ちょっと、ちょっと待ってちょっと待って。
ホントにここで合ってんの? マジで? どう考えても合ってなさそうなんだけど。
夕暮れ時、刻々と薄暗くなりつつある空の下、俺は何度も何度もスマホの画面を見直した。表示されているのは周辺マップ。中央が俺、すぐ前には目的地を示す、古式ゆかしいピンヘッド。
画面から顔を上げる。
目の前にはビルが建っている。十五メートルほどの幅で八階建て。それはいい。それはいいんだけど、そのビルがどっからどう見てもただの廃墟だ。
ホントに? ホントにここなのか?
俺の心の叫びが聞こえたのか、それともいつまでも動かない俺に腹を立てたのか、スマホ画面のピンヘッドがピコンピコンと点滅を始めた。〈予測の時間まであと一分です。今すぐ[徒歩]で出発すれば間に合います〉。あああもう、そんなことは言われなくてもわかってるんだよお。
だがここまで来ていかないという選択肢はない。そんなことしたら折角の課金が無駄になる。
俺は覚悟を決め、廃墟にしか見えないビルに向かい、震える足を踏み出した。
俺がこのアプリをクレ先輩から教えてもらったのは、三日前、仮想オフィスでのことだ。
〈ミディエイター(仲介者)、ですか?〉
会社から貸与されてるHMD、ヘッドマウントディスプレイは視野角が100度しかなくて、覗き穴の中から会議室を覗いてるみたいな感じがする。しかも視線トラッキングにも6Dofにも対応してないから、ちょっと体を動かした途端に違和感バリバリになる。なにがVR技術でいつでもどこでも自然に会議、だ。
〈違う違う。ミー・ティ・エ・イ・ター〉
俺と対面しているクレ先輩のアバターが、音節で区切って発音した。アバターはぱっと見ではわからないほど細かいレース生地のビジネスワンピースを着ていて、ディティールもやたら細かい。上限データ量は決まってるはずなのに、なんでこんなものが作れるのか。元凄腕開発者だった、って噂は本当かもしれない。
〈そんな言葉、なくないですか?〉
〈言葉っていうのは生き物だよお〉
くすくす笑いながらクレ先輩が言った。
〈技術と一緒でね。必要があれば生まれる。需要があれば作られる〉
〈需要ですか〉
困惑気味に言った俺に鷹揚な微笑みを見せ、そ、とクレ先輩は言った。
〈まさに今、私たちのニーズに応えてできた言葉――そして、サーヴィス〉
サーヴィスねえ。
俺の内心を読んだのか、クレ先輩は胡散臭いって思ってるでしょ、と言うとニヤっと笑った。
〈キミはさ。CFAになって良かったって思ってるクチ?〉
〈まさか〉
0.1秒で即答する。
内心密かに憧れている先輩の前で、率直な感想を口にするのは差し控えた。つまり「こんな施策考えた奴らは今すぐまとめて地獄に落ちろ」とは叫ばなかった、ということだ。
CFA、即ちコンプリートリー・フリー・アドレス。十年ほど前、一部のお偉いさんたちが声高に主張し導入した“新しい働き方”だ。
彼らの主張はこうだ。この国の人口は減る一方なのに、首都圏への人口集中は止まらない。人だけではなく企業の本社も集中に集中を重ね、お陰で新しいオフィスも通勤する人間もガンガン増え、ラッシュや通勤時間そのものが実質労働時間を減らし効率を下げている。加えてこの極端な一極集中は、大規模な自然災害を考えると政治的・産業的空白期間発生の潜在的リスク増大に繋がり、早急かつ抜本的な対策が必要だ。
そこで出てきた解決策がCFAだ。CFAによって通勤などというなんの成果も生み出せない無益な時間は消滅し、ワークスタイルは全く新しいものとなり、誰もがより効率的に、自分たちの時間を過ごせるのです云々。
大層なお題目だが、一言で言えばCFAは、要するにどこでも好きなところで働いていい、というだけの施策だ。だが問題なのは、その適用範囲が首都圏全体かつ強制だ、ということだ。
CFAではオフィス以外で働くことが求められる。オフィス以外ならどこでもいい、自宅だろうがカフェだろうが旅先だろうが河原だろうが。
結果、物理的なオフィスは消滅した。代わりに俺たちに提供されたのは、セキュリティガチガチ仕様の業務用PC、世界のどっかのマシンルームにある会社のサーバに接続するためのVPNサーヴィス、仮想オフィスとそこにアクセスするためのHMD。
高騰し続けるオフィスビルの賃貸料に辟易していた企業の経営者は、大喜びでCFAに移行した。顧客との打ち合わせさえ仮想オフィスで行われるようになり、仕事で電車やバスに乗る人間、ビジネスウェアを着用する人間は激減した。
公共交通機関とオフィスビルを経営している不動産会社とファッション業界の一部からは反対の声が上がったようだが、社会全体の効率化とか働き方改革とか人間性回復とかそういったお題目であっという間に封殺された。少なくとも当初は、大方の人間はCFAを歓迎していた。もちろん俺もだ。今その時の俺が目の前にいたら、全力で殴り倒して正気に戻してやりたい。
CFAが導入された後、なにが起きたか。
少なくとも俺たち下っ端にとっては、とてつもなく業務効率が低下したのだ。
なぜならば、ほとんど全てのコミュニケーションが非リアルタイムになったからだ。やり取りのほとんどはメールかグループウェアかビジネスチャットになった。分からないことがあって問い合わせても、相手がいつ回答するかはわからない。同じオフィス、同じフロアにいれば見つけたときに質問すれば済んだことが、相手がメッセージを読んで回答するまで進まなくなったのだ。
結果、仕事のほとんどは〈不明点についての問い合わせに回答する〉〈不明点について質問して回答を待つ〉という作業になった。自分の仕事が進められるのは、回答と問い合わせの間に時間ができ、かつ気力が残っている場合に限られる。
全体としては生産性は上がっている、というのがお偉い方々の説明だが、少なくとも俺のような下々レベルではまったくそんな実感はない。ただただ回答と問い合わせしかやっていない。控えめに言って頭がおかしくなりそうだ。
そして実際、オーバーヒートする連中も続々と発生していた。問い合わせに対する回答が全くない、あるいは極端に遅い、もしくは回答になってない回答を返す奴らの数は増加の一途だ。
それだって以前なら、燃え尽きる前にそいつの顔や振る舞いから、「あ、こいつちょっとまずい」ってのを読み取って対策が取れたのだ。しかしテキストだけでそんなことがわかるわけはなく、仮想オフィスに出てくるのはアバターだから(使いたければカメラの映像も使えるが、髭も剃らない化粧もしない、室内は到底人に見せられる状態じゃないエトセトラの理由から誰もそんなもの利用しない)顔を見たってわからない。
このようにしてオンラインのコミュニケーションは量及び無意味さにおいて増大の一途を辿り、反面俺の気力と正気の残容量は減少する一方だった。
特に現在、俺の各種ゲージを激しく削っているのは取引先の担当者Xだ。取引先だから配慮して伏せ字にしたわけではなく、奴のオンライン上の名前がこれなのだ。発注元だからって聞いても本名すら名乗らない。会ったこともないので顔はもちろん年齢も性別もわからない。俺にわかるのは、奴が返事を寄越さないせいで俺のタスクが七つ、既に二週間も止まり、俺の気力と正気がみるみる減少を続けている、ってことだけだった。
〈で、一気に話を詰めようと仮想会議アレンジしたのにバックレられた、と〉
クレ先輩が実に楽しそうに言う。
俺が設定した仮想会議に、Xは参加の回答を寄越した。俺は万が一にも奴に言い逃れをさせないよう、クレ先輩にも助太刀を頼んで待ち構えていたのだ。その結果がこれだ。
HMD上に、新着メールのサインが点滅した。
〈……今になって欠席通知が来ましたよ。社内で緊急会議が入ったそうです〉
嘘つけてめえ、と罵りたいところだが相手はいない。緊急会議なんてものがないのはほぼ間違いないが、俺には証明のしようがない。
〈首絞めてやりたいですよ、あの野郎〉
思わず吐いた俺の言葉に、クレ先輩はやればいいじゃん? と軽く言った。
〈無理に決まってるじゃないですか、会ったこともない、どこにいるかもわからない相手に――〉
そう言った俺にクレ先輩が紹介してくれたのが、〈ミーティエイター〉なるアプリだったのだ。
CFAの問題は(と〈ミーティエイター〉の開発者は謳っている)、対面コミュニケーションを消滅させたことである。ノン・バーバル・コミュニケーションは、正確性に問題はあるにせよ、言語よりも遙かに効率がいい。それを禁止したら全体の効率が悪化するのは当然だ。
しかしCFA下では、実際に誰かと会おうとしても、そもそも相手がどこにいるのかがわからない。位置情報がプライバシーの名の下に隠蔽されているからだ。だから対面コミュニケーションが成立しない。
それを解決するのがこの、〈ミーティエイター〉、ミーティング・ミディエイターだ。
たとえテキストだけであっても、人間はコミュニケーションの際に膨大な情報を意図せず漏洩している。また、多くの人間は生活パターンを固定化する。曜日毎の起床時間に就寝時間、なにをしてどこに行くか。たとえ本人は毎日違うことをやっているつもりでも、一段レベルを上げて観察するとそれはパターンになる。毎日違う店でランチを食べているのなら店はランダムかもしれないが、「昼は外食する」のはパターンだ。加えて訪れる店についても、過去の行動履歴と行動範囲の情報を元に推測すれば絞り込みは難しくない。人間は、自分が思っているよりもずっと単純なことしかしていない。
〈ミーティエイター〉は、指定した相手のメール、チャット、SNSでの発言の内容に発信及び受信タイミング、仮想会議の参加実績と発言内容、その他諸々のとにかく入手可能なアクティビティデータを分析し、行動パターンを予測して次の物理的な出現ポイントを特定する。俺のようにほとんど自宅に籠もっているような人間なら、自宅の場所と応答する――要するに起きている時間帯の情報が提供される。
ソースになるアクティビティデータは、なんせほとんどのコミュニケーションがオンライン上で行われているんだからいくらでも入手可能だ。ターゲットの行動解析は育てに育てたAIが行ってるってことだが、詳細は秘匿されている。
しかしそれはどうでもいい。本当に〈ミーティエイター〉の予想が的中するのなら。Xの首根っこを押さえることができるのなら。
ということで俺は決して安くはない〈ミーティエイター〉の月額課金に申し込み、俺がアクセスしうるXのコミュニケーションデータへの全アクセス権を許可したのだ。
――その結果、俺が導かれたのがこの廃墟だ。
ホントにあってるのかここで。給料の十パーセントくらい課金したんだぞ。これで会えなかったら訴えてやる。
久しく長時間の外出というものをしてなかった俺は、既にこの小一時間の(ガラガラの)電車への乗車を含む移動で疲労困憊していたが、だからといってここで諦めて帰るわけにはいかない。なんとしてもXの首根っこを捕まえて、課金の元を取らねばならない。
〈ミーティエイター〉のマップが建物内案内モードに切り替わった。赤い矢印が俺の進行方向を示している。ビルの一階はコンビニ、いや元コンビニ。陽が落ちきっていないので室内でも視界は保たれているが、中は廃棄されたと思しき埃まみれの什器が並んでいるだけだ。案内矢印はレジ跡を抜け、バックヤードに進めと指示している。
スマホのライトをオンにしようとしたとき、俺はバックヤードから微かに光が漏れているのに気づいた。
いる。
間取り図上で見る限りでは、バックヤードからの出口はひとつだけだ。俺は自分に躊躇う隙を与えず一気に歩を進め、バックヤードに突入し――そして、フリーズした。
なにも置かれていないせいか、バックヤードは思ったより広かった。薄暗いその部屋の真ん中には、なぜか一枚だけ畳が敷かれている。その上に男がひとり、横になっていた。
痩せた、白髪頭の老人だ。
その他室内にあるのは、床に置かれたノートPC一台だけ。その画面が発する光のお陰で、なんとか室内の様子は把握できる。他にはなにもない。
この老人がXなのか? いやまさか。現役を引退してから少なくとも二十年は経っていそうだ。なぜだ。〈ミーティエイター〉が間違えたのか? 俺の、俺の課金が。
「――あ?」
寝ていたらしい老人が体を起こし、闇をすかして俺を見た。なにか言うべきなのだろうが、なにを言ったらいいのか全く分からない。
だが老人のほうはそうではないらしい。あーあーあー、となぜか納得したように声を上げると、ごそごそと懐から手帳を取り出し、ページを開いた。
「あんたはアレかね、近藤さんかね」
「え?」
「違うのかね。じゃああれかな、佐藤さん? 佐藤、えー、ユキヒトさん」
訳が分からなかったが、とにかく俺は近藤でも佐藤でもない。
「違う。ほう。山中さん? 田中カナコ――じゃないね、ええと、松本さんかな」
爺さんはその後も延々と名前を読み上げ続け、ようやく俺の名前が出たのは三十二番目になってからだった。ガクガク頷いた俺に、ほーほーほー、と爺さんは土鳩みたいな声を上げる。どうやら感心しているらしい。
「すごいねえ。三十番台が来たのは初めてだよ。――どれ」
爺さんは眼鏡をかけるとPCを手元に寄せ、両手の人差し指で何やらキーボードをタイプした。
「――送信、っと。これであんたが待ってた返事もそのうち来るよ。おめでと」
そのうち、って――俺はようやく頭が回り出した。
「あんた、Xじゃないのか」
違う違う、と爺さんは歯の抜けた口を大きく開けて笑った。
「あたしゃ巡回屋だよ」
「巡回屋?」
「最近アンタみたいに寝込み襲うのがいるからってさ、依頼主からPC預かって都内ぐるぐる回ってんだよ。そんで時々『了解』とか『検討します』とか適当に書き込んでお金もらうのさ。年金だけじゃ足りないからねえ、いい小遣い稼ぎだよ。見つかっちゃったら連絡しろって言われてんだ。見つけた奴くらいは対応してやる、ってことらしいよ」
ぱたん、と爺さんがPCの画面を閉じた。
「ご苦労さん。んじゃ見つかっちゃったしね、あたしゃ次の場所に移動するわ」
〈なるほどなー〉
事の次第を報告すると、クレ先輩は感心したように言った。
爺さんが言ったとおりXからの返信は、四日経ってからだがとにかく届いた。課金分の元は取った、のだろうか。全くそう思えないが。
〈《ミーティエイター》の課金者が減ってきてるのはそのせいか。次の手考えないとな〉
えっ。
〈あれ――あれって、クレ先輩が作ってたんですか〉
〈そうだよ。言ってなかったっけ〉
聞いてない。全く全然聞いてない。
〈CFAのお陰でだいぶ儲けさせてもらってたんだけど、最近実入りが減ってておかしいなって思ってたんだよね。なるほどそういう商売か。いいとこに目をつけたな〉
〈いいとこ、って……〉
俺はなんだかがっくり力が抜けてしまった。CFAのお陰で“痛勤”が消滅したのはいいけれど、入れ替わりに全く新しい不便さと妙な商売が発生して。こんな苦労なんて想像もしないどっかの誰かの思いつきのせいで、俺らはこれからもずっとこんな苦労をしなきゃいけないんだろうか。
そんな俺の愚痴を、なに言ってんの、とクレ先輩は高らかに笑い飛ばした。
〈どんな技術だって制度だって完璧なのなんてないんだからさ。使われるんじゃなくて、うまいこと使わなくっちゃ〉
〈使える気、しないです……〉
大丈夫大丈夫、とクレ先輩のアバターは満面の笑みで親指を立ててみせた。
〈我々庶民はお偉方が思ってるよりずっとしたたかなんだからさ。取り敢えず――〉
俺のHMD上に、新着メールの通知が表示された。
〈《ミーティエイター2》開発してみたからさ、インストールしてみよっか!〉