「スターライト(前編)」伊野隆之

 腕の中のスターライトは思った以上に軽かった。牧場にある丘の麓でバギーを止め、なだらかに続く坂を登る。踏み固められた道の先、広い牧場を見渡す丘の頂上には、スターライトの母親、シリウスが眠っている。
 牧場が大好きだったシリウス。小さな子犬だったスターライトも、兄弟たちと一緒に牧場を駆け回り、この丘を一緒に登ったものだった。
 ずっと一緒にいられたら良かったけれど、シリウスに加えて、遊びたい盛りの仔犬たちの面倒を見るのは、無理だった。
 お気に入りの毛布にくるんだスターライトの亡骸を草の上に横たえ、僕は背中から背嚢を降ろす。折り畳み式のシャベルを取り出し、シリウスが眠るその横に、僕はスターライトのお墓を掘り始める。
 シリウスのお墓を掘ったときは、父も一緒だった。二人で汗を流し、母を加えた三人でシリウスを埋葬したことを思い出す。何年も前のことなのに、記憶は昨日のことのように鮮やかだった。父の足が弱くなったことを思うと、これから先、両親と一緒にここに来ることはないだろう。
 砂利混じりの土を掘るのは大変だった。ちゃんとしたシャベルを持ってくれば良かったのだが、わざわざ取りに戻る気にはなれない。
 額を流れる汗を拭い、僕は空を見上げる。雲一つなく、今夜も満天の星が見えるだろう。背嚢の中には毛布もあるし、コーヒーを淹れるコッヘルだって入っている。僕はここで夜を明かすつもりだった。
 固い地面を掘り始めてから、一メートルほどの深さになるまで一時間ほどかかった。僕は、地面の上で毛布に包まれたまま横たえられているスターライトの隣に腰を下ろし、毛布の隅をそっとめくった。そこには、まるで眠っているような顔が見える。シリウスと同じ額の白い星、その上の手術痕はほとんど目立たない。
「ゴメンよ」
 スターライトに声を掛け、頸のあたりをそっとなでる。
 ずっと一緒にいたかった。四頭の仔犬たちは良く懐いていたし、中でもスターライトは僕に一番懐いていた。僕の姿を見ると、テニスボールを咥えて駆け寄って来て、一緒に遊ぶのを催促した。けれど、全寮制の高校に進学が決まっていた僕は、家を離れることになっていたし、両親に仔犬たちの世話を押しつけることは出来なかった。
 元々、仔犬たちをシリウスの元で育てるのは、半年の予定だった。父からすれば、引き渡す予定の相手が引き取れなくなり、しばらく手元に置いておくことになったということでしかない。僕が何を言ったところで、スターライトとは一緒にいられなかったろう。
 父が連絡したのは、地域の盲導犬協会だった。子犬たちは一緒に引き取られ、誰かの役に立つ立派な盲導犬になる。そう言った父の言葉で、僕は自分自身を納得させるよりなかった。
 ピックアップトラックの荷台のケージに入れられた四頭の仔犬を、シリウスと僕たちは、牧場の家の玄関から見えなくなるまで見送っていた。
 両親がシリウスの安楽死を決めたのは、その四年後だ。大学進学が決まったところで、僕は学費を稼ぐためのバイトを休んで、急いで両親の元に戻った。
 シリウスの脳には腫瘍が出来ていた。食欲が落ち、意味なく哭くようになった。行動に落ち着きが無く、診てもらった獣医は、苦痛を紛らわせているのだと言う。腫瘍の場所も悪く、手術も出来ないと聞いた僕は、安楽死という両親の決定を受け入れるより他なかった。
 いつの間にか、随分、日が傾いていた。風が変わり、空には僅かに朱が差し始める。そろそろ星が見え始める頃だった。
 今、全天で一番明るいのは木星で、次に明るい星がシリウスだ。
    * * *
「そう言えば、スターライトにそっくりな犬を見たわ。人を襲ったようなの。何とかしてあげられないかしらね」
 大学を卒業した僕は、ロサンゼルスのコンサルに職を得ていた。久しぶりの母との電話で、そんなことを聞いた僕は、仕事の合間に母から届いたメールのリンクをクリックする。 
 ――役立たずの盲導犬、またもや交通事故を引き起こす。
 PCの画面には、そんなネットニュースの見出しと一緒に、檻に入れられた犬の画像が載っていた。特徴的な額の星を、僕が見間違うはずがない。檻の中の犬はスターライトだった。
「……私は止めようとしたの。でも、リードが手から抜けちゃって。それは申し訳ないと思ってる。でも、あの子は理由もなく誰かに吠えかかる子じゃぁ……」
 動画では、黒い髪に青のメッシュが鮮やかな女性が話していた。顔は隠されているが、短く整えられた髪とドリームキャッチャーのピアス、シャープな顎のラインが印象的だった。被害者は若い男で、歩道を歩いていて突然吠えかかられ、車道に飛び出したところにバイクが突っ込んできて、事故になったらしい。さほど大きな事故でもないのにニュースになったのは、その犬が事故を起こしたのが二回目で、しかも、前の事故では飼い主が死んでいるからだった。
 スターライトが、なぜ、事故を起こしたのか。そんなことを考えながら記事を斜め読みしていた僕の目に、「殺処分」という文字が目に入る。
 思わず、心臓の鼓動が早くなる。
 スターライトは、貰われて行った犬で、もう、僕とは関係ない。名前だって、別の名前が付いているはずだ。それに、人を襲った事実は変えようが無く、今更、僕に出来ることはない。そう自分に言い聞かせ、僕はニュースが表示されたウインドウをクローズした。
 スターライトが人を襲った場所は分かっていた。それなら、収容先のアニマルシェルターは限られる。そう思いついたのは、近所のデリで夕食を選んでいるときだった。
「ねえ、昼の話だけど、もしスターライトだったらどうする?」
 チリドッグを頬ばりながら、母に電話したのは、僕自身が犬を飼えるような状況じゃなかったからだ。
「まだ犬の世話くらい出来るわよ。それにスターライトなら、そんなに手間のかかる子じゃないだろうし」
 シリウスが死に、次の犬を飼う気になれないと言っていた母だったが、スターライトは特別なのだろう。
 ロサンゼルス郊外のその街は、さほど大きな街ではなく、スターライトが収容されていそうなアニマルシェルターは三つしかない。僕は急いで全てのシェルターにメールを送った。
 地域の盲導犬協会に、四頭の子犬を引き渡したこと、人を襲ったというニュースの犬が、そのうちの一頭の可能性が高いこと、もうしそうであれば、その犬を引き取りたいこと。メールには母から送られたリンクの記事とともに、盲導犬協会に貰われて行く直前のスターライトの写真を貼付した。
 まだ、幼い頃のスターライトと、檻の中で悲しそうな表情を見せる犬。僕は二枚の写真をディスプレイ上で、改めて見比べた。檻の中の犬は、間違いなくスターライトだ。
 ――お問い合わせの犬は、当施設では収容しておりません。
 翌朝すぐに、そんなメールが二通届いた。三通目が届いたのはさらにその翌日だった。
 ――お問い合わせの件ですが、該当する保護犬につきまして、当施設での収容は終了し、既に第三者への譲渡を完了しております。残念ながら、当該保護犬の譲渡先に関しては、お知らせできません。
 スターライトが連れて行かれたアニマルシェルターは判った。ただ、そこで行き止まり。
「スターライトにそっくりな犬だけど……」
 電話の向こうの母に、あえてそんな言い方をしたのは、母に余計な心配を掛けたくなかったからだ。
「……もう、誰かに引き取られてたよ」
 アニマルシェルターは、問題を起こした犬を、誰かに簡単に引き渡しはしない。引き渡すとすれば、確実に犬の管理が出来る相手だ。
「そうなの。良い里親さんだといいんだけど……」
 母の声の調子に、僕は気が付いた。問題がある犬を、アニマルシェルターがあっさり譲渡するような先は、普通の個人ではあり得ない。盲導犬としてはもう失格だろうし、可能性があるのは犬を実験動物として使う研究機関くらいだ。
「そうだね。きっと良い人だと思うよ」
 僕は、僕の言葉がなるべく自然に聞こえるように願っていた。もし、実験動物として引き取られたのだとしたら、幸せに生きていけるとは思えない。
「だと良いわね」
 母との会話を終えた僕は、犬を実験動物として使いそうな施設を探しはじめた。もちろんそれは、アニマルシェルターを探すのとは、比べものにならないくらい難しい。動物愛護団体による抗議行動のターゲットにされるのを避けるため、彼らは施設情報を公表していない。
 ――お探しの保護動物につきまして、是非連絡を取りたいという方がおられます。そちらの連絡先をお知らせして良いでしょうか?
 スターライトはいないと回答してきたアニマルシェルターの一つから、そんな連絡があった。つまり、僕の他にスターライトを探している人がいて、その誰かは僕とコンタクトを取りたがっている。僕には連絡を断る理由は何もない。
 僕が、アニマルシェルターにメールを返した二時間後には、レジーナからのメッセージが届いてた。レジーナ・コーエン。スターライトが事故を起こしたときの飼い主だという自己紹介が書いてある。
「……あの時は、慌てちゃってて……」
 インターネットで繋いだ画面の向こうに、インタビューを受けていた女性がいた。短く整えられた髪にドリームキャッチャーのピアス、シャープな顎のライン、インタビューでは隠されていた瞳は深いブラウン、迷彩柄のTシャツの胸元は大きく開いている。
「それで、引き渡しの同意書類にサインを?」
 僕の言葉に、彼女は頷いた。
「警官がアニマルシェルターの人を連れてきていてたの。引き渡すのが当然のような言い方だった。メイベルを引き渡す必要はなかった、って分かったのは、つい、昨日よ」
 彼女にとって、スターライトはメイベルという名前だった。その犬が突然若い男に吠えかかって、男が車道に逃げたところで事故になった。けがは重傷ではなかったらしいが、被害者から訴訟を起こされたレジーナは、弁護士のところに相談に行き、それで犬を引き渡す必要はなかったと聞いたのだ。
「うちではスターライトと呼んでた。額に星があるでしょ? あれは母親譲りなんだ」
 僕は、スターライトを手放した経緯をかいつまんで話した。可能であれば引き取りたいとも言ったが、飼い主の元に戻れるなら、スターライトにとっても、その方がいいかも知れない。
「そうなのね。でも、私にとってメイベルは母の形見なの。だから、これから先も一緒にいたい」
 それならなぜ引き渡したとは言わなかった。事故を起こしたスターライトは、問題のある犬と見なされたろうし、レジーナも犬を躾(しつけ)られない、問題のある飼い主だと判断されたに違いない。
「で、どうするつもり?」
 そう言った僕の言葉は、少し意地悪く聞こえたかも知れない。
「もちろん取り返すわ。メイベルは私の犬だもの」
 きっぱりと言うレジーナ。
「じゃあ、急がないと」
 一刻も早く取り戻さないと何をされるか分からない。それは、実験動物として引き取られた可能性が高い以上、あえて言う必要のないことだった。
「そのとおりね」
 僕は優秀なハッカーではないし、家にいて出来ることは情報検索くらいで、スターライトが引き取られていった先は調べようがない。
「どこに引き取られたか、手がかりは?」
「メイベルのいたアニマルシェルターに行こうと思うの。近所の人が連れて行かれるところを見ているかも……」
 レジーナは、僕が考えていたとおりのことを言った。僕もそれくらいしか思いつかなかったのだ。
 翌日、僕たちはアニマルシェルターのすぐ近く、有名チェーンのレストランで待ち合わせた。昼食のパンケーキを食べているところで、待ち合わせ時間どおりに赤いマツダが駐車場に入ってくるのが見えた。レジーナの車だった。
 店に入ってくるなり、レジーナは僕を見つけた。変装でもしているつもりか、大きなサングラスを掛けた彼女は、画面越しに見たときとは違い、きっちりしたスーツ姿だった。一方の僕は、画面越しに話したときのままで、着古したグレートフルデッドのTシャツに、膝の抜けたリーバイスだった。
「お待たせしてしまったかしら?」
 テーブルに着くなり、サングラスを外した彼女は、思ったよりも大人っぽく、ピアスもピジョンブラッドが鮮やかなルビーに変わっている。
「そんなでも。ちょうどお昼時だしね」
 それに、実際のレジーナは、画面越しよりも美人だ。
「私も同じのを」
 近づいてきたウエートレスに、レジーナもパンケーキとコーヒーをオーダーした。
「サイズはどうされますか?」
 ウエートレスが尋ねた。
「同じでお願い」
「これ、ビッグサイズだぞ」
 プレートに残っているのは、二枚半になっていたけれど、僕が頼んだのは七枚重ねだった。
「いいのよ。このお店のパンケーキはおいしいから。それよりシェルターの出入り口を確認してきたの。ちょうどすぐ向かいに小さな食料品店があって、店の中に防犯カメラがあったわ」
 レジーナの言葉に驚いたのは、同じことを僕も考えていたからだ。防犯カメラの映像を確認できれば、アニマルシェルターに出入りしている車が判る。その中の一台が、スターライトを引き取った車だ。
「もう、下見してたんだ」
 しばらくしてウエートレスが山盛りのパンケーキを運んできた。レジーナは、さりげなくプラスチックのタッパーを取り出し、いかにも慣れた様子でパンケーキを四枚入れた。
「明日の朝食。冷凍でもいけるわよ」
 店を指定したのはレジーナだ。元々、持ち帰りにするつもりだったんだろう。
「確かに、それ正解」
 僕は、自分のプレートを平らげ、適温になったコーヒーをすする。その様子を見たレジーナが、残りのパンケーキを切り分ける手を止めて、ハンドバッグからUSBメモリを取り出した。
「これを調べるの、手伝ってね。大丈夫、ウイルスなんて付いてないから」
「これって?」
 僕はレジーナの行動力に驚かされる。彼女は既に防犯カメラの映像を手入れていた。
「メイベルがつれてこられた翌日から、あなたが問い合わせをした日の翌日まで、三日分。三倍速なら丸一日、二人で手分けすれば半日よ」
 それからレジーナが僕の部屋に来たのは、僕の部屋の方が近かったからだし、画像の確認に使えるPCが二台あったからだ。読みかけの雑誌やペットボトルで散らかった部屋を見渡したレジーナは、何も言わずにスーツのジャケットを脱ぎ、リビングの椅子の背に掛ける。
「そんなには酷くないだろ?」
 つい、そんなことを聞いてしまう。
「別に期待してないから」
 アニマルシェルターの入り口が映っているのは、防犯カメラの映像の隅だった。僕は、その隅をズームアップした状態で固定し、五倍速で連続再生を始める。
 アニマルシェルターを訪れる車は少なくない。多くは普通の乗用車で、後部座席に犬が見えることもあった。檻に入れた何頭もの犬を運んできた小型トラックもあった。その犬たちが、どんな事情でアニマルシェルターに運ばれてくることになり、この先どうなるのか、画面を見ているだけの僕たちには知りようがないが、収容数には限界があり、限界を超えたら殺処分が行われる。それが現実だった。
「ちょっと見て貰って良い?」
 別のPCで画像をチェックしていたレジーナが言った。彼女が見ている画面には、小型のバンが映っている。何かの配達なら車体に必ず描かれているような広告が一切なかった。
「確かに怪しいけど」
 その一方で、どこの車か手がかりになる情報もない。防犯カメラの頼りない解像度では、ナンバープレートも読みとれなかった。スクリーンショットを保存した僕たちは、翌朝まで、残りの画像の確認を続けた。
「結局、怪しいのは、あの白いバンだけか」
 候補を絞れたのは良かったけれど、そのバンがどこのものか、調べるための手がかりがない。
「これから何が出来るか、考えましょう」
 夜明け前の朝食にレジーナが持ち帰ったパンケーキを温め、二人で分けて食べた。それでも、捜し物サイトを使うぐらいしか調査を進めるためのアイデアは出てこない。
「何もやらないよりは良いと思う。そっちはお願いね」
 レジーナは、ソファに横になり、すぐに寝息を立て始める。僕はダメもとで、捜し物サイトにバンの画像をポストした。
 今日の予定を確認し、会社に休みのメールを入れる。在宅勤務に切り替えても良かったけれど、仕事が手に着くとは思えなかったし、やっぱり徹夜は堪える。シャワーを浴び、テーブルに寝室にいるというメモを残して、僕はレジーナがいるリビングを離れた。
 シリウスは特別な犬だった。血統とか、品評会で賞を取ったとかではない。軍用犬の能力向上に向けた研究に使われていた系統なのだ。だから頭が良く、従順で、体力にも恵まれている。そんなシリウスを父が手に入れることになったのは、軍用犬の研究プログラムが、大幅に縮小されたからだ。
 百頭近い犬たちが、プログラムの関係者を介して引き取られたという。生まれたばかりの仔犬にシリウスという名前を付けたのは、母だった。天体観測が趣味の母らしいが、シリウスは星の名前や映画に出てくる犬ではなく、昔の小説に出てくる賢い犬の名前らしい。
 シリウスが三歳の時に、父は交配を決めた。退役軍人のネットワークを通じて、同じプログラムで飼育されていた犬を探し、交配相手を選んだ。それで生まれたのが、スターライトを含む四頭の仔犬たちで、予定していた貰い手が引き取れなくなり、盲導犬協会に引き取ってもらった。
 僕は、手短に今までのいきさつをレジーナに話した。レジーナはレジーナで、四十代で失明した母親が、盲導犬になったスターライト(彼女にとってはメイベルだ)を迎えてから、元々の明るい性格を取り戻し、積極的に外出するようになったと話してくれた。
 彼女の母親が事故にあったのは、訓練を終えたスターライトを迎えた三年後の事だった。事故を起こした相手は家具を配送中の車で、速度も出していなかった。それがレジーナの母親の死につながってしまったのは、打ち所が悪かったとしか言いようがない。元々あった動脈瘤が破裂し、くも膜下出血を起こしたことに加え、大規模なデモで救急車の到着と病院への搬送が遅くなったことが致命的だった。事故の様子は配送車のドライブレコーダーに記録されており、レジーナの母親が、路肩に止まっていたトラックの背後から飛び出してきたという運転手の説明通りの状況に疑問の余地はなかった。
「でも、絶対おかしいの。母にとってメイベルは自分の一部なの。メイベルのリードを離すなんて、あり得ない」
 レジーナの言葉は、捜査に当たった警察官には聞き入れてもらえなかった。何らかの理由でリードを離してしまって、方向感覚を失ったレジーナの母親が、慌てて道に飛び出したというのが警察の見解だった。つまり、事故の原因はレジーナの母親側にあるとされたのだ。
 残念ながら捜し物サイトは役にたたなかったけれど、僕が寝ている間にレジーナは重要なことを思い出していた。
「そう言えば、母の事故の後、メイベルを引き取りたいって人が来たの。あの白いバンに乗っていたわけじゃないわ。でも、もし、犬を手放すなら、連絡してほしいって……」
「で、どうしたの?」
 つい、余計なことを聞いてしまう。
「すぐ追い返したわよ。手放すつもりなんてなかったし……」
 レジーナの表情は、本当に寂しそうだった。
「もしかすると、その話、僕の両親も知っているかも知れない」
 レジーナの話を聞いて、僕も思い出したことがあった。父がシリウスの交配のために、スターライトの父親と、そのオーナーを牧場に招いた時のことだ。二人はそれぞれの犬を足下に従え、暖炉に薪をくべながら、現役の軍人だった頃の話をしていた。父が自分で作ったテーブルには年代物のバーボンが置かれ、肝臓を悪くしていた父はたまに唇を湿らせる程度だったのに対し、共通の友人が何人もいたという訪問者は、父が作った自家製の薫製をつまみに、いいペースでグラスを空けていた。
 僕がその場に居合わせたのは、夕食の食卓に着くのが遅くなり、席を立ちそびれてしまったからだ。二人の元軍人はリラックスした様子で、側にいた母は分解した天体望遠鏡のプリズムを磨いていた。街の明かりの影響がない牧場は、夜空を見るにはうってつけなんだけれど、あいにくその夜は曇っていた。
「この前、……の奴から連絡があって、こいつを貸してくれないか、って言うんだ。まあ、種付けなんだろうが、あいつのところで生まれた仔犬が大事にしてもらえるはずもないしな、去勢したと言って断ったよ」
 父の友人がそんなことを言ったのを覚えている。
「正解だな。お偉い先生は大学に移ったんだろ? また犬たちに変な機械を付けて実験してるんだろうな」
 そんな記憶が、よみがえってきたのは、スターライトのことばかり考えていたせいだろう。僕は、急いで両親に連絡を取り、二人が話題にしていた名前を聞き出した。
 デロン・マシューズ。父から聞きだした名前で検索すると、いくつか論文がヒットした。研究の詳しいと内容は理解できなかったが、脳神経系の研究で、しかも、実験動物として犬を使った論文だった。
「私のところに来た理由も同じようね」
 レジーナは、最新の論文にある著者の所属に見覚えがあるという。州立大学の神経科学センターを検索し、研究者のリストを見ると、確かにデロン・マシューズの名前があった。研究テーマは視覚情報の脳内における処理。プロフィール写真では、にこやかそうな笑みを浮かべているが、神経質さを隠せないように見えた。
「あまり開放的な場所には見えないな」
 ウェブサイトに掲載された建物の外観は、窓がほとんどなく、大学と言うよりは、民間の研究機関のようだった。実際、研究内容を紹介するページには共同研究をしている民間企業のリストがあり、中には有名なベンチャー企業もある。民間資金が入ってるなら、秘密保持にうるさいかも知れない。
「行ってみるしかないわね」
 学内ニュースの記者を装うとか、使えそうにないアイデアをいくつか却下した僕たちは、とりあえず、レジーナの運転で州立大学に向かった。
「大当たりよ」
 神経科学研究センターの駐車スペースに、僕たちが探していたバンが停められていた。
「で、どうする?」
 僕が聞くと、レジーナはきっぱりと言う。
「ここまで来たら正面突破しかないわね」
 スターライトが連れて来られた施設は、シェルターでも動物病院でもなかった。犬を実験動物として使う施設が、何もせずにスターライトを飼っておくとは思えない。
「賛成。とりあえず、マシューズ博士に当たろう」
 でも、僕たちは間に合わなかった。
(後編に続く)