「雪撃(ゆきうち)」吉澤亮馬

 旅の終わり際に、息を飲む景色を見た。
 白銀の雪原に袴姿の少女が立っていた。雪が舞う中、傘もささず弓に矢をつがえている。私から見える横顔は幼いが凛として、集中している様子がこちらにまで伝わってきた。彼女の狙う先を見たものの、北国の広大な雪原と山々が聳え立っている。分厚い雲の隙間から夕焼けがちらちらと茜色の光を落とす。
 次の瞬間、少女は矢を放った。鋭い音が響いた後、矢はすぐに失速して雪原に突き刺さる。少女は構えを解くと、自らの頭に積もった雪を払い落とした。
 これを描きたい――私は身震いをしてから雪原に踏み入って少女に近づいた。
「すみませーん」
 少女に声をかけると驚いたようにこちらを振り返った。
「え、あ、あの、どちらさまですか?」
「えっと、私は旅をしていて。こんなところで何をしているのかなって思って」
「すみません、このままだと風邪をひくので、場所を変えてもいいですか」
 よく見れば少女は小さく身を震わせている。私がうなずくと、彼女は雪原に落ちた矢を回収してから道案内をしてくれた。
 近くにある山小屋へ入る。昔ながらの囲炉裏には薪がくべてあり温かい。少女は荷物を置き、小屋の片隅にあった上着を羽織ると暖を取り始めた。
「お姉さんもどうぞ。今日は特に冷えますから」
「ありがとう。ここはあなたのお家……じゃないよね」
「はい。地元の人が皆で使っている小屋ですよ」
 私も囲炉裏に近寄る。冷えた肌に熱が染みこんでいく感覚は気持ちよかった。
「どうしてあんなところで弓道の練習をしていたの?」
「いえ、雪撃をしていました」
「雪撃って?」
「これを射抜くことをそう言うんです」
 彼女は立ちあがり一本の矢を手にした。先端に小さい透明な球のようなものが刺さっている。
「雪の種って言います。豪雪地帯では雪に混じって降るんですけれど、これは放っておくと雪を呼んでしまって。この辺は若い人が少ないから取り除かないと」
「そんなものがあるんだね。でも弓を使わなくても、後で拾えばいいんじゃない?」
「雪の種はすぐに周りの雪に溶けて見分けがつかなくなるんです。地面に落ちる前に射貫くのが一番手間にならないんですよ」
 少女は雪の種を指でつついた。
「お姉さんはどうしてこんなところに来たんですか?」
「私は絵を描いていてね。素敵な題材がないかなあ、と思って旅をしていたの」
「画家さんですか! すごいなあ」
「まあ、大げさに言うとそんなところかな」
 完全に無名だけど、とは付け加えなかった。
「それでね、私、あなたを描いてみたいなと思って声をかけたんだ」
「私ですか?」
「うん。あなたが雪撃をしているところ、絶対に描きたいの」
「別にいいですけど……ずっと止まっているとかできないですよ?」
「ぜひそれでも。今日はもう雪撃はしないの?」
「日も落ちてきたしあと何回かですね。とりあえず今は待ちの時間です」
 私たちは暖をとりながら話をした。少女は高校生であること、また雪撃を祖父母から教わったことを教えてくれた。私も普段は水彩画を描いていること、けれどこの旅で画材が底をついたのでスケッチを描きたいということを話した。
 薪の爆ぜる音を聞きながら話していると、突然少女がはっと息を飲んだ。すぐさま上着を脱いで弓矢を手にした。
「来ます。今から射ます」
 籠手を着けながら彼女は言った。再び外へ出ると北国の風が肌に刺さった。雪は脛ほどまで積もり足を取られるのだが、彼女はそれを感じさせないほど早く移動する。かろうじて追いついた時には既に雪原に向けて弓を構えていた。
 矢が放たれる。まだ私は画材を一つも取り出せていなかった。彼女は雪の種が刺さった矢を拾い戻ってくる。
「ねえ、雪の種が降ってくる場所をどうやって見分けているの?」
「感覚ですかね。そうやって教えられたので」
 凄いなと思った反面、まずいとも思った。一緒のタイミングで小屋から出ると、私が遅れるから彼女の構える瞬間を見られないのだ。
「私、外であなたが来るのを待つね」
「それはやめた方が。凍えてしまいますよ」
「心配してくれてありがとう。でも、そうじゃないとあなたを描けないから」
 彼女の忠告を断って私は雪原で待つことにした。太陽が傾くにつれて気温はぐっと下がり、風も雪も勢いを増していく。体の熱は奪われていったものの、胸の内に秘めた熱は変わらなかった。素晴らしい題材なのだ。これを描かずに帰るなど考えられない。
 それから少女は何度か雪の種を射った。彼女が出てくるたびにできるだけ同じ構図になる場所に先回りし、目にした風景を記憶に焼きつける。彼女が外に出てくるまで記憶を頼りに、ひたすら手を動かし続けた。
 体温と体力を奪われながらも絵はある程度の形になってきた。あと少し、と思ったところで少女に言われた。
「暗くなってきたので今日は撃ち止めにしようと思います」
「あー……そうなんだね」
「どうしたんですか?」
「明日も描けるなら描きたいんだけど、そろそろ私も戻らないといけないんだ」
 どうして旅の始まりに出会えなかったのだろう。金銭的にも今日が限界だった。すると少女が矢から雪の種を抜いて、私に差し出した。
「もしよかった、どうぞ」
「え。でも大丈夫なの? 雪を呼ぶんでしょう」
「降った場所の雪に溶けさせなければ大丈夫なんです。このままなら何をしても溶けない冷たいボールと同じですよ」
「ありがとう。戻ってからはこれを見ながら絵を描きあげるから」
「完成したら私にも見せてくださいね」
 私たちは連絡先を交換してから別れた。帰りの電車の中、もらった雪の種を取り出してみると全く溶けていない。矢によって開いたはずの穴も消えており、持つとひんやりした水晶玉としか思えなかった。
 帰宅後、私はスケッチと記憶を頼りに雪撃の絵を描いた。筆はとても滑らかに動き、その出来は私としても納得ができる絵になった。
 後日、あの旅で描いた何枚かの水彩画を絵画コンクールに提出した。
 これは私にとって最後のチャンスだった。何年も描いてきたが何も結果を出せていない。今までは貧しい生活の中でも反骨心や熱意を糧に描き続けられた。だが最近ではそんな糧も失われつつあり、絵を描いて生きることに諦めを感じる日々が続いていた。最後になけなしのお金を貯めて旅をしたのは、見たことのない何かと出会いたかったからだ。
 けれどいくら待っても連絡はなかった。私の持てる技術やセンスを全て注いでも掴めなかった――会心の出来があったからこそ、涙が出ないほどに落胆した。
 絵描きとして生きていけない、と悟り、ようやく心が折れてくれた。
 数年後、私は普通に働いて生きていた。すると安定した収入を得られるようになり、生活も比べ物にならないほど楽になった。今では恋人もできて一緒に暮らしている。
 ある冬の日、押入れの整理をしていた彼が話しかけてきた。
「ねえ、この水晶玉はどうしたの?」
 彼が雪の種を持っているのを見て驚いた。私の家で同棲を始めるタイミングで、描いた絵や画材の大半は処分しており、その時に捨てたとばかり思いこんでいたのだ。
「懐かしいなあ。それは雪の種だよ」
 私はあの旅や雪撃のことを話した。まだ数年しか経っていないのに懐かしい気分になったのは、それだけ今の環境と差があるからだろう。
「不思議な話だね。雪と触れさせると雪が降るなんて」
「なら今日の夜、天気が崩れるみたいだから試してみようよ」
「使っていいの?」
「いずれ捨てるものだから、最後に使ってあげないと」
 天気予報通り、夕方になると気温は下がり雪が舞い始めた。といっても雪の勢いは弱く、この街ではまとまった積雪は数年に一度あるかないかである。彼がバケツを用意してくれたのでそこに雪の種を置いた。
「これでしっかり雪が降ったら笑うね」
「明日の通勤、面倒くさいことになりそうだもんね」
 数分後、雪の種がじわじわと形を変えていった。雪が触れる度に氷が解けていくように水になる。雪の種がバケツの中で完全に溶けきった途端、一気に雪の勢いが増した。
「うわ、凄いな。本当に強くなってきたよ」
 隣で彼が子供のようにはしゃいでいる。強く降り始めた雪を眺めていると、あの日に引き戻された気がした。
 広大な雪原、雄大な山々、そして雪撃をする少女。脳裏に焼き付いた光景が、遠く離れたこの場所で鮮明に思い浮かんだ。
 けれどまだ足りない。何が――自分が手にしていたバケツへ視線を落とす。溶けた雪の種に触れると、鋭い刺激の直後に感覚は失われた。肌をすり抜けて骨さえも凍てつかせんとする、慈悲のない冷気。
 私はバケツを抱えて部屋に戻り、押入れから画材を取り出した。
「ちょ、ちょっとどうしたの」
「私、描かないと」
「絵を? でももう辞めたって」
「辞めたとかそういう問題じゃないの」
 私は独りにさせてほしいと伝えてから部屋にこもった。
 今なら描ける気がした。あの日の光景をありのまま――私は雪の種が溶けた水を使い、水彩画を描き始めた。頭に浮かんだ景色をそのまま筆に乗せていく。久しぶりに筆をとったブランクはなく、するすると色が重ねられていった。
 気がつけば、描き終わっていた。以前描いたものと比べ物にならないクオリティである。完成した絵を見て、彼が呟いた。
「これからも、描き続けるべきだよ」
「褒めるのが上手だよね」
「僕は美術に関しては素人だけどさ、でもこの絵は君が描いていようがなかろうが、とても素敵な絵だと思う」
 完成した雪撃の絵に触れてみる。まるで氷に触れているかのような、本物の冷気が指先に伝わってきた。
 結局、私は絵を描くことから離れられなかったようだ。その瞬間は何より楽しくて没頭できる。でも昔に持っていた熱意や気迫はないので、これからは自分の気が向いた時にしか筆は取らないだろうけれど。
 それからしばらくして、雪撃の絵は私の手を離れることになった。
 彼が絵の写真をネットにアップしたところ、買い取りたいと申し出る人が現れたのである。金額を提示すると即決で、他の作品はないのかとまでたずねられた。必死さを失ってから自分の絵が評価されたのはもどかしかったが、もちろん喜びもあった。
 雪撃の絵を手放した翌日、ふと北国の少女を――彼女との約束が脳裏をよぎった。
 押入れの奥から最初に描いた雪撃の絵を取り出した。改めて見たが二枚目に比べれば劣るものの決して悪くはない。遠い日に教えてもらった住所に、絵と便箋を添えて送った。彼女がまだ覚えていてくれたらいいな、と思いながら。
 後日、荷物が届いた。正確には戻ってきたというべきだろう。存在しない住所である、という判には冷たさがあった。
 教えてもらった住所を調べると、この数年で降雪量が異常に増えていると知った。降り積もる雪の多さに耐えられず、その近辺ではもう人が暮らしてはいなかった。