「分身」井上史

 ドアが開いた。目の前の通路は、スポットライトに照らされたステージへ続いている。私は背筋を伸ばして、光の中へ進みでた。
「――それでは東雲エミリさんに、新曲を披露していただきましょう」
 歌番組の司会者のアナウンスに客席のファンが湧きたった。声援がステージに降り注ぐ。私は手を振って、皆に応えた。手にしていたマイクを口元に近づける。
 私はステップを踏みながら、歌いはじめた。アップテンポの曲なので、ダンスの振り付けも動きが激しい。それでも、私は息を乱すことも、音程を外すこともなかった。正確なパフォーマンスを行う。声援がいっそう大きくなる。
 やがて、歌いおわった私は客席に礼をして、ステージの下手(ルビ:しもて)――司会者のいるセットへと向かった。そこには、今日、すでに出番を終えたアーティストたちが並んでいる。特に、通路の前に座っているのは私、こと『東雲エミリ』の後輩にあたる若いアイドルたちだった。十代後半の彼女たちが、通り過ぎる私を見ながら話しているのが聞こえる。
「――東雲エミリさんはいつ見てもすごいよね。歌もダンスも完璧だもの」
「あたし、あの人が振り付けを間違えたり、音程を外したりするところ、見たことないよ」
「東雲さん、今年、二十五歳だっけ? アイドルから女優に転向するみたいで、今度、映画初主演だって……」
 彼女たちがそう言うのも当然だ。私は完璧な『東雲エミリ』なのだから。歌や踊りで失敗することはあり得ない。バラエティ番組では、完全にその場にふさわしい表情を作ることができる。なぜなら、私はそういう風に作られた完璧な分身――アバターなのだから。
 オリジナルの東雲エミリは、十九歳でトップアイドルに上りつめた女性アーティストだ。二十代に入ったばかりの頃は、体力に任せて歌いながらの激しいダンスをこなしていたオリジナルだが、次第に身体がついていかなくなり始めた。
 それも無理はない。トップアイドルの重責を忘れようとしてか、オリジナルは過剰な飲酒や暴食を繰り返していた。しかも、人気を保つためにスタイルを維持しなくてはならない。暴飲暴食で身体に付いた脂肪を落とすため、彼女はたびたび厳しいダイエットを行った。そうした不規則な生活は、確実に健康と体力を削りとっていったのだ。
 やがて、ダンスや歌に身体がついていかなくなり始めた頃、オリジナルの所属するプロダクションの社長は、ある決断をした。『東雲エミリ』はまだ人気を維持できるアイドルだ。このまま、トップアイドルの地位から失墜させてしまうには惜しい。ならば、完璧な『東雲エミリ』――ファンの求めているオリジナルの分身を用意すればいいのではないか。そこで、プロダクションの社長は莫大な資金を投じて、『東雲エミリ』の分身を作らせた。オリジナルの詳細なデータを元に、最新のロボット技術を駆使して。そうして生み出されたのが私である。
 現在、オリジナルはテレビには出演していない。テレビに映るのはすべて私だ。今のように――。
 最初に決められていたとおり、私は司会者の隣の席に座った。トークが始まる。司会者が新曲についてのエピソードを質問してくる。私はにこやかな笑顔で対応した。完璧な笑顔といかにも『東雲エミリ』らしい答え。
 やがて、番組収録が終わった。事務所へ戻った私を社長が迎える。社長は端末でネットの『東雲エミリ』への評価を見ながら、上機嫌な様子だった。
「今回の歌番組も完璧だったよ。さすが、『東雲エミリ』のアバターだ。SNSでもお前の歌とダンスへの賞賛の声が上がっている」
「ありがとうございます」私はそう答えた。
「それに比べてお前のオリジナルと来たら――」社長は眉をひそめて、首を横に振った。「今日はこれから、オリジナルの『東雲エミリ』の元へ行って表情や反応の調整をしなくては。準備しておいで」
「分かりました、社長」私は従順に頷いた。

 一時間後。私は社長に連れられて、都内のある病院にいた。トップアイドルの『東雲エミリ』が病院にいるところを目撃されてはまずいので、裏口から院内に入る。社長について、私は病院の奥にあるVIP待遇の患者のための病室へやって来た。
 その豪華な部屋のベッドには、ひとりの女が座っていた。端末を膝に置いて、ネットでテレビ番組の再放送を見ているらしい。部屋に小さく流れているのは、数時間前に私が歌番組で披露したばかりの新曲だ。
「あたしが立つはずのステージだったのに……。あたしが歌うはずの曲だったのに……」
 女は暗い目で端末の画面を見ながら、ぼそぼそと呟いた。彼女こそ、私のオリジナル――本物の『東雲エミリ』である。しかし、肌は荒れ、目が落ちくぼみ、髪も艶を失ってまとまりがない。トップアイドルに上りつめた頃と比べると、もはや見る影もないほどの容色の衰えぶり。ストレスと不摂生からくる変化が、残酷なほどに彼女を変えていた。
「あたしが『東雲エミリ』なのよ。それなのに、こんなロボットがあたしのふりをしてるなんて。皆、ロボットの魂のない歌やダンスで喜んでるなんて……!」
 精神的に参っているオリジナルは、もはや私や社長の姿も目に入らない様子だった。イライラした様子で叫んで、膝の上の端末を払い落とす。ガシャン。大きな音と共に、床に落ちた端末が壊れて、内部の部品やディスプレイの破片が飛び散った。
「エミリ」
 社長がオリジナルに声をかける。彼女はハッと顔を上げた。今、ようやく私たちの存在に気づいたようだ。
「社長……。どうしてそんなロボット、連れてくるの!? あたしと同じ顔して、気持ち悪い……! 連れてかえってよ」
「そういうわけにはいかない。今日はこのアバターとお前の同調を、調整しなくてはいけないんだ。分かるだろう? お前の感情や表情を元にして調整しておかなくては、このロボットは『東雲エミリ』を演じられないんだよ」
「演じなくていいわ! あたしが本物の『東雲エミリ』よ! そんなロボットはお払い箱にして、あたしをステージに立たせてよ」
 感情的になって叫ぶオリジナルの顔は、ひどいものだった。
 ロボットである私に内蔵されているのは人工知能だ。人間のような脳ではないから、人のように美醜を判断することもない。今のオリジナルの表情が美しいかどうかは別として、ファンが求める人気絶頂時の彼女らしい顔つきでないことは確かだ。
「エミリ、止しなさい。お前の体調では、アイドルの仕事は無理だ。とにかく、復帰できるほどに回復するまでは、アバターに任せておきなさい」
 アバターはお前が復帰するための場所を取っておいてくれているんだから。
 社長の言葉に、オリジナルはようやく落ち着いたようだった。間もなく、看護士が現れて彼女に鎮静剤を注射する。眠りに落ちたオリジナルと共に、私は処置室でさまざまな調整を受けた。
 その後は、オリジナルの表情や反応を記憶するため、私とオリジナルが直に会話する時間だった。オリジナルはたいていこの時間を嫌がっている。それは、今日も例外ではなかった。
「あんたがいるから、あたしは退院できないのよ!」
「私がいなくとも、あなたは退院して復帰できる状態ではありません。今のあなたは過去の人気絶頂だった頃の『東雲エミリ』ではありません。あなたでは、『東雲エミリ』の人気を維持できる可能性は低い」
「だから、社長はあたしよりもあたしらしい『東雲エミリ』を演じられるあんたがいればいいと思ってるわけね! あんたさえ、いなければ……!」
 オリジナルは私に飛びかかってきた。危険だ。人工知能内でアラームが発せられる。私はロボットだが、人間に似せるために身体の大部分に生体部品を利用している。また、人工知能を搭載したコンピュータは繊細だ。強い衝撃を受ければ、最悪、壊れてしまう。
 私はオリジナルの攻撃を避けた。彼女は体勢を崩して、床に転倒した。が、すぐに起きあがって、襲ってくる。それでも、私は逃げることしかできない。
 ロボットは基本的に、主人である人間の命令を聞くようにプログラムされている。同時に、人間に危害を加えることは許されていない。さらにその二つの条件を満たす範囲で、ロボットは自己を守るようにできている。つまり、この状況下で、私はオリジナルへの反撃が不可能なのだ。
 別室でモニターしていた病院職員や社長が、部屋に飛び込んでくる。その瞬間だった。髪を振り乱して私を追っていた彼女はが、うっと声をもらして立ち止まった。バタリと床に倒れこみ、もがきだす。何か言おうとしているが、声が出ないようだ。看護士が呼ばれて、オリジナルは処置室に運ばれていった。
 待つこと数時間。処置の中で分かったことだが、オリジナルは精神的にかなり病んで、ひそかに飲酒をしていたらしい。VIP待遇である程度の自由が保障されていたため、病院側はアルコールが通販で届いていることに気づかなかったのだとか。結果、病院で投与する薬とアルコールの相互作用で脳がひどいダメージを受けていたという。
 それを聞いた社長はここぞとばかりに病院を責め立てた。そうして、これまで以上に極秘で、意識不明のオリジナルを入院させつづける約束をさせたのだった。
「これから、オリジナルはお前の調律用の装置として存在する。アバター、これからはお前が本物だ。完璧な『東雲エミリ』として、映画初主演を成功させるんだぞ」そう言う社長は、オリジナルが意識不明のままだというのに、嬉しそうだった。
 こうして、私だけが『東雲エミリ』となった。
 数日後。私は映画の撮影現場にいた。セットの中には共演者たちが集まり、監督やスタッフが見守っている。AIである私は、撮影開始日のためにシナリオをすべて記憶していた。私は完璧な『東雲エミリ』だ。ファンの望む姿を演じつづける。私がいる限り、『東雲エミリ』はトップアイドルでありつづける。
 監督が演技スタートの合図をした。
 最初は私の台詞から。私はヒロインになりきって、台詞を発しようとした。そこで、言葉に詰まる。このヒロインはいったいどういう人物なのか。どう演じれば彼女らしいのか。そのデータが漠然としている。
 私は『東雲エミリ』の分身であるにあたって、膨大なオリジナルのデータをAIに記憶してきた。表情、反応、思考……過去にオリジナルが出たテレビ番組やラジオはすべて視聴している。しかし、この映画のヒロインのデータは原作本一冊とシナリオのみ。データ不足だ。
 いったいオリジナルはどうやって、第三者を演じていたのか。そのときのデータを検索すると、回答は見つからなかった。オリジナルはドラマにも映画にも女優として演技したことがなかったのだ。
 いつまでも動かない私に、共演者たちが不審げな表情になる。監督が中断を宣言した。
「東雲さん、どうしたんですか? 演技してください」
 スタッフに言われても、私は反応ができなかった。演技をしようにも、演技をしている『東雲エミリ』のデータが存在しないのだから。
 人間というものは、データにない未知の状況にも対応していかねばならないのか。ストレスに押しつぶされたオリジナルのことが、初めて理解できた。彼女もまた、私のように未知の状況にエラーを起こしたのだろう。私はオリジナルよりオリジナルらしいと思っていたが……結局のところ、オリジナルの分身でしかないのだった。
 エラー、エラー、エラー。AI内部で演算結果のエラーが積み重なって、警告が発される。ビジー状態からAIの保護プログラムが作動してシャットダウンが始まる。ステージの照明がフェイドアウトするように、視界がゆっくり暗くなっていった。