「赤い銀河の夢」粕谷知世

「変な夢を見たの」
「どんな?」
「夕方だったの。わたしは車に乗ってた。子供を迎えに行こうとしてたのよ。信号が赤になったから停まって、少しぼうっとしてたのね。ダッシュボードは暗くて計器類はよく見えなかったけど、左の助手席側の窓は明るくて、ハンドルに置いた左手にも夕日が差していた。その赤みを帯びた光のせいか、なんだか妙な気分になってね。どうして、こんなところで、こんなことをしてるのかなって思ってた。それはほんの一瞬で、すぐに信号が青に変わったから、アクセルを踏んだんだけど」
「ちょっと待った。君が何を言っているのか、まったく分からないな」
 言われてはじめて、わたしは自分がまだ少し寝ぼけていたことに気がついた。夢のなかのわたしが話すように話してしまったら、彼には通じない。
「つまり、わたしは、とある星の上にいて、その星で発生した生命だったの。その生き物が造り出した固い殻のような移動用の物体に入って、わたしから分裂した個体のところへ行こうとしてたわけ。わたしの体には上下に二つずつ突起があって、上の突起の先端に、その星の母星の光があたっていた。その光は、その生物の必須元素を体中に運ぶ体液が反射するのに似た波長をもっていてね、だからなのか、わたしはどうして、こんなところでこんなことをしてるのかなって思ったのよ」
 彼は笑った。
「やっぱり、君が何を言っているのか、よく分からない」
 それはそうだろう。
 わたしだって、自分が何を言っているのか、よく分からない。
 彼は少し考えているようだった。
 こういうところが、彼のいいところだ。たとえ、わけが分からない話であったとしても、聞いたからにはよく考えて、一生懸命、こたえてくれる。
「夢のなかで、どうして、わたしはこんなところにいるんだろうって思ったってことはさ、完全に熟睡していたわけじゃなくて、いくらかは覚醒していたんだろうな。自分が変な夢を見ているって自覚があるから、そんなことを考えられたわけだろう」
 そうか。そうかもしれないな。
 夢として片付けてしまうにはリアルな夢だったけど。
 そんなことを思っているうちに、覚め切らなかった意識がはっきりした。
 わたしは感知する。
 わたしの感覚に触れる、多種多様な刺激を。駆け巡るエネルギーを。
 ありとあらゆる地点から放射されている原始の光、マイクロ波は、わたしにとっての子守歌だ。星間ガスの匂いもするし、宇宙塵のざわめきも聞こえる。飛び交う赤外線、X線の強弱のほか、彼からやってくる重力波もキャッチすることができた。彼もきっと、わたしの重みを感じてくれているだろう。
「やあ、ようやく完全に目が覚めたようだね」
 彼にからかわれる。
「こちらの世界に戻った感想はどう?」
「ふふ。もちろん、この宇宙を愛してる。でも、あの夢の世界だって悪くはなかったわ」
「それって、どこの世界なんだろうね。この広大な宇宙のどこかに実在している世界なんだろうか」
「それは分からないわ。でも、とにかく、わたしは星の上に棲んでいる命だった」
 わたしは自分の内側に意識を向けてみた。
 夢で見た世界を内包している星をみつけられるのではないかと思って。
 光放つ恒星は数え切れない。わたしと同じほどに年を重ねた星々の集まる球状星団、年の若い星々がまばらに集う散開星団。赤色巨星や青色巨星、白色矮星も中性子星もいる。わたしを満たしているのは、数千億もの彼らの力だ。彼らは連なって筋をつくり、渦をなしている。
 そう、わたしは渦巻銀河だ。
 この大宇宙では、よくある平凡な銀河で、わたしが居るのも、どちらかというと過疎な地域で、言ってしまえば、わたしなんて、とるに足らない銀河なわけだけど、そんなことは、わたしの知ったことじゃない。
 わたしはわたし。
 星々の力を結集させて、わたしは彼に呼びかける。光の網を彼へと投げかける。光の波紋が広がっていく。
「星の上にも命がいる。言われてみれば、まあ、そうかもしれないけど、普段はそんな細かいところまでは意識してないな。どうかすると、個々の星どころか、星団が動くのだって感じてないからな」
「それはそのとおりだけど、でも、あれたちも、確かに生きていたわ」
 言いながら、わたしは先ほど見ていた夢を反芻する。
 夢のなかで、わたしは、ああ、日が沈んでいくなあ、と思っていたのだった。
 いつも起きること。当たり前のこと。生きている限り、続くこととして。
 わたしたちが自分の体内の星々をいつも意識しているわけではないのと同じく、あの極小の命は、自分が暮らす星の全体像を常には把握していなかった。惑星の自転を、母星が昇り降りしているかのように感じていた。
 なんて、不思議な世界なのだろう。
 ほんとうに、あんな世界が、この宇宙に存在しているんだろうか。それとも、あれは、わたしの想像力がつくりだした架空の世界だろうか。
「君って、ほんとに夢見る夢子さんだよね。でもね、知っておいてほしい。そういうところが僕は好きなんだよ」
 こうやって話している間にも、棒渦巻銀河である彼は、水素ガスを噴き出しながら、少しずつ、わたしに近づいてきている。わたしはそれを感じる。彼の重力波はどんどん強くなっている。
 いつか、わたしたちは衝突し、合体する。
 星たちにとっては、生まれ育って老いてゆき、爆発で拡散したガスや塵が凝縮して、また生まれる、それを何度も繰り返す、果てしない時間だろう。
 でも、わたしにとっては、近い将来。
「楽しみに待ってるわ」
 わたしは彼にむかって渦状腕を伸ばす。
 わたしには見えている。彼の養ってきた星たちを、わたしが受け入れ、わたしが育ててきた星たちを彼が引き受ける、その素晴らしい未来が。
  
「変な夢を見たの」
「どんな?」
「星が、ううん、銀河が話しているの」
「え、何? 宇宙の夢を見たってこと?」
「ううん。そうじゃなくて、わたしが銀河で、もう一つの銀河に話しかけてるの」
「おまえ、また寝ぼけてるだろ。なに言ってるのか分からないぞ」
 眠っている間、目をつぶっているのに何かを見てるなんて、頭がおかしいと言っていた聡司くんも、最近ではすっかり、わたしが夢を見る体質だってことに慣れてくれたけど、さすがに、銀河同士が会話しているなんて変な夢の話にはついてきてくれない。
 わたしは今、ベッドの上。
 顔は冷たいけれど、体は毛布のなかでぬくまっている。
 もう少しだけ、このまま、まどろんでいたい。
「おい、いま何時だ?」
 言われて、ようやく本格的に目が覚めた。
 寒さに震えながら飛び起きて、朝食をつくる。大根、ジャガイモ、白菜を切って、お鍋に落として、だしの素。よく煮立ったら、お味噌はスプーンに半分、具材が柔らかくなったら、もう半分。その頃には炊飯器がシューっと音をたて始める。
 聡司くんは着替えている。最近、在宅勤務ばかりだったから、久々の出社で、ひげもそらなきゃいけないと慌てていた。
「拓人を起こしてよ」
「勝手に起きるだろ、もう中学生だ」
「中学生だから起きないの」
 なんだかんだ、なんだかんだ、いつもの朝の一騒動の後、三人そろって、ごはんとお味噌汁、サラダにスクランブルエッグ、おつけものを並べた食卓についたところで、スマホをいじっていた聡司くんが言った。
「天の川銀河っていうらしいな」
「何が?」
「俺たちの太陽系が属している銀河系の名前」
「銀河にも名前があるんだ。知らなかった」
 銀河の夢を見たことなんて、聡司くんが蒸し返してくれなければ、すっかり忘れていただろう。わたしの夢に興味をもってもらえたことが嬉しくて、聡司くんと拓人を送り出してから、一人でにやけてしまった。天気がいいし、パートがお休みの日なので時間に余裕がある。洗濯物を干すだけでなく、掛け布団や毛布も日にあてようとベランダへ運んだ。
 広がる青い空に、太陽が輝いている。
 そうか、あれが、わたしの暮らす地球の母星なんだ。
 そんなふうに思ったのは、完全に、夜見た夢の影響だった。夜に夢を見るのを悪いことのように思い込んでいた昔なら不安になっただろうけど、今は気にしない。
 だって、夢は夢だから。
 それに、あんな奇妙な夢を見た理由は、はっきりしている。
 昨日、宇宙に興味を持ちだした拓人へのクリスマスプレゼントとして図鑑を買った。どれにしようかと書店で品定めしている時、ハッブル望遠鏡が撮影した写真を見たのだ。渦巻きだったり、棒状だったり、レンズ状だったり、さまざまな形の銀河が何百と写り込んでいる画像。へえ、この一つ一つが銀河だなんて凄いな、と思ったまま、わたし自身は忘れてしまったけど、わたしの脳は覚えていたらしい。
 心楽しい気分のまま、わたしは家事を続けた。リビングに掃除機をかけ、この日は特別に洗面所の水垢もこすってみる。そんなことをしていると、あっという間にお昼だ。この時の流れの早さは、四十を越したせい? 冬は日が短いから、余計にあわただしい。三時にはもう日が陰り始めるし、そのうち拓人が帰ってきて、ポテトチップスを袋丸ごと食べたかと思うと、学校で何があったか訊きたい母親のことなんて鼻であしらって、ゲームを始める。太陽の熱を吸収した掛け布団や毛布を取り込んで、夕食の支度。残業の聡司くんを待たずに食べて食器を洗い、明日のお弁当の下ごしらえ、お風呂に入った後、ようやくゆっくりしたけど、毎週見ているテレビドラマの途中で半分、寝てしまい、布団に入って寝直したのもつかの間、気がつけば朝になっている。
 木曜日には病院のパートがある。夫婦喧嘩でもしてきたのか、先生は朝から不機嫌で、同じシフトの金子さんと交わす雑談にも声を潜めなければいけない。こういう日に限って患者さんが少なくて、忙しいほうが気が紛れるんだけどなと思いながら、帰宅してみれば、もちろん拓人はゲームをしている。夕食の支度は在宅勤務の聡司くんに頼んであった。お風呂を入れて食器を洗って、明日のお弁当の下ごしらえ。
 金曜の夜はフラワーアレンジメントを習っている。束ねて丸くしたモミの枝に緑や赤のリボンを巻きつけてクリスマスリースをつくりながら、そうだ、この週末にはクリスマスツリーを出さなくちゃ、と思いつく。
 そして、土曜日にはサッカーを習っている拓人の送り迎えがあった。
 いつもは一時から三時までの二時間だけど、この日は監督の都合で、開始が一時間遅れたので、迎えの時間が四時になった。
 もうすぐ、日が暮れる。赤信号で車を停めた。
 車内は暗くて、でも、助手席側の窓は明るかった。
 左手の甲は差し込んだ夕日のために赤みを帯びていた。冬は暮れるのが早いな、と思ったところで、鳥肌がたった。
 この感じ、いつか、どこかで味わったことがある。
 背筋を貫く、強烈なデジャヴ。
 いつか、どこかで、なんて、そんな曖昧な話じゃない。
 この瞬間を、わたしはすでに一度、経験している。
 夢で? あれは、ほんとうに夢だったんだろうか。
 わたしは、どうして、こんなところで、こんなことをしているんだろう。

 試合前の特訓で疲れきった拓人が寝入ってから、キッチンの収納棚に隠しておいたプレゼントをひっぱり出した。あわてたせいで、モミの葉と靴下柄の包装紙を破いてしまったのには動揺したけれど、クリスマスまでに包装紙だけ買ってくればすむことだ。気を取り直して、図鑑を開く。
 見開き一面に現れたのは、フレアを放つ太陽、それにクレーターだらけの月の表面だった。赤い火星、縞模様の木星を過ぎ、冥王星を最後に太陽系を離れた後には、銀河系全体が視野に入ってくる。
 わたしにとって、太陽系より遠い宇宙のイメージは、闇のなかに点々と白い星が光っている、という地味なものだった。だけど、この図鑑には、とてもカラフルで、ユニークな形の天体が載っていた。ピンクの蝶、馬の頭というよりトンカチみたいな形の雲、青いひなげしの花。
 どれも興味深いけれど、わたしが書店で見た写真ではない。もっと後ろのほうだっただろうか。もどかしく思いながら、ページをめくっていく。
「銀河宇宙」と名打たれた次の章にも、美しい写真がたくさんあった。ハッブル望遠鏡がとらえた、天の川銀河ではない別の銀河。白い強烈な光を放つ中心点から、星の帯が二つ、のの字を描きながら、それぞれ反対方向へ放射されている。うっすらと青みを帯びた帯状の靄のなかには、赤やピンクの宝石が輝いていた。二つの銀河が交差していたり、親子のように、大小の銀河が連れ立っているものもある。一枚一枚、時間をかけてゆっくり見たいところだけれど、書店で見かけた写真を求めて、さらに先へ進む。
 そして、みつけた。
 カスミ草の花びらほど小さな白い光が点々と散るなかに、レンズ型や楕円形や渦巻、さまざまな色と形をした多数の銀河が写り込んでいる写真。
 キャプションには「かみのけ座銀河団」とあった。太陽系を超え、銀河系を超えた、三億光年先の宇宙に存在していると解説がついていた。
 わたしが手に持つことのできる図鑑のなかに、こんな光景がおさまっているなんて、ほんとうに不思議なことだ。わたしの小指の爪より小さな渦一つだって、横切ろうとしたら光の速さで何万年もかかるというのに、その渦が百も二百も写っているのだから、この写真におさめられた空間全体の大きさときたら、それはもう、わたしの想像力を超えている。
 信心深かった昔の人なら、これを「神の栄光」と呼んだことだろう。
 ずっとずっと昔の大昔から、誰にも見られずに輝いていた銀河たちの集合写真。
 あれ?
 でも、これに似たものは前にも見たことがある気がする。小学校の理科の時間、池の水を顕微鏡で覗いた時のことだ。丸く切り取られた世界のなかに、半透明のミジンコやゾウリムシたちがいた。もぞもぞ動いていたし、こんなに光ってはいなかったけど。
 しばらく眺めているうち、隣室で拓人が動き出した気配を感じた。
 すぐに「ねえ、お腹空いた。何かない?」と声がかかるだろう。
 あわてて破れてしまった包装紙を折りたたんで図鑑に挟み、図鑑は紙袋へ入れて収納棚へ戻そうとして名残惜しくなった。拓人はまだ部屋から出てこない。
 もう一度、さっきのページを開いて見返す。
 当たり前のことだけど、銀河団の写真は消えてしまわずに、そこにあった。
 急いで、全体に目を通す。
 そして、あっと思った。
 写真の真ん中には銀河が密集しているけれど、下のほうは少ない。そのなかに、少し赤みを帯びて、渦巻きの形がくっきり写った銀河があった。
 どうしてだか、その赤い小さな銀河に、わたしは親しみを感じたのだった。
 指で紙面に触れてみると、他のところはつるりとして冷たいのに、なぜか、そこには熱を感じる。少し離れた星域には、青く尾を引く細長い銀河も見つかった。
 もしかして、これが、あなた?
 あなたは、今この瞬間も、そこにいるの?
 
 野菜炒めをつくりながら、わたしは赤い銀河の幸せを祈った。
 子供の頃、夜空に織り姫さまの恋の成就を願ったように。
 あちらでも、たまには思い出してくれるだろうか?
 星々よりも小さな、わたしとわたしの世界のことを。

 参考図書:『138億光年 宇宙の旅』 監修 渡部潤一 執筆 岡本典明
      発行 株式会社クレヴィス