ブルガーコフ私論。「巨匠とマルガリータ」を語るための序論――イカロスの神話を超えて(第三回)。木蓮更紗(SF愛好家)/監修:大野典宏

(二)犬から人への自然退化
 犬から人間へと変えられてしまったシャーリクは自分で名前を名乗った後にますます人間へと近づいていく。そして知恵が付いてくるとともに、「社会的な動物」として適応していってしまう。
 まず、人として当然の権利だと考えられていた居住する権利を住居委員会(住居の公平分配を是として集合住宅の管理をする住宅ごとの組織。今で言うマンションの理事会と同じ)に訴えて出る。愚直に、あまりにも縦割り思考で、そして杓子定規にしか物事を判断しない住宅委員会の代表によってフィリップ・フィリッポヴィッチが住む住居の十二平方メートルがシャリコフの住居として割り当てられることになる。ちょっと待った! 犬と人が同居するのに犬の居住権などを考える人がいるのだろうか? そこはそれ、ボリシェヴィキの社会では人だと認識されれば、人として割り当てられた権利を獲得するのは当然のことだったので、それはそれで良いのだ。同居人が何をどう思おうが、元が何であろうが関係など無いのである。
 その後、シャーリクはますます人間としての役割を果たしてゆく。住居委員会の口利きによって何とモスクワ市の職員になってしまう。肩書は『モスクワ市清掃局動物(猫その他)追放課長』。もともとが犬なので、猫を追いかけ回すのが大好きだなので天職を得てしまったのだ。それに加えて、犬が人間の行政側で地位を得てしまったのだ。
 このときですでに一介の市民であるフィリップ・フィリッポヴィッチよりもシャーリクのほうが一般的に言う「偉い」ということになる。
 ここで「イカロスの失敗」が現実のものになってしまうのだ。実験によって作り出されたヒトモドキが人間としての身分証を得て、シャーリクを人間にした側を追い越してしまうのだ。シェリー「フランケンシュタイン」で博士が起こしたのと同じ失敗である。
 さて、シャーリクの動物追放とは何か?
 猫を締め殺して「集める」ことを目的としているのだ。野良猫を集めて毛皮を取り、コートにして市民に分割払いで買わせるというエゲツない仕事である。とはいえ、仕事に貴賤無し。モスクワの冬を越えるには保温性に優れた外套は貴重品であると同時に必須のものだ。その供給を行政が行うのだから、「正しいとしか言えない」。皮肉な事だとしか言えないんだけど、ボリシェヴィキの社会では市民に必要な物資を政府が用意するのは当たり前、社会の中でそれを率先して行うのは正しい行為であり、社会に貢献する労働者はさして貢献度が無いとみなされるインテリ階層よりも地位が高くて当然なのである。
 これはブルガーコフ自信の体験である。元医師であり、劇作家・小説家に転向しても発禁処分になり続けた体験とそのまま重なる。自分は犬よりも役に立っていないと見なされているのか?
 ソ連社会は徹底的にインテリ層を低遇したというのは、よく知られた事実である。その当事者が最も主張したい批判だったのだろう。真面目な話になるんだけど、ザミャーチンが「われら」を執筆したのは一九二〇年頃。一九二二年のレーニン政権により「反ソヴィエト」と見なされて投獄、何とか出獄はしたものの、生活は決して楽なものではなかったという。結局、「われら」はロシア語で発表することができず、一九二四年に英語翻訳版が出版され、ロシア国内ではなくチェコ・スロヴァキアで雑誌にロシア語原文が掲載されたのは一九二七年のことだった。その直後、ザミャーチンは作品を発表することができなくなり、一九三一年に亡命することとなった。
 ブルガーコフの話に戻すと、「犬の心臓」はあまりにも社会に対する批判性が強い。いまだったら日本ですら右の方々が来かねない内容である。当然のごとく本作品は発表される前に警察が家宅捜索が行われてしまう。なぜに警察に知られたのかというと、本作を活字媒体で発表する前にブルガーコフは朗読会を行ったのだが、観客の一人が内容を官憲に漏らしてしまったのである。えげつない話だが、そういう社会だったのだ。
 そのため、原稿や日記は押収、その前に出した書籍も発禁になった。それによってブルガーコフは小説を発表することができず、演劇の演出家として生涯を終えることになる。
 さて、シャーリクの話に戻すと、社会的な地位を得たことでますます粗暴になっていく。フィリップ・フィリッポヴィッチの分析によると、脳下垂体と精嚢を提供した人間は街中で酔いつぶれて眠ってしまったことで凍死したばかりの死体だったのだが、その気質を受け継いでしまったのではないか? と。今でこそ、こんな理屈はありえないし、死体を拾ってくるほうもどうかしているのだが、そこはそれ、「フランケンシュタイン」と同じで人の尊厳を踏みにじる行為は、科学の進歩という理由によって正当化されるのだ。
 そして最悪なことにシャーリクは人間の婚約者を連れてきてしまう。同じ課で働くタイピストを口八丁で言いこんで結婚の約束まで取り付けてしまったのだ。その件は何とか収まるものの、シャーリクの怒りは収まらない。
 ついには銃を手に入れて、診療所にいる人間に銃口を向けるのだ。
 なぜ、善良な犬が、こんな凶悪でとんでもない人間に退化してしまったのか?
 シャーリクのような奴ですら地位を手に入れて猫殺しを仕事とし、銃を人に向けさせてしまうまでに「動物として退化した」状態にしてしまう社会システムに欠陥があるのは明らかである。
 さらに悪いことが重なる。シャーリクを殺害したとの殺人容疑で警察が家宅捜索令状を持って押しかけてくるのだ! フィリップ・フィリッポヴィッチは否定するが、検察の言い分が呆れる。「あれは犬ではなくて、すでに人間になっていたのです。そこが問題なのです」。
 なんじゃそりゃ?
 なんとも安直な話だが、社会の論理からすれば、人としての身分証を得ていた時点で人間として認証されてしまった以上、間違ってはいないのだ。
 犬だという理由で虐待され、飢えつつも必死で生きている存在、人間だというだけで、どんなに無茶なことまでしてしまう人間、どっちに共感できるだろうか? これは「ボリシェビキの社会だったから」などという単純な問題ではない。
 生きることに対して善良であろうとする存在、生きているというだけで銃を向けてしまう存在。どちらが倫理的なのか? 人と犬とは何が違うのか? 知性などという尺度では測ることができない究極の問いがなされているのだ。
 犬や猫は殺されても問題がなく、どうしようもないヒトモドキがいなくなることで警察が来る社会。これは古代から続いていることだし、今でも変わっていない価値観である。では、なぜ人だけが特別視されるのか? この答えはない。各個人の判断に任されることであるとしか結論できない。
 そして、警察の前に現れたのは、スタッフによって何とか抑えられ、脳下垂体の再移植手術を受けた犬のシャーリクだった。
 犬にもどりつつあるシャーリクはこう考えるのだった。
 『俺はかなり運がよかったんだな、運がよかった。言い表しようのない運のよさだ。俺はこの家に落ち着いた』
 シャーリクは野良犬だった頃よりも快適な生活を手に入れて物語は終わる。
 では、シャーリクが人だった時は幸福で快適だったのだろうか?
 犬から人になったこと、それは進化だったのだろうか? 退化だったのだろうか?
 それは読者の各個人で結論を出さなければならない問題なのである。

 さて、「犬の心臓」を一通り解説したので、次回はシャーリコフとはいったい何者だったのか?
 その点について考察していくことにする。
(以下次回)