「日本SF史再構築に向けて――その現状と課題についての考察⑥」長澤唯史

山野浩一からポストモダニズムへの道筋(の可能性)
 本連載はもともと、長澤が英語圏向けに執筆した日本SF史/日本SF論の概要を日本向けに紹介しなおす、という企画のはずだった。ところが英語で書かれた日本SFに関する資料が少ないこと、それどころか学術的な議論に耐えうる日本SF史がいまだに日本語でも十分にまとまっていないという状況を発見し、それについての問題提起が必要ではないか、と思ったところから連載をスタートさせることとなった。そうした数少ない俯瞰的な日本SF論としてデーナ・ルイスの日本SF史と山野浩一のSF批評を再発見することができたのは幸いだったが、このルイスや山野の議論がなぜ軽視されてきたのか、今度はその疑問にぶつかることになり、それが逆説的に従来の日本SF論の死角をあぶりだすこととなった。その一例が、第3回でとりあげた安部公房である。
 ここまで山野のきわめて大胆な、だが精緻なSF論を追いかけてきて見えてきたのは、山野の思想と文章がSFというジャンルの可能性を広げただけではなかった、ということだ。連載第1回で長山靖生の「SF批評は、発表時点でのジャンル境界を超越して、作品それ自体が発散する意味によってSF史を再構築しなければならない」という提言を紹介したが、まさに山野の評論はそのみごとな実例であった。第4回で紹介したように、山野はSFを「現代の世界の諸相をもっともよく映し出す鏡」と捉え、それが現代社会や人間世界の「複雑な問題を解くための思考実験の場」となる可能性について考え抜いたのだ。
 たとえば「SFにみる核戦略 想像力を超えた核兵器側からの人間への逆襲」(『潮』1982年5月号)だ。これは「核兵器に内在するパラドックス」をSFが描きつづけてきた歴史を簡潔にたどる短文だが、核戦争を直接的に描くSFは1960年代にはすでに廃れ、その〈核への恐怖〉や〈核のパラドックス〉を内面化、内在化してきたのがJ・G・バラード「終着の浜辺」(1964)をはじめとするニューウェーブだったというのが、山野の見立てだ。その視点から拓けてくるのは、大江健三郎の作品を〈核への想像力〉という観点からSFとして読む可能性であり、その実践例として書かれたのが、前回紹介した「大江健三郎の三作に於けるタイムトラベル的同時代論」であることは言を俟たない。長山の提起した「作品それ自体が発散する意味」に基づいた文学史/SF史の再構築には、山野の思想の再検証が大きな鍵となろう。
 私事で恐縮だが、日本学術振興会の科学研究費補助金で「ポストモダニズム/アヴァン・ポップの対抗文化への再接続と新たな文化批評の可能性」という研究課題を採択していただき、今年度から4年間で上記の課題についての研究を継続できることとなった。この研究課題にとっても、既存のSFジャンルの表層的なイメージや定義を転覆し、SFの本質を見つめ直す作業が必要だ。
 山野の内宇宙的SF論とその実践は、現実のオルタナティブを構築しそこから現実批判へと向かうものでもあった。つまり山野のSFは本質的にカウンターカルチャーでもあったのだと考えている。(とすれば、ロックやアヴァンギャルド芸術との親和性も納得できる)。この山野の思想を、私自身が長年研究対象としてきたポストモダニズム/アヴァン・ポップに再接続し、そこから敷衍されるスペキュレイティヴ・フィクションとしての現代小説のあり様と可能性を追求すると同時に、そこからカウンターカルチャーを逆照射する予定だ。
 また岡和田晃氏をはじめとして、山野の衣鉢を継ぎ斬新なSF/現代文学論を展開している論者は数多い。そうした、SFの新たな可能性を模索する方々をお招きして、公開形式のシンポジウムや研究会などを通じての発信も行っていく予定である。その中で、SFというジャンルに対する新たな視座を提供できればと願っている。

日本SF史/日本現代小説における女性作家たち
 話を拙論についての紹介に戻すと、SFと外部ジャンルの接続を論じていく中で、重要なカギが女性作家であることを改めて発見した。1990年代以降の日本現代小説における非リアリズム的な小説様式の拡散に、川上弘美、笙野頼子、松浦理恵子、恩田陸、佐藤亜紀、小山田浩子などの、女性作家たちが重要な役割を果たしてきた。川上弘美はいうまでもなく山野の薫陶を受けた作家だ。後述するように〈山田弘美〉名義で短編を『NW-SF』に発表し作家としてのデビューを果たしたが、その後就職・結婚・出産などを経て、10年近いブランクの後に〈川上弘美〉として再デビューすることになる。この山田/川上弘美のキャリアパスはまさに、日本の女性作家につきまとう困難を象徴するエピソードであろう。
 笙野頼子は筒井康隆や眉村卓、藤枝静男らに私淑し自身の独自な表現世界を築き上げてきた作家である。とくに『レストレス・ドリーム』(1992)以降の奔放な想像力と前衛的ともいえる文体上や構成上の実験性は、笙野のSF体験を抜きにしては語ることはできないだろう。こうしたSFと直接間接に関わってきた女性作家たちも、たとえば倉橋由美子や山尾悠子らと接続しなおし、改めて現代小説におけるSFと女性の関係性についても見直されるべきだ。まだ私も手を付け切れていない分野だが、今もっとも重要な課題であることは間違いない。
 そのためにはまず日本SFにおける女性作家の系譜をまとめておく必要があるだろう。幸いなことに『SFマガジン』で伴名練による連載がはじまり、また橋本輝幸も日本女性SFについてのコラムを発表すると予告している。この原稿を執筆中の2022年5月の段階で、伴名の連載は光波耀子、安岡由紀子、美苑ふうなど、『宇宙塵』の初期同人の女性作家に触れ、経歴と作品について詳細なデータを提供してくれている。いずれも『日本SF・原点への招待 「宇宙塵」傑作選』(Ⅰ・Ⅱ)に作品が収録されているが、ありきたりのSF的ガジェットやアイデアに依存しない独自の作品世界を築き上げた、オリジナリティあふれる作家たちばかりだ。安岡のファンタジーとホラーにギリシャ神話をリミックスした斬新な作風の「ママ」や、アステカ神話を現代的想像力で荘厳なファンタジーに再生させた美苑の「鳥蛇幻想譜」など、今読んでもその完成度には驚くほかない。その作品世界や活動の全体像については、これからさらに掘り下げと分析が待たれる。光波耀子については、九州限定の文芸誌『片隅』第4号(2017)にて「星をもとめて宇宙へ 光波耀子の世界」という小特集が組まれた。梶尾真治氏や光波の遺族の手による追悼エッセイのほか、伴名のアンソロジー『日本SFの臨界点[怪奇篇]ちまみれ家族』(ハヤカワ文庫、2020)にも収録された「黄金珊瑚」の別バージョンが掲載されている。ぜひご一読を。
 また最近では『ナイトランド・クォータリー』27号(アトリエサード、2021年12月)に山田和子のインタビューが掲載され、1960年代から70年代の日本SF界における女性の置かれた状況についての貴重な証言がえられている。山田が活動の主なフィールドとしていた『NW-SF』は女性の作家、評論家、翻訳家を積極的に起用していた点でも特筆すべき先駆性をそなえていた。カフカ的な悪夢の情景をみごとに描いた山田和子の短編「夜の公園」を第8号に、1980年の第15号では小川項の筆名で山田弘美の第一作「累累」を掲載している。またその次の第16号ではいち早く「女性SF特集」を組み、山田弘美の第二作「双翅目」を掲載するほか、山田和子、山田弘美とサーニ・エフロンの座談会、女性SF作品の傾向分析、さらには20ページ以上に及ぶ「女性SF作家名鑑――楽しい女大百科」を掲載している。ここまで包括的な女性SF作家の特集は、それ以前もこれ以降もあまりないのではないか。またこの名鑑にマルグリッド・デュラスやシャーリー・ジャクスン、藤本泉、萩尾望都などが含まれていたり、さらに続く第17号では山野による三枝和子のインタビューも掲載したりするなど、『NW-SF』では女性を軸にあらたなSFのあり方を模索する動きが活発だった。
 この『NW-SF』が提示するSFにおける女性の活躍の歴史は、今こそ再評価されるべきだ。そこを起点として90年代以降の女性作家とその作品に視点を移せば、先の日本現代小説における非リアリズム様式の流行、日本ファンタジーノベル大賞における佐藤亜紀や恩田陸、小野不由美らの輩出、さらにSF界でも松尾由美や森奈津子などのジャンル混淆的な作家の登場など、新たな現代日本SF史が開けてくるはずである。またそこに少女マンガを加えてみてもいいだろう。少女漫画とSF(さらにはロックと)の親和性については、かねてより指摘はされてきたものの、いまだに包括的な研究が行われているとはいいがたい。これからの研究が期待される分野だ。
 現在、こうしたジャンルを超えた活躍をする女性作家は少なくない。《オーシャンクロニクル》シリーズで壮大な想像力を展開する上田早夕里は、その一方で《妖怪探偵・百目》シリーズや《洋菓子》シリーズなど多ジャンルで活躍し、直木賞候補になった『破滅の王』(2017)やその続編ともいえる『ヘーゼルの密書』(2021)では近現代を舞台にした政治的題材の世界にも手を広げている。サスペンス小説を得意とする福田和代も積極的にSF的設定を用いた作品を書き、菅浩江の『永遠の森 博物館惑星』(2001)は星雲賞と並んで、第54回日本推理作家協会賞を受賞している(長編および連作短編集部門)。女性に限らずジャンルを超えた活動をする作家は増えてはいるだろうが、とくに90年代以降の女性作家の豊かな想像力が生み出してきた非リアリズム的世界を再評価することが、これからの日本SFのみならず現代日本文芸のさらなる発展につながると信じている。
 女性作家とSFについては私のリサーチもいまだ不十分だ。先に紹介した伴名の連載もまだ始まったばかりであり、個別の作家の掘り起こしにとどまらない通時的な女性SF史と、その上に立った新たな日本SF史が今後の課題であると考えている。

おわりに
 当初の予定よりも長々と、日本SF史の今後の可能性について述べてきた。個人的にはやはりポストモダニズムの可能性の再検証が重要な課題であり、たとえばその中で1970年代を中心に活躍した脚本家、佐々木守の再評価なども検討している。佐々木守といえば、「ウルトラマン」や『シルバー仮面』『アイアンキング』などの日本特撮ドラマの脚本にも携わり、戦後の日本SFの文脈では欠かせない人物だ。佐々木はその一方で、『お荷物小荷物』などのアヴァンギャルドなドラマの製作にもかかわっている。まさに山野と同時代に山野と似たようなことを、まったく別の文脈で行っていたわけで、ここから日本の60年代から70年代の文化史の再構成と、その中でのSFの読み直しも視野に入ってくるかもしれない。
 こうした仕事について、また皆さまの目に触れる機会を楽しみにしながら、本稿はここで終わりとしたい。お付き合いいただきありがとうございました。(了)

参考文献

McHale, Brian. Postmodernist Fiction. London: Routledge, 1987.
——-. Constructing Postmodernism. London: Routledge, 1992.
——-. The Cambridge Introduction to Postmodernism. Cambridge: Cambridge University Press, 2015.
——-. 「ピンチョンのポストモダニズム」.長澤唯史訳.麻生享志他編.『現代作家ガイド トマス・ピンチョン』.彩流社、2014. 52-79.
長澤唯史.『70年代ロックとアメリカの風景 音楽で闘うということ』.小鳥遊書房、2021.
山野浩一.『いかに終わるか 山野浩一発掘小説集』.岡和田晃編.小鳥遊書房、2022.
『日本SF・原点への招待 「宇宙塵」傑作選』(Ⅰ・Ⅱ).講談社、1977.
『片隅』04.伽鹿舎、2017.