「秀美、お昼ご飯はまだかな」
智造は、大学病院の処置室で付き添いの女性に訊いた。
「お昼ご飯はさっき食べたばかりでしょ、おじいちゃん。それからわたしは秀美じゃありません。田丸です。ボランティアの。もう忘れちゃった?」
智造は自分をここまで連れてきた彼女を見つめて首を傾げた。言っていることが理解できなかった。
白髪の年配の医者と看護師が入ってきた。看護師は医療機器を乗せたワゴン棚を引っ張ってきていた。
「ああ、佐渡山先生、よろしくお願いします」
田丸はほっとした表情で頭を下げた。
佐渡山はうなずきながら智造に向かい合った。
「智造さん、私がわかりますか」
「秀美だろ?」
「あら、男女の区別もつかなくなってる」
田丸は苦笑いした。
「秀美さんは奥さんか娘さんですかね」
佐渡山が言うと、田丸は首を横に振った。
「この方は独身ですよ」
田丸は地域の独居老人を民生委員ともに世話をする介護支援ボランティアをしていて、智造は担当していた老人の一人だった。
智造が目的もなく外に出歩いて迷子になったところを警察に保護されたので、認知症の疑いがあるとして病院で診察を受けていた。特に記憶の障害が激しく、今日はそのリハビリ治療をすることになっていた。
「……とにかく始めましょうか。どうぞ、そこで横になってください」
智造をゆったりした寝椅子に寝かせた。佐渡山は振り向いて看護師に「リコール・ギアをつけてあげてください」と指示した。
看護師が手際よく太いヘアバンドのような装置を智造の頭に装着した。
田丸が興味深そうに見ながら言った。
「これが先生の発明した記憶力が上がる機械ですか。うちの馬鹿息子にもお願いできないかしら」
佐渡山は笑って答えた。
「記憶力が上がるというのはちょっと違いますね。リコール・ギアによる経頭蓋脳刺激法は、人の想起機能の補助を目的としてます。ざっくり言えば、思い出す力をアップさせるんです。智造さんの脳を精密検査した結果、記憶する部分に問題はないんですが、それを思い出そうとする機能に障害があるみたいなんです。これはその脳の部位に磁気刺激を与えることで回復を促すものです」
「先生、できました」
看護師が佐渡山にリコール・ギアとコードでつなげられたタブレット端末を渡した。
佐渡山はタッチディスプレイに触れて操作した。リコール・ギアにある小さなLEDランプが緑色に光って点滅する。
少し間を置いてから質問した。
「今日のお昼は何を食べられましたか」
智造は視線をうつろに動かしていたが、はっきりした口調で答えた。
「白米と豆腐の味噌汁、大根おろしがついた焼いたサンマだ。あと小松菜の漬物。それが日替わり定食で税込み六百八十五円」
田丸は驚いた顔で軽く拍手した。
「すごいですね。わたしでもここまではすぐに思い出せません」
「素晴らしく効果が出てますね。それでは三十分ほど安静にして刺激を与え続けてみましょう。徐々に過去を思い出していくはずです。うまくいけばこれがなくても日常生活に支障がないレベルにまで回復が望めると思います」
佐渡山はタブレット端末を起動させたままワゴン棚に置くと、ほかの患者を診るためにその場を離れた。
*
薄暗く狭いアパートの部屋には、脱ぎ散らかした衣服と、食べたパンやインスタント麺の袋が散乱していた。しばらく掃除をしてなかったので、棚や窓には埃が積もっていた。
智造は薄い布団の上に座り込み、部屋を見回した。
――ここはどこだ。俺は何をしている。
――出ていこう。ここにいては駄目だ。
智造はよろよろと腰を上げた。
しかし、そこで立ちすくんだ。
――どこに行けばいい? どこに行けば俺はやり直せる?
――わからない。
――わからないわからないわからないわからないわからないわからないわからない
外に飛び出した。
*
冬のある日、智造がいつも通り工場へ仕事にきたら、出入口のドアに鍵がかかっていた。
そこには白い張り紙があった。
『当社は諸般の事情により、破産しました。債権者各位には多大なご迷惑をおかけして……』
同じく出勤してきた従業員の男が、それを見てドアを乱暴に蹴った。
「ふざけんな! 給料もらってねえぞ!」
智造もそうだった。
でも、怒りは湧いてこなかった。諦めが心を覆っていく。
工場に背を向けた。
ふと仰ぎ見る。
冬空は快晴だった。
冷たい青さが目にしみた。
*
錆びたプレス機がけたたましい音を立てて稼働していた。
智造は疲れた体に鞭打って作業に没頭した。
昨日、同僚が一人辞めた。先月も逃げるように二人ほどいなくなっていた。
智造の仕事量はその分、増えていった。でも、給料は増えない。ボーナスなんて支払ってもらったことすらない。
それでもここを辞めなかったのは、ほかに行く当てがなかったからだった。
どこも雇ってもらえず、ようやく見つけた生活の糧なのだ。
屋内に響き渡る機械音が、不安や悩みをかき消していつまでも耳に残った。
*
テーブルには離婚届があった。
妻の項目には「秀美」の文字がもう記されていた。
智造は震える手で自分の名前を書き入れた。
紙がやたら手に貼りついた。
*
智造は、明るい陽射しが差し込む窓を眺めていた。
窓には網のような鉄格子がはめ込まれていた。
静かな刑務所の午後だった。
畳の硬さが虚しかった。
*
ようやく見つけた。
原稿を持ち込んだ出版社の編集者だ。いくら連絡をしても返事一つよこさず、出版社に出向いても受付と警備に門前払いをくらっていた。
智造は詰め寄った。
「俺の原稿はどうした。出版するんじゃなかったのか」
会社を出るなり声をかけられた編集者の男は、智造を見て顔を青ざめさせた。しかし、すぐ開き直ったように言い返した。
「勘違いですよ。そんな約束はしてません。それにあんな哲学か宗教かよくわからない原稿なんか本にできませんよ。あんなのが売れると思っているんですか? 買うひとなんて誰もいませんよ」
「売れないから出さないというわけか」
「そうですよ。当たり前じゃないですか。商売ですからね」
「じゃあ、金を返せ」
編集者は頬をひきつらせた。
「知りません」
「何?」
「お金はあなたが勝手に原稿と一緒に渡してきたんでしょう。もしかして自費出版のつもりだったんですか? うちはそんなことやってませんよ」
「金はどうした」
「あなたの知ったことではありません。返す筋合いはないですよね。借りたわけじゃない。あなたが一方的に押しつけてきたんだ」
「大金だったんだぞ。稼ぐのにどれだけかかったと思っている」
「だから何ですか。世間知らずにもほどがありますよ。あなたみたいなのを馬鹿というんです」
「使い込みやがったな」
智造は編集者の胸倉をつかむと、拳を鼻先に叩き込んだ。
仰向けに倒れた編集者にさらに馬乗りになり、何度も殴りつけた。鼻がへし折れ、顔の形が変わっても拳骨を落とすのをやめなかった。
警官が駆けつけるまで、智造は殴り続けた。
頭に血がのぼる痺れた感覚に酔いしれた。
*
大学の近くにある馴染みの食堂で夕飯を食べていた。
魚フライ定食で、ビールも注文していた。
でも、ほとんど手をつけてなかった。
「何だ、また心だけどこかに行ってるのか。早く帰ってこないとそのビール、飲んじまうぞ」
そう声をかけながら隣の席に座ったのは、下宿のルームメイトだった。
智造は我に返った。
「ああ、おまえか。考え事をしていた」
「何を考えていたんだ?」
「現実をやり直す方法だ」
「やり直す? 変えるのではなくてか」
「社会を見てみろ。現実を変えようとして失敗ばかりしているじゃないか。たまに成功してもすぐ現実に飲み込まれてしまう。あれは一度できてしまった現実が強固すぎるからだ。だったらその現実ができてしまう前からやり直す方法を模索すべきだ」
「現実を破壊しようとでもいうのか。なんか危ない思想に傾いているぞ」
「過激派のゲリラみたいなことをするつもりはないよ。あれだって失敗ばかりしているし、ろくなことにならない。だいたいさ、人はもっと自由なはずなんだよ。楽しく幸せな人生を持てるはずなんだ。そうでなければならない」
「でも、どうやったらやり直せるんだ? 出来上がった現実を最初からなかったことにはできないぞ」
「現実とは何だ」
「面倒な質問をさらっとするな……そうだな、目の前にあるこの世界のことかな」
「しかし、俺たちはこの目の前の世界のありのままを認識できていると言えるか? すべては脳みそが作り出した記憶であって、それを俺たちは現実と思い込んでいるだけではないか」
「お薬を飲むか?」
「もう飲んだ」
「そうか」
「俺たちはこの今、この瞬間そのものを認識することはできていない。知覚したことを脳で処理したものを意識として見ている。その処理には記憶も含まれている。意識してから記憶しているわけではない。意識してなくても憶えていることはあるだろ? したがって俺たちは今この瞬間も、おまえと話をしている記憶を思い出しているに過ぎない」
「ふむ、そんな考え方もできるか」
「しかもだ、ありのままの事実を記憶できているわけではない。そのつど自分の思い込みを満足させるために、変化し続けている世界に規則性や形式を当てはめて図式化した記憶を作り出している。そんなものを現実だ真理だと決めつけているんだ」
「おまえ、ニーチェを読んだな」
「何を読んだか忘れた。それはそれとして、焦点は記憶だ。記憶をやり直せば、現実もやり直せる」
「ええ?」
「俺の前に道はない。俺のあとに道ができる」
「高村光太郎だったかな」
「忘れた。ようするに記憶もそんな過去の道なんだ。その道をたどればやり直せる。もう一度、道を作ればいいんだ」
「飛躍にもほどがあるな。まあ、いいや。それで現実をやり直せるとして、その記憶の道をどうすれば引き返せるんだ?」
智造はそこで黙り込んだ。全然わからなかった。
「でも、どうにかして方法を見つけたい。おまえの学部の研究室でなんとかならないか。指導教授は精神医学の権威だろ?」
「先生にそんな話を持ち掛けたら俺もおまえも患者扱いされるぞ」
「なら俺がこの理屈を誰にも馬鹿にされないぐらい有名にしてやる」
「どうやって有名にするんだよ。学界は絶対に相手してくれないぞ」
「出版だ。学者だけではない、誰でも読める本にするんだ。世間に広めれば無視できなくなる」
「本なんてそう簡単に出せるものではないと思うが」
「そうだな。出版のことはよくわからないが、タダでは出してくれないだろう。それなりにお金もかかるに違いない。その資金も蓄えないとな。稼ぐのに時間はかかるが、そのころにはおまえも医学博士になっているだろ。本になったら実現させるのを手伝え、佐渡山」
「うーん」
「なら手付にこれをやろう」
智造は飲んでないビールを差し出した。
「しょうがないなあ。ちゃんと有名になれよ」
佐渡山が嬉しそうにビールを飲む姿を見て決心を固めた。
*
何も見えない。
暗闇しかなかった。
体全体が生ぬるく、湯に浸かっている気分だった。
うずくまるような恰好になっていたので動かそうとした。でも、手足がうまく伸びない。
必死にもがいていると、くぐもった人の声が聞こえた。何を言っているのかはわからない。でも、聞き覚えのある声色に思えた。
すると、ぼんやりした淡い光が見えた。
それに導かれるように体が動いた。
ああ、そうか。
ここはつまり。
俺はやり直せる。
やり直せるんだ。
今度は、次こそは。
きっと。
*
カンッと何かが落ちた音が響き渡った。
直後に悲鳴が聞こえたので、佐渡山は慌てて処置室に戻った。
「どうしましたか」
田丸が腰を抜かしたらしく床にへたり込んでいた。
その足元にリコール・ギアが転がっていた。
「……智造さんが」
智造を休ませていた寝椅子に彼の姿はなかった。
しかし、衣服はすべて残っていた。肉体だけがきれいに消えたように人の形のまま寝椅子に置かれていた。
「何があったんですか」
田丸は震えるように首を振った。
「わかりません。消えたんです。気がついたら体だけなくなっていたんです」
佐渡山はリコール・ギアを拾い上げた。
智造とは大学を卒業してから疎遠になっていた。五十年ぶりに偶然にも再会したことになるのだが、これまで幸せとは言えない人生を送ってきたのであろうことは、変わり果てた姿を見ればわかった。
何が起きたかを悟った。
信じられないが、そういうことだろう。ほかに心当たりがない。
佐渡山は智造が消えた寝椅子を見つめてつぶやいた。
「そうか、行ったか。行けたんだな」
そして、寂しそうに微笑んだ。
〈おことわり〉
はからずも八杉将司氏の遺作となってしまった本作は、ご遺族の許諾を頂戴した上で公開しております。お読みいただけましたら幸いです。