「窓」土方潤一

《おことわり》
 本作「窓」は「NW-SF」7号(1973年)に発表された作品の採録です。著者の土方潤一氏(1956~2012年)は、もともと「SF Prologue Wave」にJ・G・バラードのインタビューを提供してくださった国領昭彦氏(https://prologuewave.club/archives/9143)の友人で、山野浩一氏の主宰する「NW-SFワークショップ」出身作家として同誌に2回、作品が掲載されました。本作は2作目で、ご遺族の許可を得て採録いたします。山野浩一氏が激賞したというスリリングなSpeculative Fictionをご堪能いただけましたら幸いです。採録にあたっての本文の文字起こしは川嶋侑希氏が担当し、改行処理の仕方は初出誌のそれを踏襲しています。ちなみに土方潤一氏には、名字の「土」の右肩に「、」をつけた表記もあります。詩人としての顔もある土方潤一氏について詳しく知りたい方は、アトリエサード社刊「TH(トーキングヘッズ叢書)」No.88および89(2021年)に掲載された拙稿「山野浩一とその時代」(17・18)をご参照ください(後者では、初出誌に添えられていた土方氏の自筆イラストも紹介しています)。採録にあたりご尽力いただいた、国領(國領)昭彦氏、北村剛氏に感謝します。(岡和田晃)

 冷たい風が窓の破れ目から吹きこんで、また波の音がひとつ。彼の部屋の錆びついた窓枠に潮がこびりついて青白く輝いている。毛がぬけてがさがさになった絨毬に足の裏をすりつけながら彼は窓のそばでそれを眺めている。手にした煙草は何時の坂道で吸った紫煙なのだろうか。黄色い伸びた爪でそれをもみしだきながら彼は向こうの突堤の明りのついたマンションをみつめている。部屋の中には、さめたコーヒーの入ったどす黒いカップと波の音。それだけ。古ぼけてしみの拡がった壁紙に彼がつけた五本の爪跡がこの部屋に境界面をつくっている。びっこの椅子と煙草の灰が層化した丸いテエブル。それら全ての関係の中に彼の吐き出す白い煙がおおいかぶさっていく。彼はただマンションの明りがひとつひとつ消えていくのをみつめている。その行為に意思をもたせようと彼は望遠鏡を手にした事もあった。だがそれは、青い岩肌に喰いついていた波の白い牙にさらわれて、今はただ沖の方で様々なスペクトルをまき散らしている。彼は窓硝子に体をもたせかけて外をみつめている。波の音がその表面をなでていく時、彼は一羽の蝙蝠が洞窟の中を横切ったように感じる。さめかけた彼の体温を、その羽撃きで甦らせる蛾すらもいない部屋の中に細いピアノ線のような音波をなげかけて。彼は窓によりかかって外を眺めている。夜。暗く、星もなく、冷たい風が何処からか縊死の断末魔を運んでくる。彼がスタジオのカメラマンとして働いていたころ、窓のない、白い壁の中で幾度もひび割れを探した。部屋のあかりを消し、壁に手をあててそろそろと手探りで壁を伝わっていく。どんなに目を開いても光は目の奥にまでとどいてはくれない。指先に集中した神経が、壁の微妙な凹凸を愛撫し、その亀裂を発見したあと、彼の指がそれを伝わり、ついに彼自身が壁中に拡がると探索は終わりをつげる。腹の中に閉じこめられた胎児のように身体をまるめて彼は床を転がりスイッチをさがす。その行為の中には確かに意思があった。今、意思はなく、同じ暗闇だけが部屋の中を支配する。彼の吐く冷たい息が窓に吹きかかり、失われた光はそこからしみでていく。
そうして終わりのない流転の音が、毎日毎日、彼をひからびさせていく。日常。それを小さな鞄につめこんで安易に日々をかけめぐり、鳥のように羽をやすめては次々と違う世界へと羽撃いていた彼ではなかったのか。煙を指ではじくと彼はドアに向かって突進する。血のようにコーヒーが床を走りテエブルの上の灰は肉片となって部屋中に飛散した。彼は、やっと探りあてた銀色の冷たい感触を全身の力をこめて愛撫する。扉は開かなかった。
彼が把手を握ったまま床にくずれたあと、風が惜しげもなく床から吹き上がり、彼の首筋を次々と逆なでていった。長い凝結の瞬間に、日常という言葉を置き去りにし、日々の苦痛を直接感じとっていた彼の皮膚にまでそれは侵略を開始し、白蠟のような彼の肉体からぬくもりを奪い去っていく。彼が逃れ出ようとしたことが罪だとでもいうように。
混濁した意識の中で彼は言葉を忘れかけていた。その声帯の退化する様は海面のスクリーンに投影されている。何機もの爆撃機がその上を飛翔し、声帯をついばむかもめたちを追い払っていった。海底の朽ちはてた船の残骸の中で、たくさんの藻にからみつかれた大砲が背後から彼の甲状腺をねらっている。果てしない暗闇を待ちうけながら。
彼がここへやってきたのは彼の意思によるものではない。或る日、彼がいつものように白い壁のひび割れを探していた時、彼女が現われた。彼にとっては無縁の、赤い煌めくライトの中で腐った魚の臭気を強い香水でごまかした生活につかりこんだ彼女。その時の音は全て坂道を走り去る赤いスポオツカアに乗って遠くへ行ってしまった。少なくとも彼の手の届かぬ処へ。その女の名Rが彼の肩の上に烙印をつけた時、彼はさめたコーヒーを人指し指ですくって痛みをこらえるしかなかった。出会いの場所すらも思い出せぬ彼女を、ただ写真の中に塗り込めただけでこのような懲罰を受けるのを不可解に思いながら。やがて、彼女が投げかけていたけばけばしい光が揺れて、Rはコオトをひらめかせている。二人の相対時間はフィルムの中の動きのように寸断され、生命の時と同じ不統一さをもって彼の肉体を被いつくし彼女の腕を赤く輝かせた。一点の存在が彼の中から失せていったあと、激しい雨の音と短く分割されたナレーションが彼に残った。ゆるやかなエンジンのスターターの音を聞き、見開いた瞳孔を次々と訪れる数限りない街燈の群れをかいくぐって彼はここへ連れてこられた。全ての意味が横揺れし、波のしぶきが彼岸の悲鳴を運んでくるここへ。
彼の失われた記憶と意思は、もう取り戻すすべもない。把手を握ったまま、蛇のように体をくねらせ、排泄だけを続けるのみ。失われた幼児の記憶は空間を彷徨い、多くの妊婦たちと口づけを交した。十字架にかけられたキリストがやさしく血を流したように、彼はただ一つ残された安息、死への道を疾駆していた。

 二人はじっとゆりかごの中の彼女をみつめていた。どうしても殺さなくてはならない。さっき警笛の中で二人が呟いた言葉が部屋の中に充満していた。尽きることのない欲望に満ちた二人の時を鮮かに切り裂いて彼女、″窓″は静かに寝息をたてている。みつめる。みつめること。みつめることの恐怖。二人の背後に黒い視線がからみあい、向こうの突堤の古ぼけた洋館の崩れる音が部屋の中に響きわたる。ちょうど、この部屋が、あの館の一室と共鳴したかのように、部屋は揺れ動くことをやめはしない。誰かの悲鳴が、幼い子供の小さく膨らんだ手に握りしめられている。
「殺すの」舌がざらついている事にも気づかず、女は男にたずねる。カンテラのように男はゆらゆらと揺れるだけ。さっき、道の向こうにはじいた煙草のぬくもりが、人指し指に残っている。絵画のなかに塗りこめられた、今、彼らの影。雑踏、デパアト、劇場、二人の出会いの瞬間が、今は彼らに不可思議な魔力を与えている。生きていることを無意味にしてしまった様々の因果が二人の窓を閉じて、もう息をすることすら空々しい。男がもらす冷たい囁き声は誰の耳にもとどかない。女はみつめることの恐怖を味わいながら窓の外の海をみつめている。ここまでの長い道のりを思い出しながら。
 けばけばしいステッカアを貼りつけた赤いスポオツカアのラジエターはまだ充分ぬくもりを保っていた。海から吹いてくる強く冷たい風をコオトの中に滑りこませながら、Rは暫くそこにたたずんでいた。Rが遠い昔夢見ていた断崖の十字架を見つけ出そうとしていたのだ。昼間、かもめが飛び去った方向へ視線を走らせながら、彼女は自らの肉体が重力によってねじ曲げられ、変形させられていることに気づく。ポケットから引っぱり出したRの白い指先は、小刻みに慄えて、ある予感を示している。殺意に満ちた共鳴箱にとりつけられた音叉のように。そして今、閉じこめられた彼、魔術師の呻き声と共鳴する小さな肉体の声。彼の記憶を身にまとい、まだ知らぬ「言葉」という魔法にかけられて、幼児の声帯は大人のように振動する。まだ間にあうかも知れない。Rが一気に階段をかけ登って後には、錆びついたナイフと、疲労困憊したなめくじの銀の糸。
「あなたたちの″窓″をもらいにきたわ」
しなやかな指先がはりつめた空間をつき破って蝶のように閃く。息の音以外は何ものも反射することがないマンションの厚い壁によりかかった男は顔をふせたまま。誰の視線もからみあうことはない。″窓″の首に手をかけていた女は、空ろに窓の外をみつめているだけ。
「渡さないわ」
指先に小さく力をこめて、女はいらえた。
「渡さないわ」
男はそれが絶叫にかわるのをじっと耐えている。
今までのように生きていればよかった。彼女との短い同棲の時代。二人は何気なく言葉をかわし、たくさんの人々の中からお互いの相手をすぐにみつけだすことができた時。誰も二人を気にはとめず、デパアトの屋上にいても、道で抱きあっていても、彼らには誰も言葉をかけはしなかった。二人がつくりあげたささやかな影が、やがて大きくふくらんで、異物が誕生した時、彼らの関係はすでに終りをつげていた。やっと二人が殺意を分かちあった時、その時はもうすでに遅く、二人はRの冷たい視線の洗礼を受けなければならなかった。
「″窓″をもらうわ」
外では海が荒れはじめ、そろそろ朝日が待ち伏せをする頃。薄明の中で、巨大な蜘蛛が巣を作っている。共鳴音がとだえた部屋の中では、名前をなくした男と女が、今迄暗闇のせいで気がつかなかった虚無のひび割れをみつめている。波がまた一つ、はじけると去っていく車の爆音はかき消され、後に残るものは何もない。みつめることの恐怖。

 昨晩、あげた祈りの言葉がまだ耳に残っているうちに目が覚めてしまった。つけっ放しのラジオから殺人事件のニュースが二つほど流れる。六時の時報を聞くまでに朝飯をすますと、外にはもう車が走りはじめている。今まできこえていた雀の声もかき消され、新しい排気を人々は身にまとう。今日は彼女と海へ行く日だった。カメラの手入れをすましてから彼は部屋を出る。出がけに読んだ大きな活字が胃に重たい。道の隅で野良犬のように立っていると、彼女の車がやってくる。赤い炎のようなそれに乗りこんで、彼は肩で息をする。
「何処へ」
「Z海岸の突堤にある洋館へ」
その洋館は彼も知っていた。潮に吹かれて、ところどころが崩れおち、石のかどはどれも丸くてすべすべしているその館は、幽霊の城とよばれていた。海の上にいつも影をのばし、冷たい風がそのまわりを吹かない日はなかった。カメラを強く握って、Rの香水の匂いをかいだまま、彼は少し眠った。
館につくと彼女が写真はいいと言う。彼は、ぼんやりとその言葉を聞き流してまた少し眠った。Rは一人外に出て海をみつめていたようだった。
何かが固い岩をゆり動かそうとしていた。彼が止めろと叫んでもそれはまったく答えなかった。それら全ての行為の中には意思という罪悪が満ちていた。近づこうとして走るのだが、距離はいっこうに縮まらない。変に思って下を見ると、彼はぐにゃぐにゃの肉のかたまりの上に立っていた。
目が覚めるとRが、彼の肩をゆすっていた。つかまれた肩から自分の精気が吸いとられて行くような気がして、あわててその手をふりはらった。
「来るのよ」
息を秘めてRは囁いた。だるい体を外にひきずり出すと、もう日は高かった。潮の匂いが鼻腔を刺激して、少し目が冴えた。Rは、洋館の巨大な扉に手をかけてこちらをみている。
「来るのよ」
向こうの方に白いマンションがそびえ、その上を今、かもめたちが飛んで行く。
 腐りかけた階段を彼女を追って登っていくと、ぎしぎしという音が館全体に共鳴していった。彼はポケットに手を突っこんで煙草を取り出した。マッチを擦る音が小さくこだますると、赤い小さな炎の影が、そこいら中のほこりをまきあげた。はき出した煙の中に昨日までの疲れをつきまぜて、彼は階段を登り続けた。
Rが扉の前に立っていた。金色に輝く鍵を取り出し、ゆっくりと鍵をはずしている。できるだけ演技をして、造られた微笑を浮かべながら。彼は思わずシャッターを切った。廊下の奥からさしこんだ太陽の欠片が、フィルムに固定されたのを確認すると、彼女は扉をあけはなった。勝ち誇り、強い香水の匂いをまき散らしながら。
一匹の蛾が、ふらふらと扉のすきまをぬけて行った。

 彼、魔術師はまだ生きてはいたが、すぐさま病院へ収容しなければならなかった。Rはその日を境に肥えはじめ、満足しきった猫のようになった。彼女は、けばけばしい輝きを捨て、″窓″を育てながら、彼女自身についた香水の香りを徐々に薄れさせて行った。今や、彼女は世界に適応し、真に肥えはじめていた。″窓″は従順に従い、やがて、その目の奥にRと同じ輝きを秘めるまでにいたった。
Rは魔術師から手に入れた魔術を決して放しはしないだろう。彼女自身が創り出した安息の中で日々は膨張し、やがてRという名も、この世界から消え去っていく。

 男は魔術師の肩をゆすぶると、熱せられた白い壁の蛾をちらっと見やった。男の額にあふれた汗は、四方に飛びちって、魔術師の冷えた腿にもかかった。
男は能面の化粧を落とさずに机に向かって唾を吐いた。無数の側面を持つ壁の一つに寄りかかりながら。男はクレヨンを握りしめたままたずねた。
「烏を見たことがあるかい」
 魔術師が記憶を失って、ここへつれてこられた時、黒い巨大な烏がないていた。それは赤い風を巻きおこし、彼が死んでいることを確かめるかのように彼の体にこびりついた。昏い意識の底で誰かが焚火をして彼の意思を燃やしつくしていた。病室の天井を、薬の匂いと死の振動を身につけた黄色い天井をみつめた時。意識は区分され、彼の分裂した自我は、飛びかかるライオンを映し出していた。心の奥底にあった殺意がよびさまされ、彼の深い罪悪を咬み殺すために、ライオンは彼に飛びかかった。自分のものではない殺意を部屋中に満たしながら。
その時から、彼は恐れはじめた。窓硝子を通して侵入する太陽の光を。黒い複雑な何かの影が、天井をゆらめくのを。彼が忘れてしまった言葉という魔法が病室の圧力を高め、彼のほほが醜くねじられると白衣をつけた男がやってくる。臓物をきざみ、死体の瞳孔をもてあそんだ同じ指先が彼の皮膚を愛撫する。まるで彼の肉体のひび割れを探しだそうとするように。男の影が彼を下からみつめている。爆弾をつめこまれた白衣から解放されたそれは、優しく彼をおおい、彼の毛穴のすみずみまでを浄化していく。赤い唇が蠢いて、男の口から無数の針がとび出すと、彼は死体の蒼さを保ったまま、窓に向かって走る。そのつかれたびっこの足から、様々な糸を吐きだして。
 彼がこの窓のない部屋につれてこられてから九回、食事が運びこまれた。その間に、同室の男は、彼をすみずみまで点検し、男自身の分裂した自我の一つに彼をあてはめてしまった。男の問いはいつも烏のこと。時おり外で烏の鳴き声がすると、男は狂暴な右手をふり回し、壁に何度も頭を打ちつけた。こめかみの上から流れ出した血は左手の指紋のすきまにかくされ、壁にわずかなひび割れをつくった。二人の間にはただそれだけ。あとは、沈黙という安息が二人のベッドの間に横たわり、その寝息は誰の慄えでもない。
男は、壁によりかかったまま、空間の一点を凝視している。或いは全てをみつめているのかもしれないその眼は、自らの空洞の中に蝙蝠を飼っている。魔術師は椅子に座って机の傷をみつめている。それは文字のようにも、ふわふわした白い塊りのようにも見えた。彼がその中に引きこまれ、部屋の明るさが失われていくように感じられる時、決まって男はたずねる。
「烏を見たことがあるかい」
蛾がひとしきり室内の空気をかきまぜる。
男の呼吸が弱々しくそれを追いかけ、足を組んで壁によりかかっている。重い静けさが、外の世界を打ち消した。
うつぶせになって、あごに机の堅い表面を感じながら、魔術師は男の吐いた唾液をみつめた。泡立ったそれは、ニスの匂いの残る冷たい茶色の表面で、その泡の一つ一つを器用にはじけさせていく。彼の脳細胞が、一つ一つ針でこわされていくように。息がその上を通りすぎ、蒸し暑い羽撃きが部屋中に拡がっていく。机の地平から、小さな虫が一匹、彼に向かって進んでくる。机の傷にその身をうずめ、彼の明日をその背に背負いつつ。
蛾の羽音がとまる。こうしているうちにも、床ではたくさんの虫が這い回り、隊列をととのえようとしているのかも知れない。冷えた足の指先に力をこめて、手を頭の上に伸ばすとベッドの端の鉄パイプをつかむ。汗が掌と鉄の間で赤く濁り、じっとりと冷たい掌の感触。彼の様々な記憶のワンカットを重ね焼きした、日常という鞄とともに、どこか汚い川へ捨ててしまったと思っていた蒼白の亡霊が、背中の死肉を伝わってせめのぼってくる。額に汗をにじませながら、彼は叫ばなくてはならない、『見てはいない』と。
男は寝息をたてて眠っている。どんなに声をはりあげても、誰も答えてはくれない。
部屋の中の一切の色彩は埋葬され、やがて原子一つ一つに黒と白が塗り分けられる。彼が全ての色彩をその網膜から失った後、余りにも長い時と、余りにも長い沈黙が存在したそこには、もう誰もいない。鏡をぬけて蛾が舞いこんできても、咎めるものはなく、机の傷に入りこんだ鱗粉だけがその証拠として残る。虫たちが床の上をはいまわり、新しい時、新しい空間が生れるかも知れない。けれど、そこにはもう誰もたずねてきはしない。
夜の帳がおりたあと、粘土のように固くなった、硝煙の匂いのする二つの黒いシルエット。窓のない部屋は誰にもみつめられずに、やがて、その二つの記憶をも消し去ってしまう。白い喪服をまとった男が、新しい埋葬に参列する時まで、蒼ざめたかもめのように翼をたたんで。
 Rという名におもりをつけて、深い海の底に沈めたあと、彼女は一層、家庭的になった。″窓″は肉を吸収し、その太り切った肉体は、はやくも腐爛の準備をはじめていた。彼女たちの生活は、何事も起こらず鏡の中の蛾のように穏やかだった。憎しみを向ける相手もなく、二人は暖い息を吹きかけあって生きていた。魔術師から奪いとった魔法を鞄につめて、二人はよく旅をした。赤い海岸線や、山の緑の稜線を二人の心は綱渡りした。落ちることなど考えずに、虚無の空間を青く染めぬいて。

 何処からか、彼はやって来たのだ。知らない国の知らない太陽のもとで、彼は生活をしていたのだ。何処からか、船に乗って……
 毎夜毎夜情念をゆらめかせ、すすけたルソーの複製画を傾けていた赤い腹の船から下りて彼は小さなボオトに乗り込んだ。日暮れ時、水夫たちは無言で小型クレーンを操っている。彼の持ち物は、金具の錆びついた古ぼけた鞄が一つ。ぎりぎりと鎖のこすれあう音が甲板にひとしきりさざめくと、彼の眼の中に銀色の光。昼間、沖で船のエンジンが音をたてていた時、水夫たちが歓声をあげて吊り上げた、一匹の巨きなマグロのそれ。彼が吐気をおさえてデッキヘ上ってきた時には、水夫たちの凝視の中でひき裂かれた声帯のように血を甲板に満たしてマグロは息絶えていた。白昼の直射日光の下、水夫たちは息を殺してそれを取り囲み、船が押しわけていく潮の音が醜くその風景を統べていた。彼は道を思い出していた。遠い昔、彼が幼児という名でよばれていた頃、下を向いた自分の目の前に、足が小さな影を引きつれて飛び出していた道を。ビールの栓や、アイスクリイムの袋や、その他いろいろの塵埃が吹溜まりのように山をなし、それを飛びこえる事を楽しみにしていた道。あの時、彼の目には素晴らしいネガティブの世界が映し出されていたのに、今の彼の目の前には赤銅色の、毛むくじゃらの水夫の腕と銀色の腹。ボオトに降りる時、船長が彼をみつめていた。全ての責任はお前にあるのだとでも言うように。彼は頭を振ってその視線を逃れ、ざらざらするオールの握りをつかんで、漕ぎはじめた。逆光の中で、水夫たちが蠢くのをみつめながら、足を突っ張り、背を伸ばして彼は漕いでいた。ボオトのたてていく小さな波が斜陽にきらめき、一人の水夫が、輝くナイフをマグロの腹につき立てていた。目をふせながらボオトが岸につく音を聞いた。青空を吸い込み、船酔いを追い払って、彼は岸に降り立った。暗闇と星の光を待ちうけた潮風が彼のほほをなでていき、鞄を砂地におろすと、彼はそこにすわりこんだ。確かに覚えている。その時の彼と、今の彼と、違うところはどこにもない。ちょうど、同じような姿勢で彼は砂浜に腰かけていたのだ。あの時持っていた鞄。あれはどこへいってしまったのか。つなぎ合わせた記憶の破れ目から雨がしたたり、彼をずぶぬれにしていった。時は潮風を含み、愛撫につかれた彼の指は濡れて黒い砂につき立てられている。
 何が起こっても動くまい、と彼は心に深く刻みつけていた。息すらも止めて、ぼろぼろになったズボンのすそをみつめている。波の音は催眠効果を持ち、冷えきった白い砂が山鳴りのような音を包んで、彼の疲れた肺胞を膨らませていた。朽ちかけた小さな漁船が、塩を含んだ風に吹かれて、錆びたのどをいがらせている。病院を抜け出してから三日たった。彼の飢餓感は、もう嘔吐へと変身する力もない。遠くのマンションが波に喰われるのを見つめながら彼は何かを待っている。
「おおい」
誰かが叫んだ。
「おおい」
砂をはねあげていく跫音が少しずつ大きくなり、木霊が寒天のような空を歪めた。短い間隔と重量感を失った音。やがてそれに激しい息使いが加わり、空は一層青く歪んでいく。
「これ死んでるのかな」
あのマンションからやってきた少年たちだろうか。一羽の重油に黒くなったかもめを囲んで、彼らは頭を垂れている。緑色の靴の上に海を含んだ細い足をのせて、背中を伝わる汗を感じながら。蟹が静寂を引きずって穴から這い出し、ゆらゆらと潮を招いている。
重油につかり、首をねじまげたかもめの眼に、幼い葬列者たちが黒く映し出される。傷ついて、血を流してさえいれば、誰かが助けてくれるかも知れぬのに、かもめはその声帯の隠された傷から死臭をにじみだしているだけ。
「かもめは鳴かなくてはいけない」
子供たちは去って行った。誰にも咎められずに、彼らの父や母がつくりあげた、白い小さな部屋へ。波がかもめの断末魔を、海底の藍色の船に盗み取っていった。歪んだ空が彼の上に崩れ落ち、埋葬されたかもめの眼はみつめている。彼は何かを待っていた。ふとあげた彼の目に映るのは、突堤にそびえる古い洋館。かもめが海の上を飛んでいる。蟹はもういない。

 螢光燈が羽をすりあわせて、不快指数の天使たちを沈み込んだ空気に混ぜている。緑がかった青白い天使たちが、アルゴオルを追って飛び回るのをみつめながら、指をしゃぶって″窓″は、名前のない女と一緒にホームのベンチに坐っている。桃色にくすんだ魔法の入った鞄を膝の上に乗せて、二人は電車を待っている。″窓″の網膜には、平面化された情景が映し出され、近くの家から響く昏い呻き声の余韻が、古ぼけた映画のフィルムのように薄暗い陰をつくっている。Rは眠り続けている。優しい暖い腕を″窓″の方になげ出して。囁くような大人びた笑い。青酸カリを含んだ活字体が″窓″の神経を駆け、自らの肉体を想像して彼女は笑い続ける。それが高いリズミカルなものに変わるのを必死にのどでくいとめながら。
突然、冷たい深更の空間から何かを奪い取ろうとするかのように、″窓″の目が妖しく輝く。瞳孔を大きく見開いて彼女は殺意を感じていた。
意識の奥底から浮かびあがってくる女の叫び声。
『渡さないわ』
『渡さないわ』
「ワ・夕・サ・ナ・イ・ワ」
気管の奥からふきあがる息をおさえて、″窓″は苦しげに呟いた。二人のはじいた煙草が坂道をころがるように、彼女の心は大きく回転した。もう坐っていることはできない。影がゆらめき、″窓″はその窓を大きく開け放ち、今、その右の掌から取り出した白い断末魔。激しい息使いが黒いレエルの上に散乱する。今、誰も二人をみつめてはいない。Rは居眠りの中に悪魔を閉じこめて、口もとの微笑は引きつっていた。そっと″窓″は窓を開く。誰にも気づかれないように殺意をとり出し、螢光燈の光をさえぎる。
『烏を見たことがあるかい』
翼を拡げた烏が、高い、下からその直角を見上げたビルディングにつかまっている。赤いのどを見せながら、一声、かあ。そして一気に下降する。地上の二人をめがけて。舞い上がる枯葉と過去の夏が、薄明の荒涼の上を無限に拡がっていく。望遠レンズでとらえた烏の羽撃き。魔法をかけた空の向こうに、歪んだ歩道が連なり、粘土でできた男が、硝煙にせきこんでいる。
『烏を見たことがあるかい』
息を殺しながら″窓″はコオドを手にしていた。Rの背後にまわり、何処からか取り出したコオドの端を強く握っていた。遠くで汽笛が風をひび割れさせた時、漆黒のマントが翻った。
″窓″の瞳孔は、光を求めて大きく開かれ、のどの骨のくだける音が、乾ききった粘土に吸いこまれていった。白く小刻みにふるえるRの指先から、魔法がもれ出ていく。手を左右に拡げRの背の上で十字架にかけられながら″窓″は絶頂に達していた。
 汗が額に拡がり、だらりと腕をたらしていた彼女は、目を開けると再び強い殺意を感じた。腐爛していく肉塊の排泄物の匂いを胸一杯に吸い込みながら、″窓″はもう一人殺さねばならないと感じていた。

 クリスタルの影を落としながら魔術師は海の匂いのする階段をぎしぎしと登っていった。部屋の中の何かを求めて、限りないエコーを逃れて彼はここへやってきた。ある予感をその背中の死肉にくくりつけ、波の瀬に反射する太陽の光を掌であたためて。誰かが残していったあかりの残像が波の音をつれてくる。意志という熱にうかされながら彼が登っていった後には、小さな風と、血の匂い。銀色の把手を引っぱると、そこにはみつめることの恐怖。赤い斜陽のかげりを背にうけて″窓″は殺意に目を輝かせている。壁のつめあとにくちづけたコーヒーの飛沫が静かにすべり落ちていく。
血のように拡がったコーヒーの上に灰がかぶさり、彼がはじいた煙はもうそこにはない。海の青さをその右手にかくし持ち、″窓″は殺意を閃かせる。彼の魔法をつめこんだ鞄がテエブルにのっている。
「記憶を返せ」
それは声にならなかった。彼女の太った指先が窓を通る光を集め、暗闇となった部屋の中で蛾のように鱗粉をまく。息をつめて彼があとじさると、かもめの声が部屋を慄わせた。開け放った窓からは潮を含んだ風が舞い込み二人の心を冷たく凍てつかせる。鞄をひったくって彼は階段をかけおりていく。無数の壁にひび割れをつけて、胎児のように身をかがめながら。″窓″のしぼり出す叫び声は彼にはとどかない。
「ワ・夕・サ・ナ・イ・ワ
 ワ・夕・サ・ナ・イ・ワ」
錆びついた窓枠が海の中へ落下し、泡立つ白い飛沫に、ただ一つの暗黒を溶け込ませていった。

 追いつめられた鼠のようにおどおどした目つきで″窓″の姿をもとめ、彼は群集の影の下をすりぬけていく。逃亡。何からの、またはなぜ。そして一体、どこにそうすればいいのだろうか。孤独に恐怖をついばみ、昨日のマントを拡げて坂を駈け降り、たくさんのヘッドライト、淀んだ別世界への糸口をさがしていた彼。もうどこにもそれはいない。
白い彼方の岸に立つ彼女の影を彼は網膜に焼きつける。長い眠りから覚めた後のように、ぼんやりと赤い眼で、彼は彼女をみつめるしかない。彼の影は喫茶店の中で静かに音を消し、街燈の下の殺意に満ちた彼女の姿をみつけ出す。彼の彼自身に対する存在はもう失われてしまっている。映画館の中で、物乞いのように椅子の間を這いまわり、誰かがあげる叫び声は誰の耳にも届かない。その赤い嘴のような瞬間をスクリーンの上の黒い彼女の影が黙示するだけ。ビルは山のように連なり、谷間へと滑り落ちてくる、白い百合のような風に頬をつけて、煙も吸いこめぬまま″今″に口づける。彼女にとって彼のロゴスは意味をなさない。誰も二人の間の真理をみいだすことはできない。烏が空を被いつくし、彼らが舞い降りてきても、群集の中に二人の姿はみつかるはずがない。人知れぬ部屋に一人、マッチの火で香水の匂いを焦がし、彼は窓の外の彼女をみつめる。みつめる。みつめること。みつめることの恐怖。彼にとって全ての人々の流れの中で、その恐怖は腐っていく。乱れた服装を身にまとい、マッチの火を吹き消して、昏い部屋の中で、白いマンションの燐光をたよりに彼は彼女をみつめている。彼女を、窓という名の死をみつめているのだ。もしもそれができるのなら。

 今日、誰もいないスタジオでコーヒーを胃に流しこんでいると、彼女が扉を開けて立っていた。冷たい息をくぐもらせ、Rと同じコオトをまとって。蜘蛛の巣に蛾がひっかかって、ぱたぱたゆれている。窓のない部屋の中で、彼女がただ一つの窓をあけはなち、彼はそこから逃げていく。光が白い壁を焼き、ひび割れが壁一面に拡がっていく。
 自動車の警笛の音、街燈、ヘッドライト。昼と夜が入り乱れ、鋭角で満たされた全ての風景。誰かの魔法が光る銀の矢となって、彼の様々な肉体の瞬間をつき刺す。人々の頭は自らの生活をつめこんで膨れあがり、苦い臭気をふりまいている。どの輝きも、どの道も、彼の肉を拒絶し、冷たいアルゴオルの呪文だけが彼につきまとっていた。彼の吐いた白い息が、たくさんの窓硝子を曇らせ、ポケットに入れた指先は冷えきって固い。膨れ上がった肉の間に自らの肉をとかしこみ、悪臭にむせぶ声帯のない気管をいがらせながら、彼は逃げつづける。″窓″から、それとも青い海の底から。もはや見渡す限りの肉の海。かもめは鳴かず、彼は海面に首だけを出して泳ぎ続ける。海底で深海魚が過去をのみ込み、あぶくをたてている。窓が開く。唐突に風が舞いこみ、少女の姿に閉じこめられたアルゴオルの叫びが果てしない小波をたてていく。烏が彼女をつりあげ、こちらへ向かってくる。断末魔がそのあとを追い、Rの血をのみこんだ細いコオドを手にぶらさげ、彼女はくすくすと笑っている。誰も空を見上げることはなく、歪みは光を屈折させる。
あらゆる映像を突きぬけて、新しい世界が拡がる、彼は一気に落ちていく。虚無へ?
都会にはめずらしい蒼白の空と静かな海。
天気セイロウナレド風強シ……

 山手線のかたすみで目覚めた彼は、見知らぬ男に刺し殺される。かすかな硝煙の匂いのあと、彼のそばには古ぼけた鞄がころがり、その中から、殺人事件の新聞記事がはみ出している。

  銀色の貝がらが砂浜にうちあげられて女の子の死体がそれをつかんでいる。足には海藻がまきつき、そのそばに一羽のかもめが死んでいる、髪の毛が濡れて季節はずれの蛾は、死んでいた。