「虫を殺す」小竹田夏

 健の高校の野球部では、先輩の命令は絶対だった。台風が直撃しても号令がかかればグラウンドに集まり、練習で疲れきって地面にへたりこんでも、百本ノックが始まれば這ってでも捕球した。弁当や飲み物も顎の指示一つで買いに行った。逆らえば、レギュラーの座が危うくなるだけでなく、平手が飛んできた。逃げればさらに悪いことになる。
 健と和彦の場合、その関係は高校を卒業してからも続いた。先輩の和彦は、職を転々とする健に何度か仕事の世話をした。健が訪問販売の宝石商を始めた時、和彦は実物も見ずに宝石を言い値で買い上げた。貿易会社の社長という和彦の裏の顔は怪しげだったが、健は和彦から頼まれればただ黙って応じ、タクシー代わりも務めた。
 気だるいほど蒸し暑かったあの日、健はなじみのスナックに呼び出された。和彦は若い男を肩で支えて後部座席に乗り込み、港に近い雑居ビルに行くよう指示した。若い男はぐったりして泥酔しているように見えた。
「上の事務所に運んでくれ」
 ビルの前に着いて、健が若い男を引っ張り出そうと後部座席に回ると、男の鼻から一筋の血が垂れた。男の派手なスーツは引きずられたように汚れ、呼吸は浅かった。
「生きてるよ」
 こういうのを虫の息と言うのだろう。男を担いで階段を上る健の額に汗が浮かんだ。血の匂いを嗅ぎつけた虫が、男に寄ってきた。
 二階の狭い事務所は机とソファが置いてあるだけで、まともに仕事をする場所には見えなかった。野球のバットが一本置いてある。健は男をソファに寝かせた。
「こいつには裏切られたからな」
 和彦は男を見ながら、続けて舌打ちをした。健の全身に今までとは違う嫌な汗が流れた。和彦が続けて舌打ちをした後は、無事ではすまない。虫の居所が悪いサインなのだ。
「殺しはしねえよ」
 まあ、死んだ方が楽だろうけどな、和彦の顔はそう言っていた。男の鼻に一匹の小さな虫が止まり、和彦はその虫を見ながらバットを手にした。バットが一度、二度と空を切る。
「もういいぞ。ご苦労さん」
 健は震える足で階段を駆け下り、車に飛び乗ってアクセルをベタ踏みした。男がその後どうなったのか知らない。健はその夜から和彦との連絡を断った。

 健はそれからも職を転々とし、四十歳を前にスナックの雇われマスターになってようやく腰を落ち着けた。そのスナックに和彦が突然やってきた。十五年ぶりだった。健は和彦の顔を見て、思わずグラスを落とした。幸い、和彦の方は上機嫌で昔話を始めた。和彦は京子ママの噂を聞いてスナックにやってきたと言い、以来、もう数年通い詰めている。
 健にとって京子の容姿は人並みで、むしろ顎や首の横ジワが目についてしまうのだが、京子は客から絶大な人気を誇っている。年々妖艶になると客たちは言う。スナックの売り上げは相当なもので、京子はハンドバッグに帯付きの札束を常備し、肌と肌が触れ合う狭い店で、毎晩違う高価な指輪を客に披露する。
 和彦はここ一ヶ月、スナックに顔を出していなかった。長年の勘なのか、京子は事情通の客に探りを入れ、和彦の会社が色々まずい状況であることを聞き出した。スナックへのツケは無視できない金額に膨らんでいる。京子は早めに店じまいして、健の運転で和彦のマンションに急行した。
 京子の指示により、健は一人で取り立てに行った。健はあえて階段を使い、一段一段、頭の中で台詞を吟味した。額に汗がにじむ暑い夜だった。なるべく穏便に済ませたい。虫の息の男のようになるのはごめんだ。
 ブザーを押すとドアが薄く開き、隙間から和彦が顔を出した。頬がこけ無精髭が生えていた。
「引っ越すことになってな」
 部屋の中はキッチンの明かりだけがつき、リビングの照明は取り外されていた。広いリビングに家財はなかった。床に数個の段ボール箱と、野球バットが一本転がっている。
「なんか飲むか?」
「いえ、京子ママが待ってますから」
 リビングの窓のカーテンが揺れ、ぬるい風が入る。健がツケの金額を告げると、和彦は豪快に笑った。場外ホームランを思わせた。
「金を下ろすヒマがなくてな。近いうちに持って行く」
「いえ、今日中に」
 和彦は舌打ちをし、健は息を飲んだ。和彦はくるりと背を向けて寝室に向かい、平たい木箱を手に戻った。
「これでどうだ?」
 箱の中には宝石の付いた指輪がずらりと並んでいる。
「おまえから買ったのもあると思う」
 健は息がうまく吸えなかった。口の中がからからに乾き、ハンカチで拭っても拭っても汗が出る。
「じっくり見ても、いいですか?」
「ごゆっくり」と和彦は寝室へ再び消えた。
 健はキッチンテーブルに宝石箱を広げた。息を詰め、爆弾を解体するように慎重な手つきで、指輪を一つ一つ電灯にかざす。二十四個の宝石の大半は、二束三文の品だった。半分は傷物で、半分は偽物。偽物のうち五個は、健が懇意にしていた職人に依頼して作らせたものだ。健は宝石商をしていた時、一度だけ和彦に偽物を売りつけた。連絡を断つ一週間前のことだ。偽物五個の材料費は、全部足しても紙幣一枚に満たない。それでも職人の確かな腕で、容易に見破れないイミテーションに仕上がっていた。
 健の目に止まった宝石は二つ。箱の中で一番小さい宝石と、一番大きな宝石だった。小さい宝石は直径五ミリの桜色。間違いなく上質のピンクダイヤモンドだ。一方、大きな宝石は曲者だった。直径二センチで、紫がかった深い青色をしている。タンザナイト。流通量が少なく、健は数回しか見たことがない。これだけ屑ものが集まっている中で、本物と言い切る自信はなかった。スマートフォンで最新の宝石相場を調べる。ピンクダイヤならツケの半分、タンザナイトなら二倍以上で換金できる。
「どうだ? 値が張ったものばかりだ」
 和彦が寝室から出てきて声をかけた。
「どれか一つで足りるだろ。好きなのを選んでくれ」
 和彦は床のバットを拾い上げ、リビングで素振りを始めた。和彦の表情は暗くて見えない。バットが空を切る、ひゅっひゅっという音が、健の耳の奥で羽音のように響く。足が震え始めた。ここからすぐに去るべきだ。健の全身が警告を発する。急げ、急げ。脳が猛烈に回転する。ピンクダイヤで不足分を自腹か、一か八かタンザナイトか。正解はどっちだ?
「これで」
 健はピンクダイヤモンドの指輪をつまみ上げた。和彦は素振りを止めて、健にゆっくり近づいた。
「それでいいのか?」
 風がカーテンを揺らす。
「はい」
「一個でいいのか?」
「……はい」
 和彦は上目遣いで健を見た。和彦の顔にはシワが増えたが、目つきの禍々しさは変わっていない。
「なんなら、ここにあるやつ全部まとめて五百万でどうだ」
 和彦の顔は怒っているようにも、笑っているようにも見えた。
「昔のツテでうまいこと捌けるよな? どうだ?」
 健が言葉に詰まると、和彦は再びリビングで素振りを始めた。闇の中で振り回されるバットは、柳の枝のようにしなやかだった。バットの先が伸びて、健の顔面を真っ赤に染めることは造作もない。健の体も思考も石のごとく固まった。窓から一匹の小さな虫が入り込み、健の顔に止まる。
「おい、虫だ、虫」
 和彦がバットの先端を健に向ける。健はその先端の丸みから目を離すことができなかった。風が止んだ。スマートフォンが鳴った。
「あんた、いつまでやってんのよ」
 京子のわめく声が、健の頭蓋骨に響く。
「そっちに行くから」
 ブツリと電話が切れた。健は手にしていたピンクダイヤモンドを箱に戻した。ひゅっ、ひゅっ。和彦はまた素振りを始めた。
 京子はまっすぐ背筋を伸ばして、部屋に入ってきた。がらんとした部屋に、京子の派手な和服は不釣り合いだった。京子が鼻にかかった声で和彦に挨拶をすると、場の雰囲気は京子の色に染まった。和彦は舌で唇を舐め、頬の筋肉を緩めた。
「そうだママ。この宝石を買わないか。安くするよ」
 京子は宝石箱を一瞥した。
「拝見させてもらいますよ」
 京子は立ったまま箱を持ち上げ、角度を変えて眺めた。すべての宝石に目を通すのに、一分もかからなかった。
「タバコ吸ってもいいかしら?」
「俺にも一本もらえるかい?」
「メンソールだけど?」
「かまわない」
 京子は先に和彦の煙草に火をつけた。
「五十万でどうかしら?」
 和彦は煙を細長く吐き出して、舌打ちをした。
「安すぎる。最低、二百だ」
 京子は睨むように和彦を見て、タバコをもみ消した。
「それなら、この話はなしね」
 和彦は怒りに顔をゆがめ、舌打ちをした。一回、二回。
「このアマ、つけ上がりやがって」
 和彦は京子に向かって、バットを振り上げた。脅しではない本気の目だ。虫の息の男を運ぶ記憶がスローモーションで健の頭の中を流れる。健は夢中で和彦の腕を押さえた。
「和彦さん、この宝石は偽物だらけです」
 和彦はバットを振り上げたまま、目だけを健に向けた。そして健の手を振りほどき、バットを床に投げた。
「おい、健、本当なのか?」
 和彦の声は震えていた。
「ハイっ」
 健は野球部員らしい大声で返事をして、直立した。
「てめえ、よくも」
 和彦は大きく振りかぶって健の頬を張った。健は避けなかった。和彦も老いたものだ。昔の和彦なら、平手打ち一発で相手は膝をついた。もう一発、今度は和彦の拳が飛んだ。
「わかった、餞別よ」
 京子はハンドバッグから札束を取り出し、キッチンテーブルの上に二束投げた。

 車の窓から入る風が、京子の髪と頬を揺らす。
「店に戻ったら、氷で冷やしてあげる」
 京子の右手が、赤く腫れ上がった健の左頬を撫でる。頬は熱を帯び、その熱が全身に回って健の体は火照っていた。
「あんた、宝石が見れるの?」
「あれ、ハッタリです」
 宝石商の過去は京子に言うつもりはなかった。京子はふうんと頷くと、店では見せない乙女のような笑みをした。
「一個だけすごい掘り出しものがあったのよ」
 健はハンドルを切りながら、相槌を打った。遠くの青信号が、タンザナイトの青紫と重なる。京子は箱の中から大きな宝石のついた指輪を取り出し、健の目の前につき出した。
「これがそう。四百万は軽くいくわ」
 健は横目で宝石を見た。返答に困った。
「なんか言ってよ。ほんと男ってつまらない」
 赤信号で車を止める。京子はその指輪を右手にはめ、宙にかざした。その手の甲に蚊が止まり、京子は躊躇なく左手で叩き潰した。蚊の黒と血の赤の混じった小さな点。
「このピジョンブラッド以外はあんたにあげる」
 京子のコレクションに、馬鹿でかい真っ赤な偽物が一つ加わる。ピジョンブラッドは健が職人に作らせたものだ。
 信号が変わり、車が再び動き出す。タンザナイトが本物だったら、景気よくタンザニアにでも行こうか。海抜千メートルのアフリカの国。昔、客相手にそんな講釈を垂れたことがある。火照りを冷ますにはちょうどいい土地だ。うるさい虫がいないといいが。