「遊侠山野浩一外伝」大和田始

遊俠山野浩一外伝 あるいはフリーランド狂い
文・大和田始 え・樺良太郎

■男はつらいよ 純情篇
 数多輩出していない日本SFマンダムにあって、一番嫌らしいのが山野浩一である。なんとかオリジナリテを出そうと努力してるひとがいっぱいのSF界なのに、山野浩一は女の魅力で客をカモろうという最低下劣の男なのだ。ちくしょうめ。ピートちゃん大好き! いやいや鞭でしばいて! ピートというのは一見男の名前で、その通り男みたいな女なのだが、化粧していないのが何よりいい、と山野浩一は宣[のたま]わくのである。私見であるが、トランペットはプーと鳴るのであって、当然プート・ランペットが正しいのだが、あまり臭い話はしたくない。マイルスだったらスート・ランペットだな、と裸で寝っころがって洪笑するのである。ドン・チェリーだったらどうだろう。これは君の研究課題だ。(正解は、トロンペットと胡麻化してフルートを使ったのでエセト・ランペットなのだ。うしし)

■男はつらいよ 泣く子も黙るのだ篇
 「X電車で行こう」に収録された作品は64年と65年に書かれたものであるが、6年後の現在でも半分近い在庫があるそうだから相当不評だったのだろう。この事に気落ちしてしまったのだろうか、69年の終りまでほとんど書いていないのだが、「虹の彼女」からは精力的に書き続けており、今やSFMの三本柱の一本であると自負するに到るのである。
 こうした経緯、あるいは「闇に星々」また「X電車で行こう」にしても、〈サイエンス・フィクション〉への対決の姿勢が明らかに見て取れることなどから、おいらはすぐにJ・G・バラードのことを想起してしまうのである。
 バラードというアル中男ほど〈サイエンス・フィクション〉に理論的かつ総体的に対抗し、優越し、粉砕してしまった男は他にいない。TNT派の作家たちは十把ひとからげひとえに彼の恩恵を受けているのであって、ディッシュのように、それを受け継ぎ自らも戦列に加わることなしに、決して〈内的に〉新波[しんぱ]作家とはなり得ない。外観だけを真似ている百姓共にはバラードの鉄挙が下るであらふ!
 すでにバラードが闘争をひと区切りさせていた64年になって、彼のことなど何も知らない山野浩一が、おそらくバラードとほとんど同じSF認識のもとに作品を発表しはじめた。バラードの志向が、SFの既成のガジェットを無意味にさせる方向で、〈道場破り[イコノクラスト]〉とも言うべき作品群、たとえば「アルファケンタウリの13人」などに結実したのに対して、山野浩一はそうした古めかしい仕掛けに新しいより深い意味を与えていこうとしたのだった。「闇に星々」について言えば、エスパーが対人類的に孤立した存在として描かれるのではなく、彼らが集合したときその社会はどのようなものになるのだろうか、という考察があり、ビートの行動の動機づけをそのなかに求めているのである。
 「日本SFの小説世界は、その小説世界の対応する現実世界及び可能世界の論理体系を包容しなければならず、そのためには借り物のSF世界が、日本文明に対応した作家主体の論理により真実性を与えなければならない」(日本SFの原点と指向)ということなのである。
 二人が全く逆の方向に進んだことは、作家としての資質の差であると高を括ることもできるが、仮説だけれど、バラードにはSFの愛読者であった季節があり、SFへの反抗がシュルレアリスムのような〈純文学〉への志向と合わさってしまったのではないかと思えるし、一方山野浩一は映画青年の走りであって、おそらく独逸やお仏蘭西の小説を読みふけった時節があるはずで、SFが外的なものとして入っていったのではないかと思えるのだ。頭にくることだけど、山野親父にはハインラインやアシモフに狂喜した経験がなく、事あるごとにSFのインサイダーであるおいら達を見下すのである。
 かなり安直だけど、SF宇宙の内から外に出て行こうとしたバラードと、SF宇宙のなかにそれでも入って行こうとした山野浩一という対比ができるのだが、どうだろうかあ?

■男はつらいよ あれよあれよ篇
 「国家はいらない」で軽く触れられたことが「消えた町」の主要目標である。石本は彼にとってオリジナルであり得ない世界に住んでおり、一度そのことを自覚するや、彼の日常を見つめる醒めた認識は当たり触わりなく生のオリジンを嗅ぎあてることになった。世界をやさしく包みこみ、感性を吸引することで抒情のなかへ埋もれゆくはずの霧は、エセオリジンを隠し通すことで煽情するのであった。子宮団地はだから曲率の無限軌道となり、のめりこむ女の肉体はゴツゴツと彼の体を苛む幻視からの狩人となった。初体験は空腹に裏切られ、だが大地の温もりを知ったことで彼は源泉とのあえかな統合を保ち、このことは彼の精神に明確に反映してゆくだろう。だが形而以下日常生活はすぐに神話を紡ぎだし、自らの殻のなかで転生を願いつつ死に急ぐ手のなかの蚕さんの如く、この幻は人形の一挙手一投足をからみつくしてしまう。さあ、泪橋を渡りきったジョーの、明日はどっちだ!と呼ばわる舌の根も乾かぬ先に、夢魔の鋭い視線はすでにして石本に照準を合わせていた。からみつきあふれだす悪の意志は遂に石本内宇宙の一角ではなく全体を一挙に領導し、時の凱歌はむしろ物質的無時間のうちにあった。フォークナーが〈ビン〉を通して苛立ったと同じようにではないが、団地内住民は白いコンクリートの塊[マッス]に幻惑され浸食され、だが日々日常として迫ってくる毒牙は誰の眼にも感応しなかったのだ。団地はいまグラビトロン手妻の見世物となり果て、宇宙都市となって暗黒深宇宙の自由落下にひとり淋しく身を委ねる。いまや二つの世界観が対立している。団地外住人にとって、彼らの宇宙の部分的欠落はあっけらかんと無媒介に欠如であるため、彼自身の世界に対するイダンチテの不快となり、石本は伏線をひきずって外的に加担することとなる。白砂荒地はヴァニッシング・ポイントとして、暗雲垂れこめた未知の大陸である。だから、ムウとうつし世の奇跡の武器はヴォートの夢想の果てのこちら側で、コミュニカシオンの具体として表わされる。エクスタースであれアンチ・エクスタースであれ、再験は初体験の味に落ちるという一般相対性理論が厳格に幅をきかすのである。石本の初手柄が世界の荒地への旅立ちであったので、ミニヤチュール版団地住人妄想没陥落は精心理的重力磁場矮曲歪となって、私が知っている二、三の事柄を残して団地を抹殺するのである。荒地体験からパーヂされ、自己の精神の外化として団地に対応してきた石本は、同時多発ゲリラとの交戦地帯で妻の体、彼女の内的世界への物理的強制として侵入したのだ(ギャー! 濃縮小説のバラードじゃねえか)。考える以上に、妻の内宇宙の奪取は閉鎖空間から開放空間への移行のムーヴマンの横領であり、この時石本は名実ともに二つの世界を継ぐ者としてトックリスターの兎であった。エロスの跋扈するあり得べき生の遠く反転した像としての荒地と、形似以下具体日常事なかれ世界とを同時に彼は見据えていた。さようなら、エニウェトク。

■男はつらいよ 世界革命への道はどっちだ篇
 『X電車で行こう』を跳梁するジャズの響きはもはやなく、白砂の浜に打ち寄せる波はロックの全面統治のもとにあり、浜砂もすでに荒地を卒業してフリーランドの香りを満たしている。心は淋しき孤独な戦士の時はもうすでに腐爛している。セックスと旅[トリップ]とはいとも手軽に距離の消滅となって茶飯事と化している。フリーランドは数知れぬ名称をもち、そのことはこの土地の精霊の正体不明のなさを曝けだしており、世界の大国支配の換気扇たる人間の無意識の間欠泉である。黙示録的「レヴォリューションNO.2」はまず都市の匿名性を示し、つづいてファースト・シーンで山野とっつあんの恋焦れる第三解放の破産を宣するのである。思想の戦線で夜明けをむかえた神聖なるアナルシも、いま紐つき婆の媚の売りあいである。そこには問題はなく解決が示されていないだけだから、国連がシャナリ出て飼殺しを試みるのである。
 この地を遠京と呼び慣わし文化大革命へのコンプレクスを表わす第三解放にしても、世界は自己の精神宇宙のなかに納まっている。そこに突如出現した殺し屋集団は当然異物にすぎず、白血球どもはそれに対抗するにゲリラ組織の合作をもってあたり、共同斗争体が主導権をとるため暗躍するのである。だがしかし、ピートは問題を探ろうとする。未知のものを封じこめるのは封建主義であり、それを操る国連は共産党主義である。狂言回しとしてのピートの性遍歴は問題であるが、問題は破壊軍団に敵対するのかどうかというところにあるのである。

■男はつらいよ NW-SFは稿料を出さないのだ篇
 山野浩一とおいらのつきあいは、おいらの「レヴォリューションNO.2」へのファンレターから始まり、作品を続んだら手紙を書けと強迫され、『X電車で行こう』をかっぱらったこともあり、何やら書きつけた手紙を発信すると山野浩一論を書けというのでこんな醜態を曝けだしてんのだが、ああつらいな。

■男はつらいよ マリュワナ篇+しつこいぞ篇
 「レヴォリューションNO.2」のジョン国連調定委員長はマリュワナ潜りによってホワイトニグロとしての仮想自己を死に至らしめ、母なる大地アフリカに向かって旅立つ。入射角は反射角に等しいという方程式で、彼の手前はすぐさま革命戦争である。この降下はそこから内宇宙の始まる聖場であり、潜ることがすなわち物事の初まりとなる。諏訪優はドラッグ体験をば、死を見、死に怯え、その恐怖に立向かうこととみているようだが、むしろ金坂健二の喝破した如く、自己死を客観的に見つめ、死を乗り超えることであるように思える。この死の経験者はおそらく一眼で他人が自己の兄弟であるかないかを見抜くだろう。もはや言葉を交す必要もなく、宣戦布告をすればそれだけで破壊軍団員になってしまい、それこそがこの軍団の性格である。形而以下世界への野心を全く欠いていることが組織性の欠如をもたらしており、前進前進また勝利、失なうべきもの何もなしという比肩しうべくもない軍団を生みだしている。法律と規則の好きな奴は好きにさせるさ、という具合だから、どうしたって権力的にはなり得ず、「国家はいらない」では、権力線の貫通しようとしているフリーランドで秩序にいともプラグマチックに反抗して暗殺に走る。だが頂上を狙っている者は更に好ましからざる人物である。だが、ローザにはその先の先まで見えているのだ。警官に追われる途中でローザはルイスを射抜き、彼を生みおとす。生きるということは、単にタンパク質の活動している状態を言うのではなく、この地獄[しゃば]で再び生まれることにその詩と嘘がある。Born Free!と同時にBorn to be Wild。だが生きて在るだけで土地は〈わたしの城下町〉になるのではない。土地の精霊と相まみえるためには、ローザもまた彼女の精霊へ向けて素潜りを試みねばならぬ。

■男はつらいよ ねえモデルに使ってえ篇
 浩一とっつあんはフリーランド・サーガを単行本にできるぐらい書くぞ、と〈ヴァーミリオン・サンズ〉の向こうを張るらしく、こちとら彼の長征を気楽に待つつもりである。ところで御親切にもある人が注進してくれたところによると、彼は近くにいる者を手あたりしだいにモデル化するそうだから、おいらもそのうち登場人物に仮構されるやも知れず、もしかしたらルイスがそうであるかも知れないなぞと思い詰めてしまうのだが、そうするとローザを念力で胎ませることになって(キャー、エロチック!)まるで風太郎忍者と相成候で、平岡正明先生に顔の皮ぐらいは見せられるというものである。てなことを書いちゃうと、義理にでもおいらモデルに起用されるかも知れないので、一馬身のり出して、先行必勝、追いこみでも勝つのだってんで、すでにモデル有りき、ということを確認しておきたい。

■男はつらいよ 柴又はいらない篇
 打ちひしがれた寅さんは、画面にこそ出ないが、おそらく肩をすぼめて夜汽車に乗りこんでいくに違いない。彼の周囲の人々、彼らのやさしさが彼を傷つけ、柴又が彼の真の生地でないことがますます彼を締めつける。これは、言葉を奪われ純血を奪われたマルチニク島の人々にパラフレイズさせることができる、と気軽に言ってしまうのだ。セゼールはフランスを離れるにあたって、シュルレアリスムを援用して『帰国手帳』を書き、ファノンは精神分析を通して黒人の存在に迫っていく。このようにして、幻想狩人たるローザはフリーランドを見つめ、そこに浮かびあがってくる女の内的世界との苦しい戦いが始まるのだ。組織が組みあげられていき、ソ連や日本と変わりのない権力構造がゲリラ戦士たちの精神世界のなかにさえ根を張ろうとしているフリーランドは、ローザにとって想像もつかない都市であり、彼女はもはや何らかの接触を保つことさえできない。自由は、それを求めている時にしかえられないものかもしれず、だとするならフリーランドも、それを求め続けている時にしか現前しないものであろう。停滞は死だ。彼女のフリーランドを求めるため、根源的にそれを射抜き輝く星座とするために、彼女は自己の内宇宙を極めねばならぬ。ローザが逃れてフリーランドを出てゆくとき、彼女は自己の想像の軌跡をたぐって〈北〉へと向かっている。そこに展開される平和の極としての農場は、フリーランドの現状の端的な外挿、ヴァニラファッジエッセンスである。ドンホセファーマー恋人との同衾に別れを告げて、微温の胎内からローザは再び生まれる。本源の風景はどこにあるのか? 本源〈北〉の更に〈北〉に山野浩一が設定した地帯は本本源の風景ではなく、ハリボテコジツケカキワリ風景であった。なぜかというとそこはローザだけが、たったの一回通過するためにだけ存在するのであり、金などかけられないからに他ならない。首尾よくローザがそこを一巡し、再びフリーランドを見おろしたとき、ローザの情念はそこに転写されている。
 チュッツオーラが鍛冶屋のなかに自らの宇宙を夢見るように、ローザもあるいは百姓のなかに自らの生きがいを見出すことができたかもしれない。平和で、死のない(これは言葉の真の意味なのだよ)血もない世界であるとローザが思ったにしても、あるいは義理も人情もある世界で、農家の陰からひょいと高倉の健さんが顔を出すかも知れぬのである。ファーマーはその世界と合体しているが、ローザは子供を生むことのできない死の本能にとりつかれた男だ。彼がそんじょそこらの女であったら、すぐに北に戻ったに違いないが、ファーマーの予測を越えてローザが北へ昇るのは、彼女が男の性快感を持っているからだ。

■女はつらいよ 奮斗篇
 性快感度曲線は男女同じであることは実験によって確証されている。また女性のそれは男性に比して緩やかであり、引潮も長びくという俗説も広く受けいれられている。おそらくこれは両方共に真実であろう。女性が本番の終ったあとでさえ愛撫を求め、男性がそれに応えるとすれば、その性行為はもはや自然なものではなく社会化されたものである。母権社会であれ父権社会であれ、支配と逆の位相を持つべき闇のなかでさえ野性が越えらないとすれば、その社会において、男と女の間に権力の不均衝が存在するか、相方共に奴隷化されているのだとみることができる。フリーランドは世界の先進国であるが、ここにおいてさえ野性の思考は抑圧されており、ローザは常に女としての感性を要求される。この点だけをとってみても、ローザが永続革命の黒い狼火を掲げるのは正当である。
 ところでローザ嬢とロナルド君はいわゆる正常位(何が正常!)でセックスしているらしく、射精して重くなった男を載せておくほどローザは暇ではなく、またそのことによって男と特別の関係をコジつけなければならないほどひ弱な女でもない。彼女は独立愚連隊員たるに充分の資格を備えているのだ。こんなことよりも、ローザとルイスの近親想姦の落し子となったピートの運命や何如に!という紙芝居のほうが面白いのだが、浩一オリジンなので面映い。

■男はつらいよ 山野浩一のすべてはフリーランド篇
 フリーランドは秘蹟であった。浩一はこれを創るために生まれてきたのだ。彼のこれまでの作品とこれから書かれる作品の全てはフリーランドの周辺に浮游し、フリーランドを照らし出し、その生命を紡ぎつづけることになるだろう。
  《エレベーター物語》 具体を持たず統一されえないフリーランドはぼくたちが〈読む〉ことによってしか肉化されない。
  《ロックで行こう》 今現在ここに存在している幻覚共和国ウッドストックネイションへの道は狂気至高の論理性によって拓かれるものである。
  《グッド・モーニング》 そこでは言葉の直接性暴力性が開示される。
  《闇に星々》 夢が現実以上に正当に評価される。         云々……

■男はつらいよ そんなにつらくないよ篇
 おそらく山野浩一もまた、バラードと同じく生のオリジンを探し求める作家であると考えることができる。「R、10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、B1、B2」というエレベーター物語はディッシュの「降下」というエスカレーター物語に近似し、オールドウェイヴサーファーたちがおそらく秘蹟の原因解明に血道をあげたところを、山野はディッシュと共に晴天の辟易で不条理の海に投げこまれた人間の心理の問題に力を注いだのである。それは山野浩一にあっては、物の活性化とも言うべき方法であった。主人公は意のままにならぬエレベーターに反抗するのではなく、外的な物を自己の精神内部にとりこんでしまうのであった。だが「グッド・モーニング」においては、方法は論理とぐるになってのみ生命[エロス]を持ちうるのだということが忘れられ、方法の空転する小説となり果て、彼自身のオリジンに迫るところはなく、グッド・モーニングという掛け声に収束するのみであった。彼が20才の折に書いたという〈幻の作品〉には主人公の行為が充分彼にとってオリジナルなものであったのだが……
 この作品に予潮として現われているブラックユーモアのタッチは伊東守男の称讃することになろうが、ピョンと飛び跳ねて「首狩り」「エレベーター物語」「グッド・モーニング」それから「ヘイ・フレドリック」「レヴォリューション」等々にほのみえることになる。«スペキュレイションの会»において十全奔放に発揮された、一方から他方へそこからまた別の点へとローリングストーンのように変転する二重性格的な自由への飛翔の結実がこれらの作品であった。彼にとっては現在流布されている価値観で未来を規定するということは悪の極でしかなく、自分なりの論理を組みあげて〈新しい現実〉を作品内に創ることが目標であった。西脇順三郎がコードウェイナー・スミスを真似て脳髄内テクスト古典と詩行とのディナミクスのうちに彼の詩的世界を夢見たように、山野浩一は規範価値体系と作品内論理を対決させ(おっブレヒトちゃん今日は)両者の交戦地帯に自らの高笑いを築いたのである。

■男はつらいよ まじめ篇
 おいらY=B、Y〉B(Y=山野浩一、B=バラード)と書くだろうが、当然Y〈Bという劣等式も成り立つのであって、一見してわかるのは文体であろう。文体とは思考の直接的痙攣であり、その稠密さは思考の垂直性を表現することになる。バラードは最近ますます腕をあげ、文章のキマリ具合は奇蹟的ですらある。ひとつひとつの作品、さらにそれらが織りなすつづれ織りは天界の王[キング] である。これに較ぶれば、山野氏[うじ]のボーモントか五木寛之かという文体は沈潜性においてだいぶおちる。だが、世界の権力位階性の最底辺に位置することにさえ嬉々としてしまう自称革命派へ殴りこみをかける一匹ズッコケ寅さん集合をもって、全学連的新鮮な破壊作用としてしまうところが五木より勝れているというか、小説音痴というべきところである。
 世の中にバカと気狂いがいるように、文体にも垂直分隊と水平分隊とがある。髯面天退ちゃんはグラックの詩文の特質をその玉石混交に見出し、垂直派を重視するのだが、バシュラールおじいちゃんも言っているのだ。「どんなに単純で貧弱なイマージュであっても、垂直軸上に展開されれば、大地と大気の力を帯びることになって、物質と動力の想像力を介して、本質的で自然なサンボルへ昇華するのである」(これは山口昌男の訳文を原文など当然見もせずに小生が勝手に書きかえたものである。どうです、『本の神話学』より面白いですか? NW-SF社気付で意見をお寄せ下さらなくて結構です)だがしかしはたまたおっとどっこいねちねちと拡散する超伝導の水平思考もあるのであって、浩一とっつあんのこの分野における怪作は「ヘイ・フレドリック」であろう。おいらゲラで読んだのだが、ゲラには印刷所の軽便のため終りのところにへおわりが添加されていて、それも山野氏の発した言霊であると感ちがえて、やったぜとゲラ笑いに笑ったのだった。いまでも頑固に〈おわり〉付きの「ヘイ・フレドリック」が秀れていると思いこんでいるのだ。始めから終りまで一貫して演じられるわらいえて妙なり危弁ロジック劇は、暗闇から窺って狂い死にすればそれでよい。笑ったり狂ったりできなかったら、トウフの角に頭をぶつけて生きかえるとか、方法はいくらもある。別に悲しくなったってかまわないし、アイヌとインディアンを出すのは革命的でよろしいとも言える。

■男はつらいよ 噴出祈願篇
 カフカは、おそらく凡百のSF作家がやるであろう、うじ虫と化した人間のうじ虫への〈転落〉に負荷された悲嘆について語るのではなく、うじ虫が人間として葛藤する様を描いた。山野浩一も同じく、首狩り人たちとその組織の存在の〈現実的意味〉を問いつめるのではなく、ぴょいと悪夢のように見捨てられて、そこにすでにして首狩りが存在している世界を描き、これはもう哲学小説とも言うべきものであって、ディレイニーが感性の噴出をもって執拗にストーリーを否定し続けるとき、山野はロジックの噴出として、そこに展開されるのはもはやストーリーではなく論理の深みなのであった。
 おわり。

■男はつらいよ 虹の迷想篇
 ひとつの作品、特に「虹の彼女」のように山野浩一臭馥郁(!)たる作品をさっと切断することはおいらのような近視眼者には不可能であって、主要モチーフを探りだして他の作品との関連を数語で片づけて、もって「虹の彼女」への連帯のフレンチキッスといきたい。
  《傷口にして刃》 山野浩一にあっては、文化革命的志向と蜂起志向がないまざってあり、それは五木寛之と野坂昭如を足して二で割ったような作品と同相に、緩やかな結合を見出している。ミックは虎のように研ぎ澄ましたナイフを秘めており、彼の実存はそれを通してのみ見出され発見される。「私」のあやふやな生命は人を傷つけると同時に持ち主をえぐってしまうナイフから始まる連想ゲームを経て、諸々の魔術的操作の後に時間と空間を旅する狭い通路をかいまみることになる。
  《名づけられぬもの》 どんずまりにおいては、もはや回廊を除いて何物も存在しない。その薄暮地帯は神が名づけることを怠った原基的〈世界〉である。現金的世界をひきずった「私」の意識が馬の夢想平面と交差する。「私」とエクトプラズマを共有したかにみえた女にとって、その薄闇世界は虹の橋によって構成されており、〈世界〉は名づけられることなしに彼の意識の照魔鏡であった。
  《涙の河をふり返るな》 おそらくミックは岡林信康のような眼を持っているに違いない。自己の論理体系と現実の構造を鋭く拮抗させ、彼の眼は長大な射程をもってメビウス的に現実を犯すのだ。バラード的な戦争はムショのなかで続行され、頂点へ昇りつめてゆく。そして、69号は彼のエッセンスを突きつめて死ぬ。こうして野坂昭如式『てろてろ』状況を示し始めるが、「私」はビンと小百合のようにテロリスムに昇天できない。
  《嘆きのオルフェ》 ロック兇状旅立ちでマルドロールに鞭うって、大島義郎21才は戦争を黙示的段丘にまで押しあげる。「私」は指導と助言で彼を飛ぶ男に仕立てあげ、また虹の彼女を垣間見、彼女の姿体が天空のマドンナとなっているのを幻視することはできた。だがそれまでであり、「私」の意識は首狩り人的にエリートのものであった。現実からの落伍者であり、のっぴきならない立場に追いこまれずして〈世界〉への道は開けないのだ。
  《マルドロールからアルゴオルヘ》 「私」は初めて女を見たとき、あるべきでないものを見てしまった当惑を覚える。魅力的ではなく、色気を欠いているにもかかわらず、彼女に惹かれてしまう。女の眼には不思議な輝きがあり、その輝きは、彼女の意識の奥底にある源からあふれ出て、私の意識の底部を掘りかえしているようであったが、「私」にとってそれは、ただ単にありうる別の経路にすぎない。おいらはこうした叙述を冷静に考えることができない。この地獄にあって、山野浩一が描写したのと同じ風貌をもち、彼岸への道を拓いているかに見える女が存在するのだ、と幻想であるのだが思いこんでいて、アフリカに結晶した森を見つめるように彼女たちを見てしまうとき、掻きたてられる情念とそれに匹敵する後悔の念がからみあい、アンドロギュヌスの首となっておいらの心は果てしない後退戦を続けてしまうのだ。虹の彼女はピートやローザのなかに生きてゆくだろう。
  《教訓》 《世界》を名づける特権は当人の魂の状態によって呪縛され、それは最も虐げられた者(精神病患者と犯罪者)が最も革命的に励起されるという方程式の具体であった。

 本論は1972年1月発行の「季刊NW-SF」第5号(発行人・山野浩一)に掲載されたものの再録であるが、ごく一部を削除したことをお断りしておきます。原文のルビは[]で示しました。