「職場で浮かないように気をつけています」伊藤瑞彦

 俺の身に起きたことは、本当に現実だったのか。
 昼休み、誰もいない屋上で確認する。
 目を深くつぶり、精神を集中。意識的に頭に血を上らせる。
 しばらくすると今朝と同じような、不思議な感覚があった。
 ゆっくりとまぶたを開き、足元を確認する。
 ……やっぱり、浮いている。
 つま先から地面まで、約三十センチの空間がある。現実は非情だ。
 下を見つめたまま深いため息をつき、その時気づいた。足元に落ちているタバコの吸殻に、まだ火がついている!
 ハッと視線をあげると、ポカンと口を開けた岸辺あかりが目の前に立っていた。
「うおっ! どっから湧いて出た!」
「……いや、あたしが先客なんだけど」
 浮かんでいる俺をしげしげと観察しながら周囲を一回りしてから、あかりは言った。
「すごい芸」
「芸じゃない、芸じゃ」
 反射的にそう返してしまい、後悔した。しまった、芸ということにしておけばよかったんだ。
「どしたん。それ」
「……どうしたらいいと思う?」
 説明のしようもなく、しばしの沈黙のあと俺が言ったのは、なんとも間抜けな言葉だった。

  ・

 この春から仕事を変えた。それと、住む場所も。
 三十代も終盤になってからの新生活。大した理由があるわけじゃない。これまでも何度もそうしてきた。
 いろいろなアルバイトや派遣仕事を渡り歩き、今までにやった仕事の種類はいつしか両手でも数えられなくなった。
 今回働き始めたこのデカい工場では、半導体の製造装置を組み立てている。1台十億円以上もする、技術の粋を集めた機械らしい。
 とはいえややこしいことは、俺らとは交流のない事務棟の中にいる大卒の正社員たちが全部やってくれる。実際に作業に当たる俺たちは、パイプのナットを締める方法だけを覚えていればいい。
 この工場は社会不適合者でもまともに働ける、矯正施設みたいなものだ。揃いの作業服を着て、会社寮代わりのアパートから朝早くに出勤。仕事前にはラジオ体操。動画や実技による安全講習を一日中みっちり受け、栄養がしっかり管理された社食で餌付けされる。
 そんな平穏な新生活に異変が起こったのは、派遣後一ヶ月半が過ぎた頃だった。

 ・

「なんでこんなところにいるんだよ、あかりは」
「誰もいなくてヤニ吸うのに便利だから使ってる」
「喫煙所で吸えよ。高校生かお前は」
「集まって吸うの、苦手なんだわ。ポイ捨てはしてないよ。バレると面倒だし」
 あかりはそう言って落としたタバコの吸い殻を拾い、ポケットから携帯吸い殻入れを出して入れた。
 岸辺あかりは俺と同じタイミングでここでの仕事を始めた、同期だ。
 この工場がある街で育った、地元採用の女。バッチリ決めたメイクとつけまつげ。決まりだから仕方なく金髪から黒髪に染めた、という長い髪を後ろでまとめているものの、束ねたはずの髪はあちこちに跳ねていて、全体的に漂うヤンキー臭がまったく隠しきれていない。
「ていうか、どうやってんの? それ」
 浮いている自分をまじまじと見ながら、あかりが聞いた。
「今朝、俺、風邪気味だって言ったろ」
「うん」
「風邪ひいたかなって時によ、『むー』って感じで、目をつぶってわざと頭に血を上らせて、寒気を確かめてみること、ないか?」
「何それ、わかんない」
「そうか。まあいいや。今朝それをやったら、こうなった」
「原因不明?」
「むしろわかったら不思議だろ。こんな超常現象」
 そう言ってから、俺は集中を解いて地面に降りた。
 医者に相談して治るものでもないだろう。だから途方に暮れているんだ。
「うーん……で、おっさんはどうしたいのさ」
「そのおっさんって呼ぶのやめろ。俺はまだ三十九だぞ」
「三十九は十分おっさんだよ?」
「……これ、世間にバレたらどっかの研究所で実験材料になるような能力だと思わん?」
「考えすぎじゃない? すごい超能力じゃん。テレビのスターになれるかもよ。昔はスプーン曲げただけでも大人気だったんでしょ? 聞いたことある」
「俺は別にスターになんてなりたくない。大体、そんなことになったら仕事はクビだろ」
「別にいいじゃん。特技を活かした転職ってことで」
「簡単に言うなよ。新生活を始めたばかりなんだぞ、俺は」
 就職氷河期世代で派遣会社を渡り歩いてきた俺と、地元採用で年齢もまだ若いあかりでは、転職に対しての危機感が違うのだろう、と思う。
「じゃあ、会社に内緒ってこと?」
「会社にだけじゃない。世間全般に、だ」
「バレたくないならさあ。電話ボックスで変装して人助けでもすれば? 世に潜む仮の姿、ってやつ」
「スーパーヒーローかよ。そもそも電話ボックスなんて最近あまり無いし、そんな都合よく目の前で困っている人なんていないし、三十センチ必死で浮くだけの能力でなんの人助けをしろってんだ」
「おー、次々とツッコむねえ」
 頭が痛くなった。相談する相手を間違えたと思う。
「……そもそも何マンなんだよ、それは」
「んー。……浮くマン?」
「……うわ、カッコわりい……」
「じゃあ、浮けるマンとか。やばい、超ウケる」
 あかりはそう言って、ケラケラと一人でウケている。
「役に立たない超能力だよねー」
 ひとしきり笑ったあとで、あかりはそう言った。
「まあスプーン曲げだって、金属ゴミを量産するだけだしね」
 身も蓋もないことを言われて、俺まで少し笑ってしまった。
「じゃあさ、鍛えてみれば?」
「あん?」
「なにか役に立つ用途が見つかるかもしれないし」
「鍛えるって、どこで。どうやって」
「場所はこっちで決めてあげるよ。あたし、人が来ない場所を探すの、得意だし」
 こうして俺たちは、この能力の可能性を試して行くことにした。

その1 高度の追求

「ここ、本当に人、来ないんだろうな」
「大丈夫。小さい頃からこの公園には来てるけど、この場所は死角みたいなところだから」
「誰かに見られたらシャレにならないんだからな」
「大丈夫だってば。だって、もう自宅では上がれるところまで上がってみたんでしょ? じゃあ屋外でやるしかないじゃん」
 確かに、そうだ。もうすでに、自分の部屋で浮ける限界までは浮いてみた。現時点での用途としては……蛍光灯を取り替える時には便利かもな、程度だ。
「それじゃあ、いってみよー」
 しまらない掛け声で集中し、高度を上げていく。
「オーライ! オーライ!」
 建設機械の誘導みたいな掛け声が下から飛んできて、気の抜けることこの上ない。
 すでに室内で試した限界高度は超えている。およそ3メートル上にある木に掴まり枝にまたがったところで、あかりが俺を見上げて言った。
「役に立つんじゃない? これ」
「そうかあ?」
「木の枝に引っかかった子供の風船を取ってあげるとか、できそう」
 そんなシチュエーション今まで生きてきて遭遇したことねえよ、と思う。
 どうやら集中力が続く限り、どこまでも浮けるらしいことはわかった。それはわかった。だが。
「……どうやって降りりゃいいんだ! ここから!」
 木の上からあかりに叫ぶ。
「え、そのままスーッと降りてくればいいんじゃないの?」
「今までの話聞いてたか? 集中している時だけしか浮かべないから、集中が途切れると単純に落ちるんだよ」
「いや、そんなん初耳だし。木登り、苦手なの?」
「自分で登った木ならともかく、こんな取っ掛かりのない木から降りろって言われても無理だ」
「……なんかさー」
「なんだよ」
「『降りられなくなった猫』みたいだよね。今のおっさんって」
 そう言ってあかりは笑う。他人事だと思って好き勝手言いやがって。
「車をこの下に回してくれ、上に飛び降りる」
「えー?」
 車の屋根が少しヘコんでしまったことにグチグチと文句を言われながら、この日の実験は終わった。
 ゆっくりとだが、高度は上げられることはわかった。でも無難に着陸する方法がないわけで、飛行機どころか熱気球にも劣る使い勝手だ。
 公園からの帰り道。なにやらスマホで調べていたあかりが画面を見せてきた。
「パラグライダーとかは、航空法の適用除外なんだって。よかったね。パラシュートさえ背負えば空を自由に飛べるじゃん」
 いや、垂直に浮かんでいるだけだ……「自由に飛べる」という状態ではないと思う。上空に人が立っているとか、見た目オカルト以外の何ものでもないぞ、それ。
 こんな市街地の上空でそんなことをやったらあっという間に誰かに見つかってスマホで録られてSNSで拡散、特定。今の平穏な日常はゲームオーバーだ。
 そこまで一気に脳裏に浮かんで、身震いした。これ以上高度を上げる実験はやめることにする。

その2 姿勢制御の試行

 さて、高度には制限がないことがわかった。次の課題はそのままゆっくり降りたり、横に移動することだ。つまり、上方向以外への移動。
 屋外の実験は人に見られる危険性が高すぎる。俺がそう言うと、あかりは工場内で昼休み中にやると言ってきた。
 広い工場だからこそ、働いている人は多い。人が来ない場所なんてあるのか? そう思いながらあかりに着いていく。
工場の裏口近くにある警備員詰め所の前まで行くと、あかりはドアをノックして人がいないことを確かめたあと、ポケットから鍵を出して中に入った。狭いが、仮眠用の布団や冷蔵庫、シャワー室まで完備した立派な部屋だ。
「ここは夜警の人しか使ってないみたい」
このために鍵置き場からこっそり家に持ち帰り、合鍵を作っておいたのだそうだ。なんて手癖の悪いやつだ。まあ俺としては助かるが。
 実験開始。まずはいつもどおり、三十センチほど浮く。
「よーし、次は試しに、うつ伏せの状態になってみよっか」
 あかりにそう言われたものの、どうやって姿勢を変えればいいのかがさっぱりわからない。
「浮かぶ時と同じようにやればいいだけじゃないの?」
「どうして浮いているのか自分でもわからねえから、姿勢の制御の方法もわからん」
「そうなんだ……あ、そうだ。じゃあさ、あたしの肩を掴んでみて」
 ん? なんだそりゃ、と思いながらも、言われたとおりあかりの肩に片手を添える。
「いや、そうじゃなくて両手で両肩を。で、……んーと、やっぱり肩そのものじゃなくて、肩のあたりの服を掴んでおいて。そうそう。で、そのまま高度を上げていって。そしたら同時にあたしが後ずさるから」
 はじめは指示の意味がわからなかったが、すぐにわかった。両手が固定されている状態で足元は浮き続けたので、いずれ手から足までが水平状態になる。無重力状態の宇宙飛行士が何かに掴まって体勢を整えるのと一緒だ。
 数秒後、あかりが望んでいたらしい「飛んでいる人」の姿勢は、無事完成した。
「で、どう? 前に進めない?」
「……ポーズだけ完成してもな」
 いわゆる「空を飛ぶ」っぽい姿勢にはなったものの、前への進み方は相変わらず糸口すらつかめない。
 要は、推進力がないわけだ。だいたい浮くときだって、上に向かって推進するという感覚は一切ない。Gがかかるというよりも、むしろ体重が消えるような感覚があり、その結果として浮かんでいるだけだ。
 無重力と同じなので、宇宙飛行士が使っている方法では移動できる。壁を蹴飛ばしたりすれば一応飛んでいるような挙動はできた。しかし周りになにもなく、かつ静止した状態から動くすべはない。
 試行錯誤の結果、腕は平泳ぎ、足はバタフライが一番マシな速度になることがわかった。時速に換算してせいぜい十メートルぐらいだろうか。空中を掻いているだけなので、空気抵抗分しか動力がなく、遅々として進まない。スーパーマンには程遠い。
 このまま力を抜いてうつ伏せ状態から落下すると全身を強打してしまうので、あかりに手伝ってもらい、姿勢を垂直に戻してから、着地した。これではスーパーマンどころか要介護者だ。
「無重力と同じってことは、さ」
 パン、と唐突に両手を打ってそう言ったあかりは洗面所に勝手に入っていき、ドライヤーを手にして戻ってきた。
「これで移動できるんじゃない?」
 なるほど。空気を噴射して移動か。スラスターって言ったよな。確か。
 ……一瞬納得してしまったが、どんどん実用性からはかけ離れていっている気がする。不毛さを感じながらもまたうつ伏せで浮かび、ドライヤーを両手で後方に向かって持ち、スイッチを入れる。
今日イチのスピードが出た。が、すぐにコンセントが抜けて失速した。壁にぶつかる直前、片手でガードする。最高時速はまあ、1キロぐらいだろうか。
 ドライヤーというジェットがあれば一応前進できることがわかった。が、いかんせん今度は電源の問題がある。本家のスラスターを参考にエアダスターを噴射する方法も考えたが、これも使える時間は大したことがない。
 数日間の試行錯誤の末、百円ショップで買ってきた充電型USB扇風機を両手に2個持つ、というのが一番持続力があるだろうという結論になった。ジェット機からプロペラ機への退化。歩行速度以下で飛ぶ双発機。時速は百メートルぐらいに落ちたと思う。
 いろいろ試してみたが、相変わらず実用性のかけらもない能力に思える。
「今日はここまでにしよう。降りるからまた手伝ってくれ」
「また介助してもいいけどさ。せっかく自分で移動できるようになったんだから、そこの布団まで浮いていって落ちたほうが手っ取り早くない?」
 そう言われ、布団上空にノロノロと移動していってから集中を解除すると、途端に落下した。大した高さではないが、意外と痛い。
 面白そうに見ていたあかりが、意地悪な笑顔で言う。
「最後にあぐらをかいたまま飛んでみない? マスターしたら新興宗教の教祖になれるかもよ」
「いや興味ねえから! そういうの!」

その3 運搬能力の獲得を目指す

「昨日さあ、寝る前にネットで調べてみたんだけど」
「何を」
「突然体が浮くようになって困っています、って相談、他にないかなって」
「あるか、そんなもの」
「夢占いのページが出てきたんだ。えーとね。『空を飛ぶ夢は、不安定な現状を表しています』だって」
「そりゃ因果が逆だ。空を飛べるから、俺は不安定な現状になってんだよ……くだらねえこと言ってないで早く今日の実験、始めようぜ」
 さて、どうにも実用性を感じないこの力をなんとか役に立たせるべく、あかりが考えた今回のチャレンジは「少し重いものを持って浮いたらどうなるの?」だそうだ。
 詰め所にあった椅子を持ってから、集中。
 理想としては椅子ごとふわっと浮くつもりだったのだが、ちょっと浮いただけでもう抵抗を感じる。正直、この段階でもうオチが見えた。
 浮いていく体に対し、一向に浮かない椅子。それでも頑張って掴んでいると、とうとう椅子の上で逆立ちしてしまった。
「うーん、なんか思ってたのとは違うけど、あと少し頑張れば浮かぶんじゃない?」
「……まあ、やってみるけどよ」
 高度を上げていくと、やがて手に持った椅子が床から離れた。
「やったじゃん! すごい! 椅子が浮いてる!」
「……いや、これは『椅子が浮かんだ』とは言えない」
 宙に浮いた椅子の上で逆立ちしながら、俺は言った。
「なんで?」
「重いんだよ。普通に。手に持ってる椅子が」
 これは「空中に浮いた自分が、腕の力で椅子を持ち上げている」というだけの話で、能力とは一欠片も関係ないということだろう。
 この前空中で姿勢を介助してもらった段階で気づくべきだった。どうやらこの浮力は自分の体以外にはビタイチ適用されないらしい。
 椅子から手を離して逆立ち状態のまま上昇し、天井を軽く蹴って地面に戻った。姿勢を整えてから能力を解除し、立ち上がる。少し身のこなしに慣れてきた。
 二人で、また考える。
「念じただけで動かせるって事は、念力の一種だよね、それ。自分を浮かせるんじゃなくて、他の物を狙って動かせないの? あ、そうだ。あたしを浮かせてみてよ」
「やりたくない」
「なんで」
「自分の体だから、まだわからないなりにコントロール出来てると思うんだよ。姿勢制御すらままならない状況で他人を持ち上げるなんて迂闊に試して、例えば万が一、脳とか内臓だけ持ち上げてみろ。へたすら即死するぞ」
「……あー、うん、やめとく。……物からチャレンジした方が良さそう。んー……とりあえずスプーンでも曲げてみる?」
 苦笑いしながらあかりが提案してきたのは、ゴミの生産だった。

 ・

「まずい」
 食堂で社食を食べる俺の前の席にあかりが来たので、開口一番そう言った。
「えー? まずいかな、この定食。あたしは結構好きだけど」
「まずいことになったんだ」
「あ、そっちか。なに?」
「朝起きたら5センチ浮いてた」
「いつももっと浮いてるじゃん。どういうこと?」
 あかりに今朝のことを説明した。そろそろ暑い夜も増えてきて、寝相が悪い俺は布団が剥がれたまま寝ていたこと。目覚めたらベッドから全身が浮いていたこと。起きて驚いてあわてた瞬間、いきなり落下したこと。
「自分の意志で制御できなくなってきてる。まずい」
「起きた瞬間、5センチ落下した、と」
「違う。60センチぐらい落ちた……ベッドじゃなくて、床の上に。たぶん寝ている間にエアコンの風で流されたんだ」
「うわ、痛そー……今も気を抜いたら浮くってこと?」
「そう。今までは集中したら浮いていたが、今は逆になった。気合を入れないと浮く」
「今は別に浮いてないじゃん。気合入れてんの?」
 俺は作業服のポケットに詰め込んでいた大量の石を手に取り、あかりに見せた。
「重りで抑えてる」
 潜水艦のバラストみたいなものだ。だが水面に出れば上昇が打ち止めになる潜水艦と違い、俺の浮力がこれ以上強まった場合は際限なく上空に漂っていきかねない。
 あかりは少し半笑いになったものの、ことの深刻さが流石にわかったのかすぐに真顔に戻って、言った。
「……あたしさ。実は洋画のスーパーヒーローものとかを結構見るんだけど、変身して体が大きくなるタイプのキャラクターを見るといつも思うことがあんのよ」
「なんだ、いきなり」
「大きくなるのはまあわかるとして、体重まで増えるのはおかしくない? って。むしろ大きくなった分、中身はスッカスカになるんじゃない? 等価交換の法則っていうんだっけ、こういうの」
 それを言うなら質量保存の法則、な。言っていることはまあわからないでもないが、デカくなったヒーローが着地するたびにポヨンポヨンとバウンドしていたらサマにならんだろう。
 ……何の話かと思ったが、言いたいことがわかった気がする。
「……風船、か?」
「うん。今のおっさん、空気より軽いんじゃない? ひょっとして」
 風船おじさんか。俺は。存在の耐えられない軽さ。そんな小説か映画の名前をどこかで聞いた気がする。
 子供の頃に、祭りでもらったヘリウム入りの風船を家で「飼おう」としたことがある。ヘリウムを少しずつ抜いて、手を離した位置に留まるようにしてみようと思ったのだ。
 実際、その目論見はある程度成功した。ほとんど上がりも下がりもしない風船は、どこか生物のようにも見えた。俺はそいつが気に入って外に散歩に連れ出したが、そいつは風に吹かれて激しい水平移動を始め、遠くへ消えていった。
 俺もいつか風に飛ばされて、上だか横だかどこかに消えていってしまうのだろうか。
「もう、うちらだけで内緒でなんとかするなんて、無理なんじゃないかな……」
 あかりが途方に暮れたような顔で俺を見て、そう言った。
「うるせえ。こんなことで俺の人生を諦めてたまるか」
 とりあえず今日は仕事帰りにホームセンターで鉛を買うぞ。バラスト追加だ、こんちくしょう。
「どうしたんスか。二人してそんな浮かない顔して」
 ふと横を見ると、定食を乗せたお盆を持った尾長がこっちに歩いてきた。尾長は俺より十歳以上も若い、元高校球児だ。この工場の派遣作業員の中ではたぶん珍しい、大卒の優秀な男だが、若さを活かしてなのかいわゆる「後輩キャラ」として皆に受け入れられている。
「まあ、浮かない顔というか、浮いた話をしていたんだけどね」
 あかりがうっかり軽口を滑らせそうになったので、シッ! と威嚇して制止する。
「え、浮いた話って……。ああ、最近、お二人さん、仲が良さそうですもんね。そういうことっスか。それは良かった」
 尾長は勝手に納得してウンウンとうなずいている。何がそういうことなのかは知らんが、話を逸らせたなら好都合だ。そのまま放置することにした。
「俺、先に上がるわ」

  ・

 午後の研修は実技だった。何トンもある半導体製造装置を設置するために、所定の場所にジャッキを複数個仕掛け、全員で一斉に持ち上げる。
 いつ浮かんでしまうかわからないこの現状では、重いジャッキを使った作業はかえって気が休まった。
 装置は馬鹿でかいので、配置に着くとお互いの顔は見えない。リーダーになった人の掛け声を頼りにジャッキを上げていく。結構神経を使う作業だ。
「それじゃ、3回ジャッキアップします。せーの! いーち! にー! さーん!」
 集中して作業をしていると、隣の隅で同じ作業をしているあかりが俺を見てギョッとした顔をし、口パクで何かを叫んでいる。なんだよ、今忙しいんだ、こっちは。
『……お・っ・さ・ん! 浮・い・て・る!』
 あかりの口元をよく見て、そう言っていることがわかったときには、視界が傾いていた。俺はジャッキの持ち手を支点に、しゃがんだ姿勢のまま全身を90度ほど傾けて浮いていた。仕事以外に気が回らなくなっていて、油断していた。あわてて気合いを入れ直して体を制御する。
 変な姿勢で落下した俺は、膝をしたたかに打った。

  ・

「ヒザの打撲?」
「ええ、すみません。宙に浮いていたら、落ちて足を挫きまして」
 ……などと上司に言えるわけもない。あかりと口裏を合わせて装置の角に膝を強打したということにしたが、労災申請の関係でかなり根掘り葉掘り状況を聞かれ、冷や汗をかいた。
 まだ研修中だと言うのに、怪我。上司は、あからさまにではないが、迷惑そうな顔をしているように見えた。
 報告が終わって、松葉杖をつきながら部屋から出ると、あかりがいた。
「大丈夫だった?」
「……これでもしクビになったら、お前のせいだからな」
「えー? なんであたし」
「お前が能力を鍛えようなんて言うから、こんなことに」
「なにそれ。あたしのせい? おっさんに相談されたからなんとかしようと思ったのに。人にできないことができるってすごいことじゃん」
「俺はそんな浮ついた人生なんて望んでないんだよ。頼むから俺に普通の生活を過ごさせてくれよ。なんなんだよ、この状況は」
 後半はあかりに向けて言ったというよりただの嘆きだったが、あかりは冷めた目で俺を見ている。
「……ちっさ。人間が小さすぎていっそ笑えるわ。そっか、うん。一生そうやって小さく生きてれば?」
 そう言ってあかりは振り向き、廊下の向こうに歩いていってしまった。
 松葉杖の重量のおかげか、それとも重苦しい気持ちのせいなのか、この日はその後、終業時間まではなんとか浮かずに済んだ。

  ・

 終業後、帰宅しようと工場の玄関を出ると、入り口に何やら人だかりができている。
 全員、上を見上げていた。屋上の縁に誰かがいる。あれは……尾長?
「おいおい、マジか」
「飛び降りようとしているらしいぞ」
 野次馬の言葉から状況を察する。昼に会ったときはあんなに元気そうだったのに、なんだ、いきなり。
 屋上からも、わずかに声が聞こえる。上にも人が集まって、説得しているようだ。俺はすぐに踵を返し、工場内に戻った。松葉杖での移動がもどかしい。
 エレベーターに乗って屋上へのボタンを押した時、あかりから着信があった。
「おっさん! 尾長が!」
 どうやらあかりも今、玄関先の騒ぎを見たらしい。
「知ってる。今屋上に向かってる」
「どうする気?」
「どうするって、説得するしかないだろ」
「おっさん、いざとなったらさ……!」
「悪ぃ、もう着くからあとでな。松葉杖だから両手が塞がってる。移動しながら携帯は使えねえ」
 屋上に着くと、柵の向こうに尾長がいた。今にも飛び降りそうで、周囲に集まった人たちもうかつに近づけないようだ。
「尾長! どうしたんだ、おまえ」
「自分……今日の仕事で……ミスしちゃって……損害が何千万にもなる……って……」
 尾長がグズグズと泣きじゃくりながら、そう言った。
 成績優秀な尾長は、俺たちより一足先に研修を終わらせて、クリーンルーム内で実務に入っていた。今日帰る前に読んだ社内メールで「仕損じが発生した」と回ってきたけれども、あれは尾長だったのか。しかしまあ、何でいちいちこんなにアホみたいに桁がでかいんだ。どう考えてもこんなもの、個人が背負いきれる責任じゃない。落ち込む気持ちはわかるが、それは別にお前が払うわけじゃないだろう。
「わざとやったわけじゃあるまいし、やっちまったもんは仕方ないだろう」
「でも……みんなに迷惑……かけちゃって」
「一人ではフォローしきれないミスをみんなで背負う。会社はこういう時のためにあるんじゃないのか?」
 そう言って周囲にいる正社員らしきおっさんたちの顔を見たが、緊張状態のためかみんな険しい表情をしている。お前ら、ちょっとは奴のプレッシャーを和らげる手伝いをしてくれ。
「考えすぎなんだよ。もうちょっとぬけぬけと生きりゃいいんだ」
 ……尾長を思いとどまらせるつもりで話しているのに自分の身につまされるのは、何故なんだか。
 今はそれどころではない。とにかく、なんとかあいつを柵の向こう側からこっちに戻さなくては。俺は尾長にじりじりと近寄っていった。もう少し、ダッシュで駆け寄れば手を掴めそうな距離まで来たが、尾長もそれを察したらしい。
「やっぱりボク、駄目です! 無理っス! ごめんなさい!」
 そう叫んだ尾長は、勢いよく屋外へ身を投げだした。
「! 馬鹿野郎っ!」
 半分無意識に目をつぶり、集中力を全開にする。目を開けると、屋上から尾長は消えていた。
 恐る恐る屋上の縁に近寄る。下を覗くと、思いのほか至近距離にいる尾長と目があった。
「……?」
「……よう」
 1メートルほど落ちたところで停止した尾長は、面白いほど困惑している。ぶっつけ本番だったが、どうやらなんとか成功したらしい。自分以外への浮力操作。
「すごいな尾長。飛べるのかおまえ」
「なんですか、これ」
「俺が知るかよ。本音ではお前は死にたくない、ってことじゃないか?」
 知っているが、知らないふりをする。
「そんなことないっス!」
「まあ、もういいだろ。上がれよ」
 俺は屋上の縁に寝そべって手を伸ばした。
「駄目っスっ……死んでっ……お詫びをっ……しないとっ」
 そう言いながら、尾長は腕は背泳ぎ、足はバタフライで空中を少しずつ掻いて遠ざかりだす。こいつ、流石は成績優秀。もう移動のコツを掴みやがった。
 いい加減諦めろ、と言いたい。浮力を上げて無理やり上昇させるか、とも思ったが、建屋から離れられるととっ捕まえるのも大変そうだ。
 その時、ふと気づいた。よく見ると尾長の高度がさっきよりも下がっている。
 ……元高校球児で身長もデカい尾長は、俺より体重が重いはずだ。もしかしてその分だけ、浮力が重力に負けて落ちている?
 携帯であかりに電話して、状況を説明する。
「無理やり助けるより、ゆっくり落ちて行くのを待ったほうが早いかもね……おっさん、集中力、持ちそう?」
「気軽に言ってくれるぜ」
 尾長はその後、3階建ての工場の屋上からたっぷり三十分以上かけて落ちていった。
 下は黒山の人だかり。救急車やパトカー、消防車まで集まってきて大騒ぎだ。
 消防車がはしごを伸ばして地面にたどり着く前に尾長を確保し、保護した。これでようやく俺も集中を解除できる。
 消防団員に連れられて地面にたどり着いた尾長に、あかりが声を掛けた。
「あー、おつかれ」
「……はあ」
 なんだか毒気を抜かれたような顔をした尾長がポツリとそう言った瞬間、警察やら社員やらマスコミやらが殺到した。
 あっという間に人混みにまぎれ、姿が見えなくなった尾長を目で追うことを諦めたあかりが、屋上を見上げた。俺と目があうと、あかりはニカっと笑い、何かを口パクで言った。
 遠すぎて口元はわからなかったが、何を言ったのかなんとなく想像がつく。
『やるじゃん、ウケるマン』
『やめろその名前』
 俺もあかりに向かって口パクでそう返し、はっ! と笑った。

 エピローグ

 尾長はその後、さんざんメディアに出た。何しろみんながスマホで写真や映像を録りまくっていたのだ。証拠映像だけはたっぷりある。
 だがテレビに出た尾長は、当然ながらあの時と同じように浮遊することは二度とできず、そのうちにメディアから忘れ去られた。
 もともと仕事の成績が悪かったわけではないので、尾長は簡単なカウンセリングのあとで問題なく復職した。なまじ目立ってしまったので、会社もクビにはできなかったのだろう。一回きりとはいえ「空を飛ぶ」という奇跡を起こしたことはあいつの中で何らかの自信をもたらしたようで、今は以前の明るさを取り戻している。
「まああれは、正確には飛んだんじゃなくて浮いたんだがな」
「本人が飛んだって思えば飛んでるんだと思うよ」
 夕暮れ。今日も仕事が終わり、駐車場に向かいながら、あかりと話す。
 俺はあの騒動以来、最低限の浮力の制御ができるようになった。自分以外のものに浮力の対象を変えられるなら、難しいことはない。ものすごく重いものや、地面に完全に固定されているものを動かす方向に対象を切り替えれば、自分への浮力は即座にカットされる。今後はよほど油断しない限り、俺自身が致命的に浮いてしまうことはないだろう。問題点としては、寝る時の無意識の浮遊ぐらいか。いちいちベッドにアンカーを付けるのが面倒くさい。
 今となっては浮ける能力というよりは、念力と呼ぶべきかもしれない。たとえ荷物を念力で浮かせられるようになったといっても、この職場には十五キロ以上の物は二人で運ぶという安全上のルールがある。
 超能力でこっそり一人で運びました、なんてことが出来たとしても、完全にルール化されているこの職場の秩序を乱すだけであって、むしろ迷惑なのだ。
「超能力ってのも案外不便なんだね」
 あかりが言う。
「実際、倒したい悪の組織とかが別にあるわけでもないしな」
「あはは。例えばあたしがさあ……ナントカ波!」
 俺の後ろを付いてきながら話していたあかりから、突然ドカン! とものすごい衝撃音がして、俺は思わず振り返った。
「……えーと……?」
「なんだよ! 今のは」
「『ナントカ波!』……とか撃てても倒したい相手も別にいないしね、って言おうとしたんだけど……ごめん。なんか知らんけど撃てちゃった」
 ……開いた口が塞がらない。俺は車のドアに空いた大穴を見て、これは絶対に自動車損害保険の適用外だろうな、と頭が痛くなった。

  おわり