「〈奴ら〉 elephant in the room(後編)」片理誠

 それはゆっくりとこちらに振り返り……突然、全力疾走する大型犬のような動作で迫ってきた! 速い。様々な残骸を派手に弾き飛ばして、あっと言う間に俺の背後にまで迫る。この〈奴〉はB5で見た〈奴〉と双子のようにそっくりだった。もしかすると〈奴ら〉に個体差はないのかもしれない。
 俺はナイフを引き抜いて飛びかかりたくなる衝動を、必死に抑えた。
 目を合わせることもせず、ゆっくりと立ち上がる。メモにあった【興奮させるな】の文言を思い出したのだ。
〈奴〉も、飛びかかってはこない。俺の二メートルほど後ろで、じっとしている。背中に、痛いほどの〈奴〉からの視線を感じた。
 何となくだが、分かりかけてきた。
〈奴ら〉は人間を観察しているのだ。好奇心が旺盛なのだろう。どうやら学習できるだけの知能くらいは備わっているらしい。〈奴ら〉がこちらを観察している間は、こちらも殺されなくてすむのだ。ただし、刺激するなどして興奮させてしまうと、その限りではなくなる。だからあの白衣の男は何をされてもあの化け物を無視し続けていた。振り払ったり、叫んだり、目を合わせたりすると、〈奴ら〉は興奮してしまう。興奮させたらどうなるかは、ここや下の階で見た惨状を考えれば容易に推測できる。
 生き残りたかったら、平静を装わなくてはならない。素早く動いたり、大きな音を発したり、〈奴〉に対して何らかの反応をしたりすると、殺される。あのモンスターに「この人間は何をしているのかな?」と思わせることが重要だ。その間は生き延びられる。
 ただし、単に相手を無視しているだけでは駄目だ。〈奴ら〉は飽きっぽい。退屈するとこちらに荒っぽいちょっかいを出してくるようになる。そして突っついても無駄だと分ると、飛びかかって対象を八つ裂きにする。あの可哀想な白衣男も、結局はそうなった。
 生きるためには、〈奴ら〉を「興奮させず、かといって退屈もさせない」ようにするしかない。だが、退屈させないというのは難しい。どんな刺激もいつかは慣れる。どんどんとエスカレートしてゆく敵の好奇心に、果たしてどこまでつきあえるだろう。
 俺は大股で歩き出す。見つかってしまった以上、もうこそこそする理由はない。
〈奴〉も後ろからついてくる。二メートルの距離を保ったまま。
 他に敵の影はない。これも俺の勘だが、どうやら〈奴ら〉はあまり群れるのは好きじゃないようだ。同士討ちにならないよう、互いにある程度の距離を取っているのだろう。ま、何にせよ、相手にするのが一匹だけなのは助かる。少なくとも二匹に追いかけられるよりはよっぽどマシだ。
(このままどこまでも付いてくるつもりか)
 東西南北の大きな通路が交差するフロア中央を目指しながら、俺は背後を意識する。
 興味を惹き続けている間は殺されない。だがその間は〈奴〉が俺から離れることもない。
(チッ。厄介だな)
 さて、どうしたものか。このままなら、いずれ殺される。
 ふと俺は「部屋の中の象」という慣用句を思い出していた。これは「触れてはいけない何か」のことだ。誰の目にも明らかな問題があるにも関わらず、皆でそれを無視し、あたかも問題など存在していないかのように振る舞わなければならない状況。そういう時、「部屋の中に象がいる」と言う。
 まさしく今の俺は、その「部屋の中の象」につきまとわれているわけだ。周囲に見て見ぬふりを強要する存在、そいつが俺の後方二メートルの位置にぴたりとつけている。まるで幼稚な死神のように。
 だがここで俺は興味深い一つの事実に気がついた。
 この二メートルという距離は、〈奴〉にとっての本意ではないようなのだ。何度も俺に近づこうとしては、素早く飛び退いている。そう言えばB5で見た白衣男の時の化け物は、彼のすぐ後ろにいた。両者はせいぜい一〇センチくらいしか離れてなかった。二メートルでは、観察対象をなぶるには確かに少し遠いだろう。
 ではなぜこいつは距離を詰めないのか。考えられる可能性はただ一つ。臭いだ。俺の放つ、このシケモク由来のひどい悪臭。どうやらこれがあの化け物を遠ざけているらしい。〈奴ら〉は煙草の臭いが嫌いなのだ。恐らくは嗅覚が発達している。その分、ヤニの臭いで鼻がひん曲がりそうになっていのだろう。ざまぁ見ろだ。
 吸い殻まみれになってB6では反吐が出そうだったが、これは思わぬ幸運だった。まさしく命拾いだ。
 だが、そういつまでも喜んではいられない。臭いはいずれ薄まる。
 俺は歩きながら、足下に落ちていた血まみれの白衣を拾い上げる。ポケットを探ったが煙草はなかった。まぁ、いい。
 それを羽織る。
 中央の交差点に到達した。そこを右へ。
 真っ直ぐに伸びた二〇〇メートルほどの通路の突き当たりにエレベータが見えた。あの案内図にあったとおりだ。俺の予想に違わず扉も壊されている、B6のと同様に。まさしく、おあつらえ向き。ぽっかりと空いた四角い穴の奥には、鈍い銀色に輝くケーブルが何本も垂れ下がっていた。
(さてと、後は何か適当な重りがあれば……)
 俺は素早く視線を走らせて床の上を探す。砕けた柱の一部と思われるコンクリート片が幾つも落ちていた。丁度良い。
 俺はその中から拳大のを二つ拾い、それぞれ白衣の左右のポケットの中に突っ込んだ。
 歩き続ける。
(あとは仕掛けるタイミングだな)
 俺はそっと後方の気配を探る。〈奴〉の姿を直接見なくても、床の上の影を見ればだいたいのことは分る。距離は変わってない。二メートルのままだ。
 二メートルは俺にとっても安心できる距離ではない。相手は腕が長い。その気になりさえすれば、すぐにこちらを捕まえられる。
 一旦、最低でも五メートルは離したいところだ。その後、〈奴〉が何秒でその距離を詰めるか。これによって仕掛けるタイミングが変わる。
 こちらにすっ飛んできたさきほどの〈奴〉のあの動き、あれを考慮すると、稼げる時間はせいぜい三秒か四秒ってところか。その間に俺が走れるのは、二〇から三〇メートル程度。いや、ここの床はただでさえ滑りやすい上に、今はそこら中が血まみれになっている。陸上競技場で走るのとはわけが違う。このことを考えるならやはり、二〇メートルが限界だろう。仕掛けるのはエレベータに二〇メートル以上接近してから、と決める。
 だが、背後の〈奴〉は少しじれ始めているようだ。息が荒くなってきているし、時折「ボエッ、ボエッ」と鳴いている。飽きたのか、それとも煙草の臭いが頭にきたか。
 まずい。通路の突き当たりまでにはまだ一〇〇メートルはある。今仕掛けても成功する見込みはない。
 くっそう。〈奴〉が背後で小刻みに跳躍し始めた。まるで駄々っ子だ。このままなら、もうじき俺をバラバラにしだすだろう。
(何かないか、何か、何でもいい)
 羽織っている白衣を手早くまさぐると、胸ポケットの中にキラキラと輝くIDカードがあった。
 それを空中にかざす。
 背後の、薄ら馬鹿のジャンプが止まった。
 かざしたカードをひらひらさせながら、俺は歩く速度を上げ、やがて小走りになる。
 六〇メートル、五〇メートル、四〇メートル、そろそろ限界か、後ろでモンスターが怒ったように大きな音を発しだした。
 俺は見せつけていたカードを振り向きざま、後方へと素早く放つ。それは回転しながら〈奴〉の横をすり抜けて飛んでいった。そして〈奴〉がそれを追いかけようと向きを変えた瞬間、俺はエレベータに向かって猛然とダッシュ。
 距離はまだ三〇メートル以上あったが、ここらが限界だ。〈奴〉に捕まってしまえばどの道終わり。もう一か八かに懸けるしかない。
 カードに気を取られていた敵が、一瞬の後、やっとこちらの動きに気付いたようだ。背後で雄叫びのような鳴き声が上がり、ドスドスという振動が床から俺の足に伝わってきた。速い! どんどん振動が大きくなる!
 一方、俺は血だまりに足を取られて思ったほどは速く走れていない。まだトップスピードに乗れないでいる。
(チィイイイイッ!)
 必死に手足を動かす。もう死に物狂いだ。白い床の上でブーツの底が滑る。
 あと二〇メートル、一五メートル、一〇メートル……、化け物が迫ってきている、振り向かずとも気配で分る。〈奴〉の息も既にかなり荒い。
 もう駄目か!
 俺はヘッドスライディングの要領で頭からエレベータの中に突っ込んだ。ほぼ同時に〈奴〉も飛び込んでくる。化け物は俺が咄嗟(とっさ)に投げ捨てた血染めの白衣を追って、それと一緒に、深い深い縦穴を真っ直ぐに落ちていった。「ブルェエエエエエッ!」という悲鳴とともに。
 俺はエレベータ口の縁に左手一本でぶら下がったまま、その様子を見下ろす。
 やがてドスン、という音がし、それきりエレベータの中は静かになった。
 ふぅ、間一髪だったが、何とか助かった。俺は額に浮き出た汗を拭う。
 B3からB6へ〈奴〉は直行したというわけだ。あの巨体だ。この高さから落ちたら、さしものあいつでも無事ではすまないだろう。くたばってくれればそれで良し。もし助かったとしても、骨折の一つや二つはしているはずだ。そう簡単にこのフロアには戻れまい。時間を稼げる。
 俺はエレベータから這い出る。N25を、探さなくてはならない。

「25」のナンバープレートのついたその金属製ドアは、大きくひしゃげて、ほとんど二つ折りのようになっていたが、室内は比較的マシな状態で、ベッドの中に隠されていた小さな手帳はすぐに見つかった。
 その手帳によると、どうやらここは中央アジアに存在するとある山岳都市の一角で、これは軍の研究施設なのだそうだ。ただしそれは表向きの話。地下では国際条約によって禁止されたはずの、禁断の生物兵器の開発が進められている。
〈奴ら〉もここで生み出された。一体で戦車をも凌駕する戦闘力を有すること、を目指してデザインされた、次世代型人造生体兵士だとか。長ったらしい正式名称がつけられてもいるが、ここのマッドサイエンティストどもは単に「鮫頭(シャークヘッド)」と呼んでいたらしい。
 その鮫頭は、結局は失敗作だった。馬鹿力があるのは良いのだが、おつむの中身が足りず、最初の実験体は敵味方の区別なく、目に入るものを片端から攻撃したらしい。都合の良い兵隊に仕立てるために旺盛な闘争本能を授けたまでは良かったが、それを抑える力が弱すぎたわけだ。
 そこで改良が行なわれ、幼児程度の知性を与え、好奇心を植え付けた。教育することによってコントロールしようとここの連中は目論んだようだが、これもまた失敗。鮫頭は少しでも興奮すると殺戮や破壊の衝動があっさりと好奇心や向学心を上回ってしまう。これでは教育どころではない。
 で、その失敗の結果が現在のこの惨状というわけだ。
 俺は国連によってここに送り込まれたエージェントだった。情報の収集に努めていたが、その最中に今回の事態が起きた。
 手帳にはこの他に肝心な情報が五つあった。

 その一。鮫頭は生殖能力を持たない。消化器官もなく、特定の栄養ドリンクしか受け付けない。

 その二。鮫頭の培養装置や食料生産ラインは既に破壊した。鮫頭は全部で十二体。これ以上増えることはないし、遅くとも一ヶ月以内には全個体が餓死する。

 その三。この施設のサーバーから盗んだデジタルデータの全ては、ブーツの踵に隠したチップの中に入っている。よって、ここに留まる理由はもうない。

 その四。この施設は現在、完全に封鎖されており、通常の方法で地上に出ることはできない。
 ただし、B1のエアダクトの一部は都市の地下道の中を通っている。このダクトは一般的なステンレス鋼板にすぎないので、頑丈なナイフかカッターがあれば、簡単に切り裂いて外に出ることができる。

 その五。鮫頭の吐く息には、人間の記憶を混乱させる成分が含まれている。今回の事故もこのことによって引き起こされたと思われる。
 念のため、ここにこの手帳を残しておく。読み終えたら、元の位置に戻しておくこと。

 ふむ、と俺。手帳を戻す。
(B1のエアダクト、か)
 現状を理解し、目標も定まった。まずは良かった。が、厄介かつ嬉しくない情報もあった。
〈奴ら〉が十二体もいるという事実。その内の一体はつい先ほど奈落の底に落ちて、死んだか、しばらくは戦闘不能だろうが、それにしたってあと十一体もいるのかもしれないと思うと、かなりゾッとする。
 ここはB3。B1まではまだまだ遠い。途中で何体の〈奴ら〉に出くわすことになるのやら。さすがにゼロというわけにはいかないだろう。何か、俺の安全を保証してくれるものが必要だ。
 そうだ、煙草だ、と俺は思いつく。
 煙草を探さなくては。
 俺には喫煙の習慣はない。だが、ここの誰かは吸っているはずだ、B6にあれほどの吸い殻があったのだから。
 俺はB3N25の部屋から出て、そこら中に転がっている死体のポケットを探る。だが、ない。この辺りの人間は誰も煙草を持っていない。それどころか、通路のあちこちには「火気厳禁」の張り紙があった。なるほど、この建物のほとんどは禁煙エリアなわけだ。確かに極秘のはずの施設で火事でも起きた日には目も当てられないことになるだろうから、それもむべなるかなではある。
 くそう、しかし困った。
 禁止だろうが何だろうが俺には今、それが切実に必要なのだ。どうにかして見つけないと。
 俺は通路を急ぐ。〈奴ら〉に見つかってしまってからでは遅い。その前に、手に入れなくてはならない。中央交差点を右へ折れ、フロアの西を目指す。案内図によれば、そこにはレクリエーションコーナーがあるはずなのだ。喫煙のためのエリアもきっとあるだろう。その辺りに転がっている遺体なら、あるいは煙草を持っているかもしれない。
 バラバラに引きちぎられた人体、そこら中に撒き散らされた血液。吐き気を催して然るべき状況の中で、俺の思考は妙に冷静だった。既に見慣れてしまったのか、それとも己の生死が懸かっているからなのか、あるいは相変わらずの頭痛のせいでうろたえるどころではないのか。
 通路の先に、自動販売機と大きな観葉植物の鉢とに囲まれた広めのエリアがあった。丸いテーブルとパイプ椅子とが幾つも散乱している。煙草の自動販売機も見える。ひっくり返された大きな吸い殻入れもあった。
 その手前に大柄な死体が幾つか転がっている。俺は飛びつくようにしてそれらへと迫り、そのあちこちを調べる。あった! その中の一人の背広の内ポケットの中に、煙草の箱と古ぼけたオイルライターが!
 慌ててそれらを手に取り顔を上げた俺は、ふと、妙なことに気がついた。
 一〇メートルくらい先、正面の壁に四角い、五〇センチ四方くらいの穴がぽっかりと空いているのだが、それがなぜか塞がれているのだ。丸められたパイプ椅子の残骸が突っ込まれている。
 そしてその手前、背の高い観葉植物の陰で何かがのそり、と動いた。立ち上がる。
〈奴〉だ。
 その鮫頭の右目は、何かに切られて潰されていた。
 俺は立ちすくむ。背骨に電流にも似た戦慄が走った。
 そうか、と呟く。ナイフに付いていたあの血糊。あれは、あいつのだ。そしてあいつはあの切り裂かれた右目の怨みを晴らすべく、あそこでじっと俺を待っていたというわけだ。今度こそ逃がさないように、予めダストシュートを塞いでおいて。
 なかなかに賢いじゃないか、と俺は口元を歪める。
 つまり俺がこの場所を訪れるのは、これが初めてではないわけだ。いいや、それどころか、もしかすると既に何回も来ているのかもしれない。煙草を探すために。ここで待ってさえいればあの人間はいずれ必ず戻ってくると、〈奴〉が学習するくらいに、何度も。どうせすぐに記憶を失うのだからと、あの鮫野郎が確信するくらいに、何度も何度も。
 くそったれめ!
〈奴〉が近づいてくる。
 俺はゆっくりと後ずさりながら、震える手で、今手に入れたばかりの煙草に火を点ける。一本一本なんて面倒なことはしてられない、箱ごとだ。
 炎が上がり、盛大に紫煙が舞う。そのたなびく煙の中を、鮫のような頭を乗っけた灰色の巨人がやってくる。不快な臭いを一生懸命に我慢しているのだろう。不機嫌そうに頭を左右に振っている。理性でどうにか感情を抑えているわけか。
 早く、早く! 俺は燃え上がる煙草の箱を頭上に高くかざして左右に振る。さすがにこっちも焦らずにはいられない。全身の毛が逆立つような緊張感。早くってば! 俺は祈る。ゆっくりと後退。〈奴〉が迫ってくる。少しずつ、〈奴〉の足が速くなってきている。
「早くッ! 早くしろよ、オイッ!」
 天井に向かって思わず祈りの言葉が口を突いて出る。火気厳禁の張り紙があったんだ! 火は禁止なんだろうが! ここはもう喫煙エリアなんかじゃない! この辺りはもう、禁煙のはずだろッ! 何をやっているんだッ!
 化け物が迫ってくる。
 くッそう、駄目か!
 俺は燃え上がる煙草の箱を投げ捨て、ナイフを抜き放つ。これ一本で勝てる相手とはとても思えなかったが。しかし、ただ座して死を待つくらいなら!
 雄叫びを上げて飛びかかろうとしたその瞬間だった。やっとそれが起きた。
 耳をつんざくけたたましいサイレン。天井の照明の色が白から赤に切り替わり、目まぐるしく明滅を繰り返す。そして激しく降り注ぐ水。スプリンクラーだ。やっと、火災警報システムが作動したのだ!
 突然の周囲の変化に〈奴〉はパニックになった。絶叫を上げながらのけ反り、痙攣(けいれん)している。やがてそこら中のものを手当たり次第に破壊し始めた。まるで酔っ払った大男だ。もはや俺のことなど眼中にない。
 その場から素早く去る。
 あの手帳にあったとおりだ。〈奴ら〉は少々のことで容易く理性を失い、暴走を始める。一旦そうなったらもう、ただひたすら見境なく暴れるだけ。兵士としては完全に失格だろう。あれじゃぁ戦場では役に立たない。ここの研究者どもは〈奴ら〉に闘争本能を盛り込みすぎたのだ。
 俺は手のひらの中のオイルライターを見つめる。
 そうとも。俺が欲しかったのは煙草じゃない。こいつだ。火だ。
 喫煙の習慣はないが、今はこのライターが愛おしい。これさえあれば、いつでも炎を起こせる。火災警報が鳴り響き、真っ赤なフラッシュが瞬けば、〈奴ら〉はもう誰も正気ではいられなくなる。近づきさえしなければ、もはや脅威ではない。そして〈奴ら〉の位置は、〈奴ら〉自身が上げる悲鳴のようなあの叫びで正確に分る。
 何より、この激しく降り注ぐ天井からの雨、これは俺が心の底から渇望していたシャワーでもあった。
 体中に付いたヤニの汚れを払って落としていると、徐々に頭痛が治まってゆくのが分った。スプリンクラーが、このフロアに充満していた〈奴ら〉の息までをも洗い流してくれている。これは嬉しい誤算だ。少しずつ、頭がはっきりして、記憶が戻ってくる。俺の四肢に、新たな活力がみなぎり始める。復活だ。
 後は脱出するのみ。
(まずはB1へ上がる。階段を使えると良かったんだが、あそこは今、鮫頭が暴れているかもしれない。念のためエレベータの縦穴をよじ登る方がいいだろう。
 B1まで行ければ、後はもうこっちのものだ。エアダクトなら天井のあちこちに口がある。中に入るなどは造作もないこと)
 エレベータの中を這い上がるのも、エアダクトの中を移動するのも、結構な音が伴う。ゆえにこれまではできなかったが、今なら火災警報のサイレンで大抵の音はかき消されてしまうし、どの道〈奴ら〉は全員パニックになっている。もう俺どころではない。
 ニヤリ、と俺はほくそ笑み、歩き出す。