「日本SF史再構築に向けて--その現状と課題についての考察①」長澤唯史

「日本SF史再構築に向けて--その現状と課題についての考察①」長澤唯史

日本SF研究の現状
 ミネソタ大学出版局から発行されている Mechademia は、日本のポップカルチャー研究専門誌だ。2006 年の発刊以来、スーザン・ネイピアやトマス・ラマール、クリストファー・ボルトンらの優れた日本のポップカルチャー研究者たちが、アニメ、マンガ、ゲームなどについての数々の論考を発表してきた。2015年に第10巻を刊行したところで第一期を終了し、3年の休止期間を経て2018年から Mechademia: Second Arc として装いも新たに再出発している。また内容もよりアカデミックな方向へと舵を切っている。(1)その最新号(Vol. 14.1)では巽孝之氏をゲストエディターに迎え、”Science Fiction”特集を組んでいる。かくいう私も”From Infiltration to Diversification: A Brief History of Japanese Science Fiction and Its Asian Context”(「浸透から多様化へ アジアの中の日本SF略史」)という、日本SF史を概観する論文を掲載していただいた(残念ながら表紙や目次、各ページの見だしては”Film Infiltration”と誤植だらけだが)。今号に掲載されている全10篇の論文、エッセイのうち日本人執筆者の筆によるものは5編だが、私以外の4名(小松左京、荒巻義雄、小谷真理、野阿梓の各氏)の文章は過去に日本語で発表されたものの再録&翻訳であり、純粋な英語での書き下ろしは拙論のみのようだ。
 一方、立命館大学准教授のドゥニ・タヤンディエー氏が、”Literary Science Fiction in Japan: The Story of a Secret Infiltration”(「日本における文学的SF――秘かな浸透の物語」)という日本SF史論を、またミネソタ大学准教授の Baryon Tensor Posada 氏が ”Hidden Histories, Traveling Time: Science Fiction Translation as Cognitive Estrangement”(「隠された歴史、流れる時間――認識論的疎隔としてのSF翻訳」)という日本SF翻訳に関する議論を寄稿されている。いずれも日本SF研究を専門分野とする方々の最新の成果だ。日本SFへの学術的な関心は近年ますます強まりはすれ、決して弱まってはいない。
 だが一方で、日本人による情報発信力の弱さはあいかわらずだ。SF研究自体がまだまだ日本では層が薄く、日本語以外の言語で発信する人はさらに少数である。日本SFの海外紹介というと作品の翻訳ばかりが話題になるが、日本SFの歴史や主題、現状などを的確に紹介して、それぞれの作家や作品の位置づけを明確にする批評など、もっと積極的な発信が今後は求められるだろう。

日本SF史の記述をめぐる問題
 タヤンディエー氏と私の論文に共通する〈浸透〉の問題については、稿を改めて論じる予定だ。だがそれ以外に両者の論文が共有する重要な問題がある。それは参考文献に包括的・網羅的な日本SF史がほとんどないということだ(少なくとも私の場合、この分野の先行研究や批評が十分ではない中で執筆せざるをえなかった)。両者の注釈にあがっている日本SF通史といえる文献は、長山康生氏の『日本SF精神史』(河出書房新社、2009 年)一冊である(残念ながら、両者とも 2018 年の完全版は参照していない)。これはじつは、かねてより私がおおいに頭を悩ませてきた問題なのだ。
 2016 年にオックスフォード大学出版局からの依頼で、Oxford Research Encyclopedia of Literature (OREL、『オックスフォード文学研究百科事典』)に”The Reception of American Science Fiction in Japan”(「日本におけるアメリカSFの受容」)という日本SF史の概説を執筆した(2)。その際に日本SF史の概略を資料で跡づけるのに、意外と苦労したのだ。もちろん日本SF史に関する資料が全くないわけではない。石川喬司氏の『SFの時代―日本SFの胎動と展望』(1977)や福島正実『未踏の時代』(1977)、野田昌宏『スペース・オペラの読み方』(1994)、柴野拓美(著)/牧眞司(編)『柴野拓美 SF 評論集』(2014)、さらには横田順彌の明治期SFに関する精力的な調査・執筆など、資料的な価値のある文献や記録は大いに参考にさせていただいた。だが日本のSFの歴史を統一的なパースペクティブのもとで客観的に記述した文献が、先の長山氏の著作以外には見いだすことができなかったのである。
たとえば長山氏は、日本のSFに関する同様の研究や批評が立ち遅れてきたことを、2007 年の時点で以下のように指摘していた。
 SFがジャンルミックス的に、小説のみならず詩歌としても盛んに創作され、漫画、アニメ、映画でも作られていることは、いまさら指摘するまでもない。(中略)むしろ問題は、純文学からライトノベルに至る膨大な「SFを標榜していない作品としてのSF的活字作品」(中略)をも併せて論じられるような、従来の文芸評論とは異なるSF自身の批評言語をいかに確立するかこそが課題となっている。(3)
 ここで長山氏が課題としてあげているものとして、ジャンルを越境する「SF自身の批評言語」の確立という問題がある。だがこれについては、たとえば岡和田晃氏の『「世界内戦」とわずかな希望〜伊藤計劃・SF・現代文学』(2013)以降の一連の仕事が、まさにこのSFの「批評言語」の確立をめざすものであることは言を俟たない。僭越ながら私も、「疑似文学(パラリテラチャー)としての日本文学/笙野頼子」(『三田文学』77 号、2004)や「そして笙野頼子は発見される――近代の限界に出現した〈アヴァン・ポップ〉の共振」(『論座』2008 年 6 月号)などで、SFの境界を拡張する試みをしてきたつもりだ。同時代批評の枠のなかでは、この長山氏の提言に対する応答が一定程度は行われてきているといえる。だが一方で、「SF批評は、発表時点でのジャンル境界を超越して、作品それ自体が発散する意味によってSF史を再構築しなければならない」(62 頁)という、長山氏のもう一つの重要な問題提起についてはどうだろうか。通史とは事実やデータを列挙するだけで作られるものではない。ひとつの視点、パースペクティブのもとに情報を整理してまとめ上げ、読者にその対象についての見通しを与える試みだ。欧米のSF研究では、その嚆矢とされるJ・O・ベイリーの Pilgrims Through Space and Time(時空の巡礼者、1947)以来、書誌情報に基づいた通史的研究こそが長らく主流だった。サム・モスコウィッツの『未来の探究者』(1966)からブルックス・ランドン(1995)やアダム・ロバーツ(2005)に至るまで、今でも新たな視点から記述されたSF史には事欠かない。
 やはり日本SF史の学術的、批評的な視点からの再構築は喫緊の課題なのだ。その意味で、先の問題提起のあとに長山氏が世に問うた『日本SF精神史』は、自らの問いに対するみごとな回答であり、現在までのところ最良の日本SF史だろう。だが現代日本文学における日本SFの〈浸透と拡散〉など、まだまだ研究や議論の余地がある、というのが私の見立てだ。
 厳しい言い方をすれば、SF史の「再構築」以前にまともに日本SF史をまずはまとめる必要があるだろう。今回 Mechademia: Second Arc に掲載されたタヤンディエー氏と私の文章は、それぞれの視点からの日本SFと現代文芸の可能性を記述する試みであり、これがきっかけとなって日本SF史の再構築がはじまることを期待している。

日本SFの情報発信の弱さ
 さらにもうひとつ、私が OREL や Mechacdemia: Second Arc に寄稿する論文を執筆していて困ったのは、英語で書かれた日本SFに関する記述がさらに少ない、というよりほぼ皆無であることだった。現在のところおそらく一番まとまった記述は、ピーター・ニコルズ編の The Encyclopedia of Science Fiction (『SF百科事典』、初版 1979、第 2 版 1993、第 3 版 2011)の”Japan”のエントリーだろう。初版および第2版は柴野拓美氏による寄稿を英訳したものだったようだが、2011 年の第 3 版からオンライン版に移行したのにあわせ、継続的にアップデートが行われるようになった(4)。その結果、現在のエントリーではかなり詳細な記述となっているが、やや独善的、独断的な点も散見される。またいわゆるSFジャンル内の記述にとどまり、長山氏のいう「SF史の再構築」のような統一的な視点の提
供という意識はさほど強いとはいえない。
 それ以外には先に言及したアダム・ロバーツの The History of Science Fiction (『SFの歴史』、2005)に、日本SFに関する 1 ページ弱の記述がある。だがこれはニコルズの『SF百科事典』の第 2 版以前に依拠したような簡易的な記述にとどまっている。
 私も実際に調べてみるまで、まさか日本SFについての英語での記述がここまで少ないとは思ってもいなかった。これには本当に驚いたが、問題は欧米での関心の薄さというより、日本から積極的な情報発信が行われてこなかったことであろう。また、これらの英語での日本SF史の記述は内容的にも不完全であった。それは長山氏も指摘した戦前と戦後の日本SFのあいだの断絶とその意味、また戦後日本のSFが翻訳文化の中で形成されてきたこと、この二点が十分に論じられていなかったからである。
 だが、今は自分の不明を恥じねばならない。というのは、今から 40 年前に、これらの点についての目配りをしたうえに、現在の日本SFの状況を予言するようなみごとな日本SF論を残した人物がいたのである。それはデーナ・ルイスという翻訳家であった。(続く)

(1) https://www.mechademia.net/journal/second-arc/を参照
(2) https://oxfordre.com/literature/view/10.1093/acrefore/9780190201098.001
.0001/acrefore-9780190201098-e-166?rskey=Zbg6WQ&result=1.

(3) 長山靖生「日本SFは百五十年になる」(『文学 特集SF』)、61 頁.
(4) https://sf-encyclopedia.com/
長澤唯史(ながさわ ただし)
1963年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了。椙山女学園大学国際コミュニケーション学部教授。『70年代ロックとアメリカの風景 音楽で闘うということ』(小鳥遊書房)、「ポストモダンはSFを夢みる――SFをめぐる批評理論の概観――」(『文学』2007年7・8月号)、”From Infiltration to Diversification: A Brief History of Japanese Science Fiction and Its Asian Context” (Mechademia: Second Arc, Volume 14. No. 1. Fall 2021), “The Reception of American Science Fiction in Japan” (Oxford Research Encyclopedia of Literature, 2016)、他