「日本SF史再構築に向けて――その現状と課題についての考察③」長澤唯史

三島由紀夫と安部公房のSF観
 前回の文章の中で少し触れた三島由紀夫の投書は、SF専門同人誌『宇宙塵』1963(昭和38)年9月号に掲載されたものである。600文字強ほどの短いものだが、「私は心から日本に立派なSFが生れることを望んでゐる。(中略)日本人によって書かれたSFには大てい目をとほしてゐるつもりである」と豪語したあとで、三島は日本SFの現状に対する不満を書き連ねる。
(以下引用) 
 しかしいかにも未来の話とはいへ、国籍不明の片仮名名前などが出てきて、アメリカのハード・ボイルド小説の人物のやうな言行を示すのにはとてもついて行けない。さうかと言つて日本的な香りを出さうとしたものが、ミイラとりがミイラとなつて、古い日本的感性に逆行するやうな結果になつたものもいただけない。(中略)
 SFは本来、いくら知的でありすぎてもよい自由なジャンルである。アメリカでも、SFには特有のソフィスティケイテッドな読者が多いと聞いてゐる。日本のさういう読者の気むづかしい鑑識眼をも満足されてくれるものが、続続と出て来てほしい。(中略)SFからはすくなくとも、低次のセンチメンタリズムが払拭されてゐなければならぬ。
 私は心中、近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか、とさへ思つてゐるのである(三島5)
(引用終わり)
要するに閉塞状況におかれた現代文学の突破口をSFに見いだそう、という三島のアジテーションである。〈低次のセンチメンタリズム〉や〈近代ヒューマニズム〉を敵視する、いかにも審美的な芸術至上主義者の三島らしい文学観に彩られた文章だ。だが近代リアリズムの限界を超えようとする三島は、SFや幻想文学と日本文化の精髄を融合させようとした試みの果てに、独自の表現技法を編み出した。それは『美しい星』はもとより、『近代能楽集』に収めされた「卒塔婆小町」をはじめとする各編、さらには転生を主題とした「豊饒の海」四部作などに結実している。
 三島以上に、SFに新たな文学の可能性を見いだしていたのは、言うまでもなく安部公房であった。その安部のSF文学論といえば「SFの流行について」(1962)だ。どうやら『朝日ジャーナル』誌に掲載されたエッセイのようだが、媒体の性質上、SFに馴染みのない読者が大半だったのだろう。SFとは何かを簡潔に紹介するために、あれやこれやの苦心の跡がみられる。だがそのために逆に、SFの本質や特徴を的確にとらえているのみならず、安部のSF観が見事にとらえられたSF論となっている。
 そのエッセンスは「疑似科学こそ、その生命」「仮説の素材としての科学」といった小見出しによく表現されている。安部にとっては「疑似科学の精神こそ、SFをささえている大事な支柱」なのだ(安部41)。科学的思考や推論の「正しさ」を一顧だにしない安部は、「たとえば、現実がその作家の予言どおりになった、というような評価のしかた」(安部42)はSFにとっても文学にとっても害にしかならない、とまで言ってのける。「正しい空想」と「誤った空想」を対比することこそ、SFが乗り越えるべき固定観念なのだ。現実の軛を振りほどいて飛翔する想像力が何を生み出すか、その結果をこそSFは求めるべきだというのが安部のSF論のエッセンスだ。

 発見にともなう驚きの感情を、読者の中にどれだけ引き起こしえたかが、まず問われなければならないのではあるまいか。発見された事実への接近度よりも、発見という行為の内在法則への接近度のほうが、文学的にははるかに重要な意味をもつはずである。つまり、仮説を立てて、日常的な既成の法則に、まったく別の法則を、どこまで対置できたかということである。
 日常性とは、言い変えれば、仮説をもたない認識だともいえるだろう。いや、仮説はあるのだが、現象的な事実と癒着してしまって、すでにその機能を失ってしまっているのだ。そこに、あらたな仮説をもちこめば、日常性はたちまち安定を失って、異様な形相をとりはじめる。日常は活性化され、対象化されて、あなたの意識を強くゆさぶらずにはおかないはずである。(安部45)

この安部のSF観にはきわめて重要な提言がある。日常に内在する、あるいは日常を支えているものは、じつは「仮説」に基づいた「認識」なのであり、SF的な操作によってその認識を揺さぶることこそ現代文学の機能である、という安部の主張は、ブライアン・マクヘイルが提唱した存在論的様式としてのポストモダニズムを35年も前に先取りするものだ。マクヘイルのポストモダニズム/SF論については稿を改めて論じる予定だが、安部公房の先見性と普遍性は今こそ再評価されるべきと信ずる。

安部公房の再評価に向けて
 やはり前回紹介したバロンのSF論集『驚異の解剖』では、安部公房は他の日本人作家とは異なる扱い方がされている。安部の『第四間氷期』は、ルイスの独立した日本SFの章ではなく、現代SF全般を論じた第三章「現代:1938-1980」(The Modern Period: 1938-1980)で採りあげられているのである。他にSF史の概観に登場する日本人作家はいない。その事実が、海外での安部公房の評価を端的に示しているといえる。
 だが安部公房の日本における評価はまだまだ発展の余地を残している。それはSF批評の内部だけでなく、日本の近現代文学研究の中でも同様だ。安部と同様に海外での評価が高い日本作家、たとえば川端康成や三島由紀夫と比較しても、安部公房の研究書や論文は決して多くはない。それでも1970年代まではアヴァンギャルド芸術の枠内で論じられ、21世紀に入ってからは植民地や階級をめぐる社会的思想の文脈からの分析が見られるようになっている。安部公房の正当な評価は今度さらに進むに違いない。
 そしてそれらの安部公房に関する最新の知見がSF批評やSF研究に導入されることで、日本SF史の書き換えも大いに期待できるのではないだろうか。現状においては、日本SF史においては、安部公房はいまだに〈SFジャンル外からの理解者〉という位置づけを出ていない。日本SF史の中で安部公房を語るべき言葉が未だにで見出されていないのだ。その言葉を見いだすことはすなわち、SFと近現代文学を同列に語ることばを見いだすことでもある。その時初めて、安部公房をSFとしても現代文学としても、正当に評価できるはずだ。
 もちろんそうした試みがこれまで皆無というわけではない。中でも重要なものが、クリストファー・ボルトンによるSublime Voices: The Fictional Science and Scientific Fiction of Abe Kobo(『崇高な声――安部公房の虚構としての科学と科学小説』、2009)だ。ボルトンはアメリカの日本文学研究者であり、岩波書店の『文学』2007年7・8月号のSF特集にも「歌い合う機械たち――安部公房とサイエンス・フィクション」という評論を寄稿している。また同年の第65回ワールドコン(ニッポンコン)にも参加し、「SF研究、SF教育」というパネルに参加していたことをご記憶の方もいらっしゃるだろう。
 「歌い合う機械たち」では、「安部作品に見られる科学と文学の独特な関係に注目することで、安部を特徴付ける新たなSF定義を、深く検討していくことを目的」(ボルトン34)とした。「SFが自らの約束事に縛られ、孤立したジャンルとして固定化していくにつれ、いかに安部がこのジャンルに不満を覚えるようになったか」(ボルトン38)、そして安部が「伝統的なジャンルとジャンルのはざまよりまったく新しいジャンルを創り出す」ことを目指し、「後継の作家たちは、安部公房が発明した文学機械に息を吹き込み、語らせ続けてきた」(ボルトン47)とまで言い切る。
 『崇高な声』はこの「歌い合う機械たち」の主題をさらに広く深く追い求めた安部公房論であり、安部公房読解を通じて新たなSF論を展開しようとする野心的な試みでもある。ボルトンはここで、機械と人間、科学と文学、西洋と日本、モダンとポストモダンなど、さまざまな対立しあう声が響き合いながら構築されている安部公房の世界の構造を見事に解き明かす。たとえば『第四間氷期』が複数の科学の「ことば」(dialects)で構成されていることを指摘し、それがポリフォニックに文学や哲学と交錯することで〈科学〉と〈文学〉、〈真実〉と〈虚構〉の二項対立を脱構築していくさまを解き明かす第3章はスリリングというほかない。ここでは詳しく内容を紹介する紙幅もないので、筆者がかつて英語の文芸誌に寄稿した書評をご参照いただければ幸いである(参考文献を参照)。
 残念ながら、このボルトンの安部公房論は邦訳されることなく現在に至っている。そもそも日本の安部公房研究者、近現代文学研究者で本書を通読した方がどれほどいるのかについても心許ないかぎりである(私の知人の若手研究者は、本書の存在は知りながら未読である、と仰っていた)。この優れた書物が邦訳に至らないという事実ひとつとっても、安部公房や日本SFと近現代文学をめぐる閉塞状況がみてとれるのではないか。
 蛇足ながら、これも前々回に紹介した長山靖生氏の提言にあった「発表時点でのジャンル境界を超越して、作品それ自体が発散する意味によってSF史を再構築」する試みが、まさに安部公房の再評価の鍵となるだろう。長山氏はすでに『モダニズム・ミステリの時代 探偵小説が新感覚だったころ』(2019)で、モダニズム期のジャンル小説と横光利一、堀辰雄、川端康成らの新感覚派を同一の地平において新たな文学史の構築を試みている。モダニズム期の日本文学史とミステリーが見事につなぎ合わされた本書を読み、その次の章として安部公房論へと期待が膨らむ。

山野浩一と山田和子の安部公房論
 日本SF史と日本近現代文学研究の狭間に落ち込んでしまっていた安部公房に早くから注目していたのが、山野浩一や山田和子ら、『季刊NW-SF』を舞台に新たなSFを模索していた論者たちである。私の知る限りでも、山野は『週刊読書人』1976年2月9日号で『笑う月』を、『ユリイカ』1976年3月号(第八巻第三号)で『第四間氷期』を採りあげ、山田は『国文学 解釈と教材の研究』1982年8月号「現代文学 そのSF的前衛」という特集でやはり『第四間氷期』を論じている。
 山野の『第四間氷期』論は、現代人の未来志向、無批判に未来の到来を信じて疑わない心性の根底にあるものを問う。それは「現実に於いて未来にかかわり得る」、「未來というものはある程度計画されるものだという」(山野142)幻想だ。その、「正しい空想」によって「正しい」未来がもたらされるという思考との決別を図ったのが『第四間氷期』であり、その後の安部は『砂の女』に代表される「スタティックな世界」で、「全く未来的な存在でないことで状況から見捨てられ、匿名の存在と」(山野145)なる主人公を描くのだ、と山野は分析する。
 山田の『第四間氷期』論はよりSFというジャンルに寄った批評となっている。安部の「SFの流行について」を引きながら、SFを「世界および世界と人間の関係性を思弁(スペキュレート)し表現するフォルム」=「仮説の文学」として定義する。「人間は現在と未来の連続性を信じ、未來と関わり合えるという幻想」を、加速度的に変容する世界が追い越してしまった。そうした「加速度的変容・拡大・複合を遂げた現代を表現する全く新しい世界観を提示できる」(山田113)のがSFである、と山田は言う。そして『第四間氷期』以降の安部は「未来を消去したスタティックな現代の断片的風景」を描きつづけるが、それは「[J・G・]バラードの描く人工自然の世界と同様に、本質的な“いま”の有り様を伝えて」(山田113)いるのだと、より積極的に評価する。
 この山野と山田の安部公房論は、まさに現代小説としてのSFの本質を見事にとらえている。そして安部公房を従来のようにSFの外部からの理解者として位置づけるのではなく、逆に安部公房からSFと現代日本文学を再文脈化するための足掛かりとなるだろう。そこで次に私が取り組むべきは、「日本SFの原点と指向」(1969)にはじまる山野浩一のSF論から、現代日本小説としての日本SFの可能性を再検討する作業になるだろう。

参考文献
安部公房.「SFの流行について」.『砂漠の思想』.講談社、1965. 新装版、1970.
Tadashi Nagasawa. “Review of Sublime Voices: The Fictional Science and Scientific Fiction of Abe Kobo.” Paradoxa No. 22?Three Asias?Japan, S. Korea, China. 2010. 139-45.
長山靖生.『モダニズム・ミステリの時代 探偵小説が新感覚だったころ』.河出書房新社、2019.
クリストファー・ボルトン.「歌い合う機械たち――安部公房とサイエンス・フィクション」.内藤吉直他訳.『文学』2007年7・8月号(第8巻・第4号).33-49.
Christopher Bolton. Sublime Voices: The Fictional Science and Scientific Fiction of Abe Kobo. Cambridge, MA: Harvard University Press, 2009.
三島由紀夫.「一S・Fファンのわがままな希望」.『日本SF・原点への招待Ⅱ 「宇宙塵」傑作選.講談社、1977.
山田和子.「安部公房」.『国文学 解釈と教材の研究』第27巻第11号(1982年8月号)「現代文学 そのSF的前衛」.学燈社、1982. 112-3.
山野浩一.「安部公房著『笑う月』」.『週刊読書人』1976年2月9日号。
——-. 「第四間氷期」.『ユリイカ』1976年3月号(第八巻第三号)「特集=安部公房」.142-5.