「Utopia」川嶋侑希(第3話)

【Journey SFPW.mp3】

 反証する永続の優なる都

 人間の世界で過ごした思い出に、ちょっとした物語に首を突っ込んでみただけなのだ。霧に覆われた川に引き裂かれた二人の物語など、ありきたりで、つまらない。セイラには〈月〉が待っている。あのあと、二人がどうなったかなんて気にならない。そんな言い訳のようなことをぼんやりと考えていた。煙まで真っ黒な鉄の蛇の腹から外を眺めていると湿気から解放された体は幾分か軽くなった気がする。
〈セドナ〉から渡されたマニュアル別冊の写しを開くと、『For Swan』とだけ書かれたカードがひらりと落ちた。〈セドナ〉からのメッセージだとしたら、セイラをベガとアルタイルを隔てる天の川を飛ぶ白鳥に見立てたのか。
 内容自体は、セイラには良く理解できなかった。人間の言葉で書かれているのに、どこか〈妖精〉の言葉のようで、マニュアルと言うよりは、詩のような感じがした。スリツアンと心を一つに跳ぶなんて、どうやったらいいのか皆目イメージできない。
 例えば、こんな一節がある。

 純粋な雫を用いて静かに深く潜り込む――
 森の歯車を過ぎる包絡線に従い
 円環を隔てし波 その随に、漂い続けるアルメリアの片割になる
 呼応する重ねの旋律を聞き逃すまじ
 呼応する重ねの旋律に 己が翼を委ねよ

 理解はできないけれど、マニュアルに書かれた言葉は、感情の奥底に染み込み、セイラは思わず涙を流していた。これこそが、セイラがやるべきこと。スリツアンを飛ばさなければならない。
 そのためには、動力源となるエネルギーコアと推進剤になる大量の水、大量のデータを蓄積したメモリーユニットが必要だった。展示会で展示されていることを考えれば、エネルギーコアは外され、推進剤は抜かれているに違いない。エネルギーコアは市販品で間に合うし、水もなんとかなるだろう。問題は航法データが記録されているはずのメモリーユニットだったが、セイラが向かう先は夜空に輝く〈月〉だ。いざとなれば、目視でもなんとかなるはず。
 セイラは〈セドナ〉から受け取ったマニュアルの写しを鞄にしまい込み、博覧会の情報を整理しながら計画を練る。今回の宇宙科学博覧会は人間の功績を称えるために、遠い星々から持ち帰った地表の欠片や歴代の宇宙探査船を展示するとの内容だ。観望所で見た美しい天体写真を思い出し、セイラは居たたまれない想いで苦笑する。天界で私たちを見守る愛しき天体たちは、何の遠慮も敬意も持ち合わせない人間によって蹂躙され、汚されてしまった。彼らを救済することは途方もない労力が必要で、セイラ一人には不可能だし、〈妖精〉の総力を持っても無理だろう。せめて人間の一部、しかし、それだけの慈しみや哀れみの心を持った人間がいるとはとても思えない。
 でも、せめて、〈月〉だけは。
 セイラはいつまでも水がなくなることのない〈水筒〉を取り出し、乾いた喉を潤した。
〈優なる都〉二十五番駅までは、あと四時間ほどで着く。宇宙科学博覧会会場の最寄り駅どころではなく会場の中に駅があるようなものだ。
〈優なる都〉は人間が豊かで平和な人生を送るために、あらゆる分野の知識を常に収集・発信している都だった。その象徴的な活動が十一の巨大施設で開かれる各種イベントである。
「只今開催されている愛の花束博覧会の様子をお届け致します。五番会場〈ピオ〉で開催されております。こちらの来場者人数は三日目の現在で一万……」
 ラジオは〈優なる都〉の特徴でもある巨大イベントを次々と紹介してゆく。  
 五番会場〈ピオ〉愛の花束博覧会
 十五番会場〈ソリート〉セントラル創立七年記念大会
 二十五番会場〈ロブラフ〉世界食文化博覧会~自然との共生を果たすまで~
 三十五番会場〈レイル〉海底都市ニーモ博覧会
 四十五番会場〈ラクソワ〉ダイヤケージ社オープンカー展示会 2000~2500
 五十五番会場〈レイニーラム〉群青列車博覧会
 六十五番会場〈ラトスレット〉かつての上昇魔法と現在展
 七十五番会場〈アルエ〉子どもと夢のアート展
 八十五番会場〈モーニャ〉エアゲートプロジェクト対面式空間展
 九十五番会場〈ジェグナラ〉麦と来光写真展
 百五番会場〈オーラムアーサ〉深層音楽会~没入~
 これらが、現在各会場で開催されているイベントだ。開催期間はまちまちで、一つのイベントが終わった翌日にはまた別のイベントが開かれる。宇宙科学博覧会は世界食文化博覧会の次だ。これは確かに飽きないだろうが、よくやるものだ。まずは二十五番会場〈ロブラフ〉に向かって会場の下見をしてから強奪方法を決める事にした。
 駅に着くまでの間、セイラは目蓋を閉じてスリツアンの操縦シミュレーションをする。
 金属の機体がセイラの翼になり、千の星の海を飛ぶ。〈月〉を想い、〈月〉へと至る軌道をイメージする。離陸さえちゃんとやりおおせることができれば、あとはスリツアンがやってくれるのなら良いのに、セイラだけの操縦では心許ない。それでもやらなければならない。さもなければ、〈月〉には手が届かない。
 セイラの夢想めいたシミュレーションは、車内のアナウンスに破られる。列車を降り、駅を出ると、まるでそこは既に博覧会の会場の中のような賑やかさだった。
 色とりどりの風船、吊り下げられた幕、無数の看板、多言語で流れて来る音声案内、軽快な音楽、そして白い通路や広場に溢れかえる人々。駅前の巨大な広場は、セイラの認識が追い付かない程の賑やかさだ。
 それぞれの会場を指し示す看板は簡単に見つかった。矢印に従ってしばらく歩くと二十五番会場〈ロブラフ〉のゲートが確認できる。人の流れに着いてゆくとゲートまであっという間だった。動く床と円盤型の昇降機には戸惑ってしまったがどうってことはない。
 外観からでもわかる展示場の複雑な構造にもセイラはひるまなかった。迷宮のような〈妖精の森〉に住んでいたセイラにとって、どれほど複雑な構造であっても苦になることはない。
 七つある内の一番ゲートから入場した。ガラスで作られた建物の内部には植物が植えられ、うっそうとした森のような雰囲気だ。
「……でも、凄く鬱陶しい」
 森とは違い、この建物には無数の人がいて、しかもガラスの壁がある。その所為で、内部では複雑に音が反響する。あちこちから聞こえる人の声は、繊細なセイラの聴覚を刺激し、めまいのような感覚をもたらした。
「こんなの、ただの過程なんだから。全然苦じゃないんだから……」
 そう自分に言い聞かせて〈水筒〉の水を飲んだ。耳を塞いでも雑踏が生み出す音は消えてくれないし、リリリリリと耳鳴りもした。滝の間近に立つ方がまだましだと思う。一度落ち着こうと、目を閉じて、混雑する音の中から微かな音楽を探す。セイラの聴覚は、どこか遠くで流れる明るい曲調のクラシック音楽を混沌とした音の洪水の中から聞き分けることができた。
「よし、大丈夫。私はやれるわ」
 なんとか心を落ち着かせ、セイラは会場を歩き回る。怪しまれないように展示物の説明をメモするふりをしながら展示室の配置を書き留める。倉庫や裏口の場所までくまなく見て回り、時々味の想像もつかない食べ物や新しく品種改良された植物の展示にも足を止め、周りに合わせて感心したフリをする。客が男女二人組ばかりだったのが気になったが、そんな思いはどこかに追いやった。
 スリツアンが展示される予定の展示エリアは、大きな円形のドームだった。天井は開閉式で、今は空が見えている。世界食文化博覧会は明日までで、一日の休館日を挟んで宇宙科学博覧会が始まる。
「……全然終わらないわ」
 閉館のアナウンスに追い立てられるように〈ロブラフ〉のゲートを出ると、街の案内所で宿を手配してもらった。本当は、会場の見取り図を完成させ、スリツアンを盗み出す計画を練らなければいけないのだけれど、まだ全然進んでいない。一日中歩きづめだったセイラは疲れ切っていた。

「あなたがセイラよね。やっと追いついたわ」
 宇宙科学博覧会の初日、〈ロブラフ〉の展示室の一つ、木星の輪で見つかったというジュピターダイアモンドの展示室で、セイラは少女に声をかけられた。
「私は〈ジェン〉。〈情報街〉であなたのことを聞いたの。〈妖精〉に会えるなんて、一生に一度もないし、あなたのこと色々知りたい! あの街にいて大正解だったな。あ、ねえ羽とかあるの?しかも今時太陽系外じゃなくて〈月〉なんて。コロニー動いてたんだっけ。あなた、〈妖精〉の中でも変わり者でしょ」
 声高に話す様子に、セイラは思わず、周りを見回す。
「人違いよ。〈妖精〉だなんてとんでもない!」
 きびすを返したかと思うと、足早に〈ロブラフ〉を離れるセイラ。あえて苦手な人混みに飛び込み、ランダムに歩く方向を変える。
「ごめんなさい、迷惑をかけるつもりはなかったの」
 なんとかまいたつもりが、六十五番会場〈ラトスレット〉の〈かつての上昇魔法と現在展〉でまた、出会ってしまい、セイラはいらだったように言った。
「あなたがついて来ること自体が迷惑なのよ」
「大丈夫よ。もう、大きな声であなたが〈妖精〉だなんて言ったりしない」
 人気の無い展示会で、人気が少なかったからいいものの、そう言う〈ジェン〉の元気な声は、十分に大きかった。
 そんな出会いがきっかけで、〈ジェン〉はセイラについて回るようになった。〈妖精〉に興味があり、〈妖精〉の情報を求めて〈情報街〉に来ていた〈ジェン〉は、誰からかセイラの情報を買い、こうして追いかけてきたのだ。
〈ジェン〉は、〈妖精〉の世界の事やセイラ自身の事について質問してきたり、人間の暮らしを教えてくれたりする。裏路地にある若者が集まる露店で、評判のタルトをご馳走してくれたこともある。そんな〈ジェン〉を、セイラも無碍にはできない。正直相手をするのは面倒くさいが一向に離れてくれないので、都合が悪くならない限りは彼女の好きにさせておいていた。
 だが、〈ジェン〉との時間は、セイラにとって妙に居心地の良いものだった。〈妖精〉の世界で機械に興味を持ったセイラが変わり者だったのと同じように、〈ジェン〉もまた人間の世界で〈妖精〉に興味を持った変わり者だった。二人の変わり者の間の友情は、そんな風に育まれていった。
〈ロブラフ〉や周辺の展示場を調べるセイラの横には、いつも〈ジェン〉がいた。〈ジェン〉の方ばかりが喋っているが、それはセイラを仲の良い友達と展示会を見に来ているように見せているはずで、雑踏の中で、一人でいるよりは目立たないだろうし、それになにより楽しかった。多分、〈妖精の森〉では経験することのなかった友達との時間というのは、こんなものなんだろうと思う。
「あなた面白いのね。いつまで都にいるつもりなの?」
 とセイラが笑いながら尋ねた時は、〈ジェン〉の顔に喜びの表情が広がった。それを見たセイラは、今まで〈ジェン〉に冷たく接していたことに気づいた。
 ある日、二人は〈ロブラフ〉からの帰り道を並んで歩いていた。九十五番会場〈ジェグナラ〉の蔦で覆われた連絡通路を真っ直ぐ進み、途中右側にある大きな自然公園の中を横切る。
〈ジェン〉がセイラに聞いた。
「あたしのイメージなんだけど〈妖精〉の世界ってやっぱり綺麗な自然と穏やかな〈妖精〉たちって感じなの?行ってみたいなぁ」
 いつもは〈妖精〉の事についてはまともな返事をしないセイラだったが、このときはなぜか答えていた。
「間違ってはいないわ。森の側で至って平和な暮らし。でも、どこにだって意志あるものが集まれば社会は生まれるし、見えない所で強者と弱者が存在するでしょう。どんな世界だって、同じよね……」
 セイラは思い出す。〈妖精の森〉が自分の居場所ではないという強烈な違和感。平和という停滞。平穏という退屈。そういったものに心を削られるセイラ自身と、何も感じていないような〈妖精〉たち。
「……平和でもこころは疲弊するものよ。そうね、あなたを案内してくれるような〈妖精〉がいたら、旅行くらいならいいんじゃないかしら」
 遠くの日々を思い出しながらセイラは語る。喋り過ぎたかと思ったが、〈ジェン〉はいつもの調子で
「んー、そうなんだ。じゃあ今度連れて行ってね! あたし自然豊かなとこで写真撮りたい! 意外かもしんないけど絵を描いたりなんか作ったりするの好きなんだ。あ、この前はね……」
〈妖精〉の世界に興味を持っていたはずの〈ジェン〉が、逆に話題をそらしたことにセイラは気づいた。もしかすると、セイラ自身の表情を見て、これ以上聞いてはいけないと思ったのかもしれない。
 セイラは〈妖精の森〉に帰るつもりはなかった。〈妖精の森〉に帰るのは、セイラの計画が失敗したときで、失敗するつもりはこれっぽっちもなかった。
 人間の世界にセイラの居場所がないくらい、〈妖精の森〉にもセイラの居場所はない。〈妖精の森〉に帰るのは、セイラにとっては死んでしまうのと同じくらいのことだった。
 セイラは、自分の表情が厳しいものに変わっていたことに気づいていなかったが、このとき以降、〈ジェン〉が〈妖精〉の世界について尋ねることはなかった。

 結局、〈ロブラフ〉全体の詳細な見取り図を作るのに一週間を要した。〈ロブラフ〉の構造が複雑なのと、つい、ジェンとの時間が楽しく、作業が遅れがちになってしまっていたからだ。完成した見取り図を見て、はっきりとわかったのは、小さな機体であると言っても、スリツアンを運び出すのに十分な幅のある通路がメインゲートしか存在しないことだった。
 展示物には、やけに大きなスペース・シャトルもある。パーツに分解し、現場で組み立てたらしいが、そのためには何台もの重機が使われたらしい。
 スリツアンは古い機体だ。小型とは言え、何トンもある星間探査船を奪うとしたら、大型の重機を使うか、スリツアンに乗って、展示場を出るしかない。展示エリアの天井は開閉式になっているが、今は閉じられている。大気圏突入もできる機体なら、薄っぺらな金属の天井なんて簡単に破れるはずだったが、その前にスリツアンが飛べる状態かどうかの確認が必要だった。
 その日も〈ジェン〉と一日を過ごした。夕食の招待をおなかがすいていないと言って断ったのは、〈ロブラフ〉の閉館三〇分前だった。宿に戻るふりをして〈ジェン〉と別れ、慌てて〈ロブラフ〉に入り、星間探査船の展示エリアに身を隠した。
 人の気配が無くなるまで、セイラは火星探査車の下で息を潜めて待ち、非常灯の薄明かりの下で輝く星間探査船スリツアンに駆け寄る。
 スリツアンは、〈妖精〉が〈妖精〉のために作り出した機体だ。〈セドナ〉から手に入れたマニュアルの別冊には、〈妖精〉にしかわからないような形で書いてある。スリツアンのコクピットに入り込んだセイラは、機体の状態を確認する。予備電源の明かりで、思った通りにエネルギーコアが外されているのがわかったし、推進剤のタンクも完全に空になっていた。
 ……大丈夫、私が飛ばしてあげる。
 エネルギーコアは汎用品だから、街で簡単に手に入る。タンクに満たす水の方は、〈水筒〉が使えるはずだ。マニュアルで見たとおりに、パイプの一端が、パイロットシートのすぐ横のバルブにつながっていた。
 人間には全く意味不明の設計だろうと思う。でも、スリツアンは〈妖精〉のための星間探査船なのだ。思った通り、バルブ先端には〈水筒〉がすっぽりと収まった。バルブを開くと、わずかに水が流れる音がする。時間はかかるけれど、二、三日もあれば飛行できるくらいにはなるだろう。その間、街の水道の不味い水を飲むのかと思うとげんなりするが、それは我慢できる。セイラの耳には〈水筒〉の水が流れる音がはっきりと聞こえているが、人間の耳では聞こえないだろう。ましてや、昼間は騒がしい見学者が作り出す喧噪の中だ。
 思った通り、メモリーユニットは外されていた。スリツアンに頼ることはできない。この船を飛ばすのは、セイラだ。
「おまえの狙いは、そのボロ船か?」
 突然の声に、セイラは身を固くした。星間探査船の展示エリアに、黒っぽい人影があった。
「あなたは誰?」
 警備員なら、明かりをつけていただろう。暗がりにいること自体が、セイラ同様に、何かを盗み出しに来ていることを暗示している。
「俺は〈ジャック〉、影の〈ジャック〉だ。それにしても、ずいぶんとしつこく下見をしてたよな。見取り図も作っていたんだろ。こそこそしていたつもりだろうが、この〈ジャック〉様にはお見通しだ」
 見張られていたことに気づかなかった。そのことにセイラはショックを受けた。
「何をしてるの?」
「こっちも下調べさ。今回は〈銀ネズミ団〉の手伝いだが、この展示場のややこしい構造に手こずっていてね。どうだ、ちょっとした取引をしないか?」
「どういうこと?」
 セイラは警戒しながらスリツアンを降りる。
「〈銀ネズミ団〉とは、この天井を開ける契約になっていてね。見取り図をもらえたら、〈銀ネズミ団〉と渡りをつけてやろう。やつらと一緒なら、どさくさに紛れてそのボロ船も盗みやすいだろう。俺が天井を開けてやるから、一石二鳥だぜ」
 セイラは〈ジェン〉と街を歩いていたときに聞いた噂を思い出した。有名な盗賊団の〈銀ネズミ団〉が展示会を狙っている。でも、狙っているのは来週から三十五番会場〈レイル〉で開催される世界の大富豪と秘蔵の収蔵品展のはずではなかったか。それを言うと〈ジャック〉はクツクツと笑った。
「陽動だよ、陽動。あっちに警備が集中した方が、仕事がやりやすい。それに、あいつらが好きなのは金属のガラクタで、お高くとまった美術品なんかじゃないのさ」
「それじゃあ、私は盗賊の仲間入りをするのね」
「奴らは誰だって大歓迎だ。お祭り好きの愉快な奴らだよ」

「本当に、〈月〉に行ってしまうのね」
 買い出しが終わって、セイラは使い古したバックパックにエネルギーコアを詰め込んでいた。一本一本はさほど重くなくても、六本ともなると、かなりの重量になる。
「ええ、これで準備はみんな整った。スリツアンを飛ばせるわ」
 〈ジャック〉の仲介で、〈銀ネズミ団〉との渡りもつけた。後は、〈銀ネズミ団〉が突入するのと一緒に展示場に突入し、スリツアンにエネルギーコアを取り付けるだけだ。スリツアンのタンクは〈水筒〉の水が入っている。
「準備は万端なのね」
 〈ジェン〉には似合わない、奥歯に物が挟まったような言い方だった。
「何か足りないものがあるとでも?」
 セイラの言葉に、〈ジェン〉が視線をそらした。
「……展示の時に、いろんなものが取り外されてるんじゃないかと思って」
 セイラは、なぜ、〈ジェン〉がそんなことを言うのか、いぶかしんだ。
「大丈夫よ。メモリーユニットが外されているけど、必要なのは、航法データだけだし、〈月〉は目視できる。まあ、私だって宇宙では直線ルートが最短にならないのは知っているけれど。きっとなんとかなるわ」 
「それじゃあ、〈月〉にたどり着けずに、地球の周りを永遠に回り続けることになっちゃうかも知れないわ」
 心配そうに〈ジェン〉が言う。実際、地球から〈月〉に向かって、真っ直ぐに飛べば良いというものではないのだ。宇宙では、全てのものが地球に向かって落ち続けている。〈月〉に向かうスリツアンも同じだ。正確な軌道計算と、それに基づく軌道の修正が必要で……。
「そうなったらなったで仕方ないわ。地球を外から見たことのある〈妖精〉はそんなにいないでしょうから、私は伝説になれるかも」
「でも、死んじゃうよ」
 泣きそうな顔で〈ジェン〉が言う。
「それは、〈月〉に行っても同じよ。〈月〉がほんとに死の世界だったらね」
 セイラはそれでもいいと思っていた。〈月〉のレゴリスの上で、ひっそりと身体を横たえる。そんな最後を迎える〈妖精〉がいてもいい。
「本当に本気なのね」
 そう言って〈ジェン〉は肩を落とした
「当たり前でしょ。最初からそのつもりよ。メモリーユニットが手に入らないのはマニュアルを見たときから覚悟していた。どこかで売ってるものでもないし、一緒に展示されていればラッキーだと思っていたけど、展示してあるスリツアンにメモリーユニットはなかった。でも、私はきっとスリツアンを飛ばせる。そう思うの」
 もし、〈月〉に行くことができなくても、それはセイラの運命なのだ。
「わかったわ。私はあなたに行ってほしくなかった。でも、本当にやるならちゃんと成功してほしい」
 うつむきながら言う〈ジェン〉の表情は見えない。
「どういうこと?」
「〈バックノーム〉から預かっているの。あなたが本当に、命がけで〈月〉に行くつもりなら、これを渡してほしいって」
 〈ジェン〉が自分のバッグから取り出したのは青白く光るクリスタル。スリツアンの〈記憶〉を記録したメモリーユニットだ。

 我は賛美する
 西、暮れるところの娘の歌を 
 東、鳴りたる陰鬱な鐘の音を
 遠巻きに病みとう遺跡の上から
 我は賛美する
 この反証する永続の都
 季節さえ受け入れぬ濁った水面に
 酸素を送れ!
 酸素を送れ!

 人々がひしめき合う暗い空間でうねりが起きる。お揃いのスーツに帽子、仮面を身に付けた黒い集団が決起集会を行っているのだ。
「我ら盗賊団〈銀ネズミ〉は正義である」
「この臆病な支配者に語るべき言葉を!」
「諸君、今宵も諸君は希望のセイルである。存分に駆け回るがよい」
 高く積まれた箱の上から次々と高らかな声が発せられた。何だかその子どもじみた台詞に少し笑ってしまう。その下で何百もの人々が歓声を上げ、端から散らばり始めた。彼らは〈優なる都〉で有名な巨大地下組織、盗賊団〈銀ネズミ〉。セイラはその渦の中で同じ衣装を纏い、周りに合わせて熱狂してみせた。
 いよいよだ。今夜セイラはスリツアンの強奪を決行する。この盗賊たちの起こす混乱に乗じてスリツアンを盗むのだ。〈ジャック〉に教えられたとおり、何日か前に、ラジオの匿名メッセージのコーナー〈南雲の語り部〉で、この襲撃を匂わせるメッセージがあったのをセイラは聞き逃さなかった。それは恋を詠むふりをした集会の合図だ。
「君は雨と共に逃げ去るが、時々五つ虹の置き土産をする。だがそこは暗がりで明星すらも私を嘲笑う。第一に、銀の橋の元で。第二に、星々の元に」

 準備は万全。この後時計の長針が六を指すと、彼らは宇宙科学博覧会が行われている二十五番会場〈ロブラフ〉を襲撃する。大人数でいくつもの経路から侵入し、星の欠片を盗むのが最大の目的だ。他にも探査船の最新型エンジンや小惑星で採集した水、無人探査機の模型などを盗めと御触れが出ていた。そこでセイラはスリツアンにエネルギーコアとメモリーユニットを装着し、〈ジャック〉が開けた天井から宇宙へと飛び立つ。これが今宵の一連の流れである。
「俺はなあ、火星に降りたパラシュートがほしいな」
「あんた、それは禁止目録に入っていたでしょ。私は、今回は売店のコスモ・キャンディで十分」
 地上のゲートからの侵入を命じられているメンバーたちがざわざわと雑談をしている。
「〈ロブラフ〉は広いから、二十分じゃそんなに行けないですね。僕らのゲートからなら手近な所を荒らすので精一杯だと思います。中心の欠片はおまかせだ」
「そうだな。所詮、俺たちは陽動みたいなもんだ」
「でもそれが、あたくしたちの退屈しのぎであり、か細い勇気を大成させる術なのよね」
「違いねェ」
 五十人前後はいるだろうか。皆互いの名前も素性も知らないまま語り合っている。栄光の都で果たせない悪行や不純な欲求を集団の力を借りて補う、心底まで従順でいられなかった者たちの裏の姿だ。間もなく、
「……臆病なネズミたちよ」
 と上層部の誰かから任務直前のお決まりらしい放送が始まった。
「なあ、そこの君は何を頂くつもりだい?おっと綺麗な髪だな。お嬢さんか」
 喋り続けるアナウンスを聞き流していると、近くにいた野太い声の恰幅の良い人物が話しかけてきた。
「ええ、相棒を迎えに行く。空に行くのよ」
「じゃあ、飛行船を使うんだな。今夜は腕利きの盗賊が展示場の天井を開けてくれるらしいから、お宝めがけてまっしぐらだ。飛行船はあっちから出るから、乗り遅れるなよ」
 そう言って指し示した先には、漆黒の塗装を施した飛行船。闇に紛れるにはちょうど良い。
「……諸君は暗がりから再び脱出する。誇り高き銀色のネズミとして、偉ぶった連中の鼻を明かすのだ」
 飛行船のハッチが開く。ふらふらと歩く〈銀ネズミ団〉の面々を追い越し、セイラは真っ先に飛行船に乗り込んだ。
「……待っていて、スリツアン」
 ハッチが閉まるのと同時に、飛行船は浮上する。〈優なる都〉を見下ろす高みを、ゆっくりと進む。
「見えたぞ、あれだ!」
 船内のどこかから声が聞こえた。
「屋根が動いてるぞ」
「〈ジャック〉だ、〈ジャック〉のやつ、本当にやったんだ」
 突然、ハッチが開き、セイラは幅の広い風に飲み込まれた。
「……今、行くわ」
 重たいバックパックを片手に持ってハッチに向かって走るセイラ。その背後から、追いかける声。
「おいっ、パラシュートは要らないのか?」
 セイラは振り返らずに叫ぶ。
「そんなもの、いるもんですか!」
 飛行船から飛び降りたセイラは、〈銀ネズミ団〉のお仕着せのマントを脱ぎ捨てると、半透明に輝く〈妖精〉の羽を広げた。

 まだ開ききらない屋根の穴を抜けて、セイラは一番最初に星間探査船エリアに降りた。天井の高い展示室だ。中央にスペース・シャトルが鎮座する周りで、誇らしそうに、いくつもの船が沈黙している。
 その中の隅に俯いていた。傷を残したまま静かに朽ちてゆこうとしていた。スリツアンの機体がくすんだ光を放つ。
「……あなたにお願いがあるのよ」
 スリツアンに駆け寄ったセイラは愛おしそうに呟く。フードははもや無く、セイラはむき出しになった〈妖精〉の耳を隠そうともしていない。
 スリツアンの機体の側面に、バックパックから取り出したエネルギーコアを、向きを間違えないようにはめ込んでいく。
 ……そういえば一人でこんなこと、よくやってるなぁ、と、ふと思ってしまった。どう言い訳したって、強盗は犯罪、悪い事なんだよな。だけど私、初めて自分のために生きている。
「必ず会いに行くわ」
 メモリーユニットの接続を確認して起動スイッチを入れると、スリツアンは小さく唸りはじめた。
 するとセイラのラジオが「……またしても〈銀ネズミ団〉がイベント会場を襲っております。今回は〈ロブラフ〉。中庭とメインゲートは完全封鎖が完了した模様です。警官隊が集結しています。態勢が整い次第、突入するのでしょう……」と、中継を流し始めた。
 その時、ゴゴゴゴゴッと大きな音と振動がした。金属が擦れて歯車の回る響き。展示室のドーム状の屋根が、さらに大きく広がる。
 空だ。
「さあ、かっぱらえるものはみんなかっぱらっちまえ。今日は〈ジャック〉がついてる! 良い日だぜ。取り残されないように乗れ! さあ、夜の街を遊覧飛行だ」
 豪快な台詞が展示室に響いた。上空には飛行船が姿を現し、何本もの縄梯子がするすると降りてくる。何人もの〈銀ネズミ〉団員たちが縄梯子を伝って次々と飛行船へと登っていく。全員が、何かしらの戦利品を持っていた。
「スリツアン、早く私のために目を覚まして。もうすぐ警官隊が突入してくる。あなたに目を覚ましてもらわないと……」
 必死にスリツアンを操作するセイラの横に〈ジャック〉が飛び乗ってきた。
「この期に及んで動かせないなんてことは無いよな」
「黙っててよ、今、忙しいんだから」

「Utopia」第4話に続く。