「結婚記念日の幽霊」江坂 遊


 思いがけない電報が彼女の許に届いた。
 雨が激しく打つ小さな窓ガラスに柔和な顔でほっそりした夫の姿を描いては消してひとり楽しんでいた。その時、突如、かわいたブザー音が鳴り響いた。
 彼女ははっと我に返り、化粧っ気のない顔を気にしながら玄関まで歩み寄り、すぐさまドアを押し開けた。
 配達人の雨合羽の中の赤く光る目に少し驚いたが、それでもたじろぐことなく手渡されたものを素直に受け取った。
 けれどそこで、心臓が一瞬にして凍り付いた。
 それは届く筈もない亡き夫からの電報だったからだ。
 気が動転し、玄関先でへなへなとくずれたのは当然のなりゆきだ。郵便配達人に、「大丈夫ですから」と言い、ドアを閉めたところで、彼女の記憶はプツンと切れた。
 ブランデー入りの紅茶を気付け薬にし回復するまでには、それから数時間が必要だった。
 彼女は今ようやく、ふらつく頭を抱えながら台所の椅子に深く腰掛け、その電報の一字一句を指と目で追えるまでになった。
 ――結婚記念日おめでとう。今日は僕たちの幸せな結婚の記念すべき日だ。きみに感謝し、あるものを手渡したいと思う。ほんのきみへの感謝の気持ちだ。それには少しドラマっぽくやってみたいと計画している。プレゼントはきみと思い出の場所で手渡したい。もちろん、地下鉄の夕陽桟橋駅だ。二十三時五十五分に着く冥王寺行きの電車からホームに僕は降りたつことにする。そう改札に一番近い車両だ。きみと初めて出会ったところ。
 そんな訳だから、くれぐれも時間には遅れないで欲しい。僕はきっかりその時間にプレゼントを手渡したいんだからね――
 彼女の細くしなやかな指が小刻みに震えだし、その震えはやがて全身に伝わっていった。カップにわずかとなった紅茶にブランデーをさらに注ぎ足すと、彼女は意を決し喉に一気に流し込んだ。
 彼女の夫は二十年も前に交通事故で亡くなっていた。その夫からこんな電報が届くのは腑に落ちないことだ。
『何かの間違い? 郵便局の手違い? いや、誰かの悪戯か、嫌がらせなのか』
 しかし彼女に思い当たるところはない。お金に不自由しない才色兼備の女性というのならまだしも、地味な生活をしている彼女を、わざわざ凝ったことまでして、かついでやろうと考える物好きな友人や血縁者はいない。また、プロの物取りなら、このうらぶれたアパートの住人を脅したところで取れるものはわずかと考えるだろう。
『生前の夫が仕組んだことではないか』
 その閃きが、彼女の顔にぽっと明るい灯をともした。
『奇をてらうことが好きな夫だった。山師的なところがあり、株で一喜一憂していたっけね。ひと山あてた時には、とんでもないプレゼントをしてくれたものだ。もしかして、その時に銀婚式のプレゼントを前もって用意していたとしたら。それなら、ありえるかも知れない』
 子供のような夫のあの頃の笑顔が目に浮かび、彼女の口元が自然とゆるんだ。
『夫は何とか未来に電報を送り届けることに成功したようだわ』
 しかし、気が落ちついてくると、彼女の考えはどんどん柔軟になっていった。
『もしかしての奇跡ということがある。時間がもつれあっての悪戯。だからそれを信じて、あの場所に出向いてみよう』
 彼女はそう決心をした。早速、クローゼットを開けると、夫と出会った時に身につけていた服装に近いものを物色しはじめていた。
 待ち合わせの駅には一時間も前に着いた。彼女はベンチに一人腰掛け、折りたたみ傘を丁寧に何度もたたみなおして、時間をひたすら潰した。そして、あの時刻になった。
 電車は定刻通りに着いた。まばらな人影がドアから吐き出される。
『もしかして、あの人が降りてくるのでは』
 と思うと、掌に汗がたまった。
 なんと。それが、現実になった。
 二十年前の彼が目の前にいた。
 彼と目があった。彼女の目はまん丸になり、口は半開きになったまま。視線をはずしたのは、彼の方が先だった。唇を「へ」の字にすると、首を傾けて舌打ちを繰り返した。
「あれほど時間には遅れるなと伝えといたのに。あー、すみません。若い女の人、ここで見かけませんでしたか?」
 夫からそう聞かれて、彼女は棒立ちになった。
「若い女の人?」
 彼女は眉を吊り上げた。
『二十年たち、もう私は赤の他人に間違われるほどになったってことなのか。そうに違いない』
「はい。見かけませんでしたわ」
 何故そんなことを言ったのか、自分でも分からないが、そう口からスラスラと出た。
「そうですか。妙なことを聞いてすみません」
 二十年前の夫に違いなかった。
『お洒落なスーツ。センスが良い。しっくり身体になじんでいる。惚れ直したわ』
「お待ち合わせなのね」
 彼女は静かに尋ねた。
「ええ、妻と。結婚記念日なので」
 彼女は頬がほてってきたので、あわててうつむいた。
「お幸せなのね」
「ええ、それはもう」
 彼女は優しく微笑んだ。幽霊だということは分かっている。年齢も違うということも分かっている。けれど、彼女は夫の胸に飛び込みたいという衝動を押さえることが出来ない。もし、今、目の前の彼に飛びついたらどうなるだろう。実体のない彼を突き抜けて彼女はホームから落ちる。そして、電車に引かれ……。彼女は身震いを起こした。
『まさか、結婚記念日のプレゼントというのが、死出の旅へと誘うキップだったということではないだろう』
 夫の口が開いた。
「頼みたいことがあるんです。もう僕、時間がなくって。もうすぐ必ず僕の妻が、ここに現れるんです。そうしたら、この封筒を渡して欲しいんです。あなたを見込んでの頼みです。とても大事なもので、結婚記念日のプレゼントが中に入っています。確かめていただいて結構です。あなたを信じてお渡しします。よろしく」
 そう言ったかと思うと、丁度止まった電車の扉の奥に夫の姿はかき消えた。
 彼女の掌の上には確かな現実としてずしりと重い封筒が乗っている。
 彼女はまたベンチに腰かけ、躊躇しながらも、その封筒を開いてみた。中から便箋が一枚するりと落ちた。
 ――すみません。おばさん。下手な演技で恐縮です。年の差が開いた兄の頼みを今日実行できて光栄です。実の話をすると、生前、兄はもしもの時を考えて僕にこんなことを頼んでいたのです。銀婚式となる二十年後にもし他界していなくなっていたら、こんな演技をして欲しいと。こんな演技というのは、この封筒を開けておられるということで、もう終わっているかと思うので割愛しますが、ちゃんとした台本まで用意している周到さでした。それで、兄はもし、あなたが抱きつきすがりついてきたら、それは今でも変わらず愛し続けてきた証拠だから、このプレゼントを渡せ。もし、すり寄ってこなかったら、躊躇したら、愛は冷めたってことだから、中身はお前のものにして良いという気前の良い申し出でした。もちろん、僕はどっちにしてもこれを渡さなければと思っています。そんなことで愛は試されるものでもないし、たとえあなたの心が冷えていてもそれはそれで構わないじゃないですか。そうでしょ。だから無条件でこのプレゼントをお渡しすることにしました。どうか、受け取って下さい。改めて、わたしからもお祝いを言わせていただきます。結婚記念日おめでとうございます――
 彼女の目から涙が一筋こぼれた。
 結婚プレゼントは彼女が知らなかった貸金庫のカードとパスワードを書いた紙片、そして鍵だった。おかげで彼女は莫大な富を得ることになった。
 それから彼女はすぐに弟の居場所を探して礼をしたのか? というと、それはできない相談というものだ。
 何故なら、その弟も十年前に他界していたから。