「閉塞を楽しむ『ナイトランド・クォータリーvol.27蟄居/幽閉/籠城~潜み棲む恐怖』書評」川嶋侑希

 〈ステイ・ホーム〉を余儀なくされる現在、外での楽しみのほとんどが奪われてしまった、と絶望する人は多いだろう。外食、観光、友人とのお喋り、大好きなイベント……。規制の中で少しずつ楽しめるようになったかと思うと、唐突に中止になってしまう日々が繰り返されている。私の日常生活は、もとからアクティブではなく、家で休日を過ごしても、さほど苦痛はない。だが、外出が好きだったり、それがストレス発散になったりする人は、家に籠る事に抵抗があるだろう。まるで幽閉されてしまったような気分になるのではないかと思う。外出が自己判断で可能とは言え、不要不急の外出をしたと判断されると、白い目で見られてしまう世の中なのだから。
 そんな終わりの見えないパンデミックに悲しみ苛立ち続けるのならば、発想を逆転させて、読書を介して〈ステイ・ホーム〉期間を楽しんでみるのも一興だろう。本書『ナイトランド・クォータリーvol.27蟄居/幽閉/籠城~潜み棲む恐怖』(アトリエサード刊)は、私がそうして読書を楽しんでいる中で、出会えて良かったと思える一冊だ。本書には閉塞に悩まされた者たちが何人も登場する。そのほとんどが閉塞と向き合い、現状を打破しようと必死にもがく。そんな彼等を見ていて、私の心は次第にうずうずし始めたのだ。私は現状に甘んじていつもと変わらない日々を過ごしている事に気づいた。こうして少しだけつまらなくなった休日を漠然と過ごすのは、勿体ない気がしてきたのだ。彼等は身を守りながらも自由に、退屈せずに、自分の能力を高めつつ、強固な閉塞を攻略していく。私はそれに自分を重ね、この〈ステイ・ホーム〉という閉塞をいかに攻略し、充実させられるかを前向きに考え始めた。本書は、閉塞が自分を成長させる無限の可能性を秘めている事に気づかせてくれる。
 巻頭では岡和田晃氏による詩『みずからを凍結させて仄暗く――エミリー・ディキンスンに』が我々を出迎えてくれる。俗世を離れて詩を書き続けたアメリカの女性詩人エミリー・ディキンスンへ寄せられたこの作品からは、滅亡を静かに見つめる眼と、その内に宿る生への熱意を感じ取る事ができる。この詩を読了すると、まるで部屋の照明を一段階落とされたかのように薄暗く、静かな心持ちとなり、後に連なる諸作品への期待も高まってゆく。本書には短編小説のみならず、インタビュー記事やエッセイ、ブックガイドも数多く収録されている。
 8作品ある短編小説はどれも秀逸であり、それぞれの作品が閉塞と対峙する人々の状況や心理を見事に描く。デボラ・ビアンコッティの『完璧な嘘』(棚藤ナタリー:訳)とカーロン・ウォーレンの『生きてるだけで丸損さ』(待兼音二郎:訳)は、両作品とも洞窟という閉鎖空間で事件が起きる話だ。洞窟の中で自分と向き合わざるを得なくなった、それぞれの主人公達。両作品のリアリティある展開を楽しみつつ、物語の類似点や相違点を考えてみるのも面白い。
 そして、勿論閉じ込められる(閉じ込められる:傍点)だけではない。権力者の籠城を外から打ち破るアグレッシブさが際立つ、片理誠氏の『空中楼閣を”ふんわり”と引きずり下ろす』。ヨハネス・ウルツィデルの、不気味な地下室へ不気味な存在が溶け込んでゆく、魔法の香り漂う『九悪魔荘』(垂野創一郎:訳)など、閉塞を外側から見た者を描く作品もある。
 また、エッセイやブックガイドでは、書籍のみならずアート、映画、ゲーム、音楽などの他分野から、閉塞にまつわる作品を数多く紹介し考察している。中でも、あだちひろし氏へのインタビューによって、〈要塞〉や〈魔城〉の作り手側の話を読めるのは楽しい。〈ネクロスの要塞〉は1987~89年頃に販売された100円の食玩シリーズで、菓子のおまけとして入っているカードとフィギュアを使用してRPGがプレイできるものだ。100円で楽しめるとは思えない程、洗練された物語とイラストを堪能できたという。その世界観やルールを引き継いで、2015年、〈メタモスの魔城〉が販売された。〈ネクロスの要塞〉のように壮大な物語を味わう事ができ、尚且つ独立した作品としてのプレイが可能な新シリーズだ。現在は通販でセット購入が可能だ。両作品ともあだち氏がデザインを行っている。アイテムを集めて敵の待ち構える城へ挑んでいく、という一見シンプルな冒険譚の中に、プレイヤーを長く楽しませる為の綿密な工夫が凝らされているのがわかる。
 更にもう一つのインタビュー記事では、翻訳家であり、『NW-SF』2代目編集長を担っていた山田和子氏の話を読む事もできる。『NW-SF』はスペキュレイティブ・フィクションとしてのSFを、ジャンルを超えて収録していた文芸誌だ。山田氏の『NW-SF』編集部での経験談や、編集部に関わる以前以降の活躍、また、翻訳や文学に対する見解について、読書歴を交えながら語られている。
 中でも印象深かったのは、山田氏が翻訳の作業中に「文章の流れ」を重視しているという話だ。山田氏の翻訳作業は作品をひたすらに読み込む事から始まる。まず何度も読んで作品の全体像をしっかりと捉える。次に翻訳しながら不明点を追求し、細かな解釈を詰めていく。そして細部まで推敲を重ねて全体をブラッシュアップさせていく。これが大まかな作業の手順だ。その作業の中で、山田氏は日本語としての「文章の流れ」を整えていくのだという。翻訳した文章を音読して、その流れやリズムを確認し、不自然な言葉を語尾のひとつまで直していく……。何という地道で丁寧な作業なのだろうか。私は普段、翻訳についてはあまり気にせずに、作品の内容ばかりを楽しんでしまっている。しかし、そうして内容を楽しめるのは、山田氏のような翻訳者の方々が膨大な時間と労力を費やして、「伝える為の工夫」をしてくださっているからなのだ。この記事を読むと、読者が作品に没入できるのは、制作者らの創意があるからというのがよくわかる。

 留学先のイギリスで蟄居を決め込んだ漱石は、多くの書物に囲まれて学び続ける事で自分を磨き続けた(井村君江『〈覚えておいて欲しいこと〉第五回 夏目漱石の蟄居』)。少女マリアンヌは幽閉の最中にその想像力で心を自由に遊ばせ、夢と現実の境界を越えて成長を果たした(松本寛大『スケッチブックに描かれた魂の一時避難場所』)。本書で閉ざされた空間と向き合っていた者達は、何も心まで閉ざして絶望しているわけではない。そのほとんどが現状をより良くする為に、ひたすらに試行錯誤を繰り返しているのだ。自分しかいない場所にいると、自然と己と向き合う事になる。それを自らの成長に上手く利用した漱石やマリアンヌのように、この閉ざされた環境の中で何ができるのか、何がしたいのか、今一度自分に問い直してみるのもいい。誰にも邪魔されずじっくりと時間をかけるほど、自分だけの純粋な思考が暗闇の中から色づいて、輪郭を露わにしてくれるだろう。既に非日常を生きている我々にとっては、たとえそれがどんなに現実離れした空想だったとしても、取るに足らない問題なのだ。