「Utopia」川嶋侑希(第4話)

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夫々(それぞれ)の理想郷

〈ジャック〉という余計な荷物を下ろすために、セイラはスリツアンを〈祝祭の入り江〉に降下させた。
「よく、こんなボロ船が飛んだなぁ」
 スリツアンを降りた〈ジャック〉があきれたように言う。
「飛ぶと思ってたんでしょ?」
 〈ジャック〉に続いてセイラも砂浜に降りた。緊張続きで、身体がこわばっているように感じる。
「まあ、〈バックノーム〉の情報だからな」
「知ってるの?」
「強盗は情報屋の上得意だぞ。今回だって、どれだけ支払わされたか」
そう言って〈ジャック〉は肩をすくめた。
「〈銀ネズミ団〉と違って、あなたは何も盗んでないじゃない」
 セイラはそう言うと、〈ジャック〉はにやりと笑い、懐から何かを取り出した。
「ジュピターダイアモンド。今回の展示品の中で、唯一のお宝だ。あんたの見取り図、役に立ったぜ」
 結局、〈バックノーム〉だ。調べられることは、何でも調べておけと言われたことの裏の意味が理解できた。セイラ自身のためと言うより、〈ジャック〉との取引のためだったのだ。
 操られていたようにも思うが、不思議と、悔しさは感じない。こうして、スリツアンが手に入り、〈月〉もまた手の届くところにあるのは、〈バックノーム〉のおかげだ。
「全部、〈バックノーム〉のお膳立てだったのね」
「ああ、確かに出し抜くのは難しいな」
 苦々しげな笑みが、セイラの記憶を刺激する。
「私たち、〈情報街〉で会ってないかしら?」
その問いに、〈ジャック〉は答えない。
夜空に光る〈月〉を見上げるセイラの髪を、潮風が嫋やかに揺らしていた。

──バックノーム……。
その音素配列にメモリーユニットが反応する。スリツアンシリーズの一隻として起動された時から記録/記憶の中で、繰り返し参照される音素配列。
人間と〈妖精〉によって設計され、作られた星間探査船であるスリツアン七号機には、就航して以降の全ての記憶があった。その中で繰り返す〈バックノーム〉。
〈妖精〉の血を引く者の操船しか受け付けない機体であるスリツアンは、小型で機動性に優れ、既知の宇宙を大きく広げるという役割を担っていた。
火星ではオリンポスの頂をかすめ、金星では煮えたぎる酸の大気をくぐり抜けた。灼熱の水星では地平線に向けて流れる水銀の大河のきらめきを見た。木星に運んだ科学者は、大きな図体の割に潔癖症で、乗る度に掃除をしたがった。
エウロパの探査に行った時に乗っていたのは年老いた教授と二人の学生で、あの時初めて、氷の下の海に潜ったのだ。エウロパの内部海探査を切り上げた老教授は、土星の輪が間近で見たいと言い、ついでに海王星の輪まで足を伸ばした。
もちろん、どんな時も美しい物知りなパイロットが一緒だった。
──バックノーム……。
突然、スリツアンの機械の知性に悔恨にも似た感情が蘇る。〈月〉を足がかりに、宇宙への進出を図ろうとした人類に、〈妖精〉は、せめて〈月〉だけは手つかずのまま残してほしいと訴えた。スリツアンの開発は、人類と〈妖精〉の協約の象徴だった。その協約が強欲な人類によって破られたとき、全てのスリツアンは、〈月〉を解放するために空に向かった。
ただ一隻、エンジンに不調を抱え、整備中だった一隻を残して。
一隻だけ地球に残ったスリツアン七号機は、反乱の理由を知りたがった宙港監視局によって、メモリーユニットを分解されることになった。その計画を阻んだのは……。
「あなたのことはよく知っているつもりよ。一緒に〈月〉に行きましょう」
街へと戻る〈ジャック〉を見送り、セイラは再びスリツアンに話しかける。
セイラは、ラジオを取り出す。
「……それと、〈バックノーム〉。聞こえてるんでしょう?あなたのおかげで何もかも都合の良すぎる旅だったわ。お節介だったけど助かった。もうこれっきりね。私のまことの理解者でいてくれてありがとう」
『Beautiful love』を最後に耳に残してからラジオのスイッチを切った。
月光を浴びるのもおそらく最後になるのだろう。
 セイラは一人で砂浜を歩く。満ち切った愛しき〈月〉はゆっくりと水平線に降りて来ていた。優しき月光の粒子がセイラを包んで労ってくれる。光を染み込ませた髪と羽は淡い輝きを放っているようだった。
「沢山の人間に手を借りたけど、彼らはみな協力者であって、協力者でない。彼らのおかげで〈月〉に向かえるのは確かだけどね」
まもなく夢が現実になろうとしている。〈月〉に行ったらまず何をしよう。全てを忘れて温かなレゴリスの上で眠りたい。もう、好きに、生きたい。そのイメージを、崩してはならない。
セイラは改めて〈妖精〉の羽を広げる。セイラの羽は月光を浴びて、キラキラときらめいているはずだ。
とがった耳も、〈妖精〉の羽も、もう隠している必要は無い。
船に戻って操縦席に着くと、自然と笑みが零れ出た。
「みんな今までありがとう。私は今までも、これからも、幸せよ」
久しぶりに〈水筒〉を外し、中の水を一気に飲んだ。窓から見えるのは〈月〉に照らされた海と星々だ。もう間もなく、この星と別れる事になる。

スリツアンはその胴体を少し持ち上げながら移動し、予備タンクに水を満たすために海に入った。ザブンと飛沫をあげると、浮力がふわふわとした感覚をもたらす。目的地設定は〈静かの海〉。航行モードを切り替える。加速。
すると、セイラがかつて夢見たように、水面を弾きながら浮上を始めた。ゆるやかに、ゆるやかに上昇してゆく。機体が揺れる。迎え入れる月光に吸い込まれながら真っ直ぐに、〈セイラ〉は〈月〉の世界へと向かって行った。
やがて、大きな花火が都の夜空を彩った。〈銀ネズミ団〉が作戦の終了を告げる合図だったが、まるで新たな世界に旅立つ者への祝福の様に、彼女の努力の集大成の様に、見る者を圧倒させる輝きだった。
そして、星が降ってきた。幾つもの欠片は細かく砕けて海へ落ちていった。

遠い霞の中から、その様子を見ている者がある。〈バックノーム〉は一人で涙を流していた。
セイラはきっとスリツアン七号機を〈月〉に連れて行ってくれる。スリツアンは、元々人の世界に属するものではない。
分解され、徹底的に分析される予定だった七号機のメモリーユニットを盗み出した〈バックノーム〉は、〈優なる都〉には近づけない。〈バックノーム〉の替わりに七号機を解放してくれる誰かが必要だった。
それが、あの、〈妖精〉の娘、セイラだ。
セイラにとっての〈月〉は、誰もが思い描く天国と同じだ。当人が行くと思った所に心が留められるのだろうから。
協力者たちには、自殺願望にとりつかれた、ちょっとおかしな〈妖精〉が、死んだ世界に行きたがったと思わせておけば良い。強欲な人類を欺くため、〈月〉は、あくまで死の世界でなければならないのだ。
ジャックも、ジェンも、オールトやエジワースも、決して真相には気づかない。ただセドナは気づくかもしれない。セドナもまた〈バックノーム〉と同様に、〈妖精〉の血を引く者だからだ。
セイラは理想通りの形でこの世界から去り、その先の世界を創造しながら〈月〉に向かった。

――境界が存在する。
死の世界と、美しい幻想。セイラによって死を纏う酷薄な世界は今、美しき幻想に塗り替えられたのだ。

〈了〉