「手つなぎ鉄道心中」江坂 遊

 ドアが開いた。ふとこのまま先に行ってみようかと思いたち、降りるのをやめた。
 汽車は六時きっかりに人里駅を離れた。人里を出たのだから、汽車は鬼の住む世界に私を連れて行ってくれるのに違いない。
 寒かった。
 私の乗った車両はがらんとしていて、そのせいもあるのだろう。やけに寒さが肌をさす。私は車両の隅の席で小さくだんご虫のように身体を丸めた。
 汽車は宿命とも思えるどす黒い川を幾度も渡り、人生そのものともいえる切り立った崖っぷちを車体を山にこすりつけるようにして駆け抜けた。
 「作家の取材旅行」と口に出し、私は静かに笑った。もう私はペンをとらない。作家としての生命は妻と一緒に死んだのだから。私はひたすら妻のためにだけ物語を紡いできた。妻を喜ばせるだけで十分な満足感を得ることができたからだ。
 だから、もう私がペンをとる理由などありはしない。これからの余生、ペンを持たない作家はただただ廃人のように暮らしていくことになるのだと思う。死ぬ勇気もないのだから、生きている屍と言えなくもない。きっとこれからは、妻とのあの約束を反芻し、老いさらばえていくことになるのだろう。
 妻との約束、あの一言。
 気がつくと、外はもう真っ暗。外は冷えてきているのだろう。窓に細かな水滴がつきはじめてきた。車窓の向こう側の闇夜では魑魅魍魎が私を口々にののしり、あざけり、踊り狂っていることだろう。私にはそれが見える。
 ふと悪戯心がわき、私は窓ガラスに目を描いた。これは妻の目だ。すると、私の心を見透かしたかのように、その瞳から一筋しずくが斜め下に落ちた。まるで幽界の妻が涙を流しているかに見えた。
 何故妻は先立ったのか。
 それを考えてどうなるものでもないのだが。妻は死んだ。その現実は早く受け入れなければとは思う、が。
 妻は亡くなった。しかし、私は生き残ってしまっている。妻は私と一緒に死ななければならなかった筈ではないか。
 妻との約束。一緒に死のう。
 約束を破ったのはどっちだ。勝手に先立った妻なのか、後を追えない今の私か。何れにしても妻は私と一緒に死ななければならなかった。
 窓ガラスに描いた幽界の妻の目からは、とめどもなく涙が溢れかえっている。
 もうどのくらいこの汽車は走ったのだろう。ようやく白み始めてきた。私は緩慢な動作で窓をあけ、そっと顔を車外に出した。すぐに埃っぽい風を頬に受けた。鎮守の森、青い空、田舎道。遠くのあぜ道を、ランドセルを背負った子供たちが歩いている。
 妙な光景が目に入った。
 もし妻が生きていたとしたらあのくらいの年恰好だろう。つまり、わたしたちくらいの老夫婦が何やら線路めがけて走りよって来つつある。左前方を二人は一生懸命走っている。臆面もなく仲良く手を取り合っている。やがて、その動きはスローモーション画面のようにゆっくり感じられるようになった。
 このままだと、轢いてしまう。
 走る夫婦に恐怖の色はない。逆になんとも幸せそうな顔をしているのが不思議だった。
 汽車はガクンと衝撃を受け、急停止した。

 私はこの事故のおかげで、その駅もない村で宿を探さねばならなくなった。私は親切な車掌さんに教えてもらった宿屋を探し、あの夫婦が走って来た道を逆にたどっていかなければならない。田舎道を歩きながら、あの幸せそうな夫婦二人連れの轢断死体が何度も頭をよぎった。
 十数分程度山道を歩き、その宿屋は見つかった。
 観音館。
「すみません。泊まらせてもらえませんか」
「はい、いらっしゃいませ」
 奥から元気な声がした。その声にまず驚かされた。妻の声にとてもよく似ていた。その姿が確認できるようになり、その驚愕はさらに増した。
「??」
「どうされましたか」
 女が優しく差し出した腕の中で意識が遠のいていくのが分かった。

 恐る恐る目を開けると私は広い和室の真ん中で横になっていた。傍らにあの女将が心配そうに私の顔を覗き込んでいる姿があった。一瞬、人生が巻き戻されたのかと勘違いをしそうになった。
「やっとお気づきになられましたね。それでは夕餉のお支度をさせていただくことにします」
 女将はそういうと部屋を出ていった。その後ろ姿も死んだ妻と瓜二つだ。ついに私は冥界にたどりついたのか、いや違う。まだ生きている。
 夕餉は実に簡素な手料理だったが、夢幻の境地で箸が進んだ。食べながら質問をする。聞いて見れば、女将はこの宿屋を一人で切り盛りをしているという。亭主はふいにこの地を去り、もう何十年も帰ってこないのだとのこと。間違いなく幽霊ではない。久しぶりに私は人を慕うやるせない思いをこの女将に持った。
 その話に出てきた池に足を運んでみようと思った。危ないところですから、夜行かれるのは止めた方が良いと止められてはいたのだが。
 とても妖しい月の光が池の水面に反射し辺りを異世界に変えている。私は繁茂しているアシをかき分け、水辺まで近寄った。そこで腰を下ろし、空を見上げた。星は今にも振り落ちてきそうで、傘を持ってこなかったことをとても後悔した。静かだ。これから、私は儚くなるまでこの静寂と仲良くやっていこう。冷たい静けさの中で私は浮遊感を覚えるようになってきた。
 妻との思い出。それは沈黙の思い出でもあった。わたしたちはよくしゃべりあった。けれど、わたしたちを本当に結びつけあっていたのは、沈黙であったと言えるだろう。何も話し合わないでいる時間、そこに二つの幸せな顔があった。
 あの女将。かいがいしく良く働くあの女。もう一度やり直そうか。いやいや、私は妻と誓ったのだ。妻との約束がある。しかし、裏切られたのはどっちなのか。もし、女将とここで生活をしていくことになったとしたら妻はどう思うだろうか。平和な生活がまた送れるだろうか。いいや、何を血迷ったことを。私は廃人になろうと思っていたのではなかったのか。頭の中の水面にいくつもの波紋が立ち現れては消えていった。
 それから、私は一週間も滞在してしまった。身体の方はすっかり回復したが、心は晴れぬまま。そんなある日のこと、女将が小さな包みを抱えて部屋に入ってきた。
「お客さま、こんなものが届いています」
 何だろう。何故ここに私がいると分かったのか。宛先には確かに私の名前があった。そして小包を裏返して呆然となった。
 そこには妻の名前が書かれてあった。
 急いで小包を開けると、中から男女がひしと抱き合った歓喜天の彫像が転がり出てきた。
「二人で一緒に」
 私は女将の手をとった。二人はあの道を真っ直ぐに進む。
 きっと女将はそんな役目を仰せつかっていたのだろう。また何度でも生き返ってくるのに違いがない。死に別れた夫のために幾度も変身して手つなぎ鉄道心中を演じてあげる優しき観音様。

【山城田辺】七日午後三時頃、京都府相楽郡木津小宇宮堀の国鉄関西本線伊賀街道踏切で笠置発奈良行普通ディーゼル列車=長谷川博昭運転士(三五)に老夫婦が手をつなぎあうようにしてとびこみ、約十五メートルはね飛ばされて即死した。なお、まだ女性の遺体は発見できていない。