目を覚まして最初に見たのは、今度もやはりドクターの顔だった。
「おはよう、おばあちゃん」
ドクターが微笑みかけてくれる。彼女の見慣れた笑顔に、ああまた目覚めることができたのだ、とわたしは思った。
わたしを包む空気はほんのりと暖かい。けれどまだどこかに底冷えの気配が残っていて、わたしは身震いした。
「まだちょっと寒いかな」
ドクターの笑顔がやや気遣わしげに曇る。大丈夫よ、とわたしは返す。目覚めてすぐはいつも寒いの。じきに暖かくなるでしょう?
わたしは声を出すことができないから、その答えが言葉としてドクターに伝わることはない。それでもドクターは長いつきあいで、わたしの気持ちが分かるのだろう。わたしの体にそっと手を触れて優しくうなずいた。
「いつもの温度だよ。あまり急に上げすぎるのもよくないからね、もう少し寒いの我慢してね」
もちろんですとも。あなたを信頼していますから、とわたしは答える。
ドクターはわたしの健康状態やこの部屋の環境に、いつもとても細やかに気を配ってくれる。もちろんそれはドクター一人の仕業ではなくて、何人かのスタッフがチームを組んで携わっているらしいのだけど、中心になっているのは彼女だ。
彼女は古い知り合いで、わたしのことを一番よく分かってくれている。わたしの世話をしてくれるスタッフたちの中でも、こうして話しかけてくれるのも彼女だけだ。
わたしの状態をひとしきり確認したあたりで、ドクターが腰につけている通話装置が鳴った。ドクターはしばらくそれで誰かと話をしていたが、やがて、
「呼び出されちゃった」
通話装置を切り、名残惜しそうにわたしの体を平手で軽く叩く。
「非番の時間になったらまた来るから」
そう言い残して部屋を出て行った。
ひとりになったわたしはゆっくりと空を振り仰ぎ、ひさびさの目覚めを味わった。
空は少し黄色みを帯びた明るい水色で、うらうらと柔らかい日差しがあちこちに浮かんだ綿雲を輝かせていた。若芽の匂いを含んだ風が、肌を撫でるよう優しく吹いている。野原は緑に変わり、気の早い花々が咲き始めていた。
穏やかな、春の風景。
だが、空も風も野原も、どれも本物ではない。
わたしがいるのは閉じられた室内で、風景は壁や天井のスクリーンに映し出されただけのものだった。ドクターたちがどこかで明暗や温度や湿度を調整して、人工的に春の風景を作り出しているだけだ。
ドクターはあえては言わないが、言葉の端々にそれが漏れ出る。しかしわたしはこの部屋が嫌いではなかった。作り物といっても春の風景はとてもよくできていて、わたしに故郷のことを思い出させるから。わたしがまだ若く元気で、大勢の人たちがわたしに会いに来てくれた頃の事を思い出させてくれるから。
もちろん今だって、わたしに会いに来てくれる人はいる。けれどそれが目覚めるたびに少なくなっていっていることに、わたしは気づいている。
それはわたしが老いたからなのだろうか。それとも……。
一度は目を覚ましたものの、わたしは再びまどろんでいる。
まどろみながら夢に見るのは、いつも昔の光景だ。わたしが若い頃を過ごした田舎の古くて大きな家。まだ幼い少女だったドクターはその家の孫娘だった。わたしは彼女と血縁はないが、ドクターはわたしをおばあちゃんと呼んでいた。
ドクターはいつもわたしのそばに来て、いろいろなことを語りかけてくれた。その日学校であったことや、行き帰りに見つけたもの、事情があって離れて暮らしているらしい両親のことや、友達のこと。わたしはただ黙って聞いている。
あの頃は賑やかだった。わたしにも大勢の家族や友がいた。
いつ頃からだろう。ひとり、ふたりといなくなっていった。気がつくとみんな死んでしまい、わたしは老いて、そしてひとりぼっちになっていた。
あの家に久しぶりに戻ってきてわたしと再会したとき、少女はすっかり大人になっていて、すぐには分からなかった。けれど、ドクターになったの、と語りかける彼女の目は昔のままだった。
「おばあちゃんを助けてあげたくて。それに、これからは、きっとみんなにもおばあちゃんが必要だと思うから」
彼女──ドクターはそう言った。
そうしてわたしをここへ連れてきた。
ここはとてもとても大きな建物の一部らしい。ドクターはわたしが眠っている時期を見計らって連れてきたけれど、わたしはそのとき、今のようにまどろんでいた。だからその時のことをうっすらと覚えている。長い距離を乗り物に乗せられて運ばれ、辿りついた先で大きなドアをいくつも通り抜けたことを。外に拡がっていた、焼けつくような色の岩肌と砂漠を。
ドクターがわたしに助けてあげると言った意味は、そういうことだったのかと何となく思っている。もう外ではわたしは生きられないのかもしれない。
わたしは眠りと目覚めの間をふわふわと漂う。
あの時から何度、目覚めと眠りを繰り返しただろう。このところは眠りに落ちるたびに、もう次こそは目覚めないのではないかと考える。
それが怖いわけではない。わたしは十分に生きた。ただ、もしわたしが目覚めなければ、ドクターが悲しむだろう。
ドクターが約束してくれたとおり、目を覚ましてしばらくすると空気の温度が暖かくなってきた。日の光も──本物ではないけれど──強くまばゆくなったように感じられた。
そうなると、わたしの老いた体にも力がみなぎってくるような気がする。全身をせいいっぱい伸ばして日の光を浴びる。
とても、気持ちがいい。
そうしているとまだまだ生きられるような気がしてくるから不思議だ。
やがて私に会いに来てくれる人の姿も、ちらほらと見られるようになった。ドクターのように話しかけてくれるわけではないけれど、人々の会話を聞いているだけで十分に楽しい。
「今日は子供たちが来るよ」
ある朝の巡回の時にドクターが言った。
「引率の先生と一緒に、十人くらいかな。遠足みたいなもの」
「私もガイドにつくけど、おばあちゃんもよろしくね」
よろしくね、と言われてもわたしは何をすればいいの?
わたしはドクターに尋ねたが、ドクターも分かって言っているようで、一人でくすりと笑った。
「ここで生まれた最初の世代の子供たちなんだ。喜んでくれるといいんだけど」
その子供たちは昼近くになってやってきた。みんな、わたしが初めて出会った頃のドクターよりももっと幼かった。
子供たちは心なしか緊張した面持ちで、入口近くでひとかたまりになっている。その前に立って、ドクターが部屋の説明を始めた。
「このシェルターにはいくつかのバーチャルホールがありますが、ここは四季の部屋と呼ばれています。皆さん、四季って分かりますか?」
子供たちの間にざわめきが起きるが、答える子はいない。
「四季は一年の間に移り変わる季節のことね。春、夏、秋、冬がありますが、今この部屋は春になっています。なぜそんな設定にしてあるかというと……」
ドクターが体の向きを変えて歩き出し、声が遠ざかる。
「あれは最後の……で、……このシェルターで保護……」
子供たちは部屋を一周してぞろぞろとわたしの前にやってくる。
「……どうぞよく見て違いを確かめてみてね。触ってみたい人はいる?」
ドクターは言葉を切って子供たちを見回したが、誰も動かない。
子供たちにたった一人混じっていた大人──ドクターの言っていた引率の先生という人だろう──が困ったように歩み出て、子供たちを促す。が、やはり誰も動かない。
結局誰もわたしに触れることはなく、子供たちは部屋を出て行った。
「ごめんね、おばあちゃん」
子供たちの一行を見送ったドクターは、見るからに気落ちした様子だった。
「私が力不足だった」
そんなにがっかりしないで。気にしないから。
わたしはドクターにそうささやきかけたが、ドクターはまるで聞こえていない様子で、溜息をつきながらぼんやりと呟いた。
「子供たちが興味を持ってくれない。こういうの……とても……まずいの」
ドクターがしょんぼりしているとわたしも何となく元気が出ない。
ここのところ体に不調を感じていたのはそのせいだと思っていたのだが、本当にどこかが悪いのかもしれない。
そう感じるようになったのは、体の一部にごつごつした瘤のようなものができているのを見つけたからだった。
こんなものが前からあったかしら? それとも年のせいかしら?
訝(いぶか)っている間に、どんどん体が弱っていくのを感じた。無論、ドクターが気づかないわけもない。患部を切り取り、切り取った痕に薬を塗りと篤(あつ)く手当てをしてくれたが、わたしに体力がないせいか、いっこうに回復しない。むしろ切り取るのを上回る速さで瘤が増えていく気がした。
日を追って部屋の温度はますます暖かくなり、設定が春の盛りであることを示している。なのにわたしは、毎日力なく体を投げ出すしかできなくなっていた。
ドクターやスタッフが入れ替わり立ち替わりやってきて世話をしてくれるが、それ以外にわたしに会いに来てくれる人はもう誰もいない。
──と、思っていた。
彼らは突然にやってきた。全身をすっぽり覆う袋のような白い服を着て、顔もマスクで覆っている二人。傍らにいるドクターが普段の作業着を着ているだけに、不気味さが際立っていた。
二人はいろいろな角度からわたしをじろじろと観察し、見たことのない機械をわたしの体に当てて何事かを測定しては手にしたタブレットに記入していく。何枚かの画像も撮られた。似たようなことはドクターたちもするし、わたしは慣れている。が、その白い二人のやり方はひどく不躾(ぶしつけ)で、わたしを傷つけた。
ねえ、ドクター。
わたしは黙って彼らの後ろに立っているドクターに訴えた。
この人たちは何? 何をしているの?
ドクターはうつむいたまま、わたしの方を見ない。
ねえ、ドクター。
何度呼びかけても答えてくれない。やがて白い二人は一つ二つの言葉をかわすと、踵(きびす)を返して出口へ向かった。
ドクターは動かない。二人は振り返ってドクターを呼ぶ。
ドクターはようやく顔を上げてわたしを見つめたが、すぐに目をそらすと、二人を追って出て行った。
ドクターの顔を見て、わたしは何となく理解した。
ドクターのことは幼い頃から知っている。あの子がどんな感情を抱えているか、分からないわけがない。
その瞬間、わたしは死ぬのだな、と悟った。
*
「君たちのこれまでの努力を無にする形になってすまないと思う」
シェルターの所長は、私たち生物保存課第七班のメンバー五人を集め、そう言った。
「だがもう決まったことなのだ。どうか分かってほしい」
「承知しています」
私は班を代表して答えた。シェルターの資源には限りがある。どこかで優先順位をつけなくてはならない。病気にかかってしまったものを無理に存命させる余裕はないのだった。
とはいえまだ心の底では〝おばあちゃん〟を廃棄する決定に納得はできていなかった。班のメンバーも同じ気持ちだろう。〝おばあちゃん〟は生身でシェルターに持ち込まれてきた数少ない生物だった。そして同種のものは〝おばあちゃん〟が最後だ。かなう限り大切に守りたかった。
「とはいえ君たちの仕事はこれで終わりではない」
所長は私たちを慰めるようにつけ足した。
「あれの細胞は冷凍保存される。いつか、同じように保存されている多くの生物の胚と同じように、復活させられる日も来るだろう。その時には君たちの知識と技術が再び必要になる。どうか怠ることなく継承していってほしい」
──いつか? いつかとはどのくらい先のことだろう。そもそもそんな日は来るのだろうか。
私はシェルターを取り囲む不毛の砂漠と、摂氏五十度を超える大気のことを思う。地球の気候は、もはや温暖化と呼ぶには手のつけられないところまで来てしまったのではないか。人類は文明のわずかな残滓(ざんし)にしがみついて、無駄な延命をはかっているだけではないのか。
「ドクター?」
班員に声をかけられて、私は我に返る。所長はとうに私たちのラボから去っていた。
「廃棄は今すぐではなく、冬の休眠状態になってからにしたいのですが、どうでしょう。四季の部屋の季節をかなり早回しにする必要がありますが」
「そうね、そうしましょう。ご苦労様でした」
班員たちは一礼するとラボのそれぞれの持ち場に戻っていった。所長が言ったように、仕事はこれで終わりではない。膨大なデータを整理して残しておかなくてはならない。これからは私もコンピューターに向き合うのが仕事になるだろう。
最後にもう一度〝おばあちゃん〟に会っておきたい……。
四季の部屋は、外で行われた決定のことなどまるで知らぬげにうららかな陽気に満ちていた。
「おばあちゃん……」
私はおばあちゃんのごつごつした肌に手を触れる。思わず涙が溢(あふ)れてきた。
幼い頃、気象学者でこのシェルターの建設に尽力していた両親とは一緒に暮らせず、私は祖父母の家に預けられていた。寂しさを紛らわすために、いつももたれかかっては話しかけていた。亡くなった祖母が大切にしていたから、代わりにおばあちゃんと呼んだ。その時代のことが胸に浮かぶ。
「おばあちゃん、ごめんね」
おばあちゃんはいつの日か、クローンとして甦ることがあるかもしれない。だがそれはこの〝おばあちゃん〟ではない。おばあちゃんを見つめる人々の目も、まったく違うものになるだろう。シェルターで生まれた子供たちは、春が何かさえ知らない。
おばあちゃんの体に寄りかかった私の頬に、髪に、薄赤い花びらが吹雪のように降り注ぐ。
地上で最後のソメイヨシノが散らす桜吹雪だった。
〈了〉