがえり俺と目線があった。
「そのままにしておいて。すぐに戻るから」
「何してんの?」
「ここからの夜空もしばらく見納めだから。ノスタルジーってやつかな」
「夜空なんてどこからでも見られるでしょ」
「そうだけどね」
会話が途切れた。やけに重い沈黙が訪れ、俺は何とか言葉を絞りだした。
「……その髪、染めたらどれくらいもつの?」
「ずっとだよ」
「え? 染め直したりしてないわけ?」
「うん。中学生の時に染めて、それっきり」
「おかしいって。どうして色落ちしないんだよ」
「夜を愛していれば夜髪はどんどん深くなっていく、って言っていたかな」
とても穏やかな声色だったのを鮮明に覚えている。翌日、姉さんが出発すると、家の中にぽっかりと大きな穴が空いた気がした。
夜髪を見られなくなったのはやむを得ない。だが翌日から俺は想像以上にストレスを溜めこむようになってしまった。
いつも身近にあった美の結晶。見つめていれば悩みや苛立ちもきれいに消えた。姉さんがいなくなったことで、俺は自分が思っていたより姉さんの夜髪に救われ、癒され、そして何より依存していたという事実に気づかされた。
俺は夜髪の代わりを探すように夜更かしを始めた。俺も思春期になり、夜空を見上げて物思いに耽る日も増えた。今となっては思い出せない繊細な悩みも、壮大な思考も、あの頃の俺の中に確かに存在したものだった。
次第に姉さんの言葉の意味が分かるようになった。夜の静けさと暗さは妙に頭を冴えさせる。何でもできるような、何にでもなれるような、不思議な錯覚を抱ける。夜が帯びる根拠のない万能感は、きっと全ての人に平等に与えられている。
それでも夜空では夜髪の代わりにならなかった。美しさが比べものにならず、俺の脳内に焼きついたあの髪に焦がれる日々が続いた。
だからこそ姉さんが年末に帰省する、と聞いた時、顔には出さなかったが嬉しかった。半年以上ぶりにあの髪を見られるのだから。
年末になり帰省した姉さんは少し垢ぬけたように見えた。服の好みや化粧が明るめになってはいたが、姉さんの夜髪は相変わらず夜の煌めきを放っていた。
しかし会話ができなかった。ぎくしゃくした関係は続いており、愛想よく話しかけるのは当時の俺では無理だったのだ。その分、家族がリビングに集まっている時、俺は時間が許す限り夜髪を眺めていた。
年が明けて姉さんが都会へ戻る日になった。朝、洗面所にいると姉さんと鉢合わせた。
「おはよう、ハル」
「……うん」
姉さんは大きく欠伸をして目をこすった。
「相変わらず夜更かしばっかりしてんだ」
「まあ私が好きでやっているからね」
これで会話が途切れたので、俺は急いで洗面所を出た。鏡越しに映る姉さんの夜髪は、朝だったのに見とれるほど美しかった。
それからしばらくの間、俺と姉さんは顔を合わす機会がなかった。
俺は全寮制の高校へ進学したので親元を離れ、姉さんは大学の研究室が忙しかったらしい。お互いに実家へ帰省していたのだが、すれ違いばかりで夜髪を見られないまま月日が流れていった。
高校生になってからさらに夜更かしするようになった。窓越しに夜空をぼんやりと眺めて、夜明けが近くなると眠る生活だった。睡眠時間を削る不健康な生活だったものの、勉強は辛うじてついていけた。
そんな生活をしてもなお、自分の中にある欲求は膨らんでいった。
夜髪を見たい、またあの美しさの虜になりたい、姉さんのものでなくてもいい、見られるなら触れてみたい――そんな感情が爆発したのは、高校三年生の秋だった。俺は幼い頃の記憶を頼りに、夜髪に染めてくれるという美容師に会ってみることにした。
ある日の夕方、人気のないバス停で降りて山道を登った。小さい時は長く感じた道も全く苦にならなかった。意外と入り組んだ道を歩くんだな、と思っているうちに、記憶の中にある拓けた場所へやってきた。
満月が照らす月明かりの下、古びた椅子が置いてある。そして椅子の傍らに人影が見えたので、恐る恐る近づいていった。人影はすぐにこちらへ顔を向けた。
「あの、すみません。ここで夜髪に染めてもらえるんですか?」
「申し訳ないね、もうやっていないんだ」
中性的でよく響く声だった。距離があったせいで表情は分からなかった。
「どうしてですか?」
「資格を持つ人がやってこなくなったから。昔はもっと夜を畏れ、なおも寄り添おうとする人ばかりだったんだ。君はどうしてこの場所に来たのかな」
違和感があった。美容師の近くまで来たのに、まだ顔が見えなかったのだ。
「俺を夜髪にしてほしくて。もちろんお金は払います」
「そうじゃない。あの髪に染めるには夜を愛していなければならない。孤独、静けさ、不安、それらを愛せているかだ」
「夜は好きですよ。夜遅くまで起きていますし――」
「それは昼夜逆転しているだけに過ぎない」
切って捨てるかのような、鋭い言い方だった。
「君にはその資格も価値もない。お引き取り願えるかな」
「ちょっと待ってくれよ」
「いいかい。君が愛しているのは夜ではなくて夜髪だろう。夜髪を見分けられるから素養はあるみたいだが、こちら側には決して来られないんだよ」
そこでようやく違和感の正体が分かった。目の前にいるのは人間ではない。人体を象る黒い靄(もや)だったのだ。
「けれど君は戸口には立てている。そんな人間にこれは扱えるのかな」
靄が晴れていった。そこに残ったのは背もたれが朽ちかけた椅子と、月明かりに照らされた俺だった。しばらくの間、その場で呆然としていたが、ふと椅子の上に目が留まった。黒い何かが入った小瓶が置いてあり、俺はそれを手にして山を降りた。
あの靄の言ったことは正しかった。姉の夜髪を失ってしまったから、代替品として夜を求めているに過ぎなかった。そんな俺の内心を看破され、驚きより恥ずかしさが勝った。
この日を境に、俺の中にあった欲求が薄れ始めていった。それはある種の諦めで、手に入れられなくなったことを受け入れられたからかもしれない。
さらに十年が過ぎた。
俺は地元で美容師として働いていた。いつの間にか人の髪を目で追う癖がついてしまい、頭を彩る仕事に興味が向いたのだ。卒業後は美容師としてキャリアを重ね、ようやく一年ほど前に独立した。
これまで美容師として無数の髪に触れてきたが、夜髪を持った人と出会えなかった。靄が消えたからあの髪も増えなくなったのだろう。美しい髪に触れると稀に夜髪のことがふっと思い浮かんだが、すぐに記憶から薄れていった。
ある日、携帯にメッセージが届いていた。姉さんからだった。
『今年は帰省するから髪を切ってほしい』
姉さんは大学を卒業してからというもの、海外で仕事をしていた。多忙というのもあったようだが、何より海外の生活が肌に合っていたらしい。
このメッセージには『もちろんいいよ』と返信した。大人になったことで、もう他人との距離感や付き合い方は学んでいた。意味もなく感情をぶつける気もないし、今であれば穏やかな気持ちで姉さんと話せる気がしたのだ。
けれど、約束の日が近づくにつれ、じりじりと緊張感が高まっていった。青春時代に焦がれた圧倒的な美しさ。あれと再会して、目にして触れてしまったらどうなるのか――それが自分ですら分からなかった。
年末の夕方、キャリーバッグを引いた姉さんがやってきた。帽子を目深に被っており髪型が分からない。
「久しぶり。元気にしてた?」
「それなりにね。駅からここまで直で来たの?」
「帰り道の途中だからね。ついでに車で送ってもらおうと思って」
「カット代はいらないけれど、運転代はもらおうかな」
そう言ってみると姉さんは柔らかくほほ笑んだ。お互い年を重ねたんだな、と素直に思った。こんな和やかな言葉を交わすまでに、長い月日が必要だったのだ。
「それくらい払うよ。私もそこそこ稼いでいるからね」
「はいはい」
姉さんが荷物を置いて帽子に手をかけた。瞬時に息が止まる。俺は姉さんの頭から目を離せなくなった。
帽子を外した姉さんの髪は――夜髪ではなかった。赤みがかかった明るめの茶髪、長さはベリーショートですっきりしている。
「ん? どうしたの?」
「な、なんでもない。じゃあ洗うから」
姉さんをシャンプー台に寝かせて髪を洗い始める。その間、俺は動揺していた。十代の頃にあれだけ執着していた髪と再会するとばかり思っていたのだ。世界中の何よりも美しく感じた、あの髪と。
夜髪と再会してあの頃の渇望を思い出すのをどこかで恐れていた。けれどいざ出会えないと寂しさが溢れてくる。
髪を洗い終えてセット面の椅子に座らせる。やはり夜髪ではない。
「やっぱり気になる?」
「なにが?」
「夜髪のこと。ハル、小さい頃はずーっと私の髪を見ていたもんね」
「染め直したの?」
「ううん。大人になってから――ここ数年で勝手にこうなったんだよ」
「姉さんは夜を愛さなくなったんだね」
「愛してるけど、昔とは違うかな。私って地味で暗かったでしょう。人付き合いも苦手だったし、意味もなくイラついてた。だから独りになりたくて夜に惹かれた。誰にも触れず触れられず、孤独であることが心地よかったから」
姉さんは噛みしめるように言葉を続けた。
「でも今は生き方に折り合いをつけられたよ。夜だと独りでしかいられない。今は友達や知り合い、あとはそう、大切な人と一緒にいたいんだ」
「大切な人?」
「うん。生涯を一緒に過ごしたいと思えるパートナー。写真見る?」
「そっか、おめでとう。切り終わったら見せてよ」
姉さんにケープを巻いて髪に触れた。
普通になってしまったな、と思った。美しさと儚さと異質さを含んだあの夜髪は消えてしまった。姉さんの心が夜から離れたから。あれは未熟な時代にしか持ちえない、一瞬の煌めきだったのかもしれない。
俺は作業台に置いてあった小瓶に目をやった。
あの靄が残した小瓶の中には、真っ黒な液体が入っている。残りはほんのわずかだ。
これで髪を染めれば夜髪になるのではないか。そう思って何度か自分の髪で試したことがある。ただ変化はなく、染めてから数分後には黒色が抜けてしまった。
俺に適性はない。でも姉さんなら夜髪に染まるかもしれない――。
すっと姉さんの後頭部の髪をかき分けた。次の瞬間、目が眩むほどの明るさが飛びこんできた。それは日ざしの温かさだ。
姉さんの夜髪は夜明けを迎えたのだ、とそこで理解した。今の色合いはまさに朝焼けそっくりで、柔らかくて心が穏やかになるような、一日の始まりを思わせるポジティブな明るさになっていた。
「姉さん、今の色は気に入っている?」
「もちろん」
俺はそっと小瓶をポケットに忍ばせた。これを使って姉さんを夜髪に戻すのは違う。
絶対に違う、と分かってはいるのだが、小瓶を捨てる決意もできずにいる。
俺がその大きな決断をする日まで、きっと何度も思い返すのだろう。俺のまぶたの裏では、今も夜髪が燦然と輝き続け、その迫力じみた美しさは増すばかりだった。