「うちにかえろう」深田亨

 マルマルは解離性同一性障害、つまり多重人格と診断されたが、本当はそうではなかった。多重人格は耐え難い心的外傷などで人格が分離されるために起こるとされているが、マルマルの身体に同居する百人はもともと別人であったからだ。ただその百人が混然一体となってマルマルの中に潜んでいたため、これまで気付かずにいたのだ。
 なぜマルマルがそんなにたくさんの人格――というか〝たましい〟を抱え込むようになったかというと、まあそれは生まれついての才能というほかはない。つまり、憑依されやすい体質、なのである。
 マルマルは旅行が好きで、それも一人旅が多く、あちこちでいろんなものに憑りつかれ続けた結果、こんなことになったのだった。それでもずっと、マルマルは自分が百人もの寄り合い所帯であることに気付いていなかった。
 ところがある日、こんな夢を見た。
 夢の中で、マルマルは古びたアパートに住んでいる若い女性だった。インターホンが鳴る。男の声で、向かいの空き室に越してきた者だと言う。聞いたような声だ。出てみると、目の前にいたのは、かつて自分を騙して大金を巻き上げた結婚詐欺師ではないか。相手も驚いた顔でマルマルを見たが、すぐに走って逃げだそうとするところを、一瞬早くその腕をつかんだ。
 殺してやる、とマルマルは思った。この男のせいで莫大な借金を背負い、いかがわしい店で働かされ、クスリ漬けにされ、あげくのはてに自殺したのだ。
 狭い廊下で大声をあげて揉みあっていると、アパートの住人が集まってきた。百人近くいる。マルマルは詐欺男の首を絞めていたが、住人たちに引き離されたところで目が覚めた。
 おかしな夢を見た。そのときはそれだけで、午後にはもう忘れていた。けれどその夜、マルマルはまた夢を見た。
 同じ夢だったが、こんどは騙された女性ではなく、結婚詐欺の男にマルマルはなっていた。違いはそれだけで、騒ぎになり、住人たちが集まってくるのも同じだった。
 次の日も、その次の日も、そのまた次の日も同じ夢を見た。ただ、マルマルは毎回違う人物になっているのだ。
 騒ぎを聞きつけて最初にやってきた学生、階段を駆け上がるときにつまずいて足首を捻挫した中年女性、前の日に飲み過ぎて寝ていたが、廊下でドタンバタンと音がして目が覚めたサラリーマン。
 そんなのが三週間続いたところでマルマルは精神科の扉を叩いた。その結果が冒頭の診断なのだった。
 しばらく通院して様子を見ようとなったけれど、夢は終わらなかった。ただ夢の内容が、診断の日からがらりと変わった。アパートのマルマルの部屋に、数人の男女がやって来て話した。つまり、先ほど述べたような内容――百人が憑りついているなどということを。
「あんたがおれたちに気付かなかったのは、みんなお互いに干渉せずに暮らしていたからなんだ」とホストっぽい男が言った。
「でもこんどあなたに憑りついたのが、先にここにいたお姉さんを騙した男だったのよね」とお嬢さんばかりが通う女子高の制服を着た女の子。
「デ、このアパート――マルマルさん、アナタのことですが――にいたんじゃあ、静かに暮らしていけそうもないと、ミナサンおっしゃるのです」
 そう言ったのは恰幅のいい白人男性だった。
 最後に口を開いたのは、顔つきも服装もたたずまいも地味な中年女性だった。
「それでね、このアパートにいる百人が決めたの。もめごとが起きたのがいい機会だから、そろそろうちに帰ろうって」
「うちに帰るって、どういうことです?」
 マルマルの問いに女性は答えた。
「わたしたちが憑りついたそれぞれの場所に、あなたが連れていってくれればいいのよ。そうすれば一人ずつ離れていくから。お遍路で八十八カ所巡るよりは少し多いけれど、旅はお好きでしょ。同行二人じゃなくて同行百人、にぎやかでいいんじゃない?」
 もちろんマルマルは、かかっていた精神科医に相談した。医者は、すぐに入院しましょうと言った。マルマルは考えた。入院すると、しばらく――かなり長いあいだ、出てこられないような予感がした。それなら、百カ所まわってから、治らなかったら入院すればいい。
 マルマルは旅支度をととのえると、ぶらりと一人旅に出た。
 どこに行けばいいのかわからない、という心配はなかった。毎夜、違う住人が夢に出て、行き先を教えてくれるからだ。その人物に憑りつかれた場所に戻るわけだから、マルマルには土地勘があったし、事前に住人同士で話し合ってくれたのか、反対方向に戻ったり遠回りしたりすることなく、最短距離で次の訪問先に向かうことができた。
 マルマルは海外旅行をしたことはなく、おもに西日本中心に旅をしてきたので、東京と金沢に一度ずつ訪れたほかは、仕事の合間に数日休暇を取って、旅行するだけで足りた。
 憑依していた〝たましい〟と別れるのは、その土地で泊まって見る夢の中だった。
 おじいさんが家に帰ると、仏壇の中からおばあさんが、今までどこに行っていたのと涙を流した。
 路傍の苔むした石の中に、住めば都だよと漂泊の詩人は帰っていった。
 病院の霊安室がわが家だという女の人は、ここにけっこう仲間がいるのよ、みんな性格暗いけれどねと寂しそうに笑った。
 いかにも人のよさそうな若者を迎えに出た、マルマルも名前を知っているミステリー作家は、よく帰ってきてくれた、連続殺人鬼がいなくなって小説が書けないんだと喜んだ。マルマルに憑りついていたのは、人の〝たましい〟だけではないようだった。
 意外だったのは、百人の住人がうちに帰ろうという気になった原因である、結婚詐欺を仕掛けた男と、それに引っ掛かった女が、ずっと一緒に旅を続けたことだった。
 どちらか一人でも先に帰してしまえば、もめごとが起きる心配はないのにとマルマルは思ったが、最初に事情を説明した地味な中年女性が、その理由を話してくれた。
「結局二人は一緒になることになったのよ。みんな、また騙されるよって彼女をいさめたんだけど、意志が固いのね。それで、四国の山の中にある彼女の実家に、二人で住むそうよ。だからあなたには初めての場所だけど、次の次の次に行ってもらうわ」
「でもそれなら、これまでのようにずっと私の中――あのアパートに住めばいいのではないですか」
「もうみんな、うちに帰ろうって気になっているから。それに、あなたにこれ以上迷惑はかけられないわ」
 迷惑だなんて、とマルマルは思った。百人と旅をして、情が移っていたのだ。けれど、みんなが望んでいる以上、何も言えなかった。
 こうしてマルマルの中の住人は五十人になり三十人になりと、順調に減り続けた。
 マルマルは仕事もやめ、たくわえを使ったり行く先々でアルバイトをしたりしながら旅を続けた。やがて十人を切り、とうとうマルマルと、あと一人となった。
 夢の中でマルマルは最後の一人と別れの挨拶を交わした。
「ずいぶん寂しくなるね。でもお元気で。みんながうちに帰れてほっとしている。私もうちに帰ることにするよ」
 すると相手がいぶかし気に聞いた。
「うちに帰るって、どこへ?」
 どこへって――マルマルは考えた。私が住んでいたのは――古びたアパート? それは夢の中でみんなが住んでいたところじゃないか。でもほかには思い出せない。
 戸惑っているマルマルを見て、最後の一人がこう言った。
「だってきみは『入れ物』じゃないか。ぼくがいなくなったら、きみはなんにもなくなるんだけど――自分を感じるということは、まだみんなの意識が少し残っているんだね。そのうち消えてなくなるだろうから、それまでうちにいてもいいよ」
 やがてマルマルの中に残っていた意識のカケラが消え去ってしまうと、マルマルは名前のないただの○○になった。
 長いのか短いのかわからない時間が過ぎた。ある日、○○のどこかにあるドアを開いたものがいた。
「古びていて狭いけど、居心地がよさそうね。しばらくお邪魔するわ」
 そんな声が聞こえて、○○は再びマルマルになった。