「夏来にけらし」青木和

 雨が降っている。

 いつからだろう。長いこと、耳の奥で聞いていた。雨の音だと分かるまでにずいぶんかかったような気がする。それとも、案外短い時間だったのか。
 目を開けても真っ暗だった。しばらくは、本当に目覚めているのかどうか分からなかった。やがてゆっくりと感覚が戻ってきて、手と足の存在を感じられるようになった。
(寒い)
 体が固まったように動かなかった。全身が冷たくぐっしょりと濡れていた。
(ここはどこだろう。何をしていたんだっけ?)
 霞がかかったような頭でぼんやりしていると、闇に目が慣れてきたのか暗いなりに視界が開けてきた。目の前にひん曲がった棒が見える。折れた傘の骨のように、情けなくぶら下がっている。長い時間をかけて、壊れた車のワイパーだと理解した。
 そういえば車を運転していた。山間の曲がりくねった道を走っていたことを思い出した。
(事故った……のかな)
 強ばった手足におそるおそる力を入れてみる。幸い、そして意外にも、どこも痛むところはなかった。体が動かないのは凍えているだけで、怪我はないようだった。
 のろのろともがき続けているうちに、なんとか車から出ることができた。転がり落ちた地面は濡れた毛布のように、冷たく軟らかく沈み込んだ。立ち上がると、ずくずくと足が沈んだ。
 暗くて何がどうなっているのか分からない。だが、大きな木が車にのしかかっているらしいことだけは手探りで分かった。倒木にぶつかったのか。
 人身事故でなかったことにとりあえず胸を撫で下ろしながらあたりを見回した。
 時刻は分からないが空は真っ暗で、おそらく真夜中なのだろう。人や車が通りそうな気配もない。
 雨は痛いほどに顔を、肩を叩く。
 暗闇の中にぽつんと黄色い光点が見えた。高さからいって、月や星ではない。人工の灯りだ。あそこまで行けばなんとかなるかもしれない。
 あの灯りとの間に道が通じていることを願いながら、歩き出した。


 雨が降っている。

 かなり歩かなければならないと覚悟をしていた。しかし光の源は意外なほどすぐに目の前に現れた。
 篠突く雨が急にはっきりと光って見えるようになったと思ったら、いきなり太い木の柱とガラスの扉が目の前に浮かび上がったのだ。
 夜の雨空を背に浮かび上がる影は、かなり大きな建物のように見えた。両開きのガラス扉の向こうには広い靴脱ぎと、えんじ色の絨毯が敷かれたホールが広がっている。いくつかのソファが配されたホールの手前側には重厚な──かなり年季の入った木製のカウンターがあり、法被を着た初老の男が中に立っていた。黒い横線が一本入ったタグを名札のように首から提げている。
 入口の造りから見て、どうやら旅館のようだった。法被の男は従業員、おそらく番頭か何かだろう。
「これは、これは。ようこそおいでなさいませ」
 男──番頭は私の姿を認めると、人のよさそうな笑顔を浮かべてカウンターから出、ガラス扉を開けてくれた。
「お疲れでございましょう。どうぞお上がりになってくださいまし」
「すみません。泊まり客ではないんですが」
 番頭は、ふっと首をかしげる。
「すぐそこで、事故を起こしてしまって。灯りが見えたのでとにかくこちらに──」
「お車ですか? それは災難でしたねえ」
「道に倒れていた木にぶつかっただけのようなんですが、とにかく警察に連絡を」
「それは無理でしょう」番頭はくしゃっと眉を下げた。
「土砂崩れがありましてね。当館に続く道は塞がってしまっておりまして」
「はあ……それは警察を呼んでも来られないということですか」
 番頭は同情めいた笑みを浮かべてうなずいた。
 つまりこの旅館は今、孤立しているということらしい。
(ついてない。いや、事故って怪我もなかったのだから幸運だったというべきかしら?)
 ここまで歩いてくる間に、自分が何をしていたのかだんだん思いだしてきていた。他県で暮らしている娘夫婦の家に向かっていたのだ。
 県境を越えて車で移動するのは久しぶりだった。雨の多い季節に山越えは……と娘は心配していたが、不慣れな道でもカーナビがあればなんとかなると考えたのが甘かった。バージョン遅れのカーナビはとんでもない道を指示し、人気のない山道に迷い込んでしまった。日の暮れないうちになんとか人里に出なければと焦っていた。
 今日明日に着かねばならないという用事ではないから、連絡さえすれば問題はないと思うが、それにしても──。
 考え込んでいると、番頭が言った。
「どうぞ雨がやむまで当館にご滞在ください。部屋は空いております。ともかくまずはお風呂でも」
 その言葉に自分の体を見下ろした。ずぶ濡れなだけでなく、まるで泥人形だ。


 雨が降っている。

 湯船の中で、私はもう何度目になるか分からない溜息をついた。
 今夜はとりあえずこの宿に泊めてもらえることになったが、実は財布もスマホもすべて車の中に置いてきてしまっていたのだ。自分では十分冷静だったつもりだが、やはりかなり動転していたのだろう。
 とはいえこの暗闇と雨の中を取りに戻る気にはなれない。そもそも、あの場所にもう一度たどり着けるかどうかも分からない。
 また溜息をついて、ざぶ、と顎先まで湯に浸る。
(どうかしてた、本当に)
 そうやってかなり長い間浸かっていたが、なかなか体は温まらなかった。湯がぬるいわけではない。肌の表面にはぴりぴりした熱さを感じるし、場内にはもくもくと湯気が立ちこめ、反対側の壁が見えないほどだった。
 にもかかわらず、体の芯がいつまでたってもどうにも冷たい。
 寒色のタイルを使った古めかしい風呂はがらんとして薄暗く、どことなく寒々としていた。
 そういえば宿全体も侘しげだった、と思い返す。番頭は親切だったが、笑顔はどこか作り物めいてよそよそしかった。雨の中辿りついたときはあれほど暖かくまばゆく思えた灯りも、いざ館内に入ってみると力なく、あちこちに陰がわだかまって見えた。
(文句をつけられた立場じゃないけど)
 やがて温まるのを諦めて、私は湯から上がった。くよくよ考えたところで今できることはない。豪雨がおさまるまでは、この見知らぬ土地の見知らぬ宿の厚意にすがるしかないのだ。
 脱衣所で宿から借りた浴衣に着替えていると、突然気配を感じた。
 振り返ると、もう一人客の姿があった。一体いつの間に入ってきたのか、こちらに背を向けて鏡の前に座り、濡れた半白の髪をとかしている。背中が少し丸まっており、私より少し年上のようだ。
「こんばんは」
 無言で二人きりというのも気詰まりに感じられて、私はその女性に声をかけた。
「よく降りますね」
 女性は櫛を持つ手を止めて、ゆっくり振り返った。
「ああ、びっくりした。人がいらっしゃるとは思わなくて」
 驚いたとは思えないおっとりとした口調で女性は答えた。
「新しい方? こちらにはお泊まりのご予定でいらしたの?」
「あ──いえ」
 おかしな言い方をする。常連、一見という意味だろうか。いぶかしく思ったが、とりあえず流すことにして私はかぶりを振った。
「娘の家へ行く途中に通りかかったんですけど、近くで事故にあってしまって」
「それは大変でしたこと」
 女性は心底気の毒そうな顔になって眉をひそめた。
「これもご縁ですからどうぞごゆっくりなさって。わたしもね、一泊だけのつもりで来たんですけどこんなことになってしまって」
 ほうっと溜息をつく。
「家に猫ちゃんをお留守番させてきたんですよ。だからわたし、早く帰らないといけないんですけど──雨がやんでくれないから」
 浴衣の衿をかき合わせる女性の胸元に、黒い線の入ったタグが揺れていた。
(あれ……?)
 番頭が首から下げていたものにそっくりだった。職員証だと思っていたが、客であるこの女性も下げているということは、違うのだろうか。
「あの」
 それは何の、と尋ねようとしてやめた。女性はまるで意識の糸が切れたように、あらぬ方に視線を投げたまま、帰らないと、帰らないと──と繰り返している。私のことなどもう眼中になくなってしまったようだ。
 そしてそのまま、立ち上がって浴場を出て行った。
(急にどうしたんだろう?)
 しばらく呆気にとられて見送っていたが、ほどなく洗面台の上に宝石入りのチャームがついたペンダントが残されているのに気がついた。
 今の女性のものに違いない。
 私はペンダントを持って彼女の後を追った。まだ遠くまでは行っていないはずだ。
 浴場を出て、あたり見回す。
 出入口の左にも右にも真っ直ぐな廊下が続いていた。曲がり角はない。
 にもかかわらず、女性の姿はどこにも見えなくなっていた。

 浴場を出て部屋に戻る途中、ペンダントを預けるためにフロントに立ち寄った。
 古い木のカウンターは相変わらずどっしりと構えていたが、番頭の姿はなかった。呼び出し用のベルがあったので押してしばらく待ってみたが、反応がない。
 カウンターの奥はしんと静まりかえっている。
 どうしたものかと迷っていると、廊下の向こうからばたばたと近づいてくる足音が聞こえた。
「もしもし、もしもし。聞こえないのか。ここなら聞こえるか」
 姿を現したのは、恰幅のいい中年の男だった。慌ただしく小走りにやってきてうろうろと玄関ホールを歩き回る。スマホを耳に押し当てているところを見ると、電波を拾おうとしているらしいが、うまくいっていないようだ。
 男はなおしばらく「もしもし」を繰り返していたが、やがて口の中で小さく毒づいて、ソファの一つにスマホを投げ出した。
 そしていきなり私に向き直り、あなた電話を持っていないか、と言った。
「いえ、あいにく……」
 男の必死そうな様子に気圧されながら、首を横に振る。
「でも宿の人に頼めばここの電話を借りられませんか」
「そうか、そうだな。ありがとう」
 言うなりカウンターから身を乗り出し、内側にあった電話の受話器をつかみ上げる。
「もしもし、もしもし……」
 勝手に電話をかける男を横目に、私は男が放り出したスマホに目をやった。
 スマホは泥だらけだった。液晶はひび割れ、本体も何か強い力で押し曲げられたようにへしゃげている。これでは通話できるはずがない。
(分かっているのかしら……)
 男の方をうかがうと、ちょうど「通じていないじゃないか」と言いながら受話器を放り投げるところだった。
 男は壊れたスマホをほったらかしたまま、「電話、電話を」と大声で喚きながら来た廊下を戻っていった。
 私は男を見送ってからなおしばらくカウンターの前に佇んでいた。これだけ騒いでも、なお番頭は姿を現さなかった。


 雨が降っている。

 夜が明けても空はどんよりと薄暗かった。雨はいっこうに弱まる様子もなく、止めどなく落ちてくる。空気はじっとりと重く湿っぽく、体にまとわりついてくる。
 昨夜はいろいろと疲れていたのか、部屋に戻るとすぐに寝てしまった。結局番頭は姿を見せずじまいで、ペンダントを預かっている旨のメモだけ残してきたのだが、その後どうなっただろう。
 カウンターにはやはり番頭の姿はなかった。私が残したメモもそのままだ。
 ひとの忘れ物をいつまでも持っているのも盗んだみたいでいやだし、どうしようと思っていると、背後から声をかけられた。
「お客様、どうされました?」
 振り返ると、和服姿の年配の女性が立っていた。女性はこの宿の女将だと名乗った。
「助かりました。実はこれ……」
 浴場で出会った女性が忘れていったらしい、とペンダントを渡す。
「ご年配の方で、飼い猫の心配をしておられました。お客さんだと思いましたが、番頭さんと同じ名札?を提げておられたのでこちらの方かも」
 女将の顔がふっと曇った。
「名札? 黒い線の入った?」
「ええ、そう。それです」
「でしたら、もうお渡しするのは無理でしょうね……」
 女将は目を閉じて静かにかぶりを振る。
「あの……?」
 どういうことですか、と続けようとすると、女将は再びぱっと目を見開いて顔を上げた。
「食堂に朝食のご用意ができておりますよ。どうぞ召し上がってくださいな」
「いえ、そこまでお世話になるわけには……」
 私は昨夜の経緯を話し、番頭の厚意で泊めてもらったことを話した。
「そうでしたか。ですがあれがそうしてくれと言ったならわたくしも否はございません。どうぞお好きなだけ滞在してくださいませな」
「とにかく車まで戻って財布や何やらを取ってこないと……」
 表玄関の方に目を向けると、ガラス扉はびっしりと結露していた。外は霧とも靄ともつかないものが濃く漂い、視界はほとんどきかない。
「お出かけはなさらない方がよろしいでしょうね」
 女将はきっぱりと言った。
「迷われますよ」
「でもあまり長いこと放っておくのも気がかりですから。もう少し小降りになったら傘を貸していただけませんか」
「小降りにもなるかどうか……このあたり、梅雨の時期は特に、いったん降り出すとなかなかやまないんですよ」
 女将は気の滅入りそうなことを言った。
「雨がやんだら、すぐ夏が来るんですけども。ええ、やみさえすれば」
 女将は靄の向こうになにかが見えるとでも言いたげに、じっと外に目を向けた。
「でもまだ……まだ無理です。その時が来るまではここにいなくては」

 女将が是非にというので、せっかくの厚意をうけることにして、私は食堂へ向かった。
 あまりに静かなので客がいないのかと思ったが、思いのほか席は埋まっていた。広くもない座敷に小さなテーブルが並べられ、十数人の客が黙々と食事をしている。
 私は空いているテーブルを適当に選んで、席に着いた。
 食事のメニューは和食で、汁物、焼き魚、野菜の小鉢などごく普通のものだったが、私はいそいそと箸を取った。昨日の昼から何も口にしていなかった。
 汁椀を取って口をつける。味噌汁が唇に触れた途端、ひんやりと冷たいことに気がついた。
 冷め切っている。
 私は仕方なく味噌汁を諦め、少々冷めていても気にならない焼き魚に手をつけた。だが一口口に入れた途端に、ジャリっと不快な舌触りを感じた。
 紙ナプキンを取ってそうっと吐き出す。目立たないように広げてみると、細かい砂がびっしりと混ざり込んでいた。
 すっかり食欲をなくした私は、黙って席を立った。ひどい食事だがクレームをつけられる立場でもない。
 それにしてもほかの客たちはよくみんな平気で食べていられるものだ。
 座敷を振り返って、私はふと奇妙な感覚に囚われた。
 中年の夫婦、子供連れの家族、友達同士らしい初老の女性グループ。みな一言も発さずに目を伏せたまま、黙々と箸を動かしている。
 なんだか、変だ。
 言葉にできる理由もなく、私は思った。
 雨に閉じ込められているとはいえ、旅館の朝食会場がこんなに静かなことがあるだろうか。旅館が砂の混じった食事を提供し、客の側もそれを平気で食べていられるものだろうか。
 姿を見せない番頭。消えてしまった女性。壊れたスマホで電話し続ける男。
 ここは何かがおかしい。

 昨夜、私は確かに道路を歩いてきた。しかもそれほど遠くではなかったはずだ。だから道なりに歩けば見つけられると思った。
 女将にも誰にも何も言わず、私は宿を出てきた。
 車を見つけて、娘に連絡しなくては。
 あそこにいてはいけない。何かが、とても、いけない。
 それだけの気持ちで飛び出してきたのだった。
 だが進んでも進んでも、倒木も私の車も見当たらなかった。雨に濡れた体は冷え切って、もう感覚も失われてきた。
(戻った方がいいのか。でも──)
 言葉にできない不安が胸に渦巻いていた。うそ寒い雰囲気だけではない。あの黒い線のあるタグがしきりに頭の中で瞬いていた。何かが心に引っかかっているのに、正体が分からない。
 寒さに歯を鳴らしながら、喉の奥から泣き声ともうめき声ともつかない音が溢れでて止まらない。
 娘に連絡しなくては。
 ただそれだけで私は歩いている。
 だが、その行く手は唐突に遮られた。
 視界の届くぎりぎり先で、道が崩落していた。
 アスファルトが無残に引きちぎられ、その下の土の斜面が剥き出しになっている。巨大な亀裂の向こう側は、見えない。
(そんな、ばかな──じゃあ、)
 私は昨夜、どこから、どうやって、あの旅館に辿りついたのだろう?
 振り返り、靄の向こうに点るはずの灯りを探す。
 が、旅館の灯りは見当たらなかった。背後には土が──山肌からえぐり取られた巨大な土砂の堆積物があるだけだった。
 雨が頬を、肩を叩く。
 唐突に、私は思い出した。
 車を走らせているとき、雨音とは違う地鳴りのような音を聞いた。すぐに目の前に大量の真っ黒な土塊が流れ込んできて。
 私は──
 ようやく、あの黒い線のあるタグが何だったのか理解した。
 あのタグを提げられた人たち──彼らは〝帰って〟いったのだ。この巨大な土砂の中から見つけられ、私たちがかつていた世界に、死者として。
 だが私たちはまだ見つけられていない。だからその時が来るまでは、ここにいなくてはならない。
 残された人たちと一緒に、土砂に埋もれたあの宿に。
 自分の居場所を理解した私の目に、再び旅館の灯りがほんのりと黄色く見えてきた。



 雨が降っている。
 宿の部屋の窓から見えるのは靄と霧ばかりだ。
 あれからどのくらいの時が経ったのだろう。あちら側ではもう雨は上がっただろうか。夏は来たのだろうか。
 もう何も分からない。私の体は土の中で、誰にも知られずゆっくりと腐乱していく。
 雨は降り続いている。まだ、やまない。
                                〈了〉