「夜の夢を見ない」粕谷知世

夜の夢を見ない
 
粕谷知世

 月の明るい夜だった。
式場を予約した帰り道、白く輝く月は、わたしたちの車の後を追いかけてきていた。車内には月明かりが満ち、フロントガラスから見る青信号や対向車のヘッドライトは宝石のように光っていた。
「打ち明けておきたい秘密があるなら、今だぞ」
「ないよ、そんなの。聡司くんこそ、隠し子の一人や二人、いないの?」
「いる。百人くらい。名前が覚えられない」
「もう、やだ」
 わたしたち、ほんとに、もうすぐ結婚するんだ。
 幸せを噛みしめながら笑い合ううちに、今だったら話せるかもしれないと思いついたことがあった。
「たいしたことじゃないんだけどね」
「何だ、やっぱりあるんじゃないか」
「わたしってね、寝ている間に」
「いびきが凄いのか」
「そんなんじゃないよ。まじめに聞いて」
 気軽に話すつもりが、少し声が震えてしまった。
「眠ってる間、テレビを見るみたいに、頭の中の映像を見てるんだよね。昼間に会った人が出てきたり、行ったことのない街を歩いてたり。聡司くんはそんなことない?」
「ないない。何だよ、それ」
「だったら、いいよ。気にしないで」
「自分から切り出しておいて、途中でやめるなよ。気になるだろ。それって、寝る前に目をつぶって考えごとしてるってことじゃないのか」
「ううん、寝る前じゃない。寝ながら。夜の間ずっとってこともないけど、たぶん、けっこう長い間」
「寝てるのに、どうして何か見てるって分かるんだよ。それは絶対、起きてるんだって。不眠症の奴は自分じゃ寝てないと思ってても、実際は寝てたりするだろう。それと逆のパターンだよ」
 そういうのとは違うと思うけど、うまく説明できない。小さい頃、お母さんには話したことがある。高校時代、親しかった友人にも話してみたけど、冗談だと思われた。以来、わたしが寝ている間に頭の中の映像を見ていることは、ほかの人には話したことがない。
「それって、最近、始まったことか?」
「ううん。昔からだよ。子供のころから」
「脳の病気かもしれないな」
「そうかなあ。でも、頭痛がするわけじゃないし」
「呑気なこと言ってて悪化したら、どうするんだ。医者に行ったほうがいいんじゃないか」
 そして、聡司くんは黙った。
 車は進む。聡司くんは黙ってる。
 お願いだから、何か言って。
 赤信号がわたしたちを停止させた。
「幻覚を見るのを秘密にしていたような人間と、結婚はできないな」
   
 ふうっと激しく息を吐いて、わたしは目を覚ました。
 頭の中には、ハンドルを握って前を向いていた聡司くんのイメージがまだ残っている。
 当の聡司くんは、わたしの左隣で、わたしに背を向けて眠っていた。体になじんだ聡司くんのぬくもり。右の子供布団では拓人がもぞもぞ動いている。拓人はもう四歳だ。結婚して六年にもなるのに、なんだってまた、こんな変な映像を見ちゃったんだろう。
あのドライブのとき、確かにわたしは、寝ている間に見る映像のことを聡司くんに打ち明けた。だけど、聡司くんは「へえ、面白いな」と軽く受け流しただけだった。今ではきっと、わたしの打ち明け話なんて覚えてもいないだろう。
 夜の映像っていうのは、現実の出来事よりも話が大げさになっていることが多い。現実とかけ離れていれば混乱しないけど、本当にあったことが混じっていると、記憶まであやふやになってくるから困る。
 わたしは食卓に視線を落とした。ごはんとお味噌汁、サラダと卵焼きに昨日の晩の残りの豚肉の生姜焼き。聡司くんと拓人、お味噌汁を少し前かがみになって啜るところがそっくりで、ちょっとおかしい。聡司くんは、拓人はわたし似だって言うんだけど。
「わたしたち、結婚できて、本当によかったね」
 拓人のほっぺたから、ご飯粒をとりながら、わたしは聡司くんに言ってみた。
「朝っぱらから、何だよ、いきなり」
 聡司くんの声は不機嫌そうだった。寝ている間に見た映像が悪かったのかな、とつい思ってしまったけど、映像を見ない聡司くんには、そんなこと関係ないだろう。
「それとも、あれか。あれを、まだ見てるのか?」
「え、何?」
「夜、寝てる時に幻覚を見るって、前に言ってただろう」
「そんなこと、言ったっけ?」
 思わず、嘘をついてしまった。
「拓人には、あんまり変なこと吹き込むなよ」
 それは思いつかなかった。拓人だったら、わたしの子だし、もしかしたら分かってくれるかもしれない。大丈夫、一度だけ、さらっと尋ねるだけなら、悪い影響なんてないだろう。
 聡司くんの出勤後、こども園の園服に着替え始めた拓人に話しかけてみた。
「ねえ、拓人。拓人は夜、眠っている間に、人や物が動いているのを見たりする?」
 拓人はぱちぱちと瞬きした。
「どういうこと? 眠ってたら、目は瞑ってるよ」
「だからね、昔のことを思い出してる時は、頭の中に絵が浮かぶでしょう? テレビを見てるみたいになるじゃない。それと同じことが、夜、寝てる時に起こらない?」
「ちょっと、ママが何を言ってるのか、分からないな」
 拓人は自分で通園カバンをとって肩から掛けた。

拓人はしっかりしているけれど、幼い頃、わたしは甘えん坊の泣き虫だった。いつでもブランケットが手放せなかった。それは、父方の祖母が誕生日祝いに買ってくれた、クリーム色の膝掛けで、中央部分には大きな青い眼の白い子猫が織り込まれていた。寂しい時、わたしはブランケットにくるまって角を口に入れた。ちゅうちゅう吸っていると気持ちがなごんだ。哀しい時は青い眼のあおちゃんの額を撫でた。すべすべしていて、本物の猫の毛みたいだった。
 幼稚園の卒園式の後、お母さんから新しいブランケットを渡された。
「どう、今度の猫ちゃんも可愛いでしょう?」
 色は同じクリーム色、あおちゃんに似た白猫がついていた。でも、眼は黒かったし、つんとしていて意地悪そうだ。撫ぜてみたけれど、毛糸がちくちくする。
「これ、いやだ」
「どうして」
お母さんの声は少し尖っていて、わたしは緊張した。
「あおちゃんがいいんだもん」
 わたしは部屋を見回して、いとしのブランケットを探した。
「あおちゃんはどこ?」
「もうすぐ小学生なんだから、あんな汚い膝掛け、いつまでも持ち歩いてられないでしょ」
 お母さんに叱られて、わたしは夜、布団に入ってからも泣いていた。泣きながら、いつものように不思議な世界へ入り込み、そこでもブランケットを探した。
「あおちゃん、どこ行ったの? 隠れてないで、出ておいで」
 リビングのソファの後ろを覗いてみた。寝室のクローゼットの中もかき回した。
 コ・コ・ダ・ヨ
 恨みのこもった声が聞こえた。
 寝室の中央で、ブランケットが宙に浮いていた。
 白い子猫がその上に座っていた。青い眼でわたしを睨んでいる。
 ス・テ・ラ・レ・タ
「捨ててなんかないよ」
 ウ・ソ・ツ・キ
白い子猫は爪を立て、わたしの顔めがけて飛びかかってきた。
  
 考えごとをしていたせいで、拓人を迎えに行く時間が遅くなってしまった。あわててこども園に駆けつけると、他の子たちは帰った後だった。拓人はがらんとしたお遊戯室で、保育士さんと一緒に積み木遊びをしていた。わたしを見て駆け寄ってくる。
 保育士さんが拓人の通園カバンを渡してくれながら「拓人くん、今日、面白いことを言ってましたよ」と言った。「頭の中で、テレビがかかってるんですって。どうやって、つけたり消したりするのかなって聞いたら、お鼻を押せばいいんだよって言うんです。子供って、ほんとに発想がユニークですよね」
 ぽちゃっと丸顔で、包容力のある優しい保育士さんだ。悪意で言ってるわけじゃないのは分かる。皮肉でもない。
 それなのに、わたしは顔がこわばってしまって、うまく答えることができなかった。遅れてしまったお詫びもそこそこに、わたしは拓人の手をひっぱってマンションに戻った。
「拓人、保育士さんに頭の中でテレビがかかってるって言ったの?」
「僕、そんなこと言ってない」
「嘘。だって、保育士さんが拓人から聞いたって言ってたじゃない」
「うそじゃない。ほんとに言ってないもん」
「嘘は泥棒の始まりだよ」
 拓人はふくれ面で、わたしのことを睨んでいた。
 わたしは声のトーンを変えてみた。
「ママが言ったから、拓人は保育士さんにそう言ったんでしょ。あんなこと、ママは言っちゃいけなかった。だからね、拓人も他の人には言わないで。分かった? パパにもよ」
「どうして、いけないの?」
「どうしてって、どうしても」
「どうして?」
「パパとママが離婚しちゃってもいいの?」
 つい、大きな声になった。
「ママのいじわる」
 拓人の声は涙声だった。
わたしも泣きたい気分になった。小さな子供に戻って、わたしも泣きたい。
「お母さん、あおちゃんはどこ? 捨ててないよね。勝手に捨てたりしないよね」
「もう無いって言ったでしょ。新しいのをあげたじゃない」
「あおちゃん、怒ってたよ。わたしの眼をひっかこうとしてた」
「何を言っているの。気持ち悪いこと言わないで。お母さん、嘘つきは嫌いよ」
「嘘じゃない」
「そんなの、嘘に決まってます。嘘は泥棒の始まりよ」
気がつけば、拓人が大泣きしていた。
わたしは必死で抱きしめた。
「ごめんね。拓人が悪いわけじゃないの。ママがいけなかったの。もう二度と拓人に変なことを言ったりしないから、拓人も忘れて。ね、お願い」
 拓人はこっくりうなずいた。
強情で生意気なことを言う時もあるけれど、拓人は素直でまっすぐな子だ。その拓人を、わたしのせいで歪めてしまってはいけない。
 わたしは固く決意した。
 今日から、夜の映像のことは忘れよう。あんなもの、見なくたって生きていける。あんなものに、いつまでもこだわってるから、聡司くんに呆れられるんだ。拓人を泣かせてしまったりする。人に話さないだけじゃなくて、あれが何かと考えることもやめたら、そのうちきっと、自然に見なくなるだろう。
 
子供はどんどん大きくなる。幼稚園三年間も早かったけど、小学校にあがってから高学年になるのはあっという間だった。拓人が一年二年の時は学校行事のたびに緊張していた。それでも三年四年と積み重ねれば慣れてくる。拓人が五年生にあがった時には、小学生の母親として、すっかりベテランの域だった。
夜の映像はまだ見ることがあったけど、昔ほど気にならなくなっていた。夜の映像で見たことを現実と思い込んで、ママ友に「あの先生、ご異動ですってね」とか言っちゃって不審がられるとか、小さなミスは時々あったけど、ちゃんと人づきあいができているんだから問題ないと思えるようになっていた。
 その年に校長先生が変わったせいか、年度初めの共育者会は、オンラインではなく対面でおこなわれた。親ってものは、自分の子供の机に座ったら、まずは机の中をのぞきたくなるものだ。プリントが二三枚、残っていたものの、拓人の机の中はまずまず綺麗で安心した。少し離れたところで、派手な身なりのママさんがけたたましく笑い出した。「これで五年生なんだから、やんなっちゃう」息子がしまい込んでいた、青カビだらけのパンをみつけたらしい。
 担任の先生の話は、進級以来のクラスの様子、家庭での学習の進め方、交通安全と、毎年繰り返されるお決まりのものだった。これで終わりかと思ったタイミングで、先生は「せっかくご来校いただきましたので、共育者どうし、交流を深めるためのディスカッションをおこないましょう」と言った。その指示どおり、わたしたちは大きく円になっていた子供たちの机を二人一組になるように並べ直した。
 わたしとペアになったのは青カビパンのママ、相原さんだった。くっきりした目鼻立ちに、それを強調するような真っ赤な口紅を塗っている。ラベンダー色のワンピースに木彫りのネックレスをつけていた。ちょっと怖いな、と昔のわたしなら思ったはずだ。こういう格好の人は遠慮のない発言をする。そして、わたしはズケズケと物を言われやすいタイプだ。
 だけど、今はもう怖くない。にこやかで丁寧な物腰を崩さずにいて、何か突っ込まれても気にならないふりをすれば、やりすごせる。どうせ、二、三十分のつきあいだ。
 タブレットに学校のアプリを起動くださいと先生から指示された。画面に、担任の先生が書いた文字が映る。「お互いの夢を語り合いましょう」
周りの人たちはペア同士、顔を見合わせて戸惑っていた。突然、夢を語ろうなんて言われたら照れるしかない。だけど、相原さんは遠慮なく、わたしのほうへ体を寄せてきた。
「細川さんは、昨日の夜、どんな夢を見た?」
 え? 夜? 夢?
「ああ、細川さんは夢を見ない人? 今どきは、そういう人が増えてるんだってね」
 相原さんは笑みを浮かべていたけれど、わたしは内心、穏やかではなかった。
「夢を見ないって、あの、夜、寝ている間に頭のなかで見てる映像のこと、夢って言うんですか」
「知らないの? 英語のドリームだって、望ましい未来を空想することと、夜の夢の両方の意味があるじゃない」
「知りませんでした。英語でも習ってないと思います」
「そうだっけ?」
あっさり言って、相原さんは話を続ける先生のほうへ顔を向け直してしまった。
「未来がこうあってほしいという希望は、今をどう生きたらいいかの指針となってくれます。皆さんが共育者として、ご自身の夢を抱いていてこそ、その夢がお子さんたちの夢と共振しあって、お互いの人生を豊かにするのです」
 先生の言葉はうまく耳に入ってこなかった。
 相原さんと、もっと話をしたい。でも、怖い。
 初対面のわたしに、立ち入った話を平気でするなんて、度胸があるというか、大胆と言おうか、まあ、言ってしまえば図々しい人だ。そんな人に秘密を明かすなんてリスクが大きい。でも、今、ここで話さなかったら、もう二度と、夜の映像の話ができる人には会えないかもしれない。わたしはすうっと息を吸い込んだ。
「あの、このミーティングの後、つきあってもらえませんか」

「あんときはびっくりした。ダンナの浮気相手と間違えられてて、場所を変えたら、いきなり怒鳴られるんじゃないかと思った」
「だって、こっちも必死だったから」
 相原さんとは今も、時間をみつけてはお茶をする仲だ。
 あの共育者会の後、学校近くのカフェで、わたしたちは話し込んだ。
 寝ている間に見ているもののことを分かってくれる人は、今の今までいなかったと打ち明けると、相原さんは「嘘でしょ」と声をたてて笑った。
「夜の夢を見ない人が増えてるって話は何かで読んだことがあったけど、本当にそうなんんだね。わたしの家では、朝ごはんを食べながら夢の話をするのは普通だったから、ぴんとこないなあ。うちの両親は職業柄、ちょっと変わった人たちだったけど」
 相原さんの両親は二人とも文化人類学の研究者だったという。
「でも、細川さんはお芝居とか観ないの? 歌舞伎とかオペラとかには、しょっちゅう夢のシーンが出てくるでしょ。テレビやネットドラマだって」と言いかけて、相原さんはコーヒーを飲みかけた手を止めた。「言われてみれば、最近は夢の場面って出てこないかもね」と呟く。「百人一首の解説本で、夢の歌の解釈がめちゃくちゃだったこともあったな、そういえば」
「じゃあ、ほんとに細川さんは、夜に見るほうの夢を夢って言うこと、知らなかったんだ」
 わたしはうなずいた。
「泣いてるの?」
「ゴミが入っちゃったんです」
 わたしは小指で、にじんできた涙を払った。
 今日会ったばかりの人に涙を見られたのに、あまり恥ずかしくなかった。なんというか、お医者さんにようやく正しい診断をつけてもらえたような、学校の先生に自分にふさわしい進路を言い当てられたような、ほっとした気分だった。
 
 遅くまでゲームをしたがる拓人を子供部屋に追い立てた後、わたしはタブレットで「夢」を検索してみた。未来の希望に関する話題ばかりなので「夜」を追加して検索し直すと、今度こそ、わたしの知りたいほうの夢がたくさん出てきた。「ロミオとジュリエット」のシェイクスピアは「真夏の夜の夢」という作品を書いていた。「こころ」を書いた夏目漱石には「夢十夜」という作品があった。今を生きてる普通の人のなかにも自分の見た夢の話をアップしている人はけっこういた。
夜に夢を見てるのは、わたしだけじゃなかった。
わたしが、おかしかったわけじゃない。
 相原さんは言っていた。
「うちの母親がアマゾンへフィールドワークに行った時ね、何日ぶりかで会った親戚同士が昨日の喧嘩を謝り合ってたんだって。この人たちは電話も通じてないところに住んでいるのに、どうして喧嘩ができたのか不思議に思って、よくよく聞いたら、二人は夢の中で喧嘩してたらしいの。うちの母親が『わたしは誰かと同じ夢を見たことなんかない』って言ったら、その二人は、げらげら笑って信じなかったんだって」
 そろそろ寝ようとしたところで、電話が鳴った。
出張先の聡司くんからだった。
「変わったことはないか」
「あったよ」
「何だって」
「心配するようなことじゃないから大丈夫。帰ってきたら話してあげる」
「もったいぶらずに今、話せよ」
「夢だったの。聡司くん、わたしは夢を見てたの」
「今さらかよ。おまえが夢見がちな奴だってことなら、俺は前から知ってたぞ。それで、お土産は何がいい?」
 
 その夜、わたしは夢を見た。
 雲に寝そべって青空を漂う夢だった。
 空には他にも、たくさんの雲が浮かんでいた。その雲の一つ一つには、聡司くんや拓人、顔なじみや見知らぬ人が思い思いの格好で寝転がっていて、わたしが手を振ると、それぞれに手を振り返してくれた。