「散歩」飯野文彦 

  散歩に出なければ、起こらなかったのだろうか。否、私の知らないところで、物事は進んでいただろう。それなら散歩に出て、あの場所で起こった出来事に感謝すべきか。

 飼い犬を探すため、車で市の施設へ向かっている。運転しているのは妻だ。私は免許をもっていない。この頃、近所で空き巣や盗難事件が多発している。二度三度と入られた家もある。私の家にも警官が事情を訊きに来た。話の流れで防犯上の注意を受けた。外灯を点けること、庭の見通しを良くすること、さらに犬を飼うと良いですよと言われた。市の施設を紹介してくれたのも、その警官だった。
 子どもができないこともあり、犬でも飼わないか、と幾度となく妻に言ったことがある。しかし妻は、動物は好きじゃないと首を縦に振らなかった。今回も嫌だと言っていたのだ。彼女の気持ちが変わったのは、警官が来てから一週間あまり経ったある日、居間のガラスにヒビが入っているのを妻が見つけた。分厚いサッシ戸で、かんたんにヒビなど入るはずはない。しかもヒビの位置が内鍵のところだった。近所の人に相談したら、泥棒の仕業にまちがいないというので警察に通報した。先日と同じ警官がやってきて、断言した。
「侵入しようとバールのようなものでやられたに間違いありません。またやって来る可能性もありますので、充分注意してください」
 ガラス屋に電話して、ガラスの交換を頼んだのはもちろん。ホームセンターへ行って、補助キーや防犯ベルを購入した。それらを取りつけているとき、妻が言った。
「犬を飼いましょうよ」
 気持ちが変わらないうちに、と市の施設へ電話し、向かったのである。施設に着き、降りようとしたとき、おやっと思った。ハンドルにつけた白いカバーに赤黒い染みがある。
「どうかした?」
 先に降りた妻が車内を覗いた。染みを指さした。一瞬、顔を強ばらせた妻だったが、すぐに表情を崩す。
「このあいだ公園に行ったら、子どもたちが鉄棒をしていたから。つい昔の癖が出て」
 学生時代、体操部にいたと前に聞いたことがある。過去を話したがらない妻が教えてくれた数少ない思い出話だった。
「ダメね。ちょっとコーチしただけで」
「痛むのか? 見せてみろよ」
「だいじょうぶ。カバーは帰ったら洗うから」
 私は車を降り、妻と並んで施設の建物に向かった。施設内には様々な種類の犬が、百匹ほどもいた。この中から一匹選ぶのは難しい。ところが、犬たちを前にして一分と経たないうちに、妻が言った。
「この子がいい」
 いつしか柵ごしに一匹の子犬がいた。妻を見上げて、盛んに尻尾を振っている。私も一見しただけで、好感を持った。
「この子は良いですよ。躾けもできてますし」
 係員の若い女性がやってきて、笑顔で言った。私に異存もなく、手続きを済ませ、施設を後にした。名前はチビヒコとなった。妻が考えたのだ。小さいからチビだし、私の名前、妖彦のヒコを取ったらしい。
「すぐに大きくなるぞ。昔、近所にチビって名前の馬鹿でかい犬が飼われていた」
「だいじょうぶよ。この子、柴犬だから、そんなに大きくならないもの。ねえ、チビヒコ」
 こうして一人ならぬ一匹家族が増えた。これまで動物嫌いだったとは思えないほど、妻は甲斐甲斐しく世話をした。
「ほんとうは嫌いじゃなかったの。でも先に死なれると、耐えられないから」
「チビヒコだって……」おれたちより先に。
 からかうつもりで切り出したのだが、途中で言葉を止めた。尻尾を振ってじゃれつくチビヒコを見ていると、とても口にできない。わずかな間にチビヒコは、私たちの気持ちをぐいとつかんでいた。
 家にいるとき、食事などの世話は、おおかた妻がやった。散歩は私の担当となった。元来、部屋にこもってばかりで出不精だ。この機会に運動不足解消と気分転換を兼ねて、自ら買って出た。
 最初のうちは気ままに近所を回っていたけれど、二週間もすると散歩コースも決まってきた。家の前の県道を五分ほど西に進み、そこから河原に下りて、サイクリングロードを行き来するのだ。車道とちがって、チビヒコが車にぶつかる心配もないし、自分たちのペースで歩ける。同じように犬を連れて散歩する人も多い。お互い犬連れだと、擦れちがうときに挨拶を交わす。
 私は人見知りする性格だから、知らない人と挨拶するなど考えられないことだった。それなのにごく自然に挨拶を返している。犬同士が仲が良いとじゃれ合うこともあり、その間、相手と話すこともある。とうぜん犬の話で、お宅のワンちゃんかわいいですねえなどと言われると、我が子を誉められたようにうれしい。いつしか、そんな風に挨拶や会話をするのが、楽しくすらなっていた。
 ところが、そのコースをたどるようになって、しばらく経ったとき、チビヒコの様子が変なのに気づいた。それは、いつも河川敷に下りる場所からサイクリングロードを南に進んで、三つ目の橋の下で起こった。そこに行くとサイクリングロードを逸れて、橋桁のほうに向かう。辺りをさまよい、匂いを嗅いだり、おしっこしたりする。最初のうちはさして気にならなかった。けれども一度、その橋の近くまで行ったとき、チビヒコが勢いよく駆けだしたため、ロープを放してしまった。
 チビヒコと呼んでも、どんどん橋桁の裏側に行ってしまう。別に逃げはしないだろうし、気性もいたって大人しい。しょうがないなと苦笑しながら、跡を追った。いざ橋桁を回りこもうとしたとき、チビヒコの声が聞こえてきて、思わず足を止めた。声と言うも変かもしれないが、ワンワンとかクンクンというふだんの鳴き声とは、明らかにちがっていた。それでいて聞き慣れたチビヒコの声にまちがいない。
 おかしいな、野良犬でもいて、じゃれ合っているのか。まだ盛りのつく年頃でもないし。などと思いながら、私は遠慮がちに橋桁を回りこんだ。何をしているのか、子どもの部屋を盗み見をする親の心境になっていた。
 そこに意外な光景があった。チビヒコは剥き出しの地べたに仰向けに近い無防備な姿で横たわっていた。その横に、見なれぬ犬が寝そべっている。種類はわからなかったけれど、チビヒコよりもずっと大柄な牝犬である。なぜ牝とわかったかというと、白い腹に乳首が見える。チビヒコはその犬の腹に顔をうずめて、夢中で乳を吸っている。
 大げさに聞こえるかもしれないが、全身に電気が走った。見てはいけない光景を見てしまったという気持ちか。息子を別のものに取られた嫉妬めいた気持ちもあった。同時に汚らしさも感じた。野良犬の乳など吸って、病気でも移されたらどうするんだ。
 それらが一瞬に駆け抜け、私の思考はショートした。野良犬を追い払おう。シッシッと駆け寄り、チビヒコの首輪のロープを引っぱってこよう。そう思って、足を踏みだした。チビヒコ戻れ、と声を上げようともした。だが一歩足を踏み出しただけで、声を出すこともなく私は動きを止めた。橋桁の下にはチビヒコしかいない。依然として横たわっていたものの、大柄な牝犬の姿は、どこにも見られない。チビヒコと私が呼ぶと、チビヒコは驚いた様子で跳ね起き、辺りをきょろきょろと見廻す。私は近づき、ロープを握った。
「だめじゃないか。野良犬の乳なんか吸って」
 そう言いながら、私も辺りを見廻した。しかし牝犬の姿は見えなかった。そのときは、素速くどこかに逃げたと思ったのだ。
 ところが次の日も、その橋に近づくと、チビヒコが勢いをつけて走りだしたため、ロープを放してしまった。呼び止めても振り向きもせず、前日同様、橋桁の向こうに姿を消した。私は決心を固めて、歩を進めた。途中で河原の石を拾う。ぶつけるつもりはないけれど、威嚇するつもりだった。橋桁に近づくと、またしてもチビヒコの甘える声が聞こえてきた。私にいくら甘えても出さない声である。じりじりと神経を焼かれる気がした。
 石を握り直し、橋桁の向こうに回った。前日と同じ光景が見えた。と思った刹那、牝犬が顔を上げ、私を見た。視線があった。しかし、まばたきしたわずかな間に、牝犬が消えた。逃げるにも時間がない。チビヒコに駆けより、辺りを見廻す。橋桁の反対側にも回ってみたけれど、牝犬の姿はどこにもない。瞬間的に消えてしまったのである。
 妻には話さなかった。人づてに聞いたところで、ぜったい信じない類の話である。立場が逆だったら、私も同じだ。見まちがいか、作り話のどちらかと考えるに決まっている。しかし、はっきり見たのだ。二日つづけて同じ牝犬にまちがいない。
 私だけならまだしも、チビヒコの行動も不可解だ。チビヒコは明らかに、あそこに牝犬がいると知っていた。だから駆けていって甘えた。私が消えた牝犬を探している間、チビヒコも懸命に探していた節がある。けれども見つけられなかった。もし牝犬が逃げたのだったら、犬のチビヒコは匂いで跡を追えたはずだ。それさえできなかったのは、牝犬が消えた証明ではないか。
 どう考えればいいのか。結論が出ないまま、翌日となった。散歩の時間である。私がぐずぐずしていると、妻が急かした。
「チビヒコが早くって、せがんでるわよ」
「今日はやめだ」
「どうして、こんなに良い天気なのに」
「天気のせいじゃない」
「わかった。飽きたんでしょ」
「ちがう」
「そうに決まってるわ。チビヒコ、かわいそう。いいわ、あたしが連れてくから」
「だめだ」
 私は立ち上がり、叫んだ。妻は驚き、すぐに言い返す。
「何よ、結局いやになって、何でもやめちゃうんだから」
 返す言葉は、私にはなかった。仕方なくチビヒコを連れて散歩に出た。コースを変えよう。サイクリングロードには行かないでいよう。そう思って反対側に足を向けようとしたのだが、チビヒコが言うことをきかない。そっちじゃないよ、こっちだろとばかり、サイクリングロードに向かおうとする。よっぽど、だめだと叱りつけようとしたとき、
「あら、あなたがたも、これからお散歩?」
 と声をかけられた。サイクリングロードで何度か会ったことがある初老の女性だった。サイクリングロードに向かう途中らしく、犬連れだ。チビヒコよりもおおきい牝のスピッツで、チビヒコと気が合うらしく、すぐにじゃれ合う。
「ごいっしょしましょう」
 婦人に笑顔で言われると逆らえず、サイクリングロードに向かった。車道脇の歩道は狭いので並んで歩ける場所も少なく、話もありきたり――いつも何を食べさせてるの、予防接種は受けた――という程度のものだった。
 そうしながらも、この婦人に聞いてみようと道々気持ちを固めた。牝犬うんぬんを切り出すのではなく、あの橋の辺りを通ったとき、何か異変はないか、差し障りないように訊ねよう。事実、河川敷に下りたとき、待ってましたとばかり聞きだそうとした。ところがそれより先に、婦人がどちらへと私に訊ねる。つい、いつもの調子で南を指差すと、
「わたしたちは向こうへ行きますから」
 と、北側に向かって歩き出した。
「あ、すみません。ちょっと」
 と呼び止めた。婦人は、笑顔で首を傾ける。
「ここから三つ目の橋なんですけど」
「三つ目というと、H橋かしら?」
「ええ、そうです。あの橋の下を通ったとき、何か……その」
 口ごもってしまった。すると女性が態度をがらりと変えて、緊迫した声で言う。
「ワンちゃんに何かあったのね」
「ええ、まあ」
「それなら、H橋には行かないほうが良いわ」
 婦人は真顔で言った。ついつい引きこまれるように、私は声をひそめて訊ねる。
「何かあるんですか?」
「良くわからないけれど、こんな話すると、おかしいと思われるから……」
「いいえ、思いません。教えてください」
「そうおっしゃるなら」
 婦人はそう前置きして話してくれた。すべての犬というわけではなく、ある種の犬がH橋の下に行くと、異常な行動を取るらしい。辺りに何もいないのに、とつぜん吠え出す。おびえて近づこうとしない。橋桁の裏側に回りこみ、飼い主が探しに行くと、姿が消えていて、数日後げっそりと痩せて帰ってくる。
「犬だけじゃくて、気分が悪くなる人も居るみたい。これも聞きかじりなんだけど、あそこって、他とはちがう空気が流れてるって」
「ちがう空気、ですか?」
「霊気なんて言ってる人も……。ごめんなさいね。なんか気味の悪いことを言って」
「いいえ、そんな」
「実はうちのこの子も、あそこに近づくのを厭がるの。だから、あそこまで行く前に引き返してくるようにしているわ。あなたのワンちゃんも何か感じる様子なら、今後はあそこに近づかないほうが良いわ」
「そうですか」
 わかりました、そうします、と言おうとしたのだ。ところがチビヒコが、私たちの会話を理解したかのように、とつぜんダッシュした。油断していたため、またしてもロープを放してしまった。
「チビヒコ、戻れ、チビヒコ」
 呼んでも振り返りもせず、サイクリングロードを南に向かって走っていく。
「早く、追いかけたほうがいいわ」
 婦人に言われ、私は会釈もそこそこ、チビヒコを追った。子犬とはいえ柴犬と運動不足の中年男では、ウサギとカメだった。いやチビヒコは、ウサギのように途中で昼寝などしない。どんどん小さくなっていく。サイクリングロードを逸れて、あの橋桁の裏側に向かっている。行くなと叫んだが、すぐに見えなくなった。
 両肩でぜえぜえ呼吸し、汗まみれでH橋にたどり着いた。懸命に足を踏ん張って、橋桁に近づく。回りこむ前、私の荒い息づかい以外に、声が聞こえた。チビヒコの声だった。声。そう、喋ったのである。
「母さん、会いたかったんだ。だからぼく、姿を変えて……」
「ああ、ごめんなさい。あんなことして、ほんとうにごめんなさい」
 ショックのあまり橋桁に両手をついて、身体をささえた。チビヒコに応えた女の声は、妻のものである。あり得ないことだ。気持ちの整理どころではない。と、唐突に脳裏によみがえってきたのは、結婚して間もない頃、私に届いた手紙のことだった。差出人の名は書かれおらず、封筒の中にワープロで印字された紙が一枚あるだけだった。
〈あんたの奥さん、AVに出てた〉
 さらにAVのタイトルがいくつか列挙してあり、最後に〈ガキも堕してる〉と締めくくられていた。近所のレンタルビデオ店に行くと、手紙にあったビデオがあったので、借りてきた。まだ若く化粧も濃くて、言われなければ見すごしていたかもしれない。けれども展開の盛り上がりと同時に、はっきりとわかった。妻にまちがいない。ショックでなかったと言ったら嘘になる。だが、すべて過去のことだ。それに……。結婚前、妻が思いつめた表情で、私に言おうとしたことがある。
 ――話しておかなければならないことがある。あたし、前に。
 しかし彼女は、それ以上何も言えず、泣き崩れた。だから私は言った。
 ――良いよ、無理に言わなくても。
 ――でも、言っておかなければ。
 ――わかった。ただ、今はいい。言えるようになってからで。
 そんなやり取りがあった。妻は打ち明けようとしたのだが、心の傷が癒えておらず、言えなかった。良いではないか。言いたくない過去のひとつや二つ、誰にでもある。そう割り切ったつもりである。それがなぜか唐突に脳裏に浮かぶ。チビヒコたちの話す声が聞こえてくる。
「でも、あの人、ぼくが母さんと会うのを厭がってる」
「あの人って、妖彦さんのこと?」
「うん」
「だめよ、あの人だなんて言い方したら。あなたのお父さんだって思わなきゃ」
「でも……」
 会話が途絶えた。限界だった。気持ちを抑えていた留め金が弾け飛んだ。やめろおおおおと叫びながら、私は橋桁を回りこむ。だが、そこには誰もいない。牝犬どころかチビヒコの姿すらない。チビヒコの首輪とロープが落ちているだけだった。
 ケータイが鳴った。妻からだった。
「あなたにどうしても、話さなければならないことがあるの」
「そんな場合じゃ。チビヒコが――」
「聞いて。あたし、結婚前に」
 AVの話ではなかった。子どもを身籠もった話だった。堕胎におもむいた医者がヘボで、子どもを産めない身体になっている。
「ほんとうに無理なのか?」
「ごめんなさい。言えなくて」
 私が黙っていると、妻がつづける。
「でも夢を見たの。この子が、あたしを探してるって」
「この子って」チビヒコが、かつて堕胎した子どもだと言うのか。
「あなたさえよかったら、あたしたちの子どもとして、育てられたら」
 困惑と戸惑いが横殴りとなって、私を襲う。
「そんな馬鹿なことがあってたまるか」
 私はケータイを地面に叩きつけ、狂ったように踏みつけた。
 街の安酒場で飲んだくれ、帰宅したのは深夜近くだった。家内は暗く、静まり返っていた。居間にも風呂場にも、トイレにも人影はない。張り裂けそうな思いで寝室のドアを開けたとき、闇の奥から妻の声がした。
「灯りはつけないで」
 崩れそうになる身体を、ドア枠にもたれかけて、私は言った。
「お前たちのいない生活なんて考えられない」
「それじゃ、居てもいいの。あたしたち?」
「もちろんだ。いや、頼む。居てくれ」
「ありがとう」
 妻のむせび泣く声に、ちゅうちゅうと音が重なる。寝室の入口にある照明のスイッチを押した。敷布団の上に、妻が全裸で横たわっていた。その横にチビヒコが仰向けに寝ころび、一心に妻の乳首を吸っている。

 数日後の昼下がり。
 ぼんやり外をながめていると、チビヒコが庭を掘り返している。だめだめと叱っても止めない。しかたなく庭に出ると、地中になにか埋まっている。バールだった。土がこびりついていてもわかる。握りの部分に赤黒いものが、べっとりと付着していた。(了)