「影を喰らう」飯野文彦(あとがき付き)

 八杉将司さんに捧ぐ

「ど……どうして、こんなことを……?」
 娼婦は消え入りそうな声で、井之妖彦に訊ねた。
「影踏みという遊びをご存知ですか?」
 暗い部屋、ベッドに背を向けながら、妖彦は言った。
「そんなこと、訊いてない。なぜ、わたしの……」
 言葉が途切れた。
 妖彦はベッドに近づき、娼婦を見た。闇の中、虚ろな表情で、妖彦を見つめているのがわかる。
「いいえ、関係あるんですよ。まあ、聞いてください」
 妖彦はベッドの端に坐り、静かに話しはじめる。

    ◇ ◇

 影踏み……。鬼ごっこやかくれんぼの一種なのだろうが、捕まえる代わりに相手の影を踏む。
 とうぜん晴れた日の遊びであり、また影が踏まれないように、逃げ回るだけの広い場所も必要だ。
 妖彦が影踏みをしたのは、幼稚園の頃だった。幼稚園の庭で遊んだ覚えがある。覚えがあるなどと言ったものの、実際に覚えているわけではない。記憶は遠くに霞んでいて、正直さだかではない。
 もしかして遠足で行った先で遊んだのかもしれないし、どこか別の運動場だったのかもしれない。ただ一度だけでなく何度か遊んだ記憶があるので、それならふだん通っていた幼稚園の庭だったのだろうと推測したわけである。
 場所だけでなく、何人くらいで遊んだか。保育士がいっしょだったのか。他に保護者がいたのか。
 それらもすべて記憶から失せている。それではなぜ、幼稚園のときに影踏みをしたと覚えているかというと、一点だけ強烈な印象が、心に刻まれているからだ。
 影を喰う園児がいたのである。
 それが誰だったのかも、はっきりと覚えている。M・Iという名前の男の子だ。ところが覚えていると断言した直後、またしても断らなければならない。
 フルネームは覚えているが、そのM・Iとそれ以外にどんな遊びをしたか。また彼がどんな素性で、その後どうしたか。まったく覚えていない。顔に関してもあのとき、つまり影踏みをしたときの彼の容姿は、写真に撮ったようにはっきりと覚えているのだが、それだけである。
 幼稚園のアルバムを見れば、確認できるかもしれないけれど、そんなものがどこに保存されているのか知らない。それなら幼稚園に訊ねればわかるか。いやいや個人情報の保護が叫ばれる昨今、かんたんには教えてはくれない可能性も高い。
 否、それ以前に、M・Iと会いたいのかと訊かれれば、断じて〈ノー〉と答える。だから、アルバムを探そうともしないし、まして幼稚園に訊ねる気持ちなど、さらさらない。
 妖彦が覚えているM・Iのことを、できるだけ客観的に伝えよう。着ているのは、幼稚園指定の肌色をした園児の服。太っても痩せてもおらず、一般的な幼稚園児。坊ちゃん刈りのヘアースタイルをしていて、特徴のない顔だが、目は細く切れ長だった。どこか蛇のような印象があった。
 実際には、ただ単に目の細い男の子だったのだろうが、そのときの行為があまりに強烈だったため、邪悪なイメージが焼きつき、蛇とだぶるのだろう。
 妖彦もM・Iも鬼ではなく、逃げるほうの側だった。そのため、どういう加減か、同じ方向に逃げていたらしい。他にも何人か逃げてきていた。しかし鬼はこちら側ではなく、ちがうほうに逃げた子を追いかけているようで、妖彦をはじめ、そこにいた者たちは、鬼の動向に視線を走らせながら、日向に佇んでいた。
 とつぜん足がチクッとした。下を向いて見ると、血を吸い終えたヤブ蚊が、妖彦のすねから飛び立っていくところだった。
 しまった、ちくしょう。
 追いかけて叩き潰そうとしたとき、つい脇に視線が行った。そのとき見たのだ。M・Iが、鬼に神経を向けている園児の影に手を伸ばし、まさに喰らうところを――。
 M・Iも妖彦が見ているとは気づかず、影の頭の部分に両手を伸ばし、まるで大きな煎餅の端のように割ってしまった。頭の影が半円状に欠けたわけである。
 子供心にも、まさかそんなことができるわけがないと驚き、唖然と見入ってしまった。頭の影を割られた子も、割ったM・Iも、妖彦の視線には気づかない。
 煎餅の端のように割ったといったが、まさにその通りで、M・Iはおやつにもらったまっ黒な海苔煎餅を頬張るように、夢中で食べはじめた。
 バリバリ、バリバリと実際には音などしなかったのだ。しかし三十年以上も経って思い出すと、いつしか音が響いていたと錯覚する。それくらい爽快な食べっぷりだった。
 時間にすれば、それこそ七秒か八秒程度のものだろう。すべてを口の中に入れて、頬をふくらませながら、咀嚼をつづけていたとき、やっとのことM・Iは、妖彦が見ているのに気づいた。
 細い目で見つめられた瞬間、それより幾日か前にテレビで見た怪談ドラマのワンシーンが脳裏に浮かんだ。行灯の油を舐めていた女が、人にそれを見られ、
「見たなあ~」
 と笑うシーンである。
 M・Iは妖彦に向かって、にやりと笑ったものだから、実際には口に出して何も言っていないのに、耳に聞こえてきた気がして、ドラマを見たときのように、いやそれ以上に全身凍りついた。
 M・Iがすたすた近づいてきたため、妖彦は凍りついた身体を、見えない巨大な万力で、ぎりぎり締めつけられる気がした。
 やられる、取り殺される。見ていません、何も見ていません。
 心で叫ぶものの、口から言葉は出てこない。逃げるどころか、近づくM・Iから視線を逸らすことすらできない。
「ぼくと井之君、ションベンタイム」
 M・Iは声を上げると妖彦と肩を組んだ。
 行きたくなかった。逃げだすか、助けの声を上げるかしたかった。けれども、どちらもできない代わりに、組まれた肩をぐいと押されると、勝手に左右の足が動き、M・Iといっしょに歩いていく。
 その年の誕生日プレゼントとして、電池で動くブリキのアトムを買ってもらったのだが、そのアトムの動きと自分の動きがそっくりに思え、滑稽を通りこして、泣き出したくなったとき、トイレについた。
 人目がないことを確認したM・Iは、妖彦の前に立った。ぜったいに誰にも言わないから――と妖彦が言おうとする前に、M・Iが言った。
「食べたことある?」
 えっと思い、妖彦は改めて目の前に立つM・Iを見た。その顔には妖彦を脅したり、怖がらせるような気配は微塵も感じられない。むしろ、新しく売り出されたお菓子を食べたことがあるかと訊ねるような明るささえ感じられた。
「何を?」
 妖彦はぽつりと訊ねた。
「影だよ。見てたじゃないか」
「いや、ぼくは……」
 口ごもり俯いた。
「あ、ごめん。ぼくが脅かすと思った? 化け猫だった女みたいに『見たなあぁ』って」
 M・Iも、妖彦と同じ怪談ドラマを見ていて、話しているとわかった。不思議なもので気持ちを見透かされ、相手からずばり言われると、憑き物が落ちたように気が楽になった。
 さらにM・Iは言った。
「そうだよね。はじめて見たなら、驚いてとうぜんだ。でも井之くんでよかったよ。うるさいヤツとかだったら、ギャーギャー大騒ぎになっていたもの」
「それじゃ、ほんとうに影を?」
「うん、食べたよ」
「どうしてそんなことを?」
「どうしてって、すごく美味しいんだ。あんパンみたいな味がするんだ」
「でも、影を食べたら、食べられたほうは、どうなるの?」
「少しくらいなら、平気さ。さっきだって、何も言わなかっただろ?」
 言われると、その通りだ。食べられたほうは痛がるどころか、気づきさえしなかった。ねっと念押しされるように言われると、ついつい、うんと肯いていた。しかも、
「でも、どうして影が食べられるの?」
 と訊いた。
 とたんにシマッタと思った。話の流れで訊ねたものの、それは秘密で、訊いてはいけないことなのではないか。
 しかしM・Iは、いっそう顔を綻ばせ、自慢するように話す。
「知らないおじさんに教えてもらったんだよ。二週間くらい前だったかな。日曜日、近所の公園でぼんやりしていたら、知らないおじさんがやって来て『ぼうや、お腹が減っているのかい?』って訊くんだ。
 よっぽどぼくが、ひもじそうに見えたんだろうね。ぼくん家、兄弟が多いし、貧乏だから……。すると、そのおじさんが教えてくれたんだよ」
「何を?」
「決まってるじゃない。影の食べ方さ」
「食べ方なんてあるの?」
「当たり前だろ。そうでなければ、影なんて食べられるわけがないもの」
 M・Iの言葉は、幼い妖彦の心にも、もっともだと納得がいくものだった。否、納得いくわけがない。やはり子供だったのだ。
 そもそも影が食べられるわけがない。それに気づいて、このとき笑いながらでも、怒っても良いから、否定すれば良かった。けれども妖彦は、信じてしまった。
「でも、ばれない?」
「さっき、見てただろ。同じ人からは、あれくらいしか食べないから、気づかれないよ。もっと食べられる方法もあるみたいだけど、それは教えてくれなかった」
「そうか。たしかにあれくらいなら」
 ばれないだろう。しかもM・Iの次の言葉は、妖彦の興味をますます引きつけた。
「うまいぞ。一度食べたら止められなくなる」
「あんパンみたいなんだろ?」
「似ているけど、あんな美味いあんパンがあったら、大人気になるよ。いや、あんなに美味いあんパン、作れるわけがない。それくらい美味しいんだ」
 その言い方がほんとうに美味しそうで、当時から食いしん坊だった妖彦は、ものの見事に釣られた。
「ぼくも食べてみたいな」
「ほんとに?」
「でも、秘密なんでしょ?」
「秘密じゃないよ。でも、その気持ちわかる。だってぼくも、そのおじさんに同じこと訊いたもの。そしたら笑いながら『教えても良いけど、たいてい信じないよ』って言ってた」
 この言葉が決定的だった。
「ぼく、信じるよ。だから……」
 M・Iは、すんなりと教えてくれた。それから、つけ加えるように言った。
「ただし自分の影は、食べないほうが良いってさ」
「どうして?」
「まずいんだって。それに共食いみたいで気持ち悪いもの」
「そうだね。わかった」
「じゃ、さっそくやってみるかい?」
「うん」
 妖彦とM・Iは笑顔でトイレを出て、影踏みに加わった。
 そうして頃合いを見て、妖彦は食べた。一口食べただけで、すっかりその味の虜になってしまい……。
 
   ◇ ◇

 M・Iとの記憶は、それですべてだ。
 自分の影を食べてはいけないのは、まずいからではなかった。逆である。他人のものとは比べものにならないほど美味しい。もっともそれを実感したのは、成人してからである。
 幼いとき、抑えられない好奇心から一口食べたが、もったいないことに吐き出してしまった。あんパンというよりも、それは極上のサバラン――ブランデーを浸して作る、濃厚で上品なケーキ――の味わいのようで、その美味さはとうてい子供にはわからないものだったのだ。
 大学時代、サークルの仲間と海水浴に行った。泳ぐよりも浜辺でしこたまビールを飲んで、酔っていた。そのためつい悪戯心から、自分の影を囓ったところ、全身身震いするほどの感動を受けた。
 他人の影は一口、せいぜい拳くらいの大きさしか食べられない。ところが自分の影は、その気になればどれだけでも食べられる。
 いけない、とんでもないことになる。
 そう思いながらも、一度覚えたその味は、アルコール以上に断ちがたいものだった。麻薬の経験はないものの、それ以上の魔力と確信でできる。
 否、アルコールや麻薬だったら、医者に行けばいい。しかし妖彦は医者には行けない。影のない男など、誰がどのように診察してくれるというのだ。
「もう他人の影などでは、とても満足できない。自分の影を食らいつくしてしまった後、どうすればいいのか。まさに狂い死にしそうでした」
 妖彦は唇の端に残った赤い液体をぺろりと舐めながらつぶやく。
「ところがあるとき、知ったんですよ。影よりも美味いものが、この世にあることを。
 ぐうぜんです。当時、つきあっていた彼女が、包丁で指を切りましてね。あまりに勢いよく出るんで、おろおろしていました。
 だいじょうぶかいと近づいたところ、ふと赤い液体の中に潜む黒さに惹かれましてね。気がついたら、その指を口に入れて……。彼女はびっくりするやら、感激するやらで、その後……。
 でもわたしは彼女の肉体ではなく、はじめて味わったその味に、すこぶる興奮し、そして……それからです、こうなったのは」
 娼婦はすでに事切れていた。暗い中で見ても、血の気はすっかり失せて、その顔や身体が青白くなっているのがわかる。しかし、もうしばらくすれば……。
「まさか、あの伝説の怪物が、こんな風にして生み出されるなんて話したら、人間たちは幻滅するでしょうか? どう思います?」
 妖彦はベッドに腰を下ろしたまま、娼婦の口から答えが返ってくるのを、静かに待っている。(了)

あとがき

 SFプロローグウエーブで原稿を募集すると聞いたとき、今もそうですが、作品を発表する場に飢えていた私は、すぐにコンタクトを取りました。
 そうして初代編集長だった八杉さんとメールでのやりとりがはじまり、執筆させていただくことができました。
 そんな中、送った原稿の内、一作だけ未掲載のままだった作品があるのを思い出しました。それが今回の「影を喰らう」です。
 当時、八杉さんから、こんなご指摘をいただきました。

〈(前略)それから「影を喰らう」ですが、すみません、大変差し出がましいことですが、個人的にちょっとだけ気になったところがありまして。といってもこのままでも問題はないんですが。
 最後、影だけでは満足いかなくなってその欲求が血液へと移るところが、若干、唐突に感じられるんですよ。おそらく影がうまいなら本体はもっと、という思いつきなのでしょうが、そのような「血の旨さ」に気づいた理由を一行か二行入れるだけで、その唐突さが消えるように思います。オチの大事な部分でしたので気になりまして。(後略)〉

〈(前略)それから再来月、十二月更新では「影を喰らう」を載せる予定です。こちらはオチの部分について保留といいますか、どうしましょうかということになっておりましたが……。(血の旨さに気づいた理由を入れたほうがいいのではという部分ですね)修正されるということでしたら、その改稿原稿で校閲にかけたいと思ってますので、来月半ばぐらいで構わないのですが、よろしくお願いします。(後略)〉

 いただいたメールの一部ですが、当時の私は、どう直せばいいのか見当が付かず、もう少し考えさせてくださいと、別の作品を送り「影を喰らう」はそのままになってしまいました。
 2011年、今から十年前のことです。
 遅くなりましたが、ラストの部分、手直ししてみました。
 八杉さん、いかがでしょうか?