海の向こうの気になる本
気になる人――――ソビエト編
アメリカで出版された、エフレーモフ研究書
深見 弾
浅倉久志氏に、アメリカでイワン・エフレーモフについての評論が出たと教えられたときは、耳を疑った。ことアメリカに関する限り、エフレーモフは評論が出るほど有名な作家ではない。若干の短編を除くと、英訳された作品は『アンドロメダ星雲』だけのはずだ。しかもアメリカでは出版されていない(一九六〇年にロンドンのセントラル・ブック社と、ソ連で英訳されたものだけだ)。日本で読まれている『宇宙船』も、最近訳が出た『アレクサンドロスの王冠』も、恐らく近い将来出版されるはずの『丑の刻』も、アメリカはおろかイギリスでも英語では読むことができないはずだ。だが、少なくとも名前だけは知られているし、英語圏で出版されている、SF関係のいくつかのWho’ s Whoには必ず収録されている。たしかにかれは、ソ連SFに決定的な影響を与えたし、世界SF史上重要な役割をはたした作家である。ヨーロッパや日本では、多くの作家や読者が、かれから少なからざる影響をうけている。だが、アメリカでは同じ共産圏作家であるレムほどは認められていないし、今後もその事情が変わるとは思えない。
そういう国でいきなり『イワン・エフレーモフのソビエトSF』(G. V. Grebens, Ivan Efremov’ s Soviet Science Fiction, Vantage Press, New York, 1978, $8.50)が出たというのだから驚いた。さっそく取り寄せてみた。どうせちゃちなパンフレットだろうと思っていたら、なんと堂々たる研究書である。十六ページ、およそ五〇〇ヵ所に及ぶ詳細な注、六ページにわたる参考文献の列挙、これだけ見ただけでも、この本が極めてアカデミックな研究書であることがわかる。
それもそのはず、本書の著者グレーベンスは、過去に大学で十年間もソ連(ソ連:傍点)SFを講義したことがある学者だった。現在はテキサス大学で現代ソビエト文学を教えている。こうした研究書が出せるのも、大学でソ連SFの講座があるという事実と無関係ではないだろう、と思って得心もいったし、アメリカという国を見直しもした。
言うまでもなく著者は、エフレーモフの全作品を分析、かれのマルクス哲学に裏打ちされたSF観を扱っている。それは同時に五〇年代から六〇年代にかけてひとつのピークを作ったソ連SFの特質を解明する問題にもつながっている。唯物史観を敷衍(ふえん)した人類の共産主義未来と、生物学におけるマルクス主義学説の必然的帰結としての宇宙生物=人間を堅く信じていたエフレーモフの思想が、この本では好意的立場から文学的に立証されている。
●SFの現状を見直す契機に
たしかに、二十年近く前、日本に『アンドロメダ星雲』が紹介されたとき、われわれがうけた衝撃は大きかった。だが、科学者としてのエフレーモフが、思想的信条を見事に文学作品に表現できたとしても(事実、それは成功したが)、それはかれの個人的な文学的才能の問題であって、ソ連SF、広い意味で社会主義圏のSFの規範とはなり得なかった。それが現在ソ連SFが低迷している理由でもある。だが、その問題までこの本に要求するのは無理な話だ。確実なことは、エフレーモフほど思想的立場を明確にして、しかも文学作品としても高い水準のものを残し得た作家を、徹底的に解明してみせた本書は、単にソ連SFを理解するのに役立つだけでなく、SFの現状を見直すためにも、きわめて貴重な問題提起をしているといえる。