「〈半過去時〉から来たUFO 半村良論覚書」大和田 始

★半村良の厖大な作品群において、非人間的で規則正しい連続としての時間が専制することはない。彼の作品にあって重要なのは絶対的な時間ではなく、人間の意識における時間である。更に正確にいえば、人間の意識における時間の堆積ともいうべきものである。
★ヒトの胎児は生命の歴史を再演する。見方を変えれば、生命の発生以来の〈時間〉が一個体の中に蓄積されているともいえるだろう。半村良の場合にも、日本の歴史がいつでも噴出するものとして一個人の中に、さらには社会の中に蓄積されている。
★種族の記憶をたどって、エフレーモフほどではないが、半村良も相当に過去にさかのぼり、神話時代にまで達している。ただしそれは意識における歴史の遡行であって、現実の歴史の遡行ではないから、たとえば豊田有恒のごとく「古事記」批判に至ることはない。記紀が当時の支配階級による “宗教改革” の書であったということは半村良にとって重要ではなく、当時の日本人の意識のうちにあって、存在の証でさえあったであろうことが重大であり、当然の結果として、神話を受けいれるという態度を示す。
★半村良は現代はもとより、古代や中世をも作品の舞台として選んでいるが、彼の作品の真の舞台は彼が思春期をすごしたと思われる東京の下町、江戸明治大正昭和とつづいた歴史の煮こごりとしての〈時間相〉である。〈原風景〉と呼んでもよいようなものだが、あえて時間相と呼ぶのは、原風景という言葉のもつ無時間的な響きを嫌ったからだ。作家のペンの先に常に去来するという意味では〈時間相〉は原風景と同じ機能を果たす。しかしSF作家として半村の意識の時空は制約から解きはなたれており、原風景はそうした中で対象化されざるをえない。かくて〈時間相〉というわけである。
★この下町〈時間相〉はその名もズバリ『下町探偵局』に描かれており、『雨やどり』等の新宿水商売シリーズもその存在を示唆しているが、驚くべきことに、というか当然にもというべきか、『妖星伝』や『石の血脈』などの作品にも浸透しているのである。この時間相、フランス語の文法用語を借用して〈半過去時〉と呼ぶことにしよう。過去の事象ではあるが、その結果ないしは影響が現在にまで及んでいるからである。文学賞を半分こでしかもらえなかった彼は、ここでも過去を半分しかもらえないのだ!
★「わがふるさとは黄泉の国」という象徴的な題をもつ作品の主人公、室谷啓一は現代に生きている。いや、生きているといえるのかどうか。「英雄伝説』の広告マンに比較すれば、現代に敗北しているとさえいえるだろう。会社がひけて、彼は家に帰る。そこに待っているのは下町の〈半過去時〉の時間である。そして啓一はそこに流れる時間からも取りのこされようとしている。そうした時、平坂久子という女性の異常な死が彼の意識に深くつきささる。それは彼の中の内的な自己と社会化された自己との間の癒しがたい断絶を極めて純粋なかたちで表現しているように思えるのだ。彼女の死に寄りそいながら、彼は神話時代へと意識の時間を遡行し、その底に〈自己死〉を見出す。そして彼は真の〈半過去時〉を獲得し、偽りの半過去時を構成していた母親と伯父は彼の前から消え去らねばならないのだ。
★意識内の時間、内的自然における時間相は、もちろん、外なる現実と無関係に存立しているわけではない。室屋啓一は社会との関わりの中で、自分が捕われている時間相が崩壊していくのを感じており、補償作用として父親の死の謎を探るようになっていくのだ。
★確かに〈半過去時〉として相対化されているとはいえ、原風景と同じように、ゆるやかながらも歴史の中に錨をおろしているため、人は時の経過とともにそこから離れていくという感覚を持たざるをえない。こうして半村作品に現われる熱情の多くは、いわば〈半過去時〉回帰欲ともいうべきものを現実に移そうとするところから発生することになる。
★豊田有恒の〈卑弥呼〉シリーズや星新一の〈殿さま〉シリーズなどは、日本人とアラブ人とエスキモー人とは異質な存在であるというような “水平思考” を民族の歴史という垂直軸に応用し、歴史上の各時点を現代とは断絶したものとして捉えたものといえるだろう。逆に意識のタイムマシン性を謳歌する半村良にはこのような断絶はなく、歴史は個人の意識の中で澱み、たゆたい、重なりあうものとして捉えられている。
★「箪笥」は半村良の最高作とも目される作品だが、ここには時間と呼びうるようなものは存在していないように思える。あえていえば〈凍りついた時間〉。時間が変化をその第一与件とするならば、この用語は不正確である。時間相とか半過去時という造語も同じく不正確であろう。しかしそこには物理的なという形容詞を冠さなければならない。精神的にはこれでいいのだ。
★ “人間は箪笥に乗るものだ” というこの作品のドグマは、その目的もその理由も詳らかにはされない。それが最高作たりえている理由の一つであろう。意味を求めようとするあらゆる探索は斥けられ、人間という存在、はたまた生命や宇宙の存在の不可思議へと直行させられる。〈凍りついた時間〉は不可逆直線時間たる歴史のどこにも位置づけられず、意識の源郷としてただただ停滞しつづけるのだ。
★『英雄伝説』の佐伯惇一は現代における虚業の最高峰たる広告代理店の有能な広告マンである。彼は会社から派遣される戦士として活躍する。ところで、戦士には後方の支援部隊が必要である。当初その役割は専務の島村がつとめていたが、彼が会社をかわった時、彼は友人のフィアンセである榊原紹子に決定的にのめりこんでいかざるをえない。自らがこもるべき巣として彼が求めるのは、過去の女、決して自ら動くことのない女、主体性のない女、自らの世界がこわれていく不安におののく女である。〈伝説〉シリーズが過去への遡行という共通テーマをもつのに対応して、彼もまた自らの意識の過去〈半過去時〉を求めるのである。
★ところがこの作品も「わがふるさとは黄泉の国」と似た構造をもっていて、女の中に仮想した彼自身の〈半過去時〉は幻想でしかなかったことが明らかにされる。それは彼の闘っていた戦場がむなしくも眼前から消え去っていくのに照応している。しかも彼は幻想をもたらした女に再び三たび会わなければならない。その時、彼が女の中に読みとるのは自らの信じていた世界の崩壊である。彼の前に世界はみにくい相貌を現わすのだ。
★『英雄伝説』は出雲神話におけるコトシロヌシの挿話の現代版として構成されている。そしてコトシロヌシは冬眠して現代に生き残っているのである。こうした永遠に生きる人物は『石の血脈』にも登場しているし『黄金伝説』の〈監視者〉も長命の人物である。長命と黄金とを挙げれば、半村作品の登場人物たちの現世的な欲望はすべてだといえる。永遠に生きるとは、歴史上の出来事を知識としてではなく体験として持っていることである。すなわち彼は歴史そのものであり、彼には歴史という概念は(少くとも一般人が考えるような概念は)存在しない。時の流れは一個の人物の中に集約されているのである。こうした歴史の対象化の欠如は『妖星伝』において、遺伝子操作(?)をほどこされ何十代かののちに誕生した子供が鬼道皇帝になるというような考え方にも反映されているといえるだろう。
★「戦国自衛隊」の主役たちは胎児のかたちをとって歴史の一時点に産みおとされる。戦国の世にあらためて生をうけた彼らは、現代における人生を取りかえすことのできない羊水内の時間と思い定めて、その時間から切り離されて生きていかざるをえない。彼らのいちずな生の速度が歴史の速度を上廻ってしまうのは、そしてまた彼らの生が平板なものとならざるをえないのは、それとは明示されていないが、〈半過去時〉を失っているための過激性のゆえである。
★マドレーヌの菓子に触発されて意識は過去の一瞬へとたちかえり、その時に実現されるはずであったことを実現する。そして完璧な時が形成される。小説という虚体のうちにではあれ、色彩、光、香り、空気の肌ざわり、路、草花、建物などが復活し、〈場〉が再現される。というより、その時はじめて意識の中に〈場〉として構成され、実在として認識されるのだ。もはや亡びることのない時間。歴史に閉され、何度も意識からの訪問をうけることになる円環的な時間。
★〈半過去時〉もそのような〈場〉であり、聖別されており、人間存在のあり方を規定するものでもある。現代において人は時の旅人として多かれ少なかれ〈半過去時〉から切り離されていくという感覚を味わっており、〈半過去時〉を実現するために戦士たらざるをえない。彼は戦いつつ社会の階層をよじ登っていく。しかし悲しいかな、その戦いの方向はおそらく誤まっているのだ。戦士たらざるをえないのはどうやら下層階級の宿命であって、上層階級の宿命ではないらしい。よってたつべき祖国が異なるのだ。半村作品で描かれる首相など権力者の相貌のみにくさは、彼らの基盤のみにくさを象徴している。突撃兵士は将校の存在をみにくいものと思いなすのである。それは生活者と寄生者の思考のちがいなのだろう。生のあり方に対する観念の差なのだろう。しかし戦士はおのれの運命からのがれることはできない。彼は故国へ敗残兵となって帰郷する。そしてその時、同時に、幻想的には戦士は〈半過去時〉をしっかと携えたまま、上部構造をさえ越える立場へと超出する。
★これこそ半村作品に頻出するUFO・異星人などに負荷されている意味である。彼らがあたかも倫理の化物ででもあるかのように振舞うのは、一度は敗北した者がその敗北を認めまいとして発する怨嵯だからなのである。
★岸田秀のいうように時間が “悔恨” に発するものならば、この時、半村良の中に時間という概念が生まれたといえるだろう。ここで発生した原初的〈過去〉が時計の時間の中に解消されず、意識の中にとどこおった時――それは〈半過去時〉となるのだ。悔恨が社会的なひろがりをもつものであれば、〈半過去時〉の中には正邪善悪の個人的な価値観が反映されるだろう。そしそれは容易に “よりよき明日” を象徴するおしらさまや異星人などの “エコー存在” を生みだすことになるだろう。とすれば、そのエコー存在が審判者という役割を演ずるのは当然といえるだろう。
★『妖星伝』ではポータラカ星人によって〈汎宇宙稀薄生命論〉ともいうべき説がとなえられ、地球における生命の混沌が批判される。この地球の生命の豊穣は、全宇宙的な観点から見た場合、異常であるというわけだ。この説はいまのところ科学的には裏づけられていない。しかしたとえ裏づけられたとしても、特殊地球の生命のあり方を批判する基準とはなりえないはずだ。
★論理的には結びつかないものを結びつけるのは情念の力であろう。この地球の生命の現況を断罪したいという執念であろう。しかしそれは本来、無理な相談なのである。だからこそ、半村の最長長篇『妖星伝』では、ポータラカ星人の中にも抗争があるとされる。個人のささやかな願望の挫折は “宇宙戦争” へと拡大されてしまうのだ。
★半村良の作品史における超越的存在のあり方の変遷については別に論じなければならないが、その意味は次第に変質してドグマ性を強めてきているように思われる。しかし必ずやこの怨嵯に発するドグマも対象化される時が来ることだろう。
★見ぬ世まで思ひ残さぬ詠より昔に霞む春のあけぼの  藤原良経
編集後記
 論叢の最終校正を終えてすぐ、宮崎へ、ぼくの〈半過去時〉へと帰った。そして天草外島、外海村など九州の西海岸をめぐり、静かな漁村のたたずまいに魅せられていった。おそらく半村良がとらわれている以上にぼく自身が半過去時にとらわれているのだろう。
 ついこの間、大島弓子のマンガ『綿の国星』を読んでビックリした。半過去時という言葉は大島弓子に捧げたほうがよかったとさえ思った。半村良に関して半過去時という用語が不適当ではないかと思われる方は、ぜひ大島弓子の近作を御一読ください。
《おことわり》
 本作は「SF論叢 第三号」1979年4月15日印刷・発行に発表された作品の採録です。