「海の向こうの気になる本気になる人――ポーランド編」深見弾(「SF宝石」1979年8月号)

深見弾氏の連載再録にあたって 大野典宏

 本連載は1979年から「SF宝石」に連載されたコラムの再収録である。
 その当時、ソ連や周辺国は「共産圏」とか「東側」と呼ばれていた。今でも名残が残っているが、それら諸国への渡航は困難を極めていた。しかも郵便事情が悪かったため、届くのかどうかもわからない。そして郵便局では、開封許可証にサインをしなければならなかった。それら諸国が情報の出入りに神経質であったことも確かだが、日本も情報の出入りに関しては神経質だったのだ。
 この状況はペレストロイカが始まるまで続き、パソコン通信が一般化するまで簡易な連絡方法は国際電話しかなかった。FAXは基本的に無いと考えるべきであり、テレックスが使われているのが普通だったので、一個人が手を出せるものではなかった。
 個人旅行などはかなりの困難を極め、観光ツアーに潜り込むくらいしかなかった。だいたい、今でもロシアから(同時にロシアへ)の長期滞在には、迎え入れる側の個人が身元の保証書や行動予定表を提出させられることもあるのだ。
 したがって、情報の入手すら不自由な状態だった1980年当時にこれだけの事情を伺い知るだけでも貴重なものだった。断片的な情報でしか無いのだが、出版物や結社に関して制限が強かった当時のことを考えると、これだけのSF情報が集まっていた事自体が「凄いこと」だったのである。
 当時、私は地方の一高校生でしかなかったのだが、アメリカや日本ではなく、文学の国であり、読書習慣が根付いた国々で何が書かれているのか、何が読まれているのか、そちらのほうに興味があった。幸いなことに、ロシア語で書かれた書籍などは教材として輸入を行っている書店があったので、持ち出しが許されていた本に関しては比較的自由に入手できた。また、深見氏は、日本やアメリカの書籍をソ連に送る代わりに交換条件としてソ連から大量の本を送ってもらっていた。深見氏の助力によって日本で紹介された作家や作品は多い。特にストルガツキー兄弟作品の日本語版については深見氏の力によるものであったと記しても過言ではない。
 袋一平先生の存在は大きかったのだが、さらに日本への紹介を加速させたのは深見弾氏の功績である。
 ただ、実際に見聞きしてきた私としては、間違っている箇所もあるにはあるのだが、あえて訂正や注釈を入れない。「この情報が正しい」として出てきたものを参照できる機会を活かしたいためである。文学や映画のありかたが、経済と軍事での対立という馬鹿馬鹿しい事情に巻き込まれるのは理不尽極まりないことなのだが、歴史的にこのような事情があったことは事実として動かすことはできない。
 ただ、当時から盛んに行われていた地下出版(サミズダート)のことについては触れられていない。実際に大野個人でも海賊出版本やコピー本は所有しているが、その存在を詳しく紹介することはしないし、してはいけないと考えている。今や情報を隠すほうが難しくなっているのだが、当時はそのような方法でしか情報を拡散する手段が無かったのだ。
 ブルガーコフやザミャーチンから始まり、ストルガツキー兄弟にいたるまで、原稿が海外に流出して、海外での出版が先になる例は数多い。しかし、まだまだ発掘されていない作品や完全なテキストが見つけられない作品は多いはずである。今後、各国での発掘作業や研究が行われるのを待つしか無い。私が人生を終えるまでに全てが掘り出されるとは思ってもいない。だが、人生は終わったとしても、「原稿は燃えない」(ブルガーコフ)ことを信じてやまない。
 本連載の文字起こし等の作業は川嶋侑希氏が担当した。この場で多大なる感謝を申し上げます。

海の向こうの気になる本
気になる人―――――ポーランド編

SFの眼で文学史を書き換える作業がブーム

深見弾

 最近、共産圏のSF先進国であるソ連とポーランドで、SFを民族文学史的に捉え直そうという動きが起こっている。面白いことに、どちらもSFを文学として位置づけて、過去の文学作品をその観点から洗い直そうとしている。一昨年、十八世紀から十九世紀前半のロシア幻想小説を掘り起こして、アンソロジー『世紀を振り返る』を編んだグミンスキーは、ロシア文学史を書き直せとまで言っている。

●文学史の研究対象から残されている作者を掘りおこす

 同じようなアンソロジーがポーランドにも出ている。現在、レムを頂点にして、クシシトフ・ボルニ、コンラド・フィアルコフスキ、チェスラフ・フルシチェフキらの代表的作家をはじめ三十人を下らないプロのSF作家が活躍している。前記の四人は国際的にも知られている代表的なポーランドのSF作家だが、なかでもレムは、二十五カ国語に翻訳され、それだけでも七百万部を超える出版部数をもつ。こうした現状のなかで、ポーランドSFを歴史的に位置づけ、その流れを捉えようとする作業が始まった。すでにそうした試みの一環として、SF史の面から扱ったR・ハントケの研究『現代ポーランドSF』(一九六九)があるが、一九七五年に出たZ・プシロヴスキが編集した『新文明』は、それを引き継いだ立派な成果だといえる。
 プシロヴスキも、一八世紀にまで遡って作品を発掘しているが、グミンスキーの『世紀を振り返る』と違う点は現代までもどって来ているところだ。今ではほとんど忘れ去られており、文学史の研究対象から外されてしまっている作家たちを掘り起こしている。ポーランドSFの歴史を総括的に紹介しようという編者の努力は、成功していると言えるだろう。たとえば、ルソーの思想に影響されて書かれたI・クラシツキのユートピア小説『ニコライ・ドスヴャトチニスキの冒険』、K・リベルトの怪奇冒険SF『時間ゲーム』、ウェルズの『透明人間』の十六年前に書かれた、ジグルト・ヴィシネフスキの『透明人』、さらにはW・ウミニスキやE・ジュラフスキのジュール・ヴェルヌ風の冒険SF、S・ジェロムスキの『新文明』、J・カルチェフスキの『ロボット大統領』など、予測と諷刺がきいた<警告>SFなどが過去の作品から選ばれている。
 だが、世紀末から二十世紀初頭にかけて、純文学で活躍したボレスラフ・プルスの作品『人形』から「ゲイスト教授の金属」の一草を抽きだして、SFの扱いをするのは一見論議を呼びそうだが、ここに編者のSF観が出ている。SF的発想が古典的作品を豊かにし、可能性を与えているすぐれた実例としてこれを取りあげており、SFと純文学が不可分の関係にあるという編者の見解を示す実証として成功しているといえる。
 かれは、大文学(日本でいうところの純文学ぐらいの意味)は、常に新しい形式、叙述方法、世界観の特異な縮図を志向するものであり、まさにそれはSFに極めて近い要素だと言っているからだ。その意味では、ポーランドにはタデウシ・ルジェヴチやカロル・ブシン、あるいはテオドル・パルニツキの哲学的歴史幻想小説などに、いくらもその例を見つけることができる。

●ポーランドSF史に欠かせぬ基本的ガイド

 したがってこのアンソロジーに収録されてしかるべき古典的作品は、ここに入った十人がすべてではないし、現代作家にしても、わずかレムとフィアルコフスキの二人で、代表しつくせるものではないことは明らかだ。しかしこの点は、出版製作費という現実的問題が障害になったからであるし、編者の落度にするのは気の毒であり、この種のアンソロジーの嚆矢(こうし)としては、大成功だとすべきだろう。
 さらに見落とせない成果は、編者の熱がこもった序文と、極めて興味深い貴重な、書誌学的なコメントである。これは、ポーランドSFに欠かせない基本的なガイドになっている。さらにつけ加えればこの本の装丁とイラストは、かなり水準の高い、ユニークなものだ。こうしたSFの発掘は、他の東欧諸国、たとえばルーマニア、チェコ、ハンガリーで成果をあげることが期待できる。