紺色の暖簾(のれん)に白く染め抜かれた「やぐら」の文字。そこは串カツの専門店。といってもカウンター席だけの、十人も座れば満席という小さな店である。
暖簾をくぐって入ってきたのは常連客のトクさんだった。店には六~七名の客がいた。「兄ちゃん」とトクさんは店主に声をかけた。店主は若くはないが客から「兄ちゃん」とよばれていた。「兄ちゃん」は、赤飯でも梅干しでもバナナでも、客が注文すれば何でも串カツにしてくれる。客からは、串に刺せれば兄ちゃんは山でも揚げると噂されていた。
トクさんは顔ぶれが常連客ばかりだと確認すると「エト酒を一杯くれるか」と言った。エト酒というのは壁に貼られたお品書きにはのっていない。店主が顔なじみで気心の知れた客だけに内緒で出している酒である。この酒を飲むと意識だけが動物に変身できるのだ。
「兄ちゃん」の実家は和歌山の山深い里にある。その家系には代々山野の薬草をもとにした秘薬の調合法が伝えられてきた。
「集落は山の奥にあって田畑も少なく、昔から男たちの多くは山仕事、いわゆる林業にたずさわっていたんや。つらくて危険な仕事や。そやから年に何回かは村長(むらおさ)のところに集まってはその薬草から作った薬草酒を飲んだ。それを飲むと虎や鷲に変身できたのや。だれもが動物に変身して野山をおもいっきり駆けめぐったり、大空を飛びまわったり、一晩中大声で咆哮をしたりして、辛い仕事の不満やうっぷんをはらしたらしい。今で言うところのストレスの発散やなぁ。ところが何か良くないことが起こったらしくて、いつの頃からかこのしきたりはなくなったんやが、変身薬のつくり方だけはウチに代々伝わっているんや。昔はその薬が十二種類もあったらしいな。いまは原料になる薬草が手に入りにくくなってその半分ぐらいしか作れないけどね」
その変身薬は危険やからと長く封印されてきた。だが原液をうまく薄め、それを酒に溶かせて飲めば、身体は変身しないが、その意識だけを動物に変身させることがわかった。
その希釈された液が兄ちゃんのところにもあった。それを知った「やぐら」の常連客が、ちょっと試させてくれと言いだしたものだから、仕方なく兄ちゃんはごく限られた馴染み客にだけその薄めた薬をごく少量だけ酒に入れて提供することにした。客も心得ていて、店にいるのが自分たちの仲間だけの時しかその特別の酒を注文しなかった。
かつては十二種類もあり、それを飲むと動物に変身できる薬ということで、誰が言うともなしに十二支の干支(えと)にちなんで、その酒を「エト酒」と呼ぶようになった。
もっともエト酒といっても十二支の動物すべてに変身できるわけでもなかった。干支にはネズミ、ウシ、トラ、ウサギ……とあるが、干支にはあるものの龍には変身できなかった。しかし大空を飛ぶタカにはなれたし、タヌキにも変身できた。
その酒を飲むとしばらくして眠くなり、数分間の居眠りのあいだは魂だけが動物になって自由に飛び回ることができるのだ。意識だけが飛び回るので、誰の目にも見えず、どんなに走り回ってもぶつかったりする危険もなく、思いっきり吠えても咆哮しても誰の耳にも聞こえなかった。
鷲になって大空を飛びまわったり、虎になって国道を疾走したり、犬になって夜の街を駆け抜けたりすることはできた。数分間の変身にすぎないのだがそのおかげで、日頃の仕事の憂さをはらしたり、女性にフラれた悔しさを消し去ったり、理不尽なクレームの対応に痛めた胃を癒すことができた。
「兄ちゃん、今日はトラをもらおうか」とトクさんがエト酒を注文した。やがて揚げたての串カツとともにエト酒が運ばれてきた。グラスには薄い褐色の液体が入っている。トクさんは酒を一口飲むと隣に座っている男に話しかけた。「ゲンやん、何を飲んでるの?なんやビールか。あっ、セイやん、あんたは何を飲んでるの?エト酒のサル。珍しいのを飲んでるンやね、一口ちょうだい」と顔なじみの客から違うエト酒をもらい、さらにはカウンターにつっぷして眠っている客のグラスの酒も味見をし始めた。
それに気がついた兄ちゃんが「ちょっとトクさん、エト酒のチャンポンはあかんよ」と注意をした。
しかしトクさんも負けてはいない。「これはチャンポンと違う。エト酒をブレンドしているだけや」
そのうちにトクさんの様子がおかしくなってきた。怖い顔であたりをにらみつけ「ひょー、ひょー」という不気味なうなり声をあげはじめたのだ。
「ああ、やっぱり悪酔いをしたなぁ」と兄ちゃんは顔をしかめた。そして隣の席で飲んでいたゲンやんにトクさんがどんな酒を飲んでいたのかをたずねた。
「えーと、セイやんの飲んでいたエト酒のサルと、キーちゃんの酒の残りと…」とゲンやんの言うのを聞いて兄ちゃんはあわてた。
「トクさんがチャンポンで飲んだのは、エト酒のトラとサルとタヌキとヘビ…。これは最悪の組み合わせや」
「兄ちゃん、それがどうして最悪なんや?」
「ゲンやん、ヌエって怪物を知っているか。昔、京都の御所の上空にあらわれて時の帝を苦しめたという妖怪や。ヌエはというのはサルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビという姿をしていたらしい。この組み合わせでは飲んではいかんと言われていたのやが、トクさんがこの四つをいっしょに飲んでしまったんや」
「するとトクさんはヌエになってしまったんか。どうしたらいいのや」
「すぐに酔い醒ましをつくるからトクさんをこっちの部屋に連れて来てくれるか。キョーコちゃん、あんたも手伝ってくれへんか」
兄ちゃんは仕事帰りに店に寄った若い女の子にも声をかけた。
ゲンやんはトクさんに肩を貸して厨房の奥にある部屋で横にならせた。
トクさんは「ひょーひょー」とうなりながらあたりをにらみつけている。
兄ちゃんが酔い醒ましをつくって持ってきた。キョーコちゃんがそれをトクさんに飲ませはじめた。ゲンやんは手持ちぶさたにそれをながめていたが、棚に置かれていた壜に眼がいった。
「兄ちゃん、これは何の壜や」
「あ、それは変身薬の原液や。また薄めるまえの物なんや」
「へぇ、これが…」とゲンやんは壜のふたをあけてみた。褐色の水あめのようにみえた。「なめたらアカンよ、危険やから」と兄ちゃんが言った。なめたらアカンと言われたら、なめてみたくなるもの。ビールの酔いも手伝って気の大きくなっていたゲンやんは、兄ちゃんの目を盗んで小指に少し原液をつけると部屋を出た。そして厨房のすみで、小指についた褐色のドロリとした液体をなめてみた。舌にビリリッと電気のようなものが走った。
酔い醒ましか効いたのかトクさんの意識が戻った。汗をびっしょりとかき「こわかった、ああ、こわかった」とくりかえしている。「恐ろしい怪物になってビルの屋上に立ってあたりをながめていたんや。」
「エト酒を混ぜて飲んだからヌエという怪物になってしまったんや」
「怪物にも変身するんやなぁ」
「そのとおりや。これと同じような変身薬が昔から外国にもあったのやないかなぁ。狼男やヴァンパイアというのはその薬を飲んでオオカミやコウモリに変身した人間かもしれんなぁ」
そのとき「あ、おかしな気分になってきた」とうゲンやんの声と、ガラガラと厨房でなにかが落ちる音、そしてカウンターの客からわっという驚きの声があがった。
兄ちゃんがあわてて厨房をのぞくと、ウマ酒の原液をなめたゲンやんの下半身が馬になっていた。茫然としたゲンやんの顔が見る間に虎に変わっていくのは、ビールの前に飲んでいたエト酒のトラの影響か。
またもやカウンターの客がギャーッと悲鳴をあげた。キョーコちゃんもゲンやんの真似をして隣のウシの原液をなめたのだ。トラの顔をしたケンタウロスになったゲンやんの隣には、身体は人間で頭は牛という伝説の怪物「件(くだん)」になったキョーコちゃん。エト酒のタカを飲んでいたからか、背中からは大きな羽が生えていた。羽がバサバサと揺れるたびに棚から皿やコップが床に落下した。
キョーコちゃんはさらにヘビの原液もなめていた。キョーコちゃんの手足にはヌメヌメとしたウロコが生えはじめ、カウンターの客たちが悲鳴をあげて店の外に転がり出た。
それを見て兄ちゃんが呆れたように言った。
「件と翼の生えたヘビの合体かぁ」
まさにギリシア神話のキマイラのようになったゲンやんとキョーコちゃんは、互いに顔を見合わせた。