「面倒な家」江坂遊

わたしがよく振り向く理由かぁ、それはこんな出来事があったからなのよ。
 入口ドアに貼られていた物件案内に目がとまったのね。何気なく。その途端、わたしは魔法にかかったように、不動産屋さんのお店の中に吸いこまれていたわ。
「すみません。外に出ていた『家具付き、家族付きのお屋敷で、お家賃はあなた次第』というのは、何処のことでしょうか。書き間違いですよね」
 そう質問すると、人なつっこそうな不動産屋さんは、ゴマアザラシみたいにニッコリ笑った。
「あぁ、あれですね。いや、冗談で書いたんじゃないですよ。あれは本当にある掘り出し物です。あなたみたいな方に目を付けて欲しかったのですよ。これはいい」
「わたしにですか」
「そうですよ。平たく言うと、結婚のお相手を探されているお金持ちの青年がいるってことでしてね、結婚前提をお考えの方ならこんな好条件がそろうことはままありません。あなた、独身ですよね」
「大きな声で言うことでもありませんが、ええ、そうです。わたしは現在、結婚相手募集中です。でもなんて、面白いんでしょう。おたくは不動産屋なのですか、結婚あっせん所なのですか」
「何だってやりますよ。手数料が入って双方がハッピーになるというなら」
「まぁ、有難い」
「ええ、そういうことですよ。お客様も一挙両得というか、手っ取り早く課題解決が出来ていいじゃないですか」
「それもそうですね」
「この物件を面白がっていただけるあなたなら問題はありません。もちろん、向こうの家族に気に入っていただけたらという条件はつきますが、お家賃はいりませんし、お金の不自由は一切なしという好条件の物件です」
「ご家族と同居ってことですね」
「家族と言っても、若くてイケメン男子のお医者さまと飼い犬が五匹ですからね。わたしが独身女性ならほうっておきません。で、ところで、犬は大丈夫ですか」
 わたしは一瞬ひるんで少し間を開けた。
「はい、普通です。小型犬なら飼ったことはありますが。ところで、面談というか面接というかお見合いというか、そんな選抜試験みたいなものがまずあるのでしょうね、きっと。わたしで大丈夫でしょうか」
 不動産屋さんは改めて眼鏡を掛けなおすと、眼光鋭くわたしの全身を上から下へとじっくり観察した。プリンターのスキャナーでスキャンされている写真の気持ちが何となく分かった気がする。
「はい、一次審査合格。本試験に進んでください。あなたなら大丈夫でしょう。先方から手数料をたっぷりいただけそうです。もちろん、双方ハッピーならば、ということにはなりますがね」
「そうだといいのですが。で、場所なのですが、とっても辺鄙なところだったりして」
「場所はこっちの大きな市街地図で示しますが、あぁ、ここです」
 まさかと思った。
「ええっ、ここですか。ここなら、駅から五分圏内でしょ。そんなお屋敷がありましたか。わたしの記憶にないけれど」
 不動産屋さんの口角があがった。
「いいですか、よく聞いてください。驚かないで。この物件は、いったん行き過ぎて振り向かないと存在が見えない物件なのです」
 このゴマアザラシおじさん。頭がおかしいんじゃないかと思った。
「よく分かりませんが、今、何て。わたし、からかわれていたんですか。どういうことになっているんでしょうか」
「つまり、意識していないと、あるのかないのか、記憶にあいまいで、記憶にまったくもって残らない存在ですが、振り向いたとたんに急に実体化するお屋敷です。振り向いて初めてタイミングがあって、見えるようになると言ったら分かってもらえるでしょうか」
「……、……」
「まぁ、事実は小説より奇なりです。耳から聞いただけでは理解されない方がほとんどですが、実際に歩いて試していただければ明白になります。いったん行き過ぎて、パッと振り向くと、今までなかったお屋敷が現れるなんて、楽しいでしょ。ぜひ、現地にいらしてみてください」
 というわけで、さっそく行ってみることにした。婚活も住居もいっぺんに決まるのなら、それにこしたことはないと思ったからだ。わたしの好奇心メーターはマックスの値を振り切っていた。
 確かにボーっと歩いていたら、通り過ぎていた。何もない。何も起こらない。南から北へ、その逆にも道をたどったが、そんなお屋敷などいっこうに見当たらない。そこでもう一度南から北に向かって歩いて、言われたように咄嗟に振り向いた。その途端、豪邸が目の前にぬっと現れた。思わず大きな声をあげてしまった。
「ええっ、ええっ」
 すると、荘厳な青銅の門がギギーと開き、見るからに精悍で獰猛なドーベルマンが五匹、唸り声を発しながら今にも飛び掛かろうと待ち構えているのが見えた。わたしは、ここで引き下がってなるものか、大丈夫だからと、自分を自分で励ました。それでも少しはひるんだが、犬と対峙してじっと見つめていると、意外に犬の目が優しそうに思えてきたから不思議なものだ。それで、わたしは腰をかがめ、そっと手をさしだした。先頭のドーベルマンがすぐにその手をぺろぺろなめだしたから、やったと思った。後の四頭もそれに続いた。
「あぁ、いい子、いい子。ほんとうにいい子」
 心から思い、そう口にすると、ドーベルマンはわたしの足に身体を押し付けてきて、「くぉーん、くぉーん」となついた飼い犬のように鳴いた。
 この頃のドーベルマンは二足歩行するのもいるのかと見間違ったが、その後ろから長身の日焼けしたスポーツマンタイプの男性が現れて爽やかにこう言った。
「すみません。しつけがまだ十分に出来ていなくて。よくいらっしゃいました。でもあなたを気に入ったようですね」
 不動産屋さんの評価通り。光り輝くイケメン男性が近づいて来た。
 それが、主人と豪邸を一挙にゲットした経緯ということになる。
 でも笑っちゃうけれど、郵便は届かない。電気もガスも水道も来ちゃいない。屋敷が広くて掃除が大変。でも、不便かというと決してそれが不便とは感じられない。いいえ、その不便さが逆に楽しくもある、これが。
 家に入るのは、わざわざ南から北に歩いて、さっと振り向かないといけないから、それだけは面倒だけれども。これは確かにね。でも家から出ていくときは、特に振り向かなくてもスムーズに出ていけるので、少しの不便と言えなくもない。
 そうそう。なぜ、振り向いた時にだけ屋敷が実体化するかが納得いかないでしょ、その現象はとても不思議で、気味悪くもある。それで神妙に主人に聞いてみたことがある。主人は何でもよく知っているからだ。そうしたら、こんな風に彼は答えてくれた。
「こう考えようか。僕たちは今、封筒の中にいると」
「封筒って、あの郵便の」
「そう。封筒を裏返して下から上に向かって指をすべらせていくと、折り返しを押し上げて封筒の口が開く」
「あっ、そうか。あの通りを南から北に歩いてさっと振り向くと、封筒の中が見えるということね」
「誰かが北から南に歩いてきたら、それを察して封筒の口は閉まるし、すぐに自動的に閉まりもする。そんな風に、口に折り返しがついた空間に開いた穴ぼこみたいなところに僕たちは住んでいるんだよ」
 愛する主人のその説明で、素直で単純なわたしは目からうろこもコンタクトレンズも落ちた。そんな風に解釈すると、とっても精神的に楽になった。
 こんな穴ぼこというか半透明封筒が普通にあると聞いてこれはさらに面白くなってきた。いくつか見つけて建設不動産業でもして、ひと山あててみるかなと思わないでもない。
 最近、わたしがよく振り向くのは、こういう理由だったということ。これで分かってもらえたことと思う。
 あぁ、あなたも、さっそくやってみる気になったんだ。そりゃ、振り返ってみたくもなるでしょ。