ショートショート, 小説 「逃走経路」江坂遊 2022年7月18日 それは幽霊そっくりでした。「朝早くですまないが、腹が減ったし美味しいと評判の料理屋だったので立ち寄らせてもらうことにした」 声が先に聞こえて、おぼろげな霧が徐々に人の形に整っていきました。「お、ば、け?」「生きているよ。まぁ、お化けと言われてもしょうがないけれどな。お前さんには理解ができないだろうが、この時代からざっと五百年後から逃げ出してきたわけでね」 ブーンという耳をつんざく音が止むと、刀のように光り輝く奇妙な生地の衣を着こんだ怪しい男が、煮炊きをする土間の真ん中に現れました。「五百年後?」 わけがわからず、卒倒しそうなところを、男がわたしを抱きかかえる恰好になりました。「危害を加えるつもりはない。と言っても泣いたり叫んだりしたら、急速睡眠誘発銃はお見舞いするからな。時間マップで調べたんだが、ここは料理屋の厨房だろう、早く何か口に入るものを用意してくれ。あっ、あそこか。じゃ、やっぱり、少しだけ眠ってもらっとこうか」 五百年後からやって来た、急速睡眠誘発銃、時間マップ、みんな耳慣れない言葉です。夢でも見ているんだと目を瞑ると、急に意識が遠のきました。 どのくらい土間に横たわっていたのか分かりませんが、目を覚ますと、目の前に男の履物がちゃんと揃えて脱いであるのに気づきました。土間から上にあがるのに律儀なことです。男はできた煮物を小皿にわけて並べた棚がある、表の店に通じる畳部屋に上がっていったようです。匂いに釣られたのでしょう。 変わった履物だなと思いました。両方の足の甲の部分にそれぞれつまみがついていて、片方のそれを回すと、数字が浮かんではすぐ消えていきます。よく分からないので放り出した途端、先ほどの男が奥の間との境にかけてある暖簾を払って、こちらに顔をのぞかせました。顔中毛だらけで、獣のようなギョロっとした目でにらまれたので、縮みあがりました。「何もいたしておりません」 あわてて袖で覆って履物を揃えました。「気が付いたか。いただいてきたよ。自慢のお料理の数々を。うなるほど美味かった。煮物はどれもこれも絶品だ。グルメの俺をうならせたんだから、大したものだ。でも悪いが、お代は、このコインでということになる。大事に五百年保管できれば、使えるようになる」「コイン?」「銭だよ。おっと、長居はしていられないんだった。もうすぐ、タイムパトロールが追いついてくる。さぁ、時間線をもう少し遡って、逃げなけりゃな。さっき、行先時間はセットしたばかりだから、このままでいいと」 男は土間に降りると、さっと履物を履きました。「あっ」 わたしは思わず口を押さえて言葉を呑み込んだのです。「あばよ。じゃあな」「あのその・・・」――ギャーッ―― そんな叫びをのこして男が消えたのと、数人の男の姿が現れたのはほとんど同時でした。「お手柄です」 また妙なのが現れ変なことを言われて、腰が抜けそうになりました。「へぇ」「タイムスリッパの片方の行先時間を変更されるとは、グッドアイデアでした。これで、刑の執行係としてのわたし達の仕事がなくなりました。逃走犯に手こずっていたのですよ」 わたしは頭を抱え込みました。「何が何やら、さっぱり」「あいつのタイムスリッパの片方の行先時間を変更していただいたのが良かったのです。あいつが隙を見て調整したのをあなたに変更していただいた。ですから、初めから目論んでいた通りに『時間股割き刑』を受けさせることができました」 何が何だか分からないが、とんでもないことに協力してしまったということだけは、ぼんやり分かりました。 (了) Tweet