「(株)頭のネジ買取センター」吉澤亮馬

 耳の中がごろごろする。鮭(さけ)原(はら)は頭を傾けて何回か叩いた。
 こつん。小さなネジがフローリングの床に転がった。
 それを見た鮭原の思考はしばらく固まった。我に返ってから、自分の耳から出てきたであろうものを拾い上げる。大きさは五ミリほどの、銀色の小さなネジだった。頭を何回か振ってみると、耳の中にあった違和感がきれいになくなっている。
 頭のネジが外れた――そんな言葉が思い浮かんだが、鮭原は鼻で笑った。
 自分はまぎれもなく人間であるという自覚があった。腹も減るし血と汗も流れる。寝ている間にネジが髪に絡んでしまいタイミングよく落ちだけ、と考えることにした。
 しかし時間が経つにつれて気になってくる。まさか本当に自分の耳から出てきたのではないか。ありえない想像が頭からこびりついて離れない。
 そこで鮭原はスマホで検索してみると、あるホームページを見つけた。
『頭のネジ、買い取ります』
 無難な企業のホームページだった。スクロールして見ていくと、その途中で鮭原の指がぴたりと止まった。頭のネジの参考買取金額が書かれている。
 最低でも、一本十万円から。鮭原が電話をすると女性のオペレーターが答えた。
『お電話ありがとうございます。頭のネジ買取センターでございます』
「ホームページ見て電話したんだけど。耳からネジが出てきたっていうか」
『ネジが出てきたのは今回がはじめてですか?』
「ああ。急に」
『さようでございますか。もしよろしければ、お客様の性別と年齢をお聞きしてもよろしいですか?』
「二十一歳の男だよ」
『ありがとうございます。それではご説明させていただきますね。出てきたというネジなのですが、生死には関わりませんのでまずはご安心ください』
「ていうか、そもそもこのネジはなに?」
『頭のネジでございます。人は社会で生きていく中で、環境にあわせて自分なりの常識を持つようになります。それは日々蓄積され、やがて価値観にまで達するものですね。しかし、各個人によってその許容値――自分の中に蓄えておける常識には限界がありまして。すると、人は常識を固体化して体外に排出するのです』
「は? 常識?」
『お客様のご年齢であれば害は少ないかと思われます。常識というものは若ければ若いだけ、何度も作ることができるからです。逆に年を取ってしまうと新たな常識を作ることができません。頭が固くなってしまうんですね。例えばなのですが、地位ある年配の方のネジが急に外れると、タイミング次第では自分の立場さえも――』
「あー、わかったわかった。要するにこのネジは俺の常識なんだろ? これを買い取ってくれんのか」
『もちろんでございます。ネジはいわば常識そのもの。欲する方も多いのです』
「こんなものが欲しいってか」
『頭のネジを他人の耳に入れ、専用の機材で締めればそれで常識が身につきます。いざ自然に身につけようとすれば時間がかかるもので。また、どんな常識が欲しいかは人によって千差万別、ですからどのような常識も買い取らせていただいております』
「そんなもんかなあ」
『ホームページにも記載されていますように、買取は最低でも十万円からを保証させていただいております』
「あー……ちょっと考えてからにするわ」
 通話を終えて、鮭原は自分の中から出てきたであろうネジを指でつついた。
 このネジがあるということは、自分の常識が欠落したことを意味する。電話では害が少ないとは言っていたが、それが本当であるのか鮭原には判断できなかった。
 しかし、ネジを売ればそこそこの金になる。会社勤めの身とはいえ、新米の鮭原は裕福とは程遠い。水道の支払いも滞り、借金だって抱えていた。
 最初の通話を終えてから十分後、再びスマホを手にした。
 結果、頭のネジは十万千二百円で売れた。

      〇

 翌朝、出社した鮭原がエレベーターに乗っていると、営業部長が乗りこんできた。背は低くでっぷりした体形である。
 鮭原はこの部長を嫌っていた。仕事でミスがあればねちねちと追及するだけでフォローはしない。仕事がうまくいけば、さも自分の指導のおかげと言わんばかりの態度であるからである。
 鮭原はしぶしぶ頭を下げた。
「ちっす」
 小さく口にする。すると部長は険しい顔を浮かべた。
「……君、なんだそれは」
「え? 挨拶をと」
「鮭原君、君は上司に対してそんな挨拶でいいと思っているのか。まったく、非常識なことこのうえないな」
「はあ」
 狭いエレベーターの中、部長の説教は止まらなかった。
「いいか、まだ入社して一か月の新人だろうが関係ない。会社の先輩以前に、人生の先輩に対して無礼だとは少しも思わんのか。君が今までどんな人生を送ってきたのかは知らんが、まだ最低限の常識を持っていないのは大問題だぞ、まったく」
 やがてエレベーターが止まると部長は先に出ていった。
 鮭原はきょとんとしていた。自分はちゃんと挨拶をしたのに、あそこまで激昂される意味が分からなかったのだ。
 廊下を歩いていると、直属の上司である佐々基(ささき)がやってきた。営業部長とは違い、鮭原がお世話になっており、最も信頼している人だった。
「ちっす」
「おはよう。なあ、部長なんだか怒ってたぞ。何をしたんだ?」
「何って挨拶を」
 すると佐々基がにやりと笑った。
「もしかして、今みたいな感じで?」
「そうです」
「はは、挨拶はな、おはようございます、ってちゃんと言うようにした方がいいぞ」
 佐々基は鮭原の肩をぽんと叩くと、足早に先に行った。やはり部長とは違っていい人だなと改めて思った。
 しかし鮭原には妙な違和感があった。
 二人の反応を見た限りだと、まるで自分が非常識なふるまいをしたらしかった。しかし何がダメだったのかが判断できなかった。
 まさか、頭のネジが外れたせいではないか――。
 鮭原は誰もいない方を向いて小さく口にした。
「おはようございます」
 なんだか口なじみのない言葉だな、と鮭原は思った。

     〇

 一週間後のことだった。
 鮭原がシャワーを浴びていると、右耳に違和感があった。水でも入ってしまったのか、と思いながら頭を傾けて叩いたところ、またも耳からネジが出てきた。
 間違いなく何かがおかしい――鮭原は大慌てで風呂を出て、すぐに頭のネジ買取センターに電話をかけた。
『お電話ありがとうございます。頭のネジ買取センターでございます』
「この前な、電話したんだけど、またネジが外れたんだよ、俺のが」
『頭のネジですね、かしこまりました。以前に電話していただいたということであれば、買取のお電話ですか?』
「は? ちげーよ。なあ自分から出てきたネジって元に戻せねえのか?」
『可能でございます。弊社の実店舗に来ていただきまして、特殊な機械で締めなおせば元通りです。料金は一本二十万円となりますが……』
「ぼったくり過ぎだろ。ていうかさ、この前もネジが外れたわけ。この短い間に連続するって大丈夫なのか?」
『最近、お客様の生活環境に大きな変化はありましたか?』
「変化?」
『はい。例えばご結婚をされたとか、引っ越しをされたとか』
「あー……なら就職したってのがある」
『となると、就職が原因になっている可能性が高いと思われます。頭のネジが外れるということは、過去の常識が抜け落ちるということを意味しますから。もちろん、代わりに新たな常識が作られていくものなので、むしろ環境に適応しようとしているのかと』
「よくわかんねえけど、とりあえず問題はないってことか?」
『おそらくは、ですが』
「それならまたネジを買い取ってくれよ。十万円以上でな」
『ありがとうございます。保証させていただきます』
 必要な手続きを済ませると、鮭原は笑顔を浮かべた。自分の常識を一つ失った代わりに臨時収入を得られたのだ。仕事をして溜めたストレスは、金を使うことで発散したくてたまらなかった。
 今度のネジは十万五十円で売れた。

      〇

 数日後のことだった。
 鮭原が自然に目を覚ますと、部屋に朝日が差しこんでいた。上半身を起こして背筋を伸ばすとしっかり眠れたのが分かった。
 ふと鮭原は時計を見る。午前十時、出社時間をとうに過ぎていた。
 やってしまった――枕もとのスマホを見ると会社からの着信が何件も残っている。面倒だなと思いつつ、鮭原は佐々基に連絡した。
『はい。佐々基です』
「すみません、鮭原っす。寝坊しました」
『分かった。今から用意していつ来れる?』
「急いで行きますんで」
 通話を終えて、鮭原は着替えなければと思った。しかし窓越しに見える空は青く晴れ渡っている。こんな日にせかせかすることもないだろう、すでに遅刻しているのだから、と開き直ると、鮭原は朝食を食べてベッドに寝転がってスマホを眺めた。
 結局、鮭原が会社に到着すると十二時を過ぎていた。すぐに佐々基の元へ向かうと、非常階段に連れていかれた。
 他に誰もいない階段の踊り場で、佐々基は怒りの表情を浮かべた。
「連絡をもらってから二時間以上も経っている。どういうことだ?」
「その、色々と準備をしていたら遅れて」
「あのな、遅刻したらせめて急いで来てくれ。そういう心がけが見られないと、非常識って言われてもフォローできないぞ」
 非常識。その言葉を聞いた途端、鮭原は血の気が引いた。まさかこれも頭のネジが外れた影響なのではないだろうか――。
「遅刻の回数もまだ多いし……そろそろ本格的に直していこうな」
「はい。気をつけます」
 鮭原は佐々基と別れてから自分の席に向かった。昼休みでオフィス内の人気は少ない。
 どんよりした気分でパソコンが立ち上がるのを待っていると、同期の唐松が声をかけてきた。
「おいおい、また遅刻か。今月で何度目だよ」
「朝はダメなんだよ……」
「しかも二時間近くも遅れてくるとか、いつも通りキメてんね」
「ぐちぐちうるせえな」
「でもいい勤務態度だ。社会人として成長しつつあるよ」
 唐松はそう言って笑いながら去っていった。ひどい嫌味を言う男である。鮭原は彼のことを好きになれる気がしなかった。

     〇

 朝、鮭原が目を覚ますと、枕元に頭のネジが転がっていた。これで三本目である。
 鮭原はこれまで、ネジが出てくると喜んでいた。よい臨時収入となってくれたからだ。しかし、こう何本も続くと恐怖の方が勝ってくる。
 また何か一つ、常識を失ってしまった。今度は何を失ったのか。
 ここ最近、鮭原は非常識だと怒られ続けていた。すでに実生活に支障が出始めているというのに、これ以上ネジが外れるとどうなってしまうのか。
 せっかく生まれ変われたのに――鮭原は絶望した。
 これまで鮭原は人に言えないことばかりして生きてきた。学校を中退後、夜の街で人を傷つけて自堕落に生きてきた。それから縁があって今の会社に就職することができ、過去の自分とは決別ができたと思っていた。
 だが、このまま頭のネジが外れ続けたら会社だってクビになるだろう。奇跡的に得られた普通の暮らしが奪われてしまう。このままではどうにかしなければならない。
 その時、鮭原はふと思い出した。
 頭のネジ買取センターではネジを締めてもらえたのだ。その作業費は二十万円と高額なうえ、さらに自分のネジを買い戻す必要もある。鮭原はさらに借金を重ねても、必ず費用を作ることをすぐに決意した。
 まともな生活を手放してなるものか――そのためには元の自分に戻らなければならない。
 鮭原は三度電話をかけた。
『お電話ありがとうございます。頭のネジ買取センターでございます』
「すみません、私は鮭原と申しますが――」

     〇

「佐々基さん、鮭原のやつ、やっぱりヤバいですね」
「そう言うなよ。あいつなりに頑張っているんだからさ」
「いやいや、僕もちゃらんぽらんですけれどね、あそこまで非常識な奴は見たことがありませんでしたよ」
「まだ若いんだから未熟で当然だ。これから成長すればそれでいいんだよ」
「でも……最近、ちょっとだけ変わりましたね」
「そう、そうなんだよ。ようやく部長に挨拶をするようになったんだ。まあ『ちっす』は挨拶としては本来ダメだけどな」
「あいつ、前に『俺が認めない奴には挨拶しねえ』とか言ってしましたからねえ。そう考えれば随分進歩しましたね」
「地道に言い続けて良かったよ……」
「それに、前に遅刻した時も連絡入れたんですよね? たしか『いない時点で遅刻ってわかるだろ』とか無茶苦茶なこと言っていたはずなのに」
「言葉づかいも丁寧になってきた。やっと社会に馴染めてきたんだろうな」
「昔は相当やんちゃしていたって聞いてます。その頃の変な常識が無くなって、本当に良かったですね」