「忍澤勉『終わりなきタルコフスキー』著者インタビュー・後編(聞き手・高槻真樹)

日本映画を遡ってタルコフスキーの源流を探す。忍澤勉

――出版に至る経緯を教えてください

忍澤 雑誌「メタポゾン」に掲載した「核時代への視線」を書いたあたりで、『北の想像力』(岡和田晃編 寿郎社)を出した寿郎社の編集長の土肥さんから、「メタポゾン」のようなもので一冊書いてみませんか、とお話があり、それが拙著発行までのロングマーチの始まりとなりました。結局400頁以上となってしまいましたが、まだまだ書き足りませんね。

――タルコフスキーの人間的弱さがかなりしっかり描かれていて、新鮮な印象を受けました。先妻に母親を演じさせようとした話とか、冷静に考えればかなりいかれています。でもその視点で切り込んでいくと、モヤモヤしていた「鏡」が、非常に生々しく官能的な作品に見えてくる

忍澤 『鏡』は彼の映画人生でも分岐的となった作品です。それまでも彼には自己表現欲求があったわけですが、それは芸術的な表現と自らの反映が混在して、結果としてその欲求は昇華されないままだったと考えられます。その不器用さに忸怩たる思いでいたのでしょう。
 たまたま代用監督の地位を得て、まだ才覚もないのに慌てて脚本を書き直し、映画を作り、おどおどとした気持ちのまま、『僕の村は戦場だった』は大成功を収めてしまいます。その境遇に彼は慄いたのでしょう。ベネチア映画祭の受賞式のタルコフスキーは自信なげで、心ここにあらずという雰囲気でした。それは『アンドレイ・ルブリョフ』のボリスのようです。しかしその成功と栄誉は一時的な雪解けに由来することを、彼が敬愛する父親は知っていて、ゆえに父は彼を誉めるというよりも、傲慢になることを戒めました。ただ当時のタルコフスキーは、泥に伏すボリスを助け起こすルブリョフのような父親を欲していたことになります。
 その後、彼は映画の公開禁止や新しい作品の裁可が降りないという不遇に陥ります。そこで初めて父親の態度が実は愛に満ちたものであったことを知り、『惑星ソラリス』のクリスのようにただ黙って父の前にひれ伏すわけです。この後に自伝的な映画『鏡』が製作されます。これほど自分の人生を作品に封じ込めた作家はいないと思います。
 映画は彼が生きてきた3つの年代を描き、それ以外の日々は抜けています。しかも2つは彼を苦しめている懐かしい幼い頃の暮らしであり、1つは息子との別れの危機にある現在の精神的な安定を欠く自分が対象となっています。
 そこで彼は前妻の顔として記憶する大切な過去から決別を試みています。父本人が読むアルセーニーの詩は、そんな記憶への呪文として機能しているはずです。この呪文と現在の母親の力を借りて、彼は幼い姿のまま思い出の地に母親のイメージを残して立ち去るわけです。彼の人生は記録フィルムによって表されます。それは何度か途切れながらも、彼が生きている現代の社会的な事件まで映し出しています。
 次の『ストーカー』に父親の姿はありません。父の詩は登場しますが、それは同じ芸術家としての敬意ある引用でしょう。この作品でタルコフスキーは作家とストーカーに自身を反映しています。特に作家の井戸の近くでの独白は、タルコフスキーの現状を吐露したものです。教授はもしかするとソビエト官僚の象徴なのかもしれません。そしてこれら作家とストーカー、特に作家の言葉はこれからの彼の行動を予言しているようです。
 『ノスタルジア』にはほぼ台詞のない家族が、主人公の幻影として登場しますが、その人数や構成はタルコフスキーの家族と一致しています。その中のマリヤだけ、つまり妻ラリッサだけが彼とともに西欧にいて、他の息子、義理の娘、義理の母、そしてダックスという愛犬はすべて故郷に残したままでした。この作品の製作時、彼の実質的な亡命はまだ決まっていませんでした。彼は作品をして自分の未来を描いてしまったことになります。
 次の『サクリファイス』は前作と違い彼の家族を象徴する人々は極めて雄弁で、しかも各々の関係性はすでに崩壊しています。これもまた予言の映画として機能したはずですが、彼の死がそれを押し留めました。
 このように家族との関係性を作品に見ていくと、その分岐点が『鏡』であったことがわかります。もちろんそれ自体はこの作品の一側面に過ぎません。彼にとっては死もまた重要なテーマであり、その多くの作品には死が用意されているのですから。

――そうした思いがけない発見には、どのようにしてたどり着いていったのでしょう

忍澤 例えば『惑星ソラリス』でハリーとクリスが見るビデオに映る母親の風変わりな衣装を、記憶していれば、それがタルコフスキーの家族写真に写る母親のそれとほぼ合致することがわかります。『惑星ソラリス』に何度も登場する『ドン・キホーテ』を読めば、その物語が映画の展開とリンクしていることが判明します。
 このインタビューの機会の途中でも、いくつかのネタが浮びました。例えば、初期の作品に共通する墜落というイメージです。『ローラーとバイオリン』の紙ヒコーキを飛ばすエピソードと、最後の階段を駆け下りる幻影、そして参考にしたとされている『赤い風船』に通じるのは結果的に墜落のイメージです。そして『僕の村は戦場だった』の冒頭のイワンの視線は空中から急速に下降しています。また『アンドレイ・ルブリョフ』のプロローグはまさに墜落でした。さらに『惑星ソラリス』の未採用テイクには黒焦げの宇宙船が描かれています。このようなことから初期の作品には落下・墜落のイメージが重なっていることがわかります。それを『惑星ソラリス』の図書室にあった『イカルスの墜落のある風景』で補強すれば、論として成り立つかもしれません。
 このように私の作業はパズルに似ているようです。作品の要素をピースに分解して、再糾合する。あるいは別の事柄、絵画や別の映画、または文学、そして彼の個人的な事情との継ぎ目を見つけ出し、それが合致するかどうかを確かめているといってもいいでしょう。『無法松の一生』の『鏡』や『サクリファィス』への引用は、テレビ番組で映画の一部が紹介されていて、その場面の構図が間違いなく後者に使われていると判断しました。もちろんその全編を見ることは必須です。
 
――『アンドレイ・ルブリョフ』や『惑星ソラリス』など、製作途中で生まれた別バージョンについては、かなり詳細に検証しておられる忍澤さんが、「ストーカー」の異本であるストルガツキー兄弟の「願望機」(群像社)については、ごくあっさりと流しておられるのはなぜでしょうか

忍澤 タルコフスキーは最初他の人のためにシナリオを書くつもりだったのが、やがて自分の作品として書き、しかも原作者のストルガツキー兄弟といっしょに対等な立場で書くことになりました。しかし彼の日記によれば、兄弟のシナリオは自分の意図したものではなく、結局原作のストーカー像とは異なる主人公が作られました。
 兄弟も当初三人対等といわれながら、やはり監督には権限があるので、書き直しを進めていったようです。単行本となったシナリオ『願望機』の前文によれば、書き手の意図と違ったカタチで出来上がったらしく、それをどう評価していいのかわかりません。内容は映画のストーリーとほぼ一致しています。
 ソビエトでの映画製作はゴスキノと呼ばれる委員会の裁可が必要で、『ストーカー』も例外ではありません。原作を『路傍のピクニック』にすることや、シナリオはストルガツキー兄弟とタルコフスキーが書くということは、ゴスキノに提出した前提でした。シナリオの出来が気に食わず、またタルコフスキー自身がコンセプトを変えてしまい、もはや兄弟が必要とされなくなっても、一度決まったことを違えるのは、ゴスキノとの前提が崩れることを意味します。そんなことから『願望機』の扱いに躊躇したわけです。
 また自伝的要素が少ないと思われる『ストーカー』ですが、すでに話したように作家とストーカーに自己を投影していて、またもし教授に科学やソビエト社会を反映させているとすれば、そこにはリアルタイムのタルコフスキーの姿が見え隠れしますし、何よりもその後の彼の行動の予感が含まれていると思われます。
 当局との関係で『路傍のピクニック』は『願望機』という段階をへて『ストーカー』を完成させる役割を担ったわけで、それはストルガツキーが書いたということでなければいけません。原作のある作品の企画書はタルコフスキーとしては比較的当局と交渉しやすい事例でもあったようです。特に当局はSFを子供の読物として危険性の低いものと思っていたのでしょう。『惑星ソラリス』の先例があるので、それなりに勉強したでしょうが。
 『鏡』も『アンドレイ・タルコフスキイの「鏡」の本』にあるいくつかの企画書などを読むと、そういった事態が常にあったことがわかります。『惑星ソラリス』に対する当局からの修正リストをタルコフスキーは日記に書いています。それをどうクリアしたかも興味深いことではあります。ただ『ストーカー』は、撮影予定現場の災害、現像事故や撮影監督の交代、そしてシナリオの変更など表に出ている部分が多いので、製作上の改変が注目されているのでしょうね。
 タルコフスキーは『路傍のピクニック』の最終章の望みが叶う場所について強く惹かれ、そこを核として、ストーカーと作家、教授というキャクターを組み立てていくうちに、ストーカーの人間像の変更に心が及んだと考えられます。

――タルコフスキーの背景として、キリスト教文化とロシア的価値観というふたつの重要な要素があると思いますがいかがですか。また資料は膨大です。何を読み、どうタルコフスキー解釈につなげていったのでしょうか

忍澤 キリスト教文化とロシア的価値観も、大事なポイントだと思います。『鏡』で謎の女性が「作者」の息子に読ませるプーシキンの手紙や、私はまったく触れていませんが、『アンドレイ・ルブリョフ』の隠されたテーマであるロシア人とタタールとの関係、さらに『サクリファイス』の古地図やそれにまつわる会話などにその片鱗が見てとれます。
 そもそも『アンドレイ・ルブリョフ』の一つのきっかけとなったルブリョフ・ブームをソビエト当局が黙認したのは、そこに宗教的に側面を重視せず、大ロシア主義の涵養を期待したのでしょう。
 いろいろな気づきを与えてくれたのは、やはり『タルコフスキー日記』と『映像のポエジア』でしょうか。前者は彼の繊細なるガサツさが垣間見え、後者は映像を中心とする芸術への真摯な態度が窺えます。
 そしてユーラシア・ブックレット『マーシャは川を渡れない』を見つけたのは幸いでした。これで『僕の村は戦場だった』の劇中に流れるレコードの歌詞が判明し、それを歌うシャリャーピンの人生を知ったことで、登場人物の表情の意味を推測できたのです。
 原作には蓄音機は出てきましたが、曲までは登場していません。また原作にはイワンに本を渡した記述がありますが、映画の核となるイワンが眺めるデューラーの『黙示録の四騎士』の絵は出てきません。このようにタルコフスキーは原作の小説を読み込んで、それを映像として具体化する時に、自分の表現の幅を広げるモノやコトを加えています。
 タルコフスキーが作り出した新たな場面も大切ですが、原作にある事柄に何かを加えている場面は特に注意が必要です。例をもう一つ加えれば『僕の村は戦場だった』の原作には、最初に斥候に出たイワンとソビエト兵の合流場所は地名のみが記されていますが。映画の台詞ではそこに木があるとされています。最後にイワンが手を伸ばした木がその木だとすれば、物語はほぼすべてが合流地点に到達できずに川に流されていく彼の思いということになるのです。

 ――それでは最後に、今後の抱負などお聞かせ願えますか

忍澤 かつての日本映画をタルコフスキーがどう観てきたのか、あるいは同時代の監督たちとは相互にどんな影響を与え合っていたのか、といったことについて考えていきたいと思っています。
 日本映画の専門家である高槻さんは私よりずっとお詳しいと思いますが、タルコフスキーは大の日本好きで、学生時代から溝口健二や小津安二郎、もちろん黒澤明などの作品を観てきたはずです。今回はたまたま校了間際に『無法松の一生』の引用と考えられる箇所を発見したので、タルコフスキーの日本映画への興味の幅がさらに広いことがわかりました。まるで宝探しのようですが、この時代からの日本映画にタルコフスキーがどう影響されたのかを考えてみたいですね。また同時代の西欧の監督たち、特にベルイマンからはかなりの影響があったものと思われます。この辺を探っていくのが今後の課題となるでしょう。