「時間跳躍者の檻」八杉将司


 朝、起きたら俺は手錠をかけられていた。
 体が妙に痛かったので目を覚ましたのだが、両腕が背中に回されて動かず、慌てて首をひねって確かめたら冷たくて硬い手錠が両手首にはまっていた。
「おはよう、常盤秀介くん」
 知らない女の声が俺の名前を告げた
 顔を上げると、薄暗いベッドの枕元に俺を見下ろす長い髪の女がいた。丸い瞳は少女を思わせたが、しっかりした顔立ちと落ち着き払った態度からして年齢は二十代後半かそれ以上だろう。仕事中だと言わんばかりに紺色のパンツスーツを着ていた。
「誰だ」
「寝ている間に押し入って悪かったわね。こういうものよ」
 黒い手帳を出して上下に開いた。くすんだ金色のバッジがあり、彼女の顔写真と名前が記されていた。
 名前は塩瀬春海。
 警察かと思ったら、名前の上のやたら長い肩書に警察の文字がなかった。
 厚生労働省・社会援護局・特殊高次障害福祉課・監察官。
「厚労省の役人? ふざけるなよ、何なんだ!」
「西郷くん、令状を見せてあげて」
 塩瀬の後ろから、部下と思われる若いスーツの男が顔を見せた。軽蔑した目つきで俺を睨みながら懐から一枚の白い紙を出した。それを俺に突きつけた。
 紙には逮捕状(通常逮捕)とあり、被疑者に常盤秀介と俺の名前があった。
 男が言う。
「厚労省の役人だが、我々は警官と同じ司法警察員だ」
「麻薬取締官みたいなものよ」
 塩瀬が付け足して説明した。
「わたしたちの部署は特殊高次障害で苦しんでいるひとを支援し、助けることを目的にしている。でも、一部で悪用してしまうひともいる。わたしたちはそれを取り締まる監察官よ」
「特殊高次障害って何だよ。聞いたことないぞ」
「とぼけてる? お役所の用語だからわからないのかな。いわゆる超能力のことだけど」
「は? 超能力だ?」
「他人の思念がいつも流れ込んできて苦しんだり、体が勝手に瞬間移動して危険な目にあったり、そんな障害で困っている人は案外多いのよ。あなたは過去にさかのぼれる時間跳躍の力を持っていることがわかっている。ただ、それを利用して賭け事や株でさんざん儲けたでしょ。それは社会が壊れかねない不正行為よ」
 西郷が逮捕状の紙を折りたたみながら嘲笑した。
「おまえは不自然に稼ぎすぎたんだよ。それで内偵を入れられた」
「余計な話をしない」
 塩瀬は顔をしかめて叱責した。西郷は苦笑いして「すみません」と謝った。
「馬鹿げてる。超能力なんてあるわけないだろ。そうか、わかったぞ。おまえらどこかのカルト教団の信者だな。その肩書もでっち上げだろう。いい加減にしやがれ」
 俺はわめきながら必死に逃げる手段を考えた。
 西郷という男の言うことが本当なら、収入をすべて律儀に税務申告していたのが悪かったらしい。税務署に目をつけられるのが面倒だったからだが、仕方ない。今度はその前に「跳躍」して儲けはなるべく隠しておこう。
 そう、俺には時間跳躍の超能力がある。精神を過去の自分にさかのぼらせるだけの能力だが、おかげでいくらでも人生をやり直すことができた。簡単に金持ちになれたし、いくら女遊びなどで失敗をやらかしても怖くなかった。今回も過去に戻って仕切り直せばいいだけだ。それにしても厚労省にそんな部署があったとは国もあなどれない。今回はいい勉強になった。
 とりあえず一年前に跳ぶ。
 俺は一年前の自分を思い出し、その自分に俺を重ね合わせ……。
 あれ。
 一年前の自分がうまく思い出せない。
 これでは跳べない。
「急に黙ったけど、時間跳躍して逃げようと思った? できないわよ」
 塩瀬は俺の頭を軽く叩いた。それで気づいた。頭にヘッドギアみたいなものがかぶせられていたのだ。寝起きだったり、手錠をかけられたりと混乱していて気がついてなかった。
「これには強力な磁石がいくつもついていて、その磁場が脳の神経活動に作用する仕組みになっている。これで時間知覚を狂わせているので、自意識を過去に跳ばすあなたのような能力は使えない。諦めなさい。心配しなくても懲役といった刑罰が科せられたりはしない。たぶん不起訴処分になる。とはいってもこの危険な能力は使えないように治療するけどね」
 時間跳躍の力が消される? 血の気が引いた。冗談ではなかった。幼いときにこの能力に気づいてからずっと利用してきたのだ。やり直せない人生なんて地獄でしかない。
 携帯電話の着信音が鳴った。俺のではない。塩瀬がジャケットに手を入れて携帯電話を出した。
「はい、何……え?」
 塩瀬は眉をひそめて「すぐ行く」と通話を切った。
 西郷が訊く。
「どうしたんですか」
「下でバイクの転倒事故があったんだけど、待たせている護送用の車に衝突したそうよ。様子を見てくる。彼を見張ってて」
「了解しました」
 塩瀬が出ていくと、西郷は寝室のカーテンを開けた。
 朝日が差し込んでくる。窓からは広いバルコニーが見えた。朝はいつもそのバルコニーで気持ちよく朝食をこなすのが日課だった。
 無理やり窓を突き破って外に逃げることもできなくもない。しかし、ここはマンションの十階だった。バルコニーから飛び降りたら間違いなく死んでしまう。
 西郷が俺を見た。
「どうした。さっきまでの威勢のよさがなくなってるな。磁場刺激デバイスの副作用が出たか」
「……副作用だと。何があるんだ」
「なんだ、まだ出てないのか。いいだろう、説明してやる。おまえは磁場刺激デバイスで何が狂わされていると思っている?」
「時間知覚と言っていたじゃないか」
「その時間知覚を、たとえば一分はどれぐらいの長さだとかいう、時計で測れる物理的な経過の流れを感じる知覚と思ってないか」
「違うのか」
「もっと重要なものだ。現在という感覚だよ」
「現在? 今を感じるということか?」
「現在がなければ、過去と未来なんて概念もない。おまえはその磁場刺激デバイスによって現在をうまく認識することができなくなっている。今、何月か言ってみろ」
 俺は答えようとして口ごもった。
 今日が何月かわからない。
「答えられないか。六月だ」
「え、嘘だろ」
「そこの時計を見ればいい」
 俺は慌てて枕元の目覚まし時計を見た。日付もデジタル表示されていた。六月二十一日となっていた。信じられなかった。今が六月とはどうしても思えなかった。忘れていても教えられたら思い出すものだが、それもない。
「磁場刺激デバイスによって脳の前頭前野と大脳基底核の時間知覚にあたる神経ネットワークをかき乱したことで、正確な現在を感じ取ることが難しくなっている。だからおまえは過去を正しく捉えられずに時間跳躍を失敗したんだ。だが、日付や時間がわからなくなるのはまだ序の口だ」
「何があるんだ」
「じ・か・ん」
「何?」
「俺が今、言った言葉の意味はわかるな」
「馬鹿にするな。『時間』だろ」
「時間知覚がさらに狂うと、そんな簡単な言葉を聞き取ることもできなくなる」
 俺は意味をつかめず首を傾げた。
「口で説明するのは難しいな……」
 西郷はジャケットからボールペンを抜くと、目覚まし時計の横に置いていたメモ帳を取り上げた。それに何か書き込むと俺に見せた。
 じ→か→ん
「だいたいこんな連なり方で言葉を理解していると思うだろう。だが、正しくない。これでは『じ』のあとに『か』があって、そのあとに『ん』という発声が届いただけになってしまう。ところが、人の意識はこういった連なりを一まとめにする習性がある」
 じ→じか→じかん
「『じ』のあとの『か』に、その前の過去の発声である『じ』とつながりを持たせるのが意識特有の習性だ。そして、『ん』という言葉が届いたと同時に過去に聞いた『じ』と『か』も接続させて『じかん』という単語を聞き取り、意味を与えて理解する。俺の話はわかるか」
「ふざけているのかよ。当たり前のことをややこしく説明しているだけじゃないか」
「現在を認識できているから過去を連ねて意味のある言葉にできているということだ。現在が認識できなくなったらこうなる」
 じ
 か
 ん
「こう書いたが、この並びですらなくなる。『じ』の次に『か』がきても、その『か』という言葉を現在と認識できないなら、その過去に『じ』があったことがわからなくなる。『ん』にしても同様だ。『じかん』という連なりを持った言葉に成立させることができなくなるんだ。これは言語だけの問題ではない。おまえが周囲の環境から得る知覚刺激すべてにかかわる。自分が見ているものの意味や、自分がどこにいて、何をしているのか、すべてが現在という認識がなければ理解できない。その構造をバラバラに崩してしまうのが磁場刺激デバイスの副作用だ」
「……そんなことになったら俺はどうなる」
「まだわからないか。脳が現在を認識することで作り出したのが『私』という自我だ。現在とは自我と同じ意味といっていい。つまりそれが崩壊する」
「俺を廃人にするつもりか! すぐこいつを外せ!」
「そんな危険があるので磁場刺激の強度には調整が入っている。この副作用は数日かぶりっぱなしでもしなければ起きない」
「何だよ、おどろか、せ、」
 常盤秀介の目が焦点を失い、呂律が回らなくなった。
 西郷は冷たい目で淡々と告げた。
「本当ならな。俺が細工して数十分で副作用が出るように強度を上げてある」
 常盤秀介は何かしゃべろうとしたのか、口をぱくぱくさせているだけで言葉は出てこなかった。
「塩瀬主任は治療で能力を取り除くと言っていたが、俺はそんなことができるとは思わない。これ以上、延々と悪行を重ねるぐらいだったら廃人になればいい」
 かつて高次障害を悪用した無差別な放火で家族を失った西郷にとって、常盤秀介のような男はどうしても許せなかった。
 話し終えると、西郷は無性に暑さを感じた。初夏の陽射しが窓から直接は入ってきていたので、部屋の気温が上昇したらしい。
 ベランダに出られる窓を開けた。朝の涼けさを含んだ風が入ってくる。
 背後で大きな物音が聞こえた。西郷が驚いて振り向くと、突き飛ばされた。
 ベッドから常盤秀介が跳ね起きたのだ。手錠で両手を背中に固定されていたが、構わず窓にいる西郷に突進したのである。
 倒れた西郷を飛び越えてベランダに出た。塀の上に体を投げ出し、足だけでよじ登った。
「おい、十階だぞ!」
 常盤秀介は何の躊躇もなくベランダから飛び降りた。
 頭から真っ逆さまに落下していく。
 これでようやく常盤秀介は、俺は、現在という感覚を得た。
 俺は自我を失う直前、正確な時間感覚を取り戻す方法を思いついていた。
 現在が過去と未来を作るのなら、その逆もできるのではないか。
 つまり未来を作れば、現在を特定できる。
 未来を作るとは、確実に到来する将来の出来事を発生させることだ。
 それも俺に今を強烈に感じさせる出来事でなければならない。そうでなければ自我が目を覚ましてくれないだろう。
 そんな作れる未来が一つだけあった。
 死だ。
 このアイデアを思いついたあとに俺の自我は曖昧になったが、無意識に体が動いてくれたようだ。死すら認識できないほど自我が失われていたら危なかった。
 俺はマンションの十階から飛び降りたことで確実な未来の死を作った。
 その未来が現在を認識させ、俺という自我が蘇った。
 アスファルトの黒い路地が猛烈な勢いで近づいてくる。
 急いで過去の俺を捉えた。
 跳べ!
 *
 塩瀬は、ひとしきり西郷に厳しい説教をしたあと、ベランダから下をのぞき見た。
 警察官が道路に残った血だまりの周りで現場検証をしていた。常盤秀介の遺体はすでに運ばれていた。即死だったそうだ。
 飛び降りた常盤の意図は理解できた。
 では、死んでしまった事実は、時間跳躍に失敗して過去を改変できなかったことを意味するのかというと、そうとは限らない。
 一説によれば時間跳躍で過去を改変したとしても、その改変したところから新しい時間軸の宇宙が生まれて枝分かれするので、塩瀬がこうやって存在する時空には影響がないそうだ。とはいえ確かめようがないので証明はされていない。単純に常盤は跳躍に失敗して死んだのかもしれなかった。
 もし時間跳躍に成功していたら、今後彼はどうするのだろうと塩瀬は思った。
 人はいずれ必ず死ぬ。だが、常盤は時間跳躍によってそれを回避できる。過去に戻って何度でも人生を繰り返せる。不慮の事故など対応する暇もない死はともかくとしても、彼は実質、不死を手に入れているのだ。
 彼は人類がうらやむ幸せを得たのか。
 塩瀬にはそうは思えなかった。
 時間跳躍できる期間は、彼の肉体が生存している間に限られる。生まれる前や未来に跳躍することはできない。
 いくら彼が過去を改変しても、一人の人間ができることはしれている。人類社会の劇的な変化を望んでも数十年では思うようにいかないだろう。
 同じ世界を何百回も繰り返せば、きっと飽きがくる。
 だが、それを脱するには死ぬしかない。自然の死ではなく、自らの意思で死を選ばなければならなかった。
 常盤秀介は、いわば自殺するまで抜け出せない檻に閉じ込められているのだ。
 その事実にいずれ気づくだろう。
                               (了)