「ねむり硝子」深田亨

 寝台から見える窓には分厚いカーテンがかかっていて外は見えない。私はただ、その遮光カーテンの隙間からわずかに差しこむ光によって時の移ろいを感じるだけ。
 窓の反対側にはドアがあり、曇り硝子が嵌っている。
 一日に一度、その曇り硝子に影が映ると、ドアを開けて白衣の男が入ってくる。
 寝台に横たわった私の上に男は屈みこんで、ペンライトで私の目を照らす。それからパジャマのボタンとブラの前ホックをはずして、私の薄い胸に聴診器を当てる。
 多分彼は医者なのだろう。だから敬意を表して私は彼をこう呼ぶ。
「先生。先生の顔がどうしても覚えられないんです」
 彼はこの上なく優しい声で私に囁く。
「それはきっと相貌失認という病気なのでしょう。でもここにいれば心配することはない。なぜならここは病院なのだから」
 それから彼は丁寧にブラのホックとパジャマのボタンを嵌めると、部屋を出ていってしまう。
 私は彼が閉めたドアの硝子をじっと見る。曇り硝子が不透明なのは硝子の表面に凹凸がつけられているからだ。
 見つめていると、その凹凸が人の顔の形をしていることに気がついた。若い男の顔。硝子に施された顔の凹凸が光を分散させ、全体では不透明になっているのだ。
 なぜか、その顔が私を診察する男のように見える。
 ある日、診察中も私がドアのほうを凝視していることに気がついたのだろう。白衣の男がこんなことを言った。
「あまり見つめないほうがいい。あれはねむり硝子だからね」
 それで私は、顔のあるあの硝子の名前を知った。
 その名の通り、寝台からねむり硝子を見つめていると、いつのまにかうとうとと眠りこんでしまう。
 それまでは不眠に悩まされていたのが嘘のようだ。昼間ずっと微睡んでいても、夜はぐっすり眠る。
 起きているときはねむり硝子の顔と話をする。といっても、一方的に私がとりとめのないことを喋っているだけだが、顔は黙って話を聞いてくれているようだ。
 白衣の男がいるときは、意識してねむり硝子から目をそらして、彼の顔を見るようにする。
 あいかわらず、私は彼の顔が認識できない。けれどねむり硝子の顔ははっきりわかる。
 ときどき、なにかを話そうとするのか、硝子の表面が波打つ。口を動かしているのだ。
 私がねむり硝子に夢中になっているのを知ったのか、ある日やってきた白衣の彼は、手に黒い紙を持っていた。
「注意していたはずだけど、ねむり硝子の虜(とりこ)になってしまったのだね。近ごろ眠ってばかりいるようだし、ずいぶん痩せてしまった」
「でも気分がいいんです。まるで夢心地のような」
「いい兆候とは言えないな。いずれ目が覚めなくなる虞(おそれ)がある。とりあえず、この紙でねむり硝子を隠すことにするよ」
 私が動けないと思ったのか、彼は無防備に私に背を向けて、ドアのところに行こうとした。
 私は寝台の上で身体を起こした。痩せて軽くなったからなのか、起きあがるのは造作なかった。
 後ろから思い切り体当たりすると、彼はねむり硝子に頭から突っこんだ。割れた硝子で頸動脈を切ったのか、首から噴水のように血が噴きだして動かなくなった。
 私は苦労して彼の頭をねむり硝子の枠から抜きだすと、床に寝かせた。彼のことを気にしたのではなく、ねむり硝子の顔が心配だったからだ。
 ねむり硝子は粉々になっていた。でも、床に横たわる彼の顔を見たとき、そこにねむり硝子のあの顔があるのを見て安心した。
 うまくやったのだ。ねむり硝子は壊れてしまったけれど、そのかわり彼の顔を手に入れた。
 興奮で心臓がどきどきする。
 呼吸を整えて気を鎮めなければ。
 寝台に戻り、身体を横たえる。天井を見ながら大きく息を吸いこんで、吐く。息を吸う。吐く。胸が苦しいが辛抱して続ける。
 吸う。吐く。吸う。吐く。吐く。吐く。吐く……。
 やがてどやどやと足音がして、数人の男女が入ってきた。ストレッチャーが持ちこまれ、彼の死体が運びだされた。
 寝台に横たわった私を診察した医者――彼と同じように白衣を着ていたから医者なんだろう――は、傍らの看護師の服装をした女に呟いた。
「彼女が死んでいるのを見つけて、悲観して曇り硝子に頭を突っこんで自殺したんだな。普段からあいつが死んだら自分も生きていないなんて言っていたからね。ほかのだれにも診察させようとしなかった。我々も、もっと注意をすべきだったんだが……」
 別のストレッチャーが到着して、私の身体だったものは寝台の上から移された。
 ドアが開かれ、ストレッチャーが出ていくのを、私は寝台の横でずっと見ていた。医者に続いて看護師がいなくなりドアが閉められるまで、だれも私には気づかなかった。
 私はあらためて寝台に横になると、ドアを見た。ねむり硝子が嵌っていた窓の向こうは真っ黒な空間だった。ねむり硝子の顔は彼のものとなったが、どこかへ運ばれてしまった。
 私は目をつむって、眠りが訪れるのを待った。
 きっとこれは夢で、目が覚めるとふたたびあのねむり硝子の顔を見ることができるのだと期待しながら。