「〈奴ら〉 elephant in the room(前編)」片理誠

 のたうち回るようなひどい痛みと、不快感、そして全身に突き刺さる恐怖の感覚、これらがないまぜとなって俺を覚醒させた。
 悲鳴とともに飛び起き、絶叫しながら両手を出鱈目に振り回す。右手に何かを握っており、それが時折、何か硬いものに触れる感触があった。その度に暗闇の中にオレンジ色の火花が飛び散る。
 意識の中には何者かに追われている焦燥感、圧倒的な強迫観念だけがあった。悪夢から目覚めた直後のような不快感だ。肝心の悪夢そのものはもう思い出せないのだが、命を狙われている恐怖だけは今もなお背中にびっしりとこびりついている。しかもその感覚は時間の経過とともに冴え渡り、ますます俺の身体に爪を立て、牙を食い込ませてくる、目覚めた今となっても。
 気がつくと俺は肩を激しく上下させながら、ゼェゼェと荒く呼吸をしていた。
 がっくりと膝をついて、その場にうずくまる。
 体全体を脂汗がゆっくりと伝ってゆく。ナメクジが這い回っているかのような不快感。だが俺にはもう立ち上がる体力すら残ってない。
 せめて呼吸だけでも整えないと。下を向いて息を吐き続ける。それにしても周囲はひどい臭いだった。何だこのいがらっぽい空気は。鼻の奥を刺すケミカル臭と、強烈なえぐみ、何かが腐ったような酸の刺激。喉の奥に粘り着いてくる毒の香り。
 辺りは粘液のようなものでビシャビシャに濡れていて、動く度に何かが絡みついてくる。
 ここにいつまでもいるのはまずい。そう直感した俺は気を失いそうな苦しさの中、必死に左手を伸ばす。指先に触れた硬い何かをつかみ、体を引き寄せ、身を乗り出す。その直後、俺は一メートル半ほどを落下し、背中をしたたか何かに打ちつけていた。
「ガハッ!」
 息を吐ききってしまった俺は一瞬、ふわり、と意識が遠のき、気絶しかける。が、感電したかのような全身の激痛がそれすら許してはくれない。今度こそ俺はあまりの苦痛にのたうち回る。くそ! まったく何て目覚めだ! 殺す気かッ!
 痛みがやっと去っていった後も、しばらくは動けなかった。
 五分くらい経っただろうか、やっと呼吸が落ち着いた俺は硬い地面から体を起こした。
 周囲は真っ暗闇だ。物音などは一切なく、しんと静まりかえっている。俺以外には誰もいないようだ。
 ここはいったいどこだ? 俺に何があった?
 思い出そうとするが、締め付けるような頭の痛みのせいで意識を集中できない。何も思い出せなかった。努力しても頭の中には何かの欠片が舞うばかり。直前までの状況どころか、自分の名前すら分らない。この感覚、二日酔いの時の酩酊感に少し近いかもしれない。記憶障害か。
 とにかく何かないかと自分の体をまさぐってみる。胸のポケットにペンライトがあった。
 点ける。
 右手に握りしめていたのは、刃渡り一五センチほどのナイフの柄だった。その刃はどういうわけか血まみれになっている。ズボンのポケットにあったハンカチでそれをよく拭い、腰の後ろ、ベルトにあった鞘に戻す。
 自分の格好は、黒っぽい戦闘服姿。なぜ戦闘服だと分かるかと言えば、肘や膝、胸部などが、ほんの申し訳程度とは言え、アーマーで覆われているからだ。軽さからすると材質は高分子素材繊維、中にセラミックのプレートが入っていると見た。つまり、酔っ払った挙げ句に刃傷沙汰を起こしたわけではない、ということだ。ところで、ここはどこだ?
 俺は立ち上がって周囲を照らしてみる。
 どうやらゴミ捨て場のようだった。大きな金属製カーゴの中に様々な残骸や欠片などが詰められている。自分の体もよく見れば煙草の吸い殻まみれだった。あのとんでもない悪臭の原因はこれか。くそ! 俺はそれらを払い落とす。
 三メートルほど上にある天井には五〇センチ四方の四角い穴が空いている。ダストシュートか。どうやら俺はあそこからここに落っこちたらしい。積もっていたゴミがクッションになったのだろう、おかげでひどい怪我はしていないようだ。打撲のせいで全身がズキズキとするが、骨折などはしておらず、こうして立てているし、歩けもする。出血もしていない。こぶもできていないところからすると、頭も無事らしい。だがまだ頭痛は治まらないし、相変わらず何も思い出せない。
 状況を理解できない。俺は何かと戦闘中だったのか。自分の血でないのなら、ではナイフに付着していたあの血糊の主は、いったい誰だ? 俺は何だってゴミ箱の中なんかに落ちたのだろう? 結局、ここはどこなんだ?
 俺はフラフラと歩き出す。出口に向かって。
 とにかくここの臭い、わけても山のような吸い殻の発するヤニ臭さから、一刻も早く逃れたかった。胸がひどくむかつく。うえ。吐き気がした。
 錆びかけた金属製の扉をスライドさせると、その向こうはほの明るい、広々とした空間だった。三百メートル四方はありそうだ。そこに車が何台も停まっている。ここは、地下駐車場か。きっとゴミ収集車もここを通るのだ。
 ということは、ここのどこかに地上に通ずる道があるということだ。ありがたい。あの中のどれかを掻っ払えばここから出られるぞ。そう考えた俺はその内の一台に急いで近づく。
 とにかく今は一刻も早くシャワーを浴びたい。ただそれだけだった。体中が気絶しかねないほどヤニ臭くて、もう発狂しそうなのだ。それにこのひどい頭痛も何とかしないと。病院に行けばどうにかなるだろう。全てを思い出すのはその後でいい。
 だが希望を込めて周囲を見回した時、俺はそれが不可能なことを悟った。出入り口が岩や土砂で完全に塞がれているのだ。ネズミどころか、ミミズ一匹這い出られそうにない。
 天井が崩落した? いや、周囲に散乱する破片の飛び散り具合からすると、どうやら火薬が使われたようだ。誰かが爆破して、地上への道を塞いだのだ。
「馬鹿な」
 俺はその場にへたり込む。絶望感がのしかかってくる。
 いったい何が起きたんだ? こうまでしなくてはならない、何があった? どう考えても尋常ではない対応だ。
「くそ!」
 くじけそうになる心を鼓舞するべく、俺は必死に自分の心臓を叩く。その時、自分の胸にかすかな違和感があることに気付いた。ん?
 俺は胸ポケットの中を確かめる。そこには一枚の紙があった。

【B3N25。奴らを興奮させるな】

 これはメモか。筆跡には何となく見覚えがある。たぶん自分の字だ。だが意味が分からない。B3N25って何だ? それに〈奴ら〉? 〈奴ら〉って、誰だ?

 くそう、頭がズキズキする。考えを上手くまとめられない。それでも俺はこのフロアの壁にあった「B6」という表記を見逃さなかった。どうやらここは地下六階のようだ。
 B3N25――これは恐らく、部屋の番号だ。「B」は「地下」、「N」は「北」を意味していると見て間違いないだろう。普通はそうだ。つまり「地下三階、北ブロックの二五番の部屋」ということだ。ここに行けば何かがあるのだろうか。
 俺としては一刻も早くここから出たかったが、生憎エレベータは故障していて、というか完膚無きまでに破壊されていて、使えなかった。金属製の扉がグシャグシャにひしゃげている。巨大なゴリラが力任せにぶん殴れば、こんな壊れ方になるだろうか。どう見ても人間の仕業ではない。これは、いったい……。
 寒気にも似た何かが俺の背骨をゆっくりと滑り落ちてゆく。この感覚は、恐怖か。だが無理もない。眼前の光景の迫力には、それほどのインパクトがあった。分厚い鉄の扉が、まるでちり紙のように容易く変形させられているのだ。こんな力をもろに食らったら、ひとたまりもない。
 戦闘服を着ているという事実。ナイフに付いていた血。そしてこの破壊の痕跡。どうやら容易ならざる状況の中にいるということだけは間違いないようだ。
(しかたない、か)
 エレベータが使えない以上、地上に出るには階段を上がるしかない。ならば途中の地下三階で少しくらい寄り道をしても、さほどのロスにはならないだろう。現状を読み解く手がかりと言えそうなのは今のところ、この手書きのメモ一つしかないのだから。
 地下駐車場の隅へ向かう。防火扉はやはり、エレベータのそれ同様に破壊され、破られていた。
 何となくだが、分かりかけてきた。〈奴ら〉はきっと、図体がでかいのだ。だからこうして破壊しながらじゃないと先へ進めないのだろう。
 防火扉の裂け目を通り抜けて、その先へ。
 あったのは非常階段。剥き出しのコンクリートに囲まれた、素っ気ない造りだ。ただし、生々しい惨劇の跡を別にするならば、だが。
 そこら中が血にまみれている、真っ赤なペンキをバケツでぶちまけたみたいに。バラバラになった人体のパーツがあちこちで小山を形成していた。むせかえるような鉄の臭い。
 俺はズタズタにされた死体にかがみ込んで、その様子を調べる。この傷口は鋭い刃物によるものではない。この裂け方は、何かとてつもない力によって強引に引きちぎられたものだ。それと奇妙な特徴がもう一つ。遺体のどこにも歯形がない。食らったわけではない、ということか。ではここでの殺戮の目的は、いったい何だったのだ?
 犠牲者たちはどれも、戦闘員ではなかった。血まみれでボロボロだったが、皆、白衣を着ている。研究者か。だとするとここは何かの研究施設?
 鉄製の手すりの何箇所かはひしゃげていたが、階段自体は壊れていない。この程度の広さがあればぶつからずに通れる、ということか。だとすると〈奴ら〉の横幅は、恐らく二メートルくらいだ。血糊の上に残された足跡から、足のサイズは八〇センチ、歩幅は一・五メートル程度であることも分かる。靴は履いていない、裸足だ。手の跡はついてないので、二足歩行をしているのだろう。こいつは巨人だな、と俺は独り言つ。もし〈奴ら〉が人間に近いシルエットをしているのなら、その身長は三メートルくらいになるはずだ。そんな化け物がここで、手当たり次第に人間を殺して回っているのか。
 辺りに動くものの気配はなかったが、上の方からは「ブォオオオ」という、いびきのような音が、時折、かすかに聞こえてくる。どうやらこの階段には、あまり長居しない方が良さそうだ。
 俺は慎重に歩を進め、一つ上のフロアに出た。
 とにかく狭い場所を探さなくては。〈奴ら〉は狭いところには入ってこれない。そこなら安全だ。ネズミのように、小さな穴から穴へと移動すればいい。それなら何も危険はない。
 だがこのフロアは――
 天井からの強烈な照明が、真っ白なパネルに囲まれた直線の通路を照らしている。左右に立ち並ぶ無数の小部屋はどれもガラス張りで、ここのいかにも無機質めいた趣味を際立たせていた。だが今はどこもかしこも血まみれで、そこら中に死体が転がっており、ガラスも全て粉々。生臭いったらない。身を潜められそうな物陰などはなく、進んでゆけそうな狭い場所もない。
 床下に潜り込めればとは思うが、このパネルを外すには特殊な道具が要る。ナイフ一本ではとても無理だ。刃が折れてしまう。
 砂利のように辺り一面に敷き詰められた細かなガラスの欠片。あの上を音を立てずに歩くのは無理だろう。しかもこうも明るくては、影の中にも潜めない。
 B5フロアを移動するのは諦めた方が良さそうだ。
 俺は上を見上げる。いびきのような音は今もしている。幸い、まだ距離がありそうだが、このまま上り続ければいずれ〈奴〉と出くわすことになる。
 くそう、いったい何がどうなっているんだ? 状況がまるで分らない。どこかに味方はいないのか。
 その時、何者かの足音が聞こえた。こちらに近づいてくる。
 俺はひしゃげた防火壁の陰からそっとフロアの中を窺う。
 通路の角から白衣を着た男が現れた。血で真っ赤に染まってはいたが、白衣は白衣だ。左腕を押さえている。負傷しているのだろう、右足を引きずっていた。フラフラとした、力のない歩き方だ。だがそのすぐ後ろにいるのは――
 俺は両目を大きく見開く。
 何だ、あれは――
 それは青みがかった灰色の肌をした、化け物の姿だった。天井が低いためここでは四つん這いになっているが、確かに立てば三メートルくらいの背丈になりそうだ。巨人、と言えないこともなかったが、そのシルエットは人間のそれとは大きく異なる。
 まず手がやけに長い。二メートルくらいはありそうだ。次に、ウエストが異様に細い。手や足も痩せているが、腰の細さは病的なくらいだった。まるで背骨しか中に入っていないかのよう。それでいて胸部はやけに発達している。前屈みな姿勢のせいもあるのだろうが、やや丸みを帯びた立方体を思わせるシルエット。あの分厚い胸板からは、とてつもないパワーが生み出されそうだ。
 だが何と言っても一番異様に思えたのは、その胸部から前へと付き出した頭だった。人間とはまるで違う。中央部分が尖っていて、どことなくホオジロザメを連想させる。ただし、鮫のような巨大な口はない。そこには拳大の、木のうろのような穴があって、パクパクと開いたり閉じたりを繰り返している。魚類を思わせるまん丸の目は、真っ赤に充血しており、いかにも凶暴そうだった。衣服の類は一切、身につけていない。体毛もなく、鱗なども生えてはいない。
 そいつは白衣の男のすぐ後ろを、まるで幼児のように這いつくばりながら付いてきた。そして時折、男を突っついたり、突き飛ばしたりする。
 男の方は必死に努力して〈奴〉のことを無視しようとしているようだ。突き転ばされようと、引きずり倒されようと、口を真一文字に結んで、悲鳴一つ上げない。その度にゆっくりと立ち上がっては、ただ黙々と歩き続ける。振り返ることすらなかった。だがその形相は恐怖にこわばっており、全身は凍えているかのようにわなわなと震えていた。両目からは涙がとめどもなく流れ続けている。
 俺はこの眼前で繰り広げられている無言劇の意味をさっぱり理解できないでいた。
 身の毛のよだつモンスターに背後霊よろしくぴたりとつきまとわれているというのに、あの男は叫びもせず、走って逃げようともせず、ただひたすら、努めて平静を装っている。どう考えても異常だろう。こんなことに何の意味があるのか。これでは、いずれ――
 やがて俺が危惧していたとおりのことが起こった。突然、〈奴〉が男に飛びかかり、その体をバラバラに引きちぎり始めたのだ。まるで子供が飽きた玩具を壊して遊ぶように。
 ゴボゴボという何かが湧き上がる音に混じって、フロアに男の断末魔の悲鳴がこだまする。液体の飛び散る音。
 俺は両手で口元を押さえ、その場を後にする。

 B4も造りはB5とよく似ていた。すなわち、そこら中が細かく砕かれたガラスだらけだった。
〈奴ら〉の姿は見えなかったが、俺は潔くその階も諦め、もう一つ上のフロアへ向かった。
 いびきの音は既にもう「かすか」とは言えないレベルになっている。工場の廃液を思わせるような悪臭が鼻をついてもいた。もう〈奴〉との距離はそう遠くない。この階段の主は恐らく、B2とB3の間のどこかにいるのだ。
 たぶん、寝ている。だがその横を、〈奴〉に気付かれることなく通り抜けるのは、至難の業だろう。化け物の巨体によってスペースのほとんどは塞がれてしまっているだろうから。
 しかも俺は今、ニコチンやらタールやらの強烈な臭いまみれだ。近づけば誰だって気付く。相手が運良く風邪でもひいててくれれば話は別だが、そんなラッキーは期待できそうもない。
 そしてきっと、見つかったら終わりなのだ。
 あの白衣の男が走って逃げなかったのは、走ったくらいでは逃げ切れないことを知っていたからだろう。つまり、〈奴ら〉は素早いということだ。駆けっこでは勝てない。
 控え目に見ても、これはかなりヘヴィな状況だ。
 パワーもスピードも凶悪度も敵の方が格段に上。しかも向こうは複数、こっちは一人。ましてや俺は今、記憶障害の真っ最中で、周囲の状況すらまだきちんと飲み込めてはいない。
(まさしく絶体絶命だな。フン! 面白くなってきたじゃないか)
 俺はニヤリ、とほくそ笑む。
 ただ座して死を待つくらいなら、希望に向かって一歩でも進みたい。どうせ死ぬのなら、その方がまだマシというものだ。
 あのままB6に留まったところで未来なんてない。〈奴ら〉はいずれ降りてくる。その時、あんなだだっ広いフロアでは逃げようがない。梯子でもあればダストシュートの中に戻れたかもしれないが、結局のところあれはただの縦穴。そういつまでもは留まれない。
 それにどの道、B3には来たかったのだ。N25を探さなくてはならない。これこそが俺にとっての唯一のアドバンテージ、いや、正確にはその可能性と言うべきか。とにかく、そこに行けば何かがあるのだろう。わざわざメモに書いておいたくらいなのだから。
 俺はそっと辺りの様子を窺う。
 動くものの気配はない。
 このフロアは、どうやら居住区のようだ。通路の左右に、仮眠室のような粗末な造りの小さな部屋が並んでいる。一応は個室らしい。ほとんどの扉は壊されていて、室内もグシャグシャに荒らされていた。そこら中が血と肉片にまみれており、この階でも〈奴ら〉が好き放題に暴れ回ったことが知れる。
 今は静かだ。
 俺はそっと足を踏み出す。
 このフロア、隠れられる場所が多いのは良いのだが、結局、各個室の中は行き止まり。そこに追い詰められたら、閉じ込められたも同然だ。逃げ場はない。
 何しろ〈奴ら〉が全部で何匹いるのか、俺は知らないのだ。今のところ、B5と階段に一匹ずついることだけは分っているが、この破壊と殺戮の規模からすると、他にもまだまだいそうな気がする。ここは慎重の上にも慎重を期す必要がある。
 腰をかがめ、ゆっくりと移動する。
 天井から降り注ぐ白色LEDの明かりが強烈なせいか、巨大な病院の中にいるような気分になってくる。床に貼られたアクリルパネルの白と、その上で不気味なマーブル模様を描く血糊の赤のコントラストが、俺に催眠術をかけようとしているように思えてならない。
 途中、廊下の壁にフロアの簡単な見取り図があった。確認してみる。俺が今いるのは東ブロックのようだ。エレベータは北と南、西にはちょっとしたレクリエーションコーナーがあるらしい。
 俺は壁沿いに右方向へと移動。北ブロックを目指す。
 見つからないように、気付かれないように、そろりそろりと歩く。
〈奴ら〉はナイフ一本で立ち向かえるような相手ではない。素手で、それも遊び半分の軽いノリで、生きている人間をズタズタに引き裂く連中だ。悪夢の中から這い出てきたような化け物だ。今はとにかく一刻も早くここから逃れたい。
 動くものの気配は相変わらずなかった。物音もしない。異様に静かだ。辺りは血まみれ、肉片まみれだというのに、生き物の気配が少しもしない。床の上で踊る、まるで道化師のような己の影法師だけが、ここで唯一の動的な存在だった。
 もしかするとこの階に敵はいないのかもしれない。ふと、そう思った時、俺のすぐ近くでドアの残骸が一つ、倒れて、大きな音を立てた。
 フレームに引っかかっているように見えたのだが、実際は軽く立てかけられていただけだったようだ。歩く時に俺が立てるかすかな振動のせいで倒れたのだろうか。あるいはこれも〈奴ら〉のトラップなのか。
 その音は、静まりかえっていたフロア中に鳴り響いた。
 俺は咄嗟にうずくまり、辺りを警戒。
 フロア中央の方で、何かがのそり、と立ち上がるのが見えた。