誘引

「誘引」片理誠

「そんなこと言っても無駄だぞ」と言い放つと、男は薄っぺらいタクアンを一切れ、口の中に放り込んだ。バリバリと噛み砕く。
「お前の魂胆は分かっている。……どうせ目当てはSENRI、なんだろ?」
 冷たいなぁ、と向かいの席に座った男が困ったような顔で微笑んだ。
「僕はただ、久しぶりに晩飯でも一緒にどうですかって言っただけじゃないですか。科学省の、それも宇宙開発局の主任ともあろう人が、職員食堂の片隅で安い日替わりランチをつついてる様なんて、後輩としては見るに堪えませんよ。一緒に美味しい海鮮料理なんていかがです? 中村先輩、確か和食党でしたよね。もちろん、僕のおごりです」
「ノーサンキュー、だ」
「先輩は欲がないなぁ。たまには高級なもん食いたいって、思わないんですか?」
 別に、と食後のお茶をすすりながら、中村と呼ばれた男が応える。フン、と鼻を鳴らした。
「お前は随分と羽振りが良さそうだな、山上。気前がいいじゃないか。出世でもしたか? これからは、山上教授とお呼びしなくちゃならんのかな」
 まさか、と後輩が肩をすくめる。
「准教授ですよ、相変わらずの。四十にもなって、まだ准教授」
 テーブルの上にのしかかる。身を乗り出してきた。
「分かるでしょう、中村先輩。これでも必死なんです。僕は教授どもの下働きで一生を終えるつもりなんてないんだ。研究者は他人を出し抜いてでも蹴落としてでも、上に行かなくちゃならないんです。SENRIを使わせてください!」
 駄目だ、と中村。
「いくら大学の後輩でも、順番はきちんと守ってもらわないとな。宇宙天文台を使いたがっているのはお前らだけじゃないんだぞ」
「ほんの一時間でいいんです。フォーカスを木星に合わせるくらい、さほどの手間じゃないでしょうに。大きなロスにはなりませんよ」
 火星まで到達したら、次に人類が目指すのは木星に決まっています。あの星と、あの星の衛星群には、莫大な資源が眠ってるんだ。今こそ、木星の謎を解き明かさなくちゃいけないんです。僕の電磁性応用流体力学なら、あの星の複雑な大気の動きも無理なく説明できます。でもそれを証明するためには証拠が要るんです云々、という一連の彼の主張を一通り聞き流した後、中村は再び「駄目だ」と告げた。お茶をすする。
「まったく」とこぼした。「宇宙天文台の運用担当になんてなるんじゃなかったよ。連日連夜、あちこちの企業やら大学やらの関係者がやってきちゃあ、勝手な要求を突きつけてくる」
 宇宙天文台の正式名称は「国立宇宙天文台SENRI」。日本にとっては初となる宇宙望遠鏡だった。地球の衛星軌道上に配置されたのはもう半年も前だが、細かな調整に手間取り、本格的な運用が始まってからまだ二週間しか経っていない。
 しかし宇宙望遠鏡としては世界最大であり、メイド・イン・ジャパンの威信を懸けて造られただけあって、その性能もまた折り紙付き。今や世界中の天文学者たちの関心を集めていた。
「どいつもこいつも“使わせろ、使わせろ”の大合唱。そんなもんを全部聞いてたら、こっちは首が幾つあっても足りねぇよ。俺はヒドラじゃないんだぞ」
 そこを何とか、と後輩はまだこちらに手を合わせている。
「とにかく今は日本深宇宙研究機構が独占使用中だ。あと一ヶ月は誰にもどうすることもできん」
 あんな予算と時間の無駄遣いのためにぃ、と椅子に座り直した後輩が、不服そうに唇を尖らせた。
「知ってますよ。地球外文明の痕跡を探るとか言う、壮大なほら話のための組織でしょ。予算と寄付金目当てのペテンですよ、あんなものは」
「いや、そんなことはないぜ。ちゃんとした真面目な研究さ」
「SETI(地球外知的生命体探査)のことは先輩だってご存じのはずじゃないですか。世界中の電波望遠鏡が何十年もかけて探しているのに、未だにこれと言った成果がない。
 いくら世界最高峰の分解能を誇るからって、宇宙望遠鏡をたかだか一ヶ月かそこら深宇宙に向けた程度で、いったい何が分かるって言うんです」
「俺はそうは思わないぜ」お茶を飲み干す。「周りを見てみろよ。TVにラジオに携帯端末、Wi-Fi、それに目もくらむような様々な照明。俺たちの文明は二四時間、三六五日、電波やら光やらをまき散らしてる」
 ええ、と後輩が相槌を打った。周囲を見回し、さもうんざりしたように肩をすくめてみせる。
 昼飯時だ。三百人以上は入れる食堂も、人でごった返している。様々なお喋りで辺りは騒々しく、カレーやらラーメンやらチキンライスやらの匂いが入り交じって、辺りにはどうにもカオスな空気が充満していた。
「まるで悪臭ですよ。世界中の連中が無自覚に放つ様々な電磁波のせいで、我々天文学者は大いに迷惑してるんです。星々からの声はとてつもなくか細いと言うのに、まったく! おかげで地表からでは、ろくな観測ができやしない。つくづく思いますが、人間は増えすぎです」
 いいから聞けって、と中村が釘を刺す。
「そういった電波やら光やらは当然、宇宙にも漏れる。情報は常に発信されているんだ、途切れることなくな。後はもう、それをキャッチできるかどうかだけさ。
 向こうの文明だって事情は似たようなもんだろう。タイミングはあまり関係ないんじゃないか? 大事なのは性能だよ。
 電波やら光やらを宇宙にまき散らしている星が地球の他にもあるって、もし分かったら、俺はそれ、凄い発見だと思うぜ」
「そんなあるのかないのかも分からない星が何だって言うんです! 木星は確実に存在しているんだ、この太陽系に!」
 そうキャンキャン吠えるなって、と中村は眉をひそめる。
「宇宙開発にはロマンも必要なんだ。それに、そんなに焦ることないだろ。火星への有人飛行だってまだ計画の段階だ。木星なんて、ずっと先の話さ。もう半年も待てば、お前んトコの大学にもSENRI使用の権利が回る。その時には、まぁ、多少の融通はつけてやれるだろう」
 はぁ、と後輩が深いため息を漏らす。
「先輩は、何も分かってない。研究の世界は、万事が競争。スピードが命なんです。半年後だなんて……それではライバルたちに先を越されてしまう!」
「悪いが、それはそっちの都合だ。俺には関係ない。一介の公務員に色々言ったところで、無理なものは無理だ」
「あーぁ……つれない人だなぁ。せっかく美味しいフグ料理の店を見つけておいたのに」
「すまんな。ま、割り勘でよければ、いつでも付き合うぜ。もちろん、SENRIの話は抜きでだが」
「こっちはもう、完全に毒気を抜かれちゃいましたよ」
 ハハハ、と中村は笑う。
「フグもそのくらい簡単に毒を抜けたらいいのにな。調理する側もさぞ助かるだろう」
 それではフグが絶滅してしまいますよ、とさも気乗りしなさそうに山上が応えた。
「あんなに美味いんですから。簡単に毒を取り除けるのなら、あっという間に全部食べられちゃってるはずです」
「ハハ、違いない」
「フグの毒、テトロドトキシンは青酸カリよりも遙かに毒性の強い、猛毒ですからね。いくら人間が食いしん坊でも、おいそれとは手を出せません。……しかし不思議ですねぇ」
「ん?」
「なんで海はフグで一杯になっちゃわないんでしょう? 無敵の魚じゃないですか。それなのに」
 さぁなぁ、と応えながらも、中村は壁に掛けられた時計を気にする。昼休みももうすぐ終わりだ。午後には会議がある。いつまでものんびりとしてはいられなかった。
「そういや以前、面白い話を読んだことがあるよ。アブラムシって知ってるか?」
「あの、薔薇とかにたかる、ちっちゃい奴ですよね」
「そうだ。で、あの虫には実は凄い能力が備わってるんだそうだ。アブラムシの中には群れの個体数が増え過ぎると、とある化学物質を分泌する種類があるんだが、この物質にはなんと、自分たちの捕食者であるクサカゲロウなんかを呼び寄せる効果があるんだとさ」
 しばらくの間きょとんとした後、山上は「は?」と首を傾げた。
「自分たちの居場所を、わざわざ天敵に知らせる、ということですか?」
「そうだ」
「そんなの、自殺行為じゃないですか。いったい何のために?」
 薔薇を枯らしてしまわないためさ、と中村は笑う。
「アブラムシってのは増殖する力が強くて、好条件が揃うとあっという間に凄い数になる。ところが群れがあまりにでかくなりすぎると、今度はたかられている植物の方が保たない。枯れてしまう。それじゃ自分たちまで全滅だ。
 そこでわざと敵を呼び寄せ、そいつに仲間たちを食わせることで、数を減らさせるんだ。個体数の調整、だな。
 自然界では、バランスを崩したものには破滅が訪れる。あの小さな虫は、そのことをよく知ってるのさ」
 後輩は目を丸くしている。なんと、と彼が呟くのが聞こえた。
「フグのことはよく分からんが、たぶん事情は一緒だろう。要はバランスなんだよ。増えすぎてしまうことは、フグにとってもよくないんだろうな」
 さてと、と言いながら立ち上がる。
「悪いがそろそろ俺は行くぞ。この後、会議なんでな」
 返却コーナーに食器とトレイを戻して振り返ると、後輩がすぐ後ろについてきていた。
「まぁとにかく、近いうちに一度、一緒にメシでも食いましょうよ」
「おごりはナシで、だぞ」
「分かってますよ」
 二人揃って廊下に出ると、廊下の向こうから若い男が全速力で走ってくるのが見えた。「中村主任!」と叫んでいる。
 おぅ、と中村が応える。部下の内の一人だった。
「どうした。会議までは、まだ少し時間が」
 それどころじゃないんです、と駆け寄ってきた部下。苦しそうに肩で息をしている。
「ひ、非常事態です! すぐにコントロールルームに来てください! NASAと国連から、緊急要請が入りました! 大臣も今、こちらに向かっています」
 緊急要請?
 後輩と顔を見合わせる。
「お、おい、どういうことだ。何かあったのか」
「ハワイの国際天文台が海王星の軌道付近に謎の物体を発見したんです! それも数百を超える数の」
 ハッ、と中村。
「謎の物体ったって、どうせ小惑星か何かだろ。大して珍しいもんじゃ」
「地球に向かってきているようなんです、それも凄い速さで! しかもどうやら徐々に減速しつつあるらしいとかで」
 何だって! と、今度は二人揃って叫んだ。
「げ、減速? どういうことだ?」「自然物ではないということですか? ま、まま、まさか地球に着陸しようとしているとか?」
 分かりません、と部下がかぶりを振る。
「今、世界中の天文台が追跡調査をしているんですが、まだ遠いですし、とにかく速すぎて、地表からでは上手く捉えられないんです。それでSENRIの緊急使用要請が」
 よし分かった、と中村は走り出す。
 僕は大学に戻ります、と伴走しながら山上も声を張り上げた。
「こちらでも情報を集めてみますよ! 貧弱ですが、一応は観測機器もありますし」
「ああ! 頼んだぜ!」
 大変なことになりましたね、まったくだ、と声を掛け合い、二人は廊下の先で左右に分かれた。

 通路を飛ぶように駆けながらも、中村も、山上も、突然もたらされた驚天動地のニュースのことで頭の中は一杯だった。いったい何が近づいてきているのか。これからどんな未来が地球にもたらされるのか。まったく予想がつかない。こけつまろびつしながらも、先を急ぐ。
 二人とも、もうアブラムシのことは意識の片隅にすらなかった。「増え過ぎると、天敵を呼ぶ」という、その習性についても。