「忍澤勉『終わりなきタルコフスキー』著者インタビュー・前編(聞き手・高槻真樹)」

タルコフスキーは「詩的映像作家」ではないと思います。忍澤勉

――忍澤さんの『終わりなきタルコフスキー』が出版されました。この本は第一章でタルコフスキーの映像作品8作の詳細な解説をし、第二章では監督自身の人生の作品への反映に注目し、第三章では数多くの作品中のモチーフの意味合いを捉え、そして第四章では監督の核や戦争への意識を抽出し、さらに年表や作品ごとの簡単な紹介などを加えて、まさにタルコフスキーを網羅的に捉えた450頁以上の集大成になっていると思います。近年タルコフスキーに関する本は日本ではほとんど出版されていませんが、今回のきっかけや、執筆にあたってその切り口はなんなのでしょうか

忍澤 第7回のSF評論賞でタルコフスキーの映画『惑星ソラリス』(1972年)と原作『ソラリス』(国書刊行会 現在はハヤカワ文庫からも発行)を比較した拙文が、選考委員特別賞をいただいたことがきっかりですね。前年でも『惑星ソラリス』に関する文章で候補になっていたので、SFマガジンにはその二つをまとめて掲載することになり、結局三回の連載となりました。その文章は大幅に改稿して拙著にも所収させています。
 『惑星ソラリス』は1977年に岩波ホールで観ています。それからずっと引きずられていて、当時唯一の訳本だった『ソラリスの陽のもとに』(ハヤカワ文庫)をじっくり読みました。すると映画と原作双方の魅力に引き込まれました。
 そしてポーランド語からの翻訳である沼野充義さん訳の『ソラリス』が発行されたことによって、既存の訳本である『ソラリスの陽のもとに』には、削除部分があることを知りました。するとそこにはどんな記述があったのかということにがぜん興味が出てきたのです。
 そこでブログに小説『ソラリス』と映画『惑星ソラリス』の比較検討を断続的に書いてみました。それを核にして体系化したものをSF評論賞に応募したのです。
 『惑星ソラリス』以外の作品に関しても、「メタボゾン」という季刊誌にタルコフスキーの核や戦争の表現について書くことになったので、改めて全作を観てみることにしました。すると同じような傾向が全作に存在していること、そしてたくさんの暗喩が含まれていることに気づきました。そんなことで全作品について書いてみたいと思うようになったというわけです。

――そうすると端緒は割と最近という気がするのですが。タルコフスキー関連の書籍がドカッと出たのは没後間もないころで、資料集めは、かなり苦労されたのではないでしょうか

忍澤 タルコフスキーの文献はただ読むために集めていました。『映像のポエジア』や『タルコフスキー日記』は新刊本です。『タルコフスキー日記Ⅱ』(以上3点キネマ旬報社)は古本ですが、現在のように高価ではありませんでした。『アンドレイ・タルコフスキイ『鏡』の本』(馬場広信監修 リブロポート)や『<死>への/からの転回としての映画』(亀井克朗 台湾・致良出版社)はとても参考になりました。
 作品は『惑星ソラリス』を観て以降、名画座などで鑑賞しています。映画館で観ていないのは『ローラーとバイオリン』だけだと思います。
 タルコフスキー映画の初体験がビデオやDVDではなく、映画館だったからあの場面にはいったいどんな意味が隠されているのだろうという思いが醸成されていったのでしょうね。
 私がDVDを手にしたのはかなり遅い方だったと思います。当時としては高価な『惑星ソラリス』のDVDをやっと買って驚いたのは図書室のブリューゲルの絵画でした。DVDのクリアな映像が、タルコフスキーの秘したものの発掘ツールとなってくれたのです。

――デジタル時代の強みを生かして映画を細部まで「精読」することで、タルコフスキーの評伝として再構成しようというコンセプトは、どのあたりで思いつかれましたか

忍澤 拙著の第二章では作品にタルコフスキーの人生がどう反映されているのかを見ていきましたが、彼の評伝への関心はそのあたりにあるだけだと思います。しかしその多くが、彼のノスタルジアの破片であるとすれば、作品理解そのものが彼の評伝に繋がっていくのかもしれません。
 すでに彼の評伝をテーマとした書物は、『タルコフスキー 若き日、亡命、そして死』(馬場朝子編 青土社)や『タルコフスキーとその時代』(西周成 アルトアーツ)があります。従って評伝として再構成しようとしたのではなく、結果としてそうなったということでしょうね。
 構成として当初、第一作から八作までを並べて論じようとしたのですが、あまりに煩雑になるので、監督自身の作品への反映を論じる第二章や、数多くのモチーフを見ていく第三章は別に立てることにしました。また版元の判断で年表や簡単な作品解説を別に入れることになりました。

――DVDは確かに映画の鑑賞方法を変えてしまいました。その状況変化を踏まえて書かれた、初めてのタルコフスキー論といえるでしょう。これまでのタルコフスキー論の多くが、記号論的な映像解読に終始してきたことには、忍澤さんとしても飽き足りないものを感じておられたということでしょうか

忍澤 日本の書籍としては、DVD以降初めてのタルコフスキー論なのかもしれません。
 映画館で観て驚きつつ納得できない部分を抱えたファンが、テレビでの放送を録画することやビデオソフトでその解消と理解に努め、さらにDVDやネット配信でその細部に目を凝らすといった段階を踏んで到達したということでしょうか。DVD時代になってからも、ソフトによってはかなり雑な画像もあったので、ブルーレイやモスフィルムの配信はありがたい限りです。
 タルコフスキーを表現する時、私の本の帯にもあるように「詩的映像作家」という紋切り型のうたい文句が多いのですが、これは好きな表現ではありません。なぜなら映像の美しさや神秘的な表現ばかりが強調されているように思うからです。その傾向のまま情緒的に解釈されてきたことに少し飽きてしまいました。
 記号論的なアプローチは第三章のモチーフ論でほんの少しだけ展開したのですが、この領域はあまりに深くて、今回は序論というか、モチーフの表現を紹介するだけで終ってしまいました。よく言われる風、土,火、水の表現だけでも、タルコフスキーは卒業制作である『ローラーとバイオリン』から満ち溢れているので、それを十全に解釈するにはとても頁数が足りません。

――忍澤さんの指摘で驚いたのが、タルコフスキーの映画では、つじつまが合っていなかったり、唐突だったり、理屈に合わなかったりすることが非常に多いということでした。観客は案外、「そういうもの」として受け入れてしまいがちですよね。庭でクリスがずぶ濡れになっていても「美しい」映像に見入ってしまい、「どうして傘をささないんだ」とは決して思わない

忍澤 あまり強調したつもりはないのですが、『アンドレイ・ルブリョフ』や『惑星ソラリス』、そして『ストーカー』などに不自然な場面がありますね。『惑星ソラリス』はネットに未使用の場面が十本ほどアップされていたのですが、それを観るとあの場面はここに繋がっていたのかと納得したことがあります。また『アンドレイ・ルブリョフ』も細かい削除がされていないいわゆる『アンドレイの受難』を観ると、場面展開の整合性が確認されます。
 『惑星ソラリス』でクリスが雨に濡れながら座っているのを不思議と思わないのは、タルコフスキーの魔術性に最初から囚われてしまっているのかもしれません。私の場合、『惑星ソラリス』がタルコフスキー体験の最初だったので、かなり違和感がありました。しかし一、二本見てしまえば、もう術中に嵌っていて、変な場面でもなにせタルコフスキーだからと受け入れてしまうのでしょう。 
 映画は基本一度の鑑賞を前提としているので、DVDで細部を見ていくことには、若干の躊躇がありました。またタルコフスキーは大事なのは細部ではなく、隠したものだという意味のことをいっています。これはかなり意味深で、細部には何もなく表現したかったものは、その隙間に隠したものなのだ、ということなのでしょう。従って彼の詩的で抒情的な映像は本心を擬装する機能を果たしているかもしれないのです。

――『アンドレイ・ルブリョフ』のいわゆる『アンドレイの受難』と題される長尺版の存在も、ディープなファンの間では常識だったのでしょうけど、恥ずかしながらまったく知りませんでした。そうしたファンにうれしいデータが所々に入っていたのも魅力かと

忍澤 『アンドレイ・ルブリョフ』の長尺版では、最初の気球の男が民衆に追い掛けられていて、墜落する場面でも死んでいることが確認できます。その前を馬が通り過ぎるのは、『惑星ソラリス』の地上の場面の最後に、クリスが眺める風景を馬が通り過ぎるのに重なるので、やや不気味ですね。
 『アンドレイ・ルブリョフ』では他にも三人が旅に出る場面が寺を出るあたりから始まっていたり、使いを待つキリルの聖句のつぶやきの場面が異なっていたり、弟に捕まったかつての大公の妻と息子の場面があったり、白痴の娘とタタール兵が馬で疾走するところとか、民衆が虐殺される場面がさらに長くなっていたりとか、思い出すだけでも興味深い場面が多々あります。
 先ほどの『惑星ソラリス』の未使用テイクでもハリーが消えていく場面、クリスとハリーの怠惰な夫婦のような場面、宇宙ステーションの外観を長々と映す場面、焼け焦げたクリスの宇宙船など面白い映像がありました。もちろん『ストーカー』や『ノスタルジア』にも多くの未採用テイクが存在していますが、一番重要だと思えるのは拙著で詳しく書いた『サクリファイス』のアレクサンデルの臨終の場面です。これを素直に観ると、アレクサンデルはマリアと愛を交わしながら自分の死を体験したことになりますね。
(以下、後編に続く)