「彼等の住処『ナイトランド・クォータリーvol.28 暗黒の世界と内なる異形』書評」
川嶋侑希
これまで感じたことのないほどの芯からの冷えが身体を震わせ、景色を楽しむ余裕を与えてくれない。大学生の頃訪れた2月のルーマニアは、地元の人も驚くほどの強い寒波に襲われていた。曇天のなか水上に架かる細長い橋を足早に歩いていた私は、何となくこの先は行ってはいけない場所のような気がして怖かった。観光ガイドの女性から、この橋の先にあるスナゴフ修道院にはドラキュラ公や杭刺し公とも呼ばれるヴラド・ツェペシュが眠っていると聞いた。あの吸血鬼ドラキュラのモデルとなった人物である。私が吸血鬼に抱いていたイメージは、生き血を啜る、紳士的でスマートな見た目の〈伯爵〉だったが、大学の東欧の歴史を学ぶ講義でヴラド公の残虐非道な行いを知った時、モデルの人物の方がとんでもなく現実離れした怪物のような人だと感じた。脚色のない〈本物〉の吸血鬼の痕跡を前に、寒さと共に恐怖が迫ってくる気がして、この橋の上で足を止めてはいけないと思った。
本書『ナイトランド・クォータリーvol.28暗黒の世界と内なる異形』(アトリエサード刊)に登場するのは、そんな吸血鬼のように恐ろしい異形の存在とされる、人狼やドッペルゲンガー、幽霊に魑魅魍魎。あるいは、人の形をしていない闇の世界の住人たち。今でもそのような者たちは小説や映画、アニメ、ゲームなどにモンスターや悪者として登場することが多く、馴染み深い存在もいるだろう。だが、彼等が破壊や殺戮をするだけの、救いようのない「悪」として描かれるのは、そこまで多くないような気がする。自らの姿に対する苦しみや葛藤を抱きつつも運命を受け入れたり、人間とドラマティックな恋に落ちたり。闇に侵食されずに自我を保とうとする生き方に美しさを感じるからこそ、我々はその悲しみや苦悩を知りたいと思うのではないだろうか。彼等が担い、紡いできた物語は世界の影の部分を本やスクリーンに映し出す。彼等がどこから来て、どう変わってきたのか。長年描かれ続けて愛されているのは何故なのか、人は彼等と出会う時どう反応するのか、本書を読めば少しわかるかもしれない。
彼等が題材となる作品や伝承、民話は数多く、話によって特徴や性質も様々である。例えば幽霊を思い浮かべるとわかりやすい。この世の全ての幽霊が白装束を着て、足が消えており、額に三角巾をつけているわけではない。国や地域によって見た目は異なり、人間に個体差があるのと同じようにそれぞれの個性を持っている。全10作品ある本書のエッセイのうち、3作品は主に「人狼」について言及したものだ。中でも浅尾典彦氏による『ここまでは押さえておきたい人狼映画リスト(1913年~2022年)』の膨大な作品数には誰もが驚くことだろう。定番のモンスターとして、或いは悲しき性質を持ってしまった不憫な人間として、作品の数だけ様々な人狼の姿があることがわかる。
異形の者たちの心に触れることのできる小説が、幅広いジャンルから集約されている。〈エルリック・サーガ〉シリーズの神秘的かつダークなファンタジーや、怪奇に挑む寒気凛冽なホラー、都市に住み着いた闇を捉えたモダニズム文学など、どれから読んでも楽しめることだろう。
中でも〈エルリック・サーガ〉シリーズの2作品は、今回特に注目すべき作品だ。本シリーズは『ナイトランド・クォータリー』前号にも掲載されているのだが、豪勢なことに、今回は2編掲載、計54頁にもなっている。エッセイや井辻朱美氏へのインタビューでも〈エルリック・サーガ〉について言及しているので、作品の魅力を存分に味わうことができるだろう。
そのうちの1編『漆黒の花弁』(健部伸明:訳)は〈エルリック・サーガ〉の生みの親、マイケル・ムアコックによる小説だ。今回はメルニボネ最後の皇帝エルリックと、その付添人であり友人のムーングラムが、一世紀に一度だけ咲く〈黒一華(ブラック・アネモネ)〉を求めて旅に出る。自らの滋養強壮のために〈黒一華(ブラック・アネモネ)〉を手に入れようとするエルリックと、彼を頼りに、別の目的で共に冒険する姫や公爵たち。蛮族と対峙し、密林の中で繰り広げられる激しい戦闘が、細かな筆致で鮮明に描かれている。エルリックは剣を携え、悪を打ち払う〈英雄〉そのものであるが、多くの〈英雄〉たちとの違いは、虚弱体質であることだろう。〈白子(アルビノ)〉として生まれ、黒魔術や薬に頼らねば生きられないという致命的な弱点をもっている。常にほの暗い雰囲気を纏い、私利私欲に従順な〈英雄〉に、人間らしさや親しみやすさを感じる読者は多いのではないか。
もう1編は〈エルリック・サーガ〉のシェアード・ワールド作品であるナンシー・A・コリンズ『龍の心臓』(徳岡正肇:訳)だ。竜を手に入れるために〈竜の谷〉へ出向いたエルリックは、そこで出会った〈竜王〉タノックと、一夜を過ごす。生まれながらの運命に翻弄される者同士の相容れそうで相容れない関係が、お互いが背負うものの大きさを物語っている。タノックの心をストレートに表した、「運命と出自に縛られ、やりたくもない役割を担わされ。我らの人生に残されたのは、後悔、痛み、哀しみを感じるための、潤沢なる時間のみ」というセリフは、上に立つ者の窮屈さがにじみ出ていて印象的だ。彼女は一族を束ねる長としての苦しみを、似た境遇のエルリックにしか伝えることができなかったのだろう。運命を受け入れるタノックと、運命を切り開こうとするエルリックの、対照的な心情を感じ取れるはずだ。
エラ・スクリムサワーの『呪いの目』(渡辺健一郎:訳)とティム・ワゴナーの『廃物たち』(待兼音二郎:訳)は海外のホラー小説だ。スコットランド人の女性作家エラ・スクリムサワーの経歴は珍しいもので、作家業のほかに女優をしていたという。また、女性主人公のオカルト探偵が、慣れない様子で依頼を遂行していくというスタイルも珍しい。主人公には、思わず応援したくなる魅力がある。怪奇現象と依頼人、そして怪奇を起こす幽霊にまで真正面から向き合うという点だ。ただ除霊的な行為をするのではなく、真実を見極め、幽霊が起こす怪奇の根源にあった問題を解決する。ひたむきに奮闘する彼女の活躍が今後も気になるところだ。何度も繰り返される怪奇現象の恐怖はもちろんあるが、1920年のスコットランドを舞台とするノスタルジックで不気味な世界観も、恐怖を増幅させるアクセントだ。
ティム・ワゴナーの『廃物たち』は、現代の視点から世界に潜む暗闇を覗き込む。廃品回収車が住宅街を回るというありふれた日常に、疑問を持つ者は少ないだろう。だが、本作品を読むと、役に立たなくなったものを簡単に捨て去る人間の軽薄さにドキッとするかもしれない。〈役立たず〉な者たちに迫る、不要品として扱われる恐怖、回収車という怪物に殺される恐怖。主人公ヴァレリーは〈役立たず〉な人間としてまさにそれを体験することになる。彼女を回収しに来る無慈悲な乗り物と怪物の描写は、我々にもまるで悪夢をみているような緊張感を与える。恐怖に支配されていく空気を、登場人物と共に感じることが出来る筈だ。そもそも〈役立たず〉なものがこの世に存在するのだろうか。居場所が合っていなかったり、扱い方を誤ったりしているだけではないのだろうか。本作品を読んだら、そんな人や物に対する価値観を、今一度考え直すきっかけになるかもしれない。
日本のホラー小説として掲載されている壱岐津礼の『赤鰯』は、本書の中でもひときわ異彩を放っている。慶応四年の日本を舞台に、主人公によって激しい戦乱の様子が語られていく物語だ。ある時、戦地で物盗りをしていると、強欲な仲間が鬼のような怪物に成り果ててしまう。この物語で印象的なのは、人と怪物の間にある一線を浮かび上がらせるような、主人公と物盗り仲間の対比だ。同じ境遇にありながらも人間の世界に踏み止まれた者と、一線を越えてしまった者の違いを感じ取ることができるだろう。主人公の流れるような語り口も、時代の雰囲気を見事に作り上げており魅力的だ。
人間の卑しい部分は、大抵が胸の奥底に隠されている。ユードラ・ウェルティの『キーラ、インディアンの父無し娘』(岡和田晃:訳)では、見世物小屋にいた黒人の男性「リトル・リー・ロイ」の身に起きた苛烈な差別が描かれている。異質な姿の者として、無茶苦茶な芸をさせられていた「リトル・リー・ロイ」。そして彼を商品として蔑むチケット売りの男スティーヴ、その芸や口上を楽しんで観覧する客。さて、この場において異質なのは一体誰なのか。私はここでは、スティーヴや客のように自分がおかしくなってしまっていることに気づけない者たちの方が、狂気じみていて恐ろしいように感じる。人は自分と違う者を恐れるものだが、それに対して友好的な眼差しを向けるのか、拒絶するのか、その後の反応は様々だ。だが、スティーヴや客は他者を弄ぶ醜悪な心を持ってしまっていた。しかも、彼等にとってはそれが当たり前で、虐げることに何の疑問も持たない……。それこそ、姿は人間なれど、中身は恐ろしい怪物なのではないのだろうか。
闇に飲まれて自身を失った者たちは、そう簡単にはあるべき姿に戻れない。上手く戻れる者もいれば、手が付けられなくなって殺されてしまう者もいる。だが、闇は誰もがいつでも抱えているものだ。そんな心の危うさを自覚させるかのように、人間の内に秘められた狂気は姿を与えられ、恐怖の象徴として後世まで語り継がれてゆく。子どもを守る寓話や迷信のように、彼等の物語は何度でも蘇り我々に闇の存在を警告し続ける。