「キャッチボール、しようよ」
「えっ」
「だからさ、いつもみたいにキャッチボールしよ」
高橋からそんな言葉が出てくるなんて、思いもよらなかった。
だって、あの日の事故。部活帰りの横断歩道、信号を無視して突っ込んできた車に、二人ともぶっ飛ばされてしまった。
「なぁ、天野。俺はまだ車椅子に乗ってなきゃなんないけど、やっと退院できたんだ。だからさ、いつもみたいにキャッチボールしよ」
「分かった。それならボールとグラヴ、持ってくるから、ちょっと待ってて」
気がついたのは病院のベッドだった。オレは軽い打撲だったんだけど、高橋は……
「俺は車椅子なんだから、ちゃんと取れる所に投げろよ」
「当たり前じゃないか。オレ、コントロールは良かったろ。いくよ」
パン。
「久しぶりのグラヴ、懐かしいな。さぁ、こっちからもいくよ」
パン。
「オレも久々なんだ。やっぱ、野球の基本はキャッチボールだよな」
みんな野球が大好きだった。
少しでも速い球を投げられるように。少しでも遠くへ飛ばせるように。少しでも速く走れるように。
上手くなりたかった。だからいつも一生懸命だった。
パン。
「おい、なんでそんなヘナチョコボール、投げてんだよ。ちゃんと投げろよ」
「ゴメン」
「なんでお前が謝るんだ」
「えっ」
「だから、なんでお前が謝んなきゃならないんだよ」
「それは」
「俺がもう、野球が出来ないからか」
「えっ」
「この足。治ったとしても後遺症が残るから、ちゃんとした野球が出来ないからだろ」
「そうじゃなくて」
「プロを目指してるお前が、俺みたいなヤツを相手に投げても、練習にならないからか」
練習はいつもキャッチボールから始まった。少しでもいい球を投げるように。そして、絶対にその球をそらさないように。
いつも監督が言っていた。「野球はキャッチボールから始まるんだ。キャッチボールってのはなぁ、必ず相手の受けやすい所に投げなきゃならない。だから、相手を大切にすることから始まる野球はなぁ、一番優しいスポーツなんだ」って。
「俺みたいなヤツを相手に投げても、練習にならないからか」
「なに言ってんだよ」
「なら、思いっきり投げろよ」
「えっ」
「思いっきり投げてくれよ。天野の球ならさ、俺、絶対捕れるから」
「……」
「いつも監督が言ってたろ。だから、絶対に球、そらさないから」
「分かった。なら、いくよ」
「ああ」
パシッ。
「まだまだ」
「もっと速いの、いくよ」
バシッ!
「大丈夫、大丈夫」
「それなら」
バシッ!
「いい球だな。でも、もっともっと速く」
「よし、いくよ」
シュッ。
「あっ」
「ゴメン、力が入り過ぎちゃった。ボール、オレが取りに行くから」
「来ないで」
「えっ」
「俺が捜してくるから」
「だって」
「あれぐらいの球、ちゃんと捕らなきゃね。俺がそらしたんだから、俺が取ってくる」
「でも」
「頼むから、取りに行かせてくれよ。特別扱いしないでくれよ」
「ゴメン」
「また謝った。なんでお前が謝るの」
「だって」
「さっきも言ったろ、なんでお前が謝んなきゃならないんだよ。俺、球を捜してくるから。
あったあった。あったから大丈夫。さあ、もう一回いくよ」
みんな野球が大好きだった。今までも、これからも。
◇
9回裏、1対2で迎えた大阪タイグレス最後の攻撃は2アウト1塁2塁。長打が出れは逆転サヨナラのチャンス。
最多セーブを誇る相手チームの守護神に対するは、絶好調の四番打者。カウントは3ボール2ストライクのフルカウント。
そしてピッチャーが投げたのは、タイミングをはずしたカーブ。
『カーン』
バットの先に当たったボールは、ヒョロヒョロとセカンドの頭を越えた。
勢いよく走りだした2塁ランナーの天野が、そのまま3塁を蹴った。猛然とダッシュして球をおさえたライトが、力を尽くしてバックホーム。
『バシッ!』
きわどいタイミングでタッチするキャッチャー。
滑り込んだホームベースの上で審判の顔を見上げる天野。そしてミットに収まった球を審判にアピールするキャッチャー。
一瞬の静寂。静まりかえったスタジアムに、審判の声が響いた。
「アウト! 試合終了」
少し足を引きずるクセのある主審が、大きく右手を上げた。
そして、ランナーにだけ聞こえるような声で、そっと一言。
「天野。お前、足遅いなぁ。もっとしっかり練習しろよ」