「犬の心臓。ブルガーコフ(分載第三回)」

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 イヴァン・アルノリドヴィチ・ボルメンターリ医師の帳面。便箋サイズの薄いものである。ボルメンターリの筆跡で書き埋めてある。最初の二ページは丁寧で字間の詰まったはっきりした文字だが、その先は荒れた不安そうな文字で、インクのしみがたくさんある。
 一九二四年十二月二十二日。月曜日。
 診療記録。
 実験用の犬はおよそ生後二年。雄。品種――雑種。呼び名――シャーリク。毛は薄く、房状、栗色に近く、焦げ茶色のぶちあり。尾は沸かした牛乳色。右脇腹に完治したやけどの痕。教授宅に来る前の栄養状態は不良、一週間滞在したあとは極めて肉付きよくなる。体重八キログラム(感嘆符)。
 心臓、肺、胃、体温――正常。
 十二月二十三日。午後八時三十分、ヨーロッパで初めてのプレオブラジェンスキー教授考案の手術が行われた――クロロフォルム麻酔下でシャーリクの睾丸を切除、その代わりに男性の睾丸を、副睾丸、精索とともに移植。これは手術の四時間四分前に死去した男性二十八歳から摘出され、プレオブラジェンスキー教授考案の殺菌済生理液内で保存されていたものである。
 この直後、頭蓋開口術を行い、脳下垂体を切除し、前述の男性のものと交換。
 使用薬剤。クロロフォルム――八ミリリットル、カンフル――注射器一本分、アドレナリン――注射器二本分を心臓へ。
 手術目的――プレオブラジェンスキーの脳下垂体および睾丸同時移植術の実験。この手術は脳下垂体の適応性、またその後の人体若返りへの影響という問題を解明するためのものである。
 執刀はF・F・プレオブラジェンスキー教授。
 助手はI・A・ボルメンターリ医師。
 手術後の夜。繰り返し起こる、危険な脈拍低下。致命的な結末を予測。プレオブラジェンスキーの指示により、カンフルを大量投与。
 十二月二十四日。午前中、快方に向かう。呼吸数二倍。体温四十二度。カンフル、カフェインを皮下投与。
 十二月二十五日。再び悪化。脈はかすかに触知され、四肢は冷たくなり、瞳孔は反応せず。プレオブラジェンスキーの指示により、アドレナリンを心臓に投与、カンフル投与。生理食塩水を静脈へ。
 十二月二十六日。いくぶん快方に向かう。脈拍百八十、呼吸九十二。体温四十一度。カンフル、滋養浣腸。
 十二月二十七日。脈拍百五十二、呼吸五十、体温三十九、八度。瞳孔反応あり、カンフルを皮下投与。
 十二月二十八日。著しい回復。正午に突然の大量発汗。体温三十七、〇度。手術の傷は以前と変わらず。包帯交換。
 食欲が見られる。流動食。
 十二月二十九日。突然、額と胴の両脇における脱毛が見られる。助言を仰ぐため、ヴァシーリー・ヴァシーリエヴィチ・ブンダレフ皮膚科講座教授とモスクワ獣医学模範校校長に来てもらう。このような事例は文献に記載されていないことを両者によって認められる。診断未確定。体温は正常。
 (以下は鉛筆による記述)
 夜、初めて吠える(八時十五分)。声色と調子の急激な変化(低音化)が注目される。『わんわん』と吠える代わりに、『あーお』という音節があり、その調子はどことなくうめき声に似ている。
 十二月三十日。毛の脱落は、全脱毛の傾向を示し始める。体重測定は思いがけない結果となる。体重三十キロ、骨の成長(伸長)によるものである。犬は以前と変わらず横たわったまま。
 十二月三十一日。旺盛な食欲。
 (帳面にインクのしみ。しみのあとに、走り書きで)
 昼の十二時十二分、犬が『ア、ブ、イ、ル』という言葉をはっきり吠える。
 (帳面に空白。その先はおそらく、興奮したために間違って書かれたらしい)
 十二月一日。(線で消し、訂正)一九二五年一月一日。午前中、写真撮影。はっきり『アブィル』と吠え、この言葉を大声で、何だかうれしそうに繰り返す。午後三時、(大きな字で)笑いだし、そのため小間使いのジーナが気絶。
 晩には『アブィル・ヴァルグ』『アブィル』と立て続けに八回発音した!
 (鉛筆の傾いだ字で)教授が『アブィルヴァルグ』の意味をつかんだ。意味するところは『グラヴルィーバ(漁業管理局)』!!! 何だかぞっとする……。
 一月二日。微笑んでいるところをマグネシウム閃光で撮影。寝床から起き上がり、三十分、後ろ足でしっかり立つ。ほとんど私と同じ身長。
 (帳面に別紙がはさんである)
 ロシアの科学はあやうく大きな痛手をこうむるところだった。
 F・F・プレオブラジェンスキー教授の診療記録。
 一時十三分――プレオブラジェンスキー教授、深い失神。転倒の際、頭を椅子の脚にぶつけた。カノコソウチンキ。
 私とジーナがいる場で、犬(もちろん、もし犬と呼べるなら)がプレオブラジェンスキー教授を卑猥な言葉でののしったのだ。
 (記録中断)
 一月六日。(鉛筆と紫色のインクで)
 今日、尾が取れたあと、きわめてはっきり『ビヤホール』と発音した。蓄音機作動。いったいこれは何なのだ!!!
――
 私は混乱している!
――
 教授の診察は中止。午後五時から、あの生き物が歩き回っている診察室より、明瞭で下品な罵りと、『あと二杯』という言葉が聞こえる。
 一月七日。彼は大変多くの言葉を発する。――『御者』、『場所はないよ』、『夕刊』、『子供たちへの最良の贈り物』、そしてロシア語の語彙に存在する、ありとあらゆる罵詈雑言。
 外見は奇妙である。毛は頭、あご、胸部にのみ残っている。残りの部分は毛がなく、しなびたような皮膚。性器の部分は、成熟しつつある男性。頭蓋は目に見えて大きくなり、額は斜めになっていて狭い。
――
 本当に、私は気が狂いそうだ!
――
 フィリップ・フィリッポヴィチは相変わらず気分がすぐれない。観察の大部分は私が行っている。(録音、写真。)
――
 街に噂が広まった。
――
 その結果は数えきれない。今日の昼間は、横町じゅうがどこぞの暇人やら婆さんやらで埋まった。野次馬たちは今も窓の下にいる。朝刊に驚くような記事が載ったのだ。『オブーホフ横町における火星人についての噂は何の根拠もない。これはスーハレフスキー市場の商人たちから広まったもので、彼らは厳しく罰せられるだろう』。いったいどんな火星人についてなんだ? まったくこれは悪夢だ!
――
 さらに傑作なのは『夕刊モスクワ』の記事で、ヴァイオリンを演奏する赤ん坊が産まれたと書かれていた。そこにはヴァイオリンの絵と私の写真があり、その下に『母親に帝王切開を行ったプレオブラジェンスキー教授』。これはもう筆舌に尽くしがたい! 新しい言葉――『警察官』。
――
 実は、ダーリヤ・ペトローヴナが私のことを好きで、F・Fのアルバムから写真をかすめたのだった。私が記者たちを追い払ったあと、そのうちの一人が台所に潜り込み……。
――
 診察時間に起きたことといったら! 今日はベルが八十二回。電話が外される。子供のいないご婦人方は、発狂したり、発狂しつつある。
――
 シヴォンデルを長とする住宅委員会のメンバー全員。何のためかは、彼ら自身も知らない。
 一月八日。夜遅く、診断が下された。F・Fは真の学者らしく、自らの誤りを認めた。脳下垂体の交換によってもたらされるのは若返りではなく、完全なる人間化(下線が三本)であった。このことによって、彼の驚くべき衝撃的な発見が小さいものになってしまうということは全くない。
 あれは今日初めて、家の中を歩き回った。廊下で電灯を見ながら笑った。それからフィリップ・フィリッポヴィチと私に伴われて書斎に向かった。あれはしっかりと後ろ足で(「後ろ足で」という言葉が線で消してある)……足で立ち、小さくて体格のよくない男性といった印象を与える。
 書斎で笑った。その微笑みは不快で、作り物のようだ。それから彼は後頭部をかくと、あたりを見回し、私は新たなはっきり発せられた言葉を書き留めた。『ブルジョア』。悪態をつく。彼の悪態は整然として途切れることなく、どうやらまったく無意味なようである。それはいくらか蓄音機のような性質がある。まるで、この生物は以前どこかで罵りの言葉を耳にし、機械的に無意識のうちにそれらを脳内に取り込み、そして今それを次から次へと吐き出しているかのようなのだ。とはいえ、私は精神科医ではないのだった。ちくしょう!
 悪態は、フィリップ・フィリッポヴィチに、なぜか非常に重苦しい印象をもたらしている。落ち着いて冷静に新しい現象の観察を続けられず、まるで堪忍袋の緒が切れたようになることがある。そういうわけで、悪態の最中、教授が突然いらいらして叫んだ。
 「やめんか!」
 これは何の影響も及ぼさなかった。
 書斎の中を歩き回ったあと、我々の一致協力のもと、シャーリクは診察室に入れられた。
 そのあとで、F・Fと話し合いをし、私は認めなければならないのだが、この自信に満ちた、驚くほど賢明な人物が途方に暮れるのを、私は初めて見た。いつものように歌を口ずさみながら教授が尋ねてきた。『これからどうしようかね?』そして自分で答えたが、文字通りには次のようなものであった。『モスクワ縫製工場だ……。〽セヴィリヤからグラナダまで~。モスクワ縫製工場ですよ、先生……』私には何もわからなかった。教授は説明した。『頼みがあるのですがね、イヴァン・アルノリドヴィチ、あれに下着とズボンと上着を買ってきてやってください』
 一月九日。新しい言葉により、語彙が五分ごと(平均して)に増えていくが、今朝からはフレーズも加わった。意識の中で凍りついていたものが溶けて、外に出てきているかのようだ。既に出て来た言葉は使用され続ける。昨晩から蓄音機で録音されたもの――『押すな』、『やつをなぐれ!』、『ろくでなし』、『段からおりろ』(訳注:路面電車等の乗降口にある段のこと)、『目に物見せてやる』、『アメリカ承認』、『プリムス・ストーブ』。
 一月十日。服を着る。下着のシャツは喜んで着させ、楽しそうに笑いすらした。ズボン下は拒否し、かすれた大声で抗議した。『列に並べよ、くそったれ、並べよ!』と。着衣完了。靴下は大きいようだ。
 (帳面に、犬の足が人間化するのを表したものと思われる略図らしきものがいくつか)
 足の後ろ半分(Tarsus)(訳注:ラテン語で足根骨のこと)が長くなってきている。指の伸び。爪。
 便所の行き方を何度も系統立てて教える。女中はうちひしがれている。
 しかしこの生物の飲み込みの早さには注目すべきだ。事はまったくうまくいっている。
 一月十一日。ズボン下を完全に受け入れることにしたようだ。フィリップのズボンをさわり、長くて愉快なフレーズを発した。『煙草くれよう。あんたのズボンはしましまもよう』。
 頭部の毛は弱く、絹のようである。ほとんど髪の毛のようだ。だが、頭頂部にぶち模様が残っている。今日、耳から最後のにこ毛が抜けた。旺盛な食欲。にしんを夢中になって食べる。
 午後五時、大事件――あの生物が初めて、周囲の出来事と切り離せない、つまり周囲の出来事に対する反応である言葉を発した。すなわち、教授が『食べ物のかすを床に落としてはならん』と命じたその時、意外な返事が返ってきたのだ。『あっち行け、くそ野郎!』と。
 F・Fは愕然とし、それから我に返って言った。
 「もしまた私や先生を侮辱するようなことを口にしたら、ただではおかないぞ」
 私はその時、シャーリクの写真を撮った。あれは教授の言葉を理解したのだと私は断言する。その顔に不機嫌そうな色を浮かべていたのである。かなりいらだって、眉をひそめて上目遣いににらむような目つきをしたが、黙り込んだ。
 万歳! 理解している!
 一月十二日。両手をズボンのポケットに入れる。我々は悪態をつくのをやめさせようとする。『おい、りんご』(訳注:ロシアの民謡、民俗詩。様々な変種がある)を口笛で吹いた。会話が続く。
 私はいくつかの仮説を立てずにはいられない。しばらく若返りのことは放っておこう! はるかに重要なものが他にある。プレオブラジェンスキー教授の驚くべき実験は、人間の脳の秘密のうちの一つを明らかにしたのだから。これから、脳下垂体――脳の付属物――の謎めいた機能が明らかにされる! 脳下垂体は人間の外見を決定づけるのである! 下垂体ホルモンは生物における最も重要なもの――外見のホルモン――と言えるのかもしれない。科学における新しい分野が開かれた。ファウストの蒸留器なんぞなくても、ホムンクルスが生み出されたのである! 外科医のメスが新しい人間を一人、出現させた。プレオブラジェンスキー教授、あなたは造物主だ!!!(インクのしみ)
 話がそれてしまったが……。そういうわけで、あの生物は会話を続けることができる。私の仮定によると、事情は以下のようになる。定着した脳下垂体は犬の脳の言語中枢を開放し、言葉がほとばしり出た。私が思うに、我々の前にあるのは、よみがえり開放された脳で、新たに創造された脳ではない。おお、進化論を見事に裏付ける事実! おお、犬から化学者メンデレーエフまでをつなぐ最も偉大な鎖! さらに私の仮説を。シャーリクの脳は犬として生活していた時期に、無数の概念をためこんだ。最初に操り始めた言葉はすべて大衆語であり、シャーリクはこれらを耳にし、脳の中に隠しておいたのである。今、私は外を歩く時、密かな恐怖を感じながら、行き会う犬たちを見ている。彼らが脳の中に何を隠しているのかは、神のみぞ知る、だ!
――
 シャーリクが読んだ! 読んだ(感嘆符三つ)。これは私が推測していたことだ。漁業管理局の件から! まさに後ろから読んだ! そして私は、この謎の解答がどこにあるのかを知っている。犬の視神経交叉部である!
――
 モスクワで何が起こっているのか、人間の頭ではさっぱり分からない。ボリシェヴィキが招いた世界の終わりについての噂を広めたかどで、スーハレフスキー市場の商人が七人、既に留置されている。ダーリヤ・ペトローヴナが話してくれたのだが、日付まできちんと教えてくれた。一九二五年十一月二十八日、聖なる殉教者ステファンの日に、地が天の軸に衝突すると!! あるペテン師らは既に講義をしている。こんならんちき騒ぎを、我々はあの脳下垂体で引き起こしてしまったのだから、アパートから逃げ出したほうがいいくらいだ! 私は教授に頼まれてプレオブラジェンスキー宅に引っ越し、シャーリクと一緒に応接室で寝泊まりしている。診察室が応接室になったのである。シヴォンデルは正しかったのだ。住宅委員会は人の不幸を喜んでいる。戸棚にはガラスが一枚もない。飛び跳ねたからだ。なんとかやめさせた。
――
 フィリップの様子がどこかおかしい。私が自分の仮説について、また、シャーリクを精神的に大変優れた人物に発達させたいという希望について語った時、彼は、ふむと言うと次のように答えた。『そう思うの?』。その調子は不吉だった。私は間違っていたのだろうか? 老人は何か思いついたようだ。私がこの診療記録を書いているあいだ、彼はすわって、我々が脳下垂体を取った、あの人物の記録を読んでいる。
――
 (帳面にはさみ込まれた別紙に。)
 クリム・グリゴーリエヴィチ・チュグンキン、二十五歳、独身。非党員、シンパ。裁判にかけられること三回、実刑なし。一回目は証拠不十分、二回目は出自に救われ、三回目は執行猶予つき懲役十五年。窃盗。職業――複数の居酒屋でのバラライカ演奏。
 低身長、体格不良。肝臓肥大(アルコール)。
 死因――プレオブラジェンスカヤ関所近くのビヤホール『ストップ・シグナル』にて心臓をナイフで一突きされた。
――
 老人は中断することなく、クリムの記録に没頭している。私にはわからない、どういうことなのか。チュグンキンの死体全体を病理解剖学的に検査しようと思いつかなかったことに関して、何かつぶやいている。どういうことなのか、私にはわからない! 誰の脳下垂体であろうと同じことではないのか?
 一月十七日。数日間、記録しなかった。私はインフルエンザにかかっていたのだ。
 この間に、外見は完全に形成された。
 (一)身体構造はまったくの人間。
 (二)体重約三プード(訳注:四十九、一四キロ)。
 (三)低身長。
 (四)頭は小さい。
 (五)煙草を吸い始めた。
 (六)人間の食べ物を食べる。
 (七)一人で衣服を着る。
 (八)なめらかに会話する。
――
 これが脳下垂体というものだ!(インクのしみ)
――
 これをもって診療記録を終わりにする。我々の前には新しい生物がいて、それをはじまりから観察していくことが必要である。
 付録――発言の速記録、蓄音機での録音、写真。
 署名――F・F・プレオブラジェンスキー教授助手
医師ボルメンターリ

 冬の夕方だった。一月の終わり。午後の食事の前、診察の前の時間。応接室に通じる扉の横木に白い紙が貼ってあり、そこにフィリップ・フィリッポヴィチの字で書いてある。
 『家の中で種を食べることを禁じます。
              F・プレオブラジェンスキー』
 そして青鉛筆で書かれたボルメンターリの、焼き菓子のように大きな字で、
 『午後五時から午前七時まで、楽器演奏を禁止します』
 それからジーナの字で、
 『お戻りになられましたら、フィリップ・フィリッポヴィチに、私は彼の行き先を存じ上げないとお伝えください。フョードルが言うには、シヴォンデルと一緒だったとのこと』
 プレオブラジェンスキーの字で、
 『私はガラスはめこみ工を百年待つのだろうか?』
 ダーリヤ・ペトローヴナの字(活字体)で、
 『ジーナは店に行きました。連れてくるとのこと』
 食堂は暗赤色の傘の下にあるランプのおかげで、すっかり夕方のようだった。食器棚に反射した光は二つに割れている。面取り加工を施した厚手のガラスの端から端へ、斜め十字にテープが貼ってあるのである。フィリップ・フィリッポヴィチはテーブルの上にかがみこみ、広げた大きな新聞に没頭していた。怒りがその顔をひきつらせ、閉じられた歯の向こう側から、断片的で途切れ途切れの、うなるような言葉がこぼれ落ちる。彼はこんな記事を読んでいた。
 『その人物が彼の(腐ったブルジョワ社会での表現に従えば)非嫡出子であるということに、何ら疑いの余地はない。かように、我が国の、えせ学者ブルジョワジー階級は楽しんでいるのである! 彼らが一人で七部屋を占拠できるのも、光り輝く法の裁きの剣が、赤い光を放って頭上にひらめくまでのことである。
シヴォ××ル』
 壁二枚隔てた向こうでは、威勢のいい弦さばきのバラライカが延々と奏でられていて、『月は輝く』(訳注:ロシアの民謡)の複雑な変奏の音は、フィリップ・フィリッポヴィチの頭の中で記事の言葉と混ざり合い、忌まわしいごった煮になる。読み終えると、フィリップ・フィリッポヴィチは肩越しにつばを吐くようなしぐさをし、無意識のうちに口の中で歌い出した。
 「〽月は輝く……月は輝く……月は輝く……。ちっ、あの呪わしい旋律がこびりついてしまった!」
 教授はベルを鳴らした。ジーナの顔がカーテンの合間に現れる。
 「五時だからやめるように言っておくれ。それからここに来るようにと、頼む」
 フィリップ・フィリッポヴィチはテーブルにつき、肘掛け椅子に座っている。左手の指の間には、葉巻の茶色い吸いさしがある。カーテンのそばには、扉枠へもたれかかるようにして、背の低い、感じの悪い人相の男が、足を交差させて立っていた。その頭髪はごわごわで、開墾された野にはえた低木のようであり、その顔にはやわらかそうな無精髭が草原のようにはえている。額の狭さにはびっくりさせられる。黒い筆のようなぼさぼさ眉のすぐ上に、ブラシのように濃い頭髪の生え際があるのだ。
 左の脇の下が裂けている上着はわらで覆われ、縞のズボンの右膝には穴が開き、左膝は薄紫色のペンキで汚れている。首には模造ルビーのピンをつけた、どぎつい青のネクタイを締めている。そのネクタイの色はあまりにも強烈で、フィリップ・フィリッポヴィチは時折疲れた目を閉じるのだが、その完全な闇の中でも、天井あるいは壁に、青い後光を背負った輝く松明が見えるのだった。まぶたを開けると、また目がくらんでしまう。白い脚絆を付けたエナメルの編み上げ靴が、床の上で扇状の光を放って、目を痛めつけるからである。
 『オーヴァーシューズをはいているかのようだな』フィリップ・フィリッポヴィチは不快に感じながらそう思い、ため息をつくと、軽く息を立てながら火の消えた葉巻にとりかかりはじめた。扉のところにいる男はややどんよりした目つきで教授の方をちらちら見つつ、細工の施されたシャツの胸元に灰をふりかけながら煙草を吸っている。
 木製のエゾライチョウの隣にある壁時計が『五時』を打った。フィリップ・フィリッポヴィチが話を始めた時にも、時計の中ではまだ何かがうなるような音を立てていた。
 「台所の寝床(訳注:ロシアでは台所が暖かいので、かまどの近くに寝床を作ることがある)で寝ないようにと、既に二回言ったはずだが。まして昼間は」
 男は小骨がのどにつかえたかのような、かすれた咳をしてから答えた。
 「台所の空気の方が気持ちいいんだ」
 男の声は奇妙で、小さな樽の中に向かって話しているかのように、くぐもった感じであると同時によく響く。
 フィリップ・フィリッポヴィチは頭を振ると、尋ねた。
 「その下品なものはどこで手に入れた? 私が言っているのはネクタイのことだが」
 男は目で指の差す方向を追い、突き出された下唇の下に目をやると、いとおしそうにネクタイをながめた。
 「何が『下品なもの』だ」と、男が言った。「素敵なネクタイだ。ダーリヤ・ペトローヴナがくれたんだ」
 「ダーリヤ・ペトローヴナはお前さんに下らんものをくれてよこしたのだ。その靴もそう。その光っているつまらんものは何だ? どこで手に入れた? 私は何と頼んだか? きちんとした靴を買うようにと言ったのに、それは何だ? まさかボルメンターリ先生がこんなのを選んだのか?」
 「俺がエナメルのにしてくれと頼んだのだ。何、俺が世間様より劣るって? クズネツキーに行ってごらんなさいな。みんなエナメルのをはいているから」
 フィリップ・フィリッポヴィチは頭を振ると、説き伏せるように話し始めた。
 「台所の寝床で眠るのは終わりです。お分かりか? 何という図々しさですか? あなた、迷惑をかけているんですよ! あそこには女の人たちがいるんです」
  男の顔が曇り、唇が突き出た。
 「何が女の人だい! まったく。大したご婦人たちだよ! ごく普通の使用人なのに、コミッサール(訳注:政治委員)の奥方みたいに気取ってやがる! これは全部、ジンカの告げ口なんだ!」
 フィリップ・フィリッポヴィチは厳しい目を向けた。
 「ジーナをジンカと呼んではいかん。お分かりか?」
 沈黙。
 「お分かりか? あなたに訊いているんですよ」
 「分かった」
 「その変てこなものを首から外しなさい。あなた……あんた……あなた、鏡で自分を見てごらんなさい、自分が何に似ているか。道化みたいですよ! 床に吸い殻を捨てないようにと、何回もお願いしているでしょう。私がこの家で、汚い言葉を一言も耳にしないで済むようにしていただきたい。つばを吐かない。そこに痰壷はある。小便器にはきちんと向かう。ジーナとはどんな話もしない! あなたが暗闇で待ち伏せしているって、ジーナが苦情を言っているんです。いいですか! 患者に『知らねえよ』なんて返事をしたのは誰ですか? 何ですか、あなた、飲み屋にでもいるつもりなんですか?」
 「何だか、おやじさん、俺をひどく痛めつけておられる」男が突然、泣きそうな声で言った。
 フィリップ・フィリッポヴィチは顔を赤くし、眼鏡が光った。
 「誰があなたの『おやじさん』ですか? そのなれなれしさは何ですか? その言葉を私が二度と耳にすることのないようにしていただきたい! 私のことは名前と父称で呼びなさい!」
 大胆不敵な表現が男の中で燃え上がった。
 「一体、何だってあなたはこんな……。つばを吐くな。煙草を吸うな。あっちへ行くな……。これは一体何なのですかね? 路面電車の中みたいだ。どうして俺を好きに生きさせてくれないんですか! それに『おやじさん』に関しては、言うだけ無駄だね。手術してくれって俺が頼みましたかね?」男は息巻いた。「素晴らしいことだよ! 動物をとっつかまえて、メスで頭をすーっと切り、そして今度は忌み嫌う! 俺はたぶん、手術の許可なんかしてない。それは、(男は何らかの決まり文句を思い出そうとしているかのように、天井に目を向ける)それは俺の身内の者だって同じだ。俺には、たぶん、告訴する権利があるな!」
 フィリップ・フィリッポヴィチの目は真ん丸になり、葉巻が手から落ちた。『ふむ、変わった奴だ』ふと、そう思った。
 「では何ですか」細目で見ながら尋ねる。「人間に変えられたのがご不満でいらっしゃると? もしかして、またゴミ捨て場を巡って走りまわる方がお好みですかな? 門口で凍える方がよい? ああ、私がそれを知っていたなら!」
 「それにどうしていつも非難しますかね、ゴミ捨て場、ゴミ捨て場って。俺は自分の生きる糧を得ていたんだ。ではもし俺があなたのメスの下で死んでいたら? あなたはそれについて何とおっしゃいますかね、同志?」
 「『フィリップ・フィリッポヴィチ』と言え!」フィリップ・フィリッポヴィチがいら立って叫んだ。「私はあなたの同志ではない! まったくどうかしている!」――『悪夢だ、悪夢』ふとそんな思いが浮かぶ。
 「もちろんそうでしょうよ……」男は嫌みたっぷりに言いかけ、勝ち誇ったように片足の位置を変えた。「我々にはわかっているのでございますよ。我々があなたにとってどんな同志であるかをね! どうやったって同志にはなれないんだ! 我々は大学で教育を受けていない、十五部屋風呂付きのアパートに住んだこともない! 今やっと、こういうことに構わないでもよい時代になるのだ。現在では各自が自分の権利を持ち……」
 フィリップ・フィリッポヴィチは青ざめながら男の口答えを聞いていた。当の本人は話を中断し、噛んでくちゃくちゃになった紙巻き煙草を手に、これみよがしに灰皿の方へと向かう。その足取りはよろよろしたものだった。男は明らかに『ほれ! ほれ!』と言っている表情で、吸い殻を灰皿の底に長いこと押しつけていた。煙草の火を消すと、突然かちっと歯を打ち鳴らし、脇の下に鼻を突っ込んだ。
 「ノミは指でとりなさい! 指で!」フィリップ・フィリッポヴィチがかっとなって叫んだ。「それに私にはわからないのだが、どこからノミを連れてくるのかね?」
 「何ですか、俺がこいつらを飼っているってか?」男はむっとした。「きっとノミは俺のことが好きなんだ」そう言って、袖の裏地の中で指をごそごそさせてから、ふわっとした赤茶色い綿くずを空中に放った。
 フィリップ・フィリッポヴィチは天井の花輪模様に視線を向け、指先でテーブルをとんとん叩き始めた。男はノミの処刑を済ませると、その場を離れて椅子にかけた。その際、指先を下にして、ジャケットの襟の上をすべらせた。チェス盤のような寄せ木細工の床を横目で見る。自分の靴を観察するのだが、それは彼に大きな満足をもたらす。フィリップ・フィリッポヴィチは、ぎらぎら光っている、靴の丸い爪先の方を見ると、目を細くして話しはじめた。
 「他にはどんなことを私に言いたいのかな?」
 「どんなことって! 簡単なことですよ。身分証明書が必要なんだ、フィリップ・フィリッポヴィチ」
 フィリップ・フィリッポヴィチは少し顔をひきつらせた。
 「ふむ……。何と! 身分証明書ですと! なるほど……。ふうむ……。だが、もしかして、それなしで何とか済みませんかな?」教授の声は自信なさげで憂鬱そうだった。
 「とんでもない」男はきっぱり答えた。「身分証明書なしでとはどういうことですか? そんなのごめんこうむりますよ。ご存知でしょうが、身分証明書を持たない者は存在することを強く禁じられているんです。第一に、住宅委員会が!」
 「その住宅委員会とこれと、何の関係があるんですか?」
 「何の関係ですって? 会うと聞かれるんですよ。お前様、いつ住民登録するんだいって」
 「ああ、何たること」フィリップ・フィリッポヴィチが悲しげに声を上げた。「『会うと聞かれる』だって……。あなたがあの人たちにどんなことを話しているのか、想像できますよ! 階段をぶらついてはいけないと、私は言いましたよね!」
 「何ですか、俺は囚人ですか?」男は驚き、自分は正しいという意識に火がつき、模造ルビーですらその意識により輝きはじめた。「『ぶらつく』とは何ですか?! あなたの言葉、かなり侮辱的ですよ。俺は他の人たちみたいに歩くんだ」
 そして、床の上でエナメル靴の足を交互に動かした。
 フィリップ・フィリッポヴィチは黙り込み、脇を向いた。『それでもやはり自分を抑えなければ』そう思った。食器棚に近づき、コップの水を一息に飲み干す。
 「結構ですな」さっきよりも落ち着いて、彼は話しはじめた。「どんな言葉を使うかがここでの問題ではないんです。それで、その素晴らしき住宅委員会は、あなたに何と言っているのですか?」
 「あの人たちが何を言えるっていうんですか? それに『素晴らしき』なんて馬鹿にしたって無駄ですよ。住宅委員会は利益を守ってくれるんです」
 「誰の利益か、聞いても構わんかね?」
 「誰のって、わかりきったことでしょう。労働分子ですよ」
 フィリップ・フィリッポヴィチは目を見張った。
 「それではお前さんは勤労者なのか?」
 「ええ、わかりきったことです。ネップマン(訳注:一九二一年から採用されたソ連の新経済政策によって生まれた新たな資本家)ではありませんから」
 「そうか、わかった。では、住宅委員会が君の革命的利益を守るのに、何が必要なんだ?」
 「わかりきったことです。俺を住民登録すること。モスクワで住民登録もせずに暮らしている人間なんて、見たことがないと言ってます。これがまず一つ。が、一番大事なのは登録カード。義務放棄者にはなりたくないんでね。それに、組合とか職安とか……」
 「教えていただけないか、何に基づいて君を住民登録すればいいのか。このテーブルクロスか、あるいは私のパスポートか? それでもやはり、状況というものを考慮に入れないといけないからな! お忘れなさるな、君は……えー……うーむ……君は、何というかその……ひょっこり現れた、実験の産物なんですぞ!」フィリップ・フィリッポヴィチはだんだん自信なさそうな調子になりながら言った。
 男は勝ち誇ったように、無言のままでいた。
 「結構です。君を住民登録してだね、とにかく住宅委員会の考えにすべて沿うようにするには、結局のとこ…