「鴉の右目の物語」仁木稔

 序

 著者ブログ「事実だけとは限りません」に掲載していた小品を、こうして再録していただけることとなった。デビュー作『グアルディア』(2004年)以前に執筆したもののうち唯一、現在でも人様にお見せするに足る作品である。
 デビュー前も含め、これまでに執筆したハイ・ファンタジーは本作と、「ナイトランド・クォータリー」vol.18掲載の「ガーヤト・アルハキーム」のみである。後者がマジック・パンクでSF寄りなのに対し、本作はジェイン・ヨーレン、パトリシア・A・マキリップ、タニス・リーら女性作家の初期作品、さらにはエリナー・ファージョン、ジョージ・マクドナルドにまで遡るLiterary fairy talesの系譜を意識している。(仁木稔)

「鴉の右目の物語」仁木稔

 西の森の入り口で、娘は一羽の鴉を見た。
道に張り出した黒松の枝先に止まったその鳥は、左半身を娘の方へと向けていた。歩いてくる娘に気がついたのか、キロリと左目を動かした。
 目玉は青かった。軽い違和感をおぼえたものの、さして興味も惹かれず娘は黒松の下を通り過ぎようとした。首を捻るようにして、鴉は真正面から娘を見た。彼女は初めてぎくりとした。
右目の在るべき場所には、その羽よりもなお黒い、虚ろな穴が開いていた。
 立ちすくんだ娘に向かって馬鹿にしたように一声鳴くと、鴉は枝を揺らして飛び去った。
 魔除けの印を結ぼうとして上げた手を、彼女は途中で止めて考えた――鴉一羽がもたらす程度の災いなんて、今更どうってことはない。
 軽く頭を振ると、再び歩きだした。
 西の森は何百年にもわたって人の手が入り、温和で柔順である。危険な獣は滅多に姿を見せない。鹿や狐、兎などが多く棲息し、絶好の狩場となっている。有用植物も豊富だ。娘は歩きながら薬草を摘み、小脇に抱えた籠へと放り込んだ。立ち止まってじっくり確認したりはしない。どの植物がどの症状に効くのか――或いは効かないのか――幼いころから熟知しているのだ。
 娘の母親は、村の薬師だった。腕は良かったが、村人たちからは敬われるよりも疎まれていた。流れ者だった父は娘が生まれる前に村を去っていた。二年前死んだ母から娘が受け継いだのは、薬師の知識と技術、それと村に於ける位置だった。
 器量は決して悪くない。肌は白くなめらかで、太い三つ編みにした褐色の髪は艶やかだ。だが表情は頑なで言葉には刺がある。村人たちは治療に感謝せず、彼女もそれを求めない。彼女の態度と周囲の仕打ち……どちらが原因であるかなど、論じても詮無いことであろう。
 真夏の陽光が枝葉を透かして地面に落ち、草いきれが立ち込める。時折額の汗を拭いながら、娘は一心不乱に薬草を摘んだ。その姿を村人が目にしたら、亡母に生き写しだと評したに違いない。
 小さな光に目を射られ、彼女は足を止めた。
陽差しの降り注ぐ空き地だった。茨の茂みの上で、何かが日光を反射している。籠を地面に置くと茂みに歩み寄り、慎重な手つきでそれを摘み上げた。
 「なんだろう、これ……すごくきれい」
 親指と人差し指の間で光るのは、青く透きとおった小さな珠だった。宝石としては非常に大粒だが、或いはただのガラス玉かもしれない。だがそんなことはどうでもよかった。それはとても美しい物だった。
 腕を挙げ、頭上にかざす。真昼の光に透かしてなお、珠は空よりも青かった。
 「お嬢さん」
 背後から声をかけられ、娘は文字どおり飛び上がった。勢いよく振り返る。同時に、珠を握り締めた手を背に回した。
 空き地の端にけやきの大木がそびえている。その二股に分かれた枝の間に、青年が一人うずくまっていた。この暑さに全身を黒い衣で包み、その上を更に同じ色の長い髪が覆う。立てた両膝の上に乗せた手と顔だけが、対照的に白かった。
 「驚かせてすまないね、お嬢さん」
 吟遊詩人も斯くやという美声で、青年は再び呼びかけた。口調は打ち解けて親しげで、些か馴れ馴れしいほどだった。
 娘は一歩後退った。登場の仕方もさることながら、彼の容姿はあまりに異様だった。陽炎が立つほどの暑気の中で、造り物めいて整ったその顔は時季外れの霜のように白く、上気すらしていない。
 瞳は青かった。数歩離れた娘の位置からもはっきりと判る。但し左目だけ。右目には黒い眼帯が掛けられていた。
 「怖がらなくていい。俺はただ、宝を返してほしいんだ」
 「宝?」問い返しながら、娘は青い珠を握った手に力を籠めた。
 「そう、宝」
 眼帯に覆われていない左目を細めて、青年はにっこりとした。背筋が寒くなるほど冷たく、優しい微笑だった。「あんたが手の中に隠している珠だよ。うっかり無くしてしまってね。ずっと探していたんだよ」
 警戒しながらも、娘は一つの確信に至っていた。背に回した拳はそのまま、大きく一歩踏み出す。「いいよ、返してやる。だけどその前に、お礼をしてもらわないとね」
 青年は形の良い眉を吊り上げた。
 「ひどいな。ただで返してはくれないのか」
 「あんたが人間なら、そうしてもいい」ひきつった笑みで答える。「だけどあんたは妖魔だ。人間に何かを要求する時は、相手の望みをなんだって叶えてやらなきゃならない筈だ。そうだろ?」
 詰問に対し、青年は再び微笑した。緑の葉影と木漏れ日が、白い手と顔をまだらに彩っている。
 「しかし、よく見抜いたものだね」
 「それくらい、わかって当然さ」
 娘はわずかだが緊張を解いた。
 「それで人間に化けたつもりかい? 角や尻尾を隠せばいいってもんじゃないよ。そのきれいすぎる顔じゃあ、男は妬むし女だって用心する。格好も普通じゃないしね……」
勢いよくまくし立てる娘を、青年――妖魔は青い左目を瞠り、小首を傾げて眺めている。その様は巨大な黒い鳥のようだった。
 「……そうやってもっと巧く化けて、あたしと一緒に暮らすんだよ」
 そう締めくくった彼女に、妖魔は左目をしばたいた。
 「それがあんたの望み?」
 「そうさ」あいた手を腰に当て、胸を張る。握った拳は、いつのまにか脇に垂らしていた。 
 「三年……いや二年でいい。その間あんたは普通の人間の男として、あたしと一緒に暮らし、一緒に働くんだ。それがあたしの望みさ」
 「妖魔の女を妻に望む人間の男は多い。妖魔の夫を望む女も、いないわけじゃない。だけどなぜ、もっと長い期間にしない? あんたが一生側にいろと望んでも、俺は従わなくちゃならないのに」
 娘は肩をそびやかした。「あたしをなめるんじゃないよ。妖魔のやり口はお見通しさ。一生なんて望んだら、あんたは即座にあたしを殺すつもりだろう」
 妖魔の微笑が深くなる。
 「だいいち妖魔の夫なんて願い下げさ。あんたは働き者の良い夫を演じるだけでいいんだ。二年経ったら二人で村を出る。知ってる人間が一人もいない町に着いたら、あんたはお役御免だ。お宝はそのとき返してあげるよ」
 娘は言葉を切った。無言の対峙がそのあとに続く。昼下がりののどかな光景に、妖魔の姿は落とされた一点の染みだった。
 先に口を開いたのは妖魔だった。
 「奇妙な願いだ……契約を結ぶ前に、わけを聞かせてほしいな」
 「わけも何も……」肩を竦めると、編んだ褐色の髪が揺れた。「過ぎた願いは身を滅ぼす、それを知ってるだけさ。幸せは他人に与えられるものじゃない、って母さんは言ってたけど、あたしもそう思うね。ましてや妖魔になんかさ。
 いずれこんな村は出て行ってやるつもりだったんだ。大きな町へ行って、自分の運を切り開くんだ。ただ……」
 言い澱み俯き、再び顔を上げて強い口調で切り出す。
 「ただ、あたしと母さんを馬鹿にした連中に、追われるようにして村を出るのは嫌だ。あたしを大事にしてくれる人と、手を取り合って旅立つ……奴らにはそう思わせたいんだ」
 優しげな笑みをたたえた隻眼が、挑戦的な双眼を見返す。ややあって薄い唇が動いた。「わかったよ。その願い、叶えよう。ただし契約を破り、宝を返してくれなかった場合、あんたを待つのは死だ。それを忘れるんじゃないぞ」
 言い終えると同時に、妖魔は樹上から身を躍らせた。黒髪と黒衣がふわりと広がる。
 次の瞬間、娘の前には人間の青年が立っていた。地味な旅装束に身を包んだ、どこから見てもただの人間。背の半ばに達する黒髪と、日に焼けていない肌、長く細い指などは農民や商人というよりは貴族のものだ。だが不自然ではない。異様なまでの美しさは和らげられ、人好きのする雰囲気に置き換わっていた。
 冬空よりも青い左目と黒い眼帯に覆われた右目だけは、変わらずそこに在った。

     ◆◆◆

 語り手が口を噤んだので、周囲を支配するのは再び雨音だけになった。
それほど激しい雨ではない。だが無視できるほど弱くもない。いつ止むともない女の愚痴のようだ――理髪師は嘆息した。
 この稼業に就いて三十年になるが、山の天気を読めた試しが無い。ぼやいても始まらぬが、この齢で野宿は少々つらい。幸い近くに大樹があったので、ほとんど濡れずに済んだ。厚く茂った葉の天蓋が雨滴を遮り、根元の地面は乾いている。落雷の可能性は、この際無視することに決めた。
 傍らに座るのは、商人に遅れて雨宿りの客となった男だ。全身を覆った黒いマントはしとどに濡れているが、彼はそれを脱ごうとしなかった。目深に被ったフードのせいで、年齢も容貌も定かではない。張りのある声と、染みも皺も無い口許の皮膚から、青年であると理髪師は見当をつけている。マントの生地は上質だが、馬も供も無く、見たところ荷物の一つも携帯していない。奇妙と言えば奇妙だったが、世の中にはいろんな人間がいるものだ。 
 この相客の問わず語りは、長雨の不安を紛らわしてくれていた。だが先刻言葉を切ったきり、彼は先を続けようとしない。雨音は間断無く、視界は灰色に煙る。昼だというのに、かはたれの薄明だ。耐え兼ねて理髪師は口を開いた。
 「それで、どうなったのかね?」
 「……ああ」
 我に返った、といった様子で語り手は頷いた。
 「人間に化けた妖魔は、娘の家に住み着いた。村人たちは当然、この他所者を歓迎しなかった……」

     ◆◆◆

 人々は噂した――やはり血は争えない。母親に続いて、娘も流れ者を咥え込んだか。
だがそれも、最初だけのことだった。
 隻眼の青年は邪険にされても嫌な顔ひとつせず、進んで村人たちの仕事を手伝った。何をやらせても器用にこなす。そのうえ彼と一緒にいると、みな気持ちが不思議と明るくなり、仕事もはかどるのだった。
 村人たちは彼を重宝がり、次第に損得勘定抜きで好くようになった。そしてその好意は彼の連れ合い――もはや娘ではなくなった薬師の女にも寄せられた。女は周囲の変化に戸惑い、疑いの目を向けた。だが黒髪の青年は、彼女のわだかまりをも溶かしていった。
 夫婦仲が非常に良いことは、やがて村中が知るところとなった。だが彼らは誰一人として知らない。妻が小さな布の袋を胸に下げ、閨の中でさえ決して外さないことを。
 その年の冬至祭は、例年になく盛大だった。畑の実りは豊かで、家畜はどれも肥え太り、病気ひとつしない。誰とはなしに、青年のお陰だと噂された。近隣の村々からも客が訪れ、酒と食べ物が振る舞われた。楽の音と舞踏は一日中続いた。皆が笑い、満ち足りた気分に浸った。
祭りの間、薬師の女と連れ合いは常に人々の中心にいた。引き留める人々を振り切って彼らが帰途に着いたのは、既に夜半を回ってのことだった。
 広場から村外れの茅屋に至る道のりを、女は青年にもたれ、くすくす笑いながら歩いた。戸口の前で彼女は立ち止まり、空を仰いだ。凍てついた藍色の夜空に蒼白い弦月が懸かっている。青年は、背後から腕を回して女を抱き締めた。
 「こんなふうに、誰かと月を眺める日が来るなんて、思いもしなかった……」白く息を吐きながら、彼女は呟いた。涙が一筋頬を伝い、たちまち冷えきっていく。「信じられないくらい幸せだ。全部あんたのお陰だね。みんなが優しくなったのも……。いつまでも、あんたとこうしていたい……」 
 青年の唇からも、同じように白い呼気が夜空に立ち上っている。女を抱く腕に力を込め、彼は囁き返した。「いられるさ。俺はあんたのそばにずっといる。決してどこかに行ったりしない……」

     ◆◆◆

 「ちょっと待ってくれ」
 理髪師は声を上げ、語り手を遮った。
 「妖魔がそんなことを言うのはおかしいじゃないか。契約は二年だけの筈だろう」
 雨は一向に止む気配が無い。だがもはや気にかけぬほど、彼は話に引き込まれていた。
 「確かに契約ではそうだ。だが妖魔は実に完璧に人間に化けていた。すなわち己が人間であると、妖魔自身も思い込んだのだ。契約のことなど知らぬ人間の男として、薬師の女を愛したのだ」
 澱みなく青年は答えた。話の腰を折られたことに気を悪くした様子もない。理髪師は納得が行かず、なおも言い募った。
 「しかし女のほうは契約を覚えているだろう」
 「女も契約を忘れていた」
 「なんと」
 「夫に愛され、村人たちとも打ち解け、女は幸せだった。その幸福に、妖魔と契約を交わした記憶は邪魔だ。だから自ら記憶を封じた。女はまさしく、己が力で幸福になったのだ」
 理髪師は、不服そうに鼻を鳴らした。「俺にはよくわからんな。妖魔の考えもわからんし、妖魔と取引をする愚かな女の考えもわからん。まあ、それが当然か」
 それきり理髪師は黙ったので、青年は語りを再開した。

     ◆◆◆

 季節が二度巡り、薬師の女と連れ合いは村を出た。去る者も見送る者も別れを惜しみ、たくさんの涙が流された。だが一方で、女は新たな生活への希望に胸をふくらませていた。なんと言っても、愛する夫がそばにいる。
 ひと月のち、彼らは目的地に至った。街道の要衝にあるこの町は、国中でも五指に入るほど栄えている。
 夕刻、女は宿の窓から町並を眺めていた。眼下では次々と明かりが灯っていく。
 「明日は仕事を探しながら町の見物をしよう。急ぐ必要は無いよね。懐はまだまだあったかいんだし」
 いらえは無かった。女は振り返った。なんの予感も無く……そして、凍りついた。
そこにいたのは、もはや彼女の夫ではない。二年の間に短くした髪、日に焼けた肌、堅くなった掌……すべてそのままであるにもかかわらず、内側は別のものに変化していた。
何もかもが、思い出された。
 「契約は完了した。宝を返してもらうよ」
女は後退った。震える両手が胸元へと上る。青い隻眼が、その様を見つめる。
 「い……嫌だと言ったら……?」
 「あんたを殺す」
 簡潔な答えに、女は悟る。目の前に立つのは妖魔。人間の情を一切持たぬ異質な存在。 沈黙は充分な永さだっただろうか……女が二年の歳月を振り返るのに? 立ち尽くす女を、妖魔は無言で見守る。
 深い吐息で、女は沈黙を破った。こわばった指でシャツの紐を解き、胸元を寛げる。
 「じゃあ、殺して」
 微笑とともに、女は言った。涙が双眸にあふれ、隻眼の妖魔の姿をかき消す。
 「あんたはあたしに幸せをくれた。あんたのいない幸せなんて、あたしはいらない。だから……ほら、あたしはあんたに宝を返せない」
 白い胸には、小さな袋が下げられている。
 契約はなおも妖魔を縛っている。女に示された今、初めて彼は知った。青い宝珠は袋の内には無く、女の心臓に埋まっていることを。

     ◆◆◆

 「女に魔術の心得は無かった。妖魔を想う一念が、宝珠と己が身を繋いだのだ。妖魔は女の胸を裂き、心臓ごと宝珠を取り出した。女は翌日発見された。町の役人は単純な殺人と判断し、それ以上の捜査は行わなかった。亡骸は共同墓地に葬られた」
 黒マントの青年は口を閉ざし、わずかに身じろぎした。それきり言葉は発せられず、理髪師は物語が終わったことを察した。 
 「なかなか興味深い話だった」禿頭を一つ撫で、理髪師は感想を述べた。「つまり妖魔と契約を結ぶのは愚か、情を求めるのはもっと愚かだというのだな。しかしその女も、愚かだが哀れだな。最初から村人たちが親切にしてやれば、馬鹿な考えなど起こさなかっただろうにな」
 語り手は沈黙を守った。理髪師は続ける。
 「で、その妖魔はどうなった? 徳の高い神官にでも調伏されたのだろう?」
 「いいや」
 やわらかい声音で、語り手は答えた。
 「その妖魔を知っていたのは、殺された薬師の女のみ。事の顛末を知る者は誰もいない」
 「では、なぜあんたは知っている? ただの作り話か、これは?」
 「いいや」
 再びやわらかな声音が発せられる。
 「この山を越え二里ほど南へ向かうと、薬師の夫婦が住んでいた村がある。村人たちのなかには、まだ彼らを覚えている者もいる」
 ……では、なぜあんたは知っている?
 理髪師は、口をわずかに開いたまま絶句した。悪寒めいたものが背筋に忍び寄る。
そうだ、鴉だ――物語の最初に登場したきりの青い隻眼の鴉。妖魔が獣に姿を変えるのはよく聞く話だ。あれは妖魔だったに違いない。
 大樹の下に駆け込んで一息ついていた時、理髪師は奇妙な物音を耳にした。まるで巨大な鳥が羽ばたいたかのような……振り返ると、そこに黒マントの人物が佇んでいたのだ。
巨大な鴉のように。
 思わず頭を振る。まさか、そんな馬鹿なことが。先刻、語り手が身体の向きを変えた際、フードの下の顔がちらりと覗いた。白い貌は彫像のように整っていたが、確かに両目とも揃っていた。
 「雨が上がったな」
 その声に、理髪師はびくりとした。彼の狼狽ぶりなど意に介さず、語り手は立ち上がった。空を覆う雲は、光を白く滲ませている。だが雨は霧に変わり、面紗のように周囲を包み始めていた。
 「人間の情など妖魔は持たぬ」
 空を仰ぎ、独りごちるように彼は呟いた。一陣の風が吹き、フードを撥ね除ける。肩に背に、黒髪が流れ落ちた。
 「青い宝珠は女の血に染まり、色を変えていた。元に戻すのは妖魔にとって造作も無いことであったが……」
 振り返り、彼は理髪師に面を晒した。非人間的なまでに美しい白皙に光る双眸。
 左は青、右は紫。
 「……っ」
 理髪師は立ち上がろうとした。逃げるつもりだったのか、逆に相手に詰め寄ろうとしたのかは  彼自身にも定かではなかった。どのみち腰を抜かしていたのだ。
 もはや理髪師には一瞥もくれず、青年――もしくは妖魔は歩きだした。黒い衣と黒い髪が、翼のように翻る。その姿は霧に飲み込まれ、たちまちのうちに見えなくなった。

(了)




【プロフィール】
仁木稔(にき・みのる)。2004年、『グアルディア』でデビュー。2012年、「はじまりと終わりの世界樹」(のち『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収)で第24回SFマガジン読者賞を受賞。その他の著書に『スピードグラファー』(全3巻)、『ラ・イストリア』、『ミカイールの階梯』など。「TH(トーキング・ヘッズ叢書)」や「現代思想」等にエッセイを寄稿。