「愛と平和とポップコーン」片理誠

 港と駅とを結ぶ、さほど長くもないメインストリート。その途中に建っている雑居ビルの階段を下ると、黒い控え目な書体で〈風の噂〉と書かれた金色のプレートを掲げる木製の扉に行き当たる。その奥にはカウンター席十一、ボックス席二十一を誇る少し広めの空間があり、ここでは夜な夜な、港で働いている屈強な男どもが酒を酌み交わす。
 店内には弱々しいスポットライトが幾つかある他に照明はなく、かなり暗い。じっと見つめないと隣に座った者の顔すら見えないほどだ。BGMもまた相当に音量を絞ってあるが、あちこちで巻き起こるガラの悪い客同士のがさつな笑い声のせいで、静かと言うにはほど遠かった。
 真っ直ぐに伸びるカウンターの奥では、この地下一階のそんな光景に目を細めている男がいる。大柄で、筋骨隆々、がっしりとした体格の持ち主。洒落者らしく、身体にぴったりと合った濃紺のベストにスラックス、肘までまくった鮮やかな青いシャツという出で立ち。タイはしておらず、シャツの胸元は開けっぱなし。ジャケットは左隣の席の上に無造作に置かれていた。
 一目で一般的な肉体労働者とは異なると分かる風体だが、更に狼を思わせる精悍な顔つきや、その口元に浮かんだ不貞不貞(ふてぶて)しい笑みが、その印象をより強固なものとして裏付ける。よほど腕に覚えでもない限り、まともな人間は誰も彼に近寄ろうなどとは思わないだろう。
 この“ミスター容貌魁偉”の目はしかし、この時、嬉しそうに細められていたのだ。全身から放たれる刃のような雰囲気も、幾分かは和らいでいた。
 賑わいってのはいいもんだな、ゼッタ、と彼は右隣に座っている金髪の若者に嬉しそうに話しかけた。
 だが話しかけられた方は、少し渋い表情を浮かべている。
「俺はこの店、苦手ッスよ。どうにもうるさくて」
 小柄で、痩せた男だ。蛍光イエローのジャンパーにジーンズ姿。しょぼくれた風に背中を丸めている。不満そうに唇を尖らせていた。
「そう言うな。金曜日の夜なんだ。誰だって少しは羽目を外したくなるだろ。だいたい、俺の奢りの酒を舐めてるくせに、文句言うなよな」
 呼び出された上に勘定まで払わされたんじゃ、たまったもんじゃないッス、とブツブツ言いながら、若者が手にした薄緑色のカクテルをすする。
「アニキはやらねぇんスか」
「俺は今、シノギの途中だ」
「用心棒稼業ってのも大変スねぇ。一杯や二杯、ひっかけたところで、アニキの腕っ節に敵う奴なんていねぇでしょうに。妙なところで真面目だからなぁ、キョウヤの兄ぃは」
 ま、そこがアニキの良いところなんスけどね、全然ギャングっぽくなくて、と笑った。
「からかうなよ、ゼッタ」
 そう言って、キョウヤと呼ばれた男も手にしたソフトドリンクの瓶に口をつける。
「ところで今日、お前ぇを呼んだのには、わけがある」
 知ってますよ、と少し眠たそうにゼッタ。
「若の件スよね。てか、みんな、笑ってるッスよ、アニキ。まるで『ロミオとジュリエット』だって」
 天を仰いで大袈裟に肩をすくめている。
 ヘッ、とキョウヤは口元を歪めた。
「そうはならねぇよう願いてぇもんだな。俺はハッピーエンドが好きなんだ」
 はぁ、と若者がため息をついた。カウンターの木目模様を、ぼんやりと眺めている。
「期待薄ってトコなんじゃないッスかねぇ。ハッピーどころか、このままなら血の雨が降るッスよ。何せ、相手が悪い。向こうはバリバリの武闘派ッスからね。どう考えても、ただじゃすまないッス。奴ら、絶対に報復してきますって」
「そこでお前のお知恵を拝借ってわけだ。俺だって血生臭くはしたかねぇよ。こっちは穏健派で通ってんだからな。万事スマートに解決、ってのが俺の流儀だ」
 スマートねぇ、とぼやきながらゼッタは、キョウヤのよく日焼けしたたくましい前腕や生傷だらけのごつい拳をちらと横目で見た。
「オヤっさんが二、三発ドついて、若の目を醒ますってのが、一番平和な解決方法だと思うッスけどねぇ」
「……五発ほどぶん殴ったそうだが、駄目だったって話だ」
 キョウヤは面白くなさそうに炭酸飲料をラッパ飲みする。
「殴れば殴るほど意固地になるんで、仕舞いにはオヤジも折れたってよ。ま、あの親にしてこの子あり、ってところか」
「血筋ッスねぇ。それにしても、よりにもよって、何でわざわざ敵対してる組織の幹部んトコのお嬢と……。やれやれ。女なんて他にいくらでもいるじゃないッスか」
「若も、先方も、付き合うまで相手の家のことを知らなかったらしい。特に彼女の方は、つい最近まで自分の親の正体すら知らなかったんだ」
 はぁ、と再びため息の漏れる音がした。
「迷惑な話ッスよ。巻き込まれるこっちの身にもなって下さいな。他人の色恋沙汰のせいで大怪我したんじゃ、割に合わないッス」
「そこで俺たちの出番てわけだ。
 勘当しちまった手前、オヤジはこの件では動けねぇ。“キョウヤ、お前ぇに全てを任す”ってよ、言われちまったのさ。
 だが、出来ることなら赤い雨は降らせたくねぇんだ。誰も怪我することなく、もちろんくたばることもなく、穏便に終わらせてやりてぇ」
「まぁ、キョウヤの兄ぃが直々に動かれるってんなら、確かに希望はありそうッスけどね。何か策でもあるんで?」
 ああ、と大男が肯く。
「幸い、若も向こうも成人済みだ。駆け落ちってのが一番いいだろう。本人たちもその気でいる。名前を変えて、海外にでも高飛びすりゃぁ、少なくともここに居るよりは自由に暮らせるだろうさ」
「なるほどねぇ」
「若の方はいいんだが、問題はお嬢さんだ。若とのことが親にバレて、今、彼女には四六時中、ボディガードが張り付いてる」
「若は彼女に近寄れない、ってわけッスか」
「二人に駆け落ちしてもらうためには、若の代わりに俺たちが彼女を掻っさらうしかねぇ。だが、ボディガードの方はともかく、警察がな、ちと厄介だ」
 眉をひそめる。
「相手は山の手のお嬢さんだ。この辺りと違って、町にはそこら中に監視カメラがある。サツにバレれば、結局は大騒ぎ。せっかくの逃亡計画もパァだ」
「まぁ、はたからすれば誘拐ッスからねぇ」
「監視カメラは警察のAIが常にチェックしてる。怪しい動きをする奴がいれば、現場近くの警官に自動で通知が行く仕組みだ。これをどうにかして誤魔化してぇ。
 二人が逃げ切るまでの時間を稼ぐ必要があるし、結局、証拠がなければ、サツも向こうの組の連中も、俺たちに難癖はつけられねぇだろ? 八方が丸く収まるって寸法よ」
「ハッピーエンド、ッスか」
「一瞬でいいんだ。お嬢さんを確保する時のよ、ほんの一瞬だけ、どうにかして監視カメラを止めてぇのさ。お前ぇの得意なハッキングで、どうにかできねぇか」
「いやぁ、さすがに警察のシステムに、そう簡単には。現場のカメラに小細工するんじゃ駄目なんスか?」
「時間がねぇ。駆け落ち計画の実行は、明日なんだ」
 若者は顎に手を当てて、しばらく黙り込んだ。
「ううむ……となると少々、博打にはなるッスけど」
 お、と大柄な男が身を乗り出す。
「何か手があるのか?」
 ええ。あるッスよ、とゼッタが親指を立てる。
「それもアニキ好みの、とびっきり平和な奴が」
 意味ありげに微笑んでいる。
 ん、とキョウヤは小首を傾げた。

 特にお祭りがあったわけでもないのに土曜日の駅前広場には大勢の人出があった。
 広場の片隅でギターをかき鳴らしている三人の若者たちの中の一人が時折、引きつったような大声を張り上げている。身なりはみすぼらしいし、演奏も決して優雅とは言えない。肝心の歌は調子が外れていた。即興の詞をそのまま口ずさんでいるようだが、その内容たるや、まるで子供の作文のよう。だがなぜか人気はあるらしく、その周囲には結構な人だかりができている。ゲリラライブの真っ最中というわけだ。
 広場では屋台のクレープ屋も店を構えていて、その前には結構な行列ができている。丁度おやつ時なのだ。
 秋の日差しが燦々(さんさん)と降り注いでいる広場の中央、街路灯周囲の芝生の上では、腰の曲がった老人と大勢の子供たちが山のように集まった鳩たちにポップコーンをまいている。キャッキャとはしゃぐ男の子や女の子たちが、大きな袋を片手に元気一杯に走り回っていた。鳩たちはと言うと、この程度の騒ぎには慣れているのか、それとも余程腹を空かしているのか、特に逃げる様子も見せず、一心不乱に地面をつついている。
 どこの町にもある、それは平凡な午後の風景だった。「あ、美味しそう」と小さな歓声を上げて、小綺麗な格好をした女性が一人、クレープ屋の行列に並んだが、それとて特筆すべきようなことではないだろう。強いて違和感を探すならば、彼女のすぐ後ろに並んだ二人の男たちが、およそクレープを口にするような類の人間には見えない、という点だけだろうか。周囲の人々を盛んにティラノサウルスのような目つきで睨(ね)め付けている。二人とも黒っぽい服をわざと着崩しており、金や銀色の派手なアクセサリーをこれ見よがしに身につけていた。かなり威嚇的なファッションセンスの持ち主であることが窺える。
 とは言え、それからしばらくの間、広場では特に何も起こらなかった。暖かな日差しの降り注ぐ中、クレープ屋の行列はしずしずと進み、片隅では相変わらずのセッションが行なわれていて、しかもなぜかそこそこの拍手を集めており、一方、中央付近では大勢の鳩が盛んに喉を鳴らしていた。
 しかし突如として上がった男たちの怒号が、平凡な町の、平和な午後の風景を、ズタズタに引き裂いてしまったのだった。そしてその直後、耳をつんざくような甲高い破裂音が広場に鳴り響いた。

 馴染みの酒場、〈風の噂〉の扉を開けると、奥ではすでに宴が始まっていた。数十人ほどの男女がぎっしりと集まっており、店内はまさにすし詰め。席のない者は立ったまま飲み食いをしている。
 こちらの姿を認めると皆がグラスを高く掲げた。
 おう、揃ってんな、といつもの仕立ての良いスーツに身を包んだキョウヤも、片手を軽く掲げて返す。
「みんな、ご苦労だったな! 今日は俺の奢りだ! 盛大にやってくれ!」
 嵐のような歓声が上がり、あちこちで乾杯、乾杯の大合唱が起こった。
 女たちの甲高い笑い声を背に店の奥へと進み、カウンター席に腰掛ける。右隣には先に来ていたゼッタの姿が。「アニキ、お疲れ様ッス」と、こちらをねぎらってくれる。
 ヘヘッ、とキョウヤも笑う。
「なぁに、いい心持ちさ。人助けってのは気分が軽くなるな」
 指を鳴らしてバーテンダーに合図。黒ビールを注文する。
「お二人は無事に?」とゼッタ。
 ああ、と肯く。
「港まで来ればこっちのもんだ。今頃は海の上さ。上手くいったよ。もう何の心配もねぇ」
「しかし、とんだ新婚旅行ッスね」
「まぁな。この先どうなるかは、ま、あの二人しだいってところか。俺たちが手伝えるのは、ここまでだな」
「上手くいくと良いッスねぇ」
 そう言って、遠くを見つめている。
 その少し大人びた横顔が、キョウヤにはちょっと可笑しかった。口元を緩める。
「何とかなるんじゃねぇか。結構、肝の据わってるお嬢さんだったぜ。さらわれる時も、声一つ上げなかった。荒っぽくフードを被せられて、咄嗟に腕を引っ張られたってのにな。大したもんだ」
「あちらもお血筋だった、ってわけッスか。ククク」
「お前ぇも、ご苦労だったな」
 ゼッタが照れたように頭を掻いた。
「いやぁ、俺ぁ紙袋を一つ鳴らしただけッスよ。ッパァァァン、てね。いい音だったっしょ? やっぱりポップコーンてのは、紙の袋に入ってるべきなんスよ。音が違うんス、ビニールの袋とは、鳴らした時の音が」
「変装も随分と念入りだったぜ」
 ニヤリ、とキョウヤ。思い出し笑いだ。
 広場の中央で鳩を集めていたのは、目の前に座っているこの若者だったのだ。今は普段の姿に戻っているが、昼間は白髪のカツラに真っ白な付け髭や付け睫毛(まつげ)まで用いて、くすんだ色のすり切れた衣装をまとって、所作までもが完璧な高齢者のそれで、最初はキョウヤですら騙されたほどだった。
 ヘヘヘ、とゼッタが笑う。
「久しぶりだったんで、つい気合いが入ったッスよ。俺、これでも大学では演劇部だったんス。
 もっとも、あれだけの鳩を集めるのには少しばかり手こずったッスけどね。朝一であそこに陣取って、午前中からせっせとパン屑まいて。ガキやらカラスやらまで寄って来ちゃった時はホント、どうなることかと」
 ま、上手くいって良かったッス、と胸をなで下ろしている。
 アッハッハ、とキョウヤも笑った。
「俺も久しぶりに歌って、気分が良かったぜ! 学生の頃を思い出したよ! なぁ! 俺もまだまだ捨てたもんじゃなかっただろ? 芸能事務所からスカウトが来やしねぇかと思って、これでも冷や冷やしてたのさ!」
 ハッハッハ、とゼッタの肩を叩く。一方、どやされている方は「えぇ……まぁ」と言葉少なだ。来ないといいッスね、スカウト、と小声で付け加えた。
「そ、それにしても、さすがアニキたち! リハーサルなしの一発勝負だったってのに、よく上手くいったッスね」
「なぁに、こっちは慣れたもんよ。フラッシュモブなんざぁ、朝飯前さ」
 ボックス席の方に振り返る。
 陽気に騒いでいるあれらの男女は、昼間、あの駅前広場にいた人々だった。クレープ屋の列に並んでいたのも、ゲリラライブに声援を送っていたのも、皆、キョウヤの息のかかった者たちだったのだ。
 あの二人組のボディガードに言いがかりをつけて注意をそらし、その隙に予め用意しておいた偽者とターゲットであるお嬢さんとをすり替え、本物の方には素早くコートを被せた上で人混みの中に押し込み周囲から隠す。これだけのことを、ほんの一瞬の間に、一糸乱れぬチームワークで、手際よく、正確無比にやってのけたのだった。
 あの二人組が罠にかけられたことに気付いた時にはもう、あのお嬢さんは広場から易々と逃げおおせていた。
 黒ビールのグラスがきた。
 それを手に持つ。
 ゼッタも自分のピンク色をしたカクテルグラスを掲げる。
「フフ、――監視カメラに鳩が映ったって、誰も変とは思わない――か。急な話だったにしては上出来だ、ゼッタ」
「タイミング、ばっちりだったッス、アニキ」
 カチン、とグラスを合わせる。
「若とお嬢、あの二人の未来に」
「そして翼の生えた町の可愛らしい邪魔者ちゃんたちにもッス」
 乾杯。
 グラスを傾ける。香ばしい味わいとスッキリとした刺激が喉を滑り降りてゆく。いい気分だった。
 ゼッタが膨らませた紙袋をパン、と割ったまさにその直後に、お嬢さんの誘拐は行なわれたのだ。一斉に飛び立った大量の鳩は、間違いなくあの広場の監視カメラの邪魔をしたはずだった。どんなに録画を再生したところで、そこには鳥の羽しか映っていないだろう。
 現に警察のAIも異常があったとは判断しなかった。警官は最後まで現れなかったのだ。平和の象徴であるあの鳥が、二人の門出に力を貸してくれたことに、疑いの余地はなかった。
 つまみのアーモンドを口に放り込みながら、ゼッタが「先方の親御さんは今頃、地団駄を踏んでるかもッスねぇ」と言った。
 そいつはどうかな、と返す。
「案外、腹の底では喜んでるかもしれねぇぜ。武闘派組織の幹部ったって、人の親だ。実の娘の幸せを願う気持ちくらいは、あるだろう」
 追加のビールを注文しながら、キョウヤは口元を緩める。
「ま、そうは言っても今夜だけは、どっかの赤提灯の下で焼き鳥でもつつきてぇ気分かもしれねぇがな」