「梅雨の随(まにま)に」青木和

 やっぱり、話しておいた方がいいのかな。こんな動画アップしても誰か見てる人がいるなんて、思えないけどね。フォロワー百人にも満たないマイナーアカウントだもんね。
 それにあたしなんかがこんな話しなくても、もうみんな分かってるかもしれない。知らなかったのはあたしだけ、なんてね。
 うん、そうかもしれないけど。
 でもSNSでもやってなきゃすることがないんだもん、本当のところ。とりあえずまだ電波は入るみたいだし? いつまでもつか分からないけど。
 まだ昼間なのに、なんだかうっすら暗いね。お天気が悪くなってきたのかな。
 ちょっと見にくいけど許してね。三日くらい前から、部屋の電気がつかないんだ。

 さて、話すとは言ったけど何から話そうかな。やっぱりあの夜のことかな。あの子がやってきた夜。
 あの日は朝からずっと雨が降り続いてた。日が暮れる頃になっても全然止む様子もなくて、天気予報ではセンジョウコウスイタイがどうとか、危なくなったら避難を、とか呼びかけてた。
 あたしは一人で、何度も窓の外を見ては、彼が帰ってきてくれないかな、って考えてた。
 彼っていうのは、あの頃つきあってた人。いちおう一緒に住んでたんだけど、週の半分くらいは友達と遊んでていなかった。その夜もバイト先の仲間と飲むとか言って明るいうちから出かけてしまってて、大雨の中を帰ってくるはずなんかなかった。
 その頃あたしと彼は、ちょっと微妙な関係になってた。別れ話を持ち出すほどじゃないんだけど、前には気にならなかった相手のちょっとした言葉や行動が妙に気に障ったり。ケンカすることも増えてた。
 そんな時期だったんだけど、雨のせいなのかな。その夜はやたらと寂しくて心細くて。
 窓の外では、街灯に照らされた道路が川みたいに流れてるのが見える。このまま洪水になって、このアパートがあたしごと流されちゃったりしたら、彼は心配してくれるだろうか、なんて考えながら、窓のそばに立ってたのよね。
 そんなふうにしてたものだから、あの子の鳴き声が聞こえたんだと思う。ざんざん降ってる雨音に混じって、途切れ途切れに。
 声は意外と近くて、窓のすぐ下から聞こえてるみたいだった。うちのアパート、窓が駐車場に面してるんだけどアスファルトじゃなくて砂利敷で、隅っこなんか雑草が生え放題になってるんだよね。そのあたりから聞こえるみたい。スマホのライトで照らすと、ずぶ濡れになって縮こまってる猫の姿が見えた。毛皮の色も分からないほど汚れて、ゴミみたいにぐじゃぐじゃで、ぶるぶる震えてて。
 助けて、って言ってるみたいだった。猫なんか飼ったことなかったけど、放っとけなくてあたしはその子を部屋の中に入れたの。
 その後いろいろ、体拭いてあげたりSNSで相談したり、バタバタしたんだけど、その辺の話は今は置いとくね。とにかく、その子は両てのひらにやっと乗っかるくらいの白い猫で、すごく痩せてて、でもミルクを飲ませたらあたしの手の中で眠っちゃって、それがとても柔らかくて温かくて、あたし何だかとってもほっこりして。
 夜が明ける頃には彼が帰ってこない寂しさなんてすっかり忘れて、あの子を飼うためにどうやって大家さんを説得しようかなんて考えてた。
 でも結局、飼えなかった。
 大家さんのせいじゃない。彼が嫌がったの。あの子にノミがいたから、汚いって、あたしがバイトに行ってる間に追い出したの。
 それってあんまりじゃない? あんなにちっちゃな子なのに、まだ弱ってたのに。
 あたしは泣きながらアパートのまわりを探し回って──二日目に見つけた。あの子の亡骸。公園の植え込みの陰で、ひっそり横たわってた。
 せめてきちんと葬ってあげたくて、あたしは彼に内緒であの子を部屋に連れて帰った。毛皮の汚れを拭いてあげてきれいなタオルの上に寝かせてあげたら、まるで眠ってるみたいだった。触ると冷たくて固くて、もう生きていないんだって分からせられたけど、怪我もしてなくて毛皮はまだふわふわで。
 撫でてあげてたら涙が出てきた。あたしが部屋に入れてあげたりしなきゃこの子死なずにすんだんじゃないかって、そう思ったらあの子にすまなくて。
 あ、やだ。また涙出てきちゃった。ごめんね。話続けるね。

 きちんと葬ってあげるって言ったけど、じゃあどうしたらいいのか分からなかった。SNSで相談したら、ペットの葬儀屋さんていうのがあるらしくて、そこに連絡すれば来てくれて色々してくれるって教えてもらった。それで彼がいない日を待つつもりで、あの子を部屋の押し入れに隠したの。タオルにくるんで。
 でも六月だったのよね。いつもの年に比べてずいぶん寒かったけど、それは雨の日が多かったからで、夏は夏。あたし、ちょっとバカだったかもしれない。
 ところがそんな時に限って、彼が家にいるの。なかなかでかけないの。四、五日もしてからかな、やっとバイトに行ってくれて──。
 これでようやくペットの葬儀屋さんに連絡できる。あたしはそう思って押し入れを開けた。
 ──今、この動画見てる人がいるとしたら、みんなだいたい同じことを想像したと思う。そりゃそうだよね。普通に考えたら。
 だけどそこにあったのは、ふんわりした白い塊だった。あの子は白い猫だったから、本当にそのままの、毛皮みたいな白い塊。
 一瞬、あの子が生き返ったのかと思った。
 本当にそうだったらよかったんだけど、そうじゃなかった。白いふわふわは全然動かなくて、目を閉じたあの子の顔が奥の方にうっすらと透けて見えてた。
 最初はびっくりして戸惑ったんだけど、しばらくすると、これはもしかしたら黴(かび)なんだろうか、って気がしてきた。梅雨の季節に押し入れに黴が生えるのは、実はこの部屋では珍しいことじゃないのね。その日も雨だったし。こんなふうに亡骸に生えたりするのかどうか知らなかったけど。
 あたしはしばらく、押し入れの前に座り込んだまま白いふわふわを見下ろしてた。片手にスマホを握ってて、ペットの葬儀社に電話しないと、と頭では思うのに何だか目が離せなくて。
 気がつくと部屋の中は不思議な匂いに包まれてた。フローラル系の石鹸みたいな、心地いい匂い。黴っぽさとか、腐ったようなにおいは全然しなかった。
 ちょっと迷ってからあたしはスマホを置いた。あの子の顔がとっても安らかだったから。とっても気持ちよさそうだったから。ここにいたいよ、ここに置いて。そう言ってるように見えたから。
 こんなにきれいで、こんなにいい匂いがするなら、何も葬儀社に引き渡して火葬にする必要なんてないじゃない。そう思ったの。
 それから彼が帰ってくるまでずっと、そのふわふわを見てた。

 おまえ、最近なんなんだよ。
 ──って、彼に言われたの、いつだったかな。七月にはなってたかな。エアコンをつけるかどうかで彼とケンカしたような記憶があるから、じめじめした蒸し暑い日だったと思う。電気代が値上がりしてるんだからもう少し我慢してよってあたしが言って、そんなこと言うならおまえもう少し働けって彼が言って。おまえこのところいつ見ても家にいるじゃねえか。いつバイト行ってんだよって。
 彼に言われて初めて気がついた。あたし、その頃ファミレスでバイトしてたんだけど、全然行ってなかった。シフト入れてたのどうなったっけ? スマホを確認したら、店長から鬼のようにメッセージが来てた。まったく気がついてなくて、全部未読無視してた。クビになってなかったのが奇跡みたい。
 それを知った彼から飛び出したのが、さっきのセリフね。
 彼に言わせると、このところのあたしは一日中ぼうっとしてて、話しかけても生返事ばっかりで、彼がバイトが休みで約束もなくて部屋にいるって言うと露骨に嫌な顔するって。それはまあ、心当たりがあった。だって彼が家にいる間はあのふわふわに会えないもん。でもそんなに嫌な顔してたかな。
 それについてはごめんって謝ったんだけど、あたしがドキッとしたことで彼は勢いづいちゃった。あたしが最近家事やらないって責め立てたり(自分は全然やらないくせに)、あげくのはてに他に男でもできたんじゃないかとか、色々ひどいこと言った。あたしのことさんざん放ったらかしてたくせにどの口でって感じ。
 大げんかになって、お互い顔も見たくない気分になって、あたしは部屋を飛び出してバイト先に向かった。一度店長にリアルで会ってちゃんと頭下げないとダメだと思ったの。
 けど、しばらく歩いてるうちに頭が冷えてきて、こんなふうに出てきたのはまずかったと気がついた。ケンカになる前、彼は友達とキャンプに行くとか言ってなかった? もし彼がキャンプ用品を取り出すために押し入れを開けてふわふわを見つけたらどうしよう。生きてる猫でさえあんなに嫌がった彼があれを見たら。
 あたしは急いで引き返した。いやな予感は当たった。部屋に入ると、ちょうど彼が押し入れを開けようとしてるところだった。
 何だよ、これ。って彼は叫んだ。黴じゃねえのか。
 汚ねえ汚ねえ汚ねえ。彼は喚いて、あたしを怒鳴りつけた。片づけろ、消毒しろ、今すぐ捨てろ。
 あたしは動かなかった。動けなかったっていう方が近いかな。彼が言ってること、言い方はともかく間違いじゃないんだよね。猫の死体だし、黴だし。
 分かってるのに動けなかった。ごめんの一言すら出なかった。
 だって、あの子がここに置いてって言ってるじゃない!
 あたしがいつまでもじっとしてると、彼は我慢できなくなったみたいで、自分でキッチンからアルコールスプレーとゴミ袋を持ってきた。ビニール手袋をして、アルコールをあの子にばんばん吹きかけ始めた。
 ふわふわの塊がしんなりへこんで、猫の顔が歪んで見えた。苦しいって悲鳴を上げたように見えた。
 その瞬間、あたしの頭の中にビリッと何かが走ったんだ。電気みたいな何か。
 あたしは後ろから彼を突き飛ばした。大声で叫んでたと思うけど、何を言ったかは覚えてない。彼を突き飛ばして、驚いて起き上がろうとする彼をまた突き飛ばして、彼があたしに向かってこようとしたので近くにあったものをつかんで振り回した。何をつかんだかなんて見なかった。
 気がついたら彼は血まみれになってたおれてた。頸(くび)にテント用のペグが刺さってた。
 死んじゃった、と思った。
 あたしは彼をタオルにくるんで──猫の何倍もの枚数がいったけれど、シーツや何かも全部使って──押し入れにしまった。
 その後、一晩中かかって飛び散った血を掃除した。床や壁を雑巾で拭いていると、彼とのいろんなことが思い出された。出会った頃の事や、一緒に暮らし始めた頃の事。仲がよかった頃の事ばかり。ごめんね、ごめんね、と泣きながら、あたしは彼の血を拭い続けた。
 何日かたって、あたしはそれまでずっと閉めっきりだった押し入れを開けた。
 思っていたとおり、押し入れの中は白いふわふわでいっぱいだった。溢れかえりそうなふわふわの中で、彼と猫とが、まるで眠ってるみたいにきれいな顔で目を閉じている。
 もう彼とケンカしないですむんだな、と思ったら、自然に笑みがこぼれた。
 ずっとずっと一緒にいよう。二人と一匹で。ね?

 彼と同棲を解消したってことにしたら店長が意外に同情してくれて、あたしはファミレスのバイトをクビにならずにすんだ。
 けれど彼がいなくなったぶん家賃の負担がきつくなって、あたしはバイトを増やした。ご飯作ったり彼のものを洗濯したりする時間が減ったからバイトする時間はいくらでもやりくりできた。ファストファッションの店、ドラッグストア、居酒屋にカフェ。この部屋を追い出されるわけにはいかなかったから、手当たり次第に働いた。
 生活はいっぱいいっぱいだったけど、あたしはそれでもよかった。一日中働いて、くたくたになって部屋に帰ったら押し入れを開けて、フローラルな石鹸の香りに包まれながら彼と猫にその日のことを話すの。彼と猫は眠っているみたいに目を閉じているけれど、返事をしてくれてるような気がする。っていうか、返事をしてくれてる。
 そうか、大変だったな。
 疲れたろ。
 ゆっくり休めよ。
 にゃあ。
 それが一日で一番幸せな時間になった。目が覚めたらいっそあたしもふわふわにくるまれてないかな、なんて考えながら毎晩眠ったな。
 結局そうはならなかったけどね。
 時々、あたしの指先にあれがまとわりついていることはあったのよ。でもふわふわは払えばすぐ落ちて、あたしが彼や猫みたいにふわふわまみれになることなんてなかった。きっとあたしが生きてるうちはダメなんだろうと思ってた。
 でもさ、あたしが触れた店の商品を、着たり食べたりした人たちは大勢いるのよね。その人たちはどうだったんだろう。
 ねえ、やっぱりあたしのせいなんだと思う? 世界中がこんなに真っ白になっちゃったのは。

 ああ、薄暗くなってきた。でも今年の梅雨は曇るばっかりで雨降らないのよね。また町中にふわふわが増えそう。今だって雪景色みたいに積もってるのに。もう外を通る人も車も何もない。みんな白いふわふわに包まれてしまった。
 あたしだけがふわふわになれない。あたしだけが取り残されて、とっても寂しい。
 ねえ、この動画を見てる人がいたら誰か教えて。これってやっぱり罰なのかしら。

                               〈了〉