「火」井上史

1.

 私の真正面に、一枚の絵が掛かっている。
 彩り豊かな緑の田園風景の中央に鎮座する灰色の塊。タイトルには『サント・ヴィクトワール山』とある。絵の横に掲示されたパネルによると、それはポール・セザンヌという画家の手によるものらしい。セザンヌはプロヴァンスにアトリエを構えており、その風景を愛していたという。パネルは説明文の最後に、セザンヌの言葉を引用していた。
『おお、あの山は火の塊だったのだ、まだ中に火を秘めている』
 ――まさにその通りだ。
 初めてセザンヌの言葉を見た瞬間、私は共感で雷に打たれたような心地になったものだ。芸術家という人種は、いったいどうしてそんなことが分かるのだろう――分かってしまうのだろう。彼らは人ならざるものの意思を知ることのできる、シャーマンか何かではないだろうか。
 美術館の壁から絵を眺めながら、私はそんなことを考える。
 セザンヌが描いた『サン・ヴィクトワール山』に描かれている山の姿は、かつての私によく似ている。今でこそ私は美術館の壁面にはめ込まれた大理石の一ブロックだ。しかし、ここへ来る以前の私は山の一部だった。そして、さらに遠い昔には私は火の塊だったのだ。セザンヌの言うとおりに。
 美術館を訪れた人間たちの姿を眺めながら、私はぼんやりと過去のことを思い出す。遠い遠い昔に、私が火の塊であった頃のことを。

 私は地球のマントル部に近い場所で火の塊――すなわちマグマの一部として生まれた。そうして大地の奥深くで混じり合いながら、ゆったりと母なる地球の胎内を流れだしたのが最初の記憶だ。私のようなマグマは、そうやって流れることで地表を温める。
 私の熱は、地表の多くのものを焼き尽くすほど高温だ。けれど、私が地中から大地を温めることによって、土の中の生物は生き延びることができる。植物の種子も虫の幼虫も、私がいなければ冬を越すのは難しいだろう。
 今日も私は自分の役目を果たすべく、ゆっくりと大地を流れていく。地中は安全で居心地がいい。けれど、私はときどき地表の世界を見てみたいと思うことがあった。
 とはいえ、地表を見るためには、母なる地球の胎内を出なければならない。私のようなマグマは、地表に出ると冷えて固まる、若々しい熱も、流れることのできる柔軟性も失って、岩石になっているのだ。
 岩石たちは冷え切って、動くこともできない自身の境遇をどう考えているのだろう。元は私と同じマグマであったはずなのに、彼らは何も語らない。もしかすると、岩石たちは私のように生きてはいないのだろうか。――きっとそう。死骸だから、何も語らないのだろう。
 そうだとしたら、地上は多くの生物たちにとっては生きる場所でも、私にとっては死の世界も同然なのかもしれない。安全に生きていたいなら、火山地帯の下や海底火山付近には近づかないようにすべきなのだろう。それが賢い生き方というものだ。だから、私は外を見てみたいという困難な願いを、意識の奥底に押し込めるようにしていた。
 そんなあるときのこと。近くの火山が噴火して、溶岩が地表に流れ出した。このまま流れに乗って外に出れば、地表の世界を見ることができる。好奇心を抑えられずに、私はじりじりと噴火した火山の方へ流れていった。
 けれど、火山の手前でふと我に返る。外の空気に触れれば、私は冷えて固まり、死んでしまう。このまま安全な母なる地球の内部にいれば、私がまだ若々しい熱を保って幸せに生きていける。
 どちらが私にとっていいことなのかは明白だ。
 そう思い直して外への未練を断ち切り、私は地中の奥深くに戻ろうとする。けれど、ここで予想外の事態が起きた。火山の噴火の勢いがすさまじく、私もどんどん地表に押し上げられはじめたのだ。いやだ。まだ死にたくない! 冷えて固まって動くことのできない岩石にはなりたくない!
 助けて、母さん! 助けて!
 私は母なる地球に噴火を留めてくれるよう頼んだ。だが、それでも噴火は止まらない。流れに乗って私はどんどん地表付近へ運ばれていく。しなやかだった私は、地表が近づくにつれて熱を失っていった。粘度がどんどん高くなり、軽やかに動くこともできなくなる。もったり、のろのろと流れるだけだ。
 ああ、このまま私は死んでしまうのだろうか。若々しい熱を失って固まり、自力で動くことのない石という醜い死骸をさらすことになる。なんて残酷なのだろう。こんな死に方をするのなら、地球はどうして私を生み出したのだろう。
 こんな結末は受け入れられない。
 急速に冷えて固まり薄れゆく意識の中、私は悲嘆し、母なる地球を恨んだ。

2.

 目が覚めたとき、私が感じたのは太陽の光だった。地中から急速に押し上げられて、一度は死んだと思ったけれど、そうではないらしい。私は改めて自分に意識を向けた。今の私は身動きを取ることはできない。どうやら火山の火口を覆うようにして円形に盛り上がった形――溶岩ドームと飛ばれる状態で冷えて固まったようだ。
 私の身体の下には、マグマが流れているらしい。彼らは地中深くにいる者たちより冷えて粘り気があるものの、今なおゆったりと動いている。その姿に私は自分がマグマであった頃のことを思い出した。
 あの頃は地中深くを好きに移動することができた。若々しい熱で大地を温めて、地中の多くの生物を生かしてきた。それが私の使命だと自負していたものだ。けれど、あの日々は失われてしまった――こうして母の胎内から放り出されてしまった。
 マグマであった頃、私は冷えて固まれば死ぬのだと信じていた。岩石はマグマの死骸なのだと。けれど、こうして冷え固まって岩になっても、私にはまだ意識がある。過去にマグマであった私の記憶も願いも思い出すことができる。だとしたら、岩になることは死ではないということなのだろうか。
 今の自分の姿を把握してから、次に私は周囲へと意識を向けた。
 私の周囲には湖が広がっている。湖は過去に火山の火口であった窪地に、雨水などが溜まってできた巨大なカルデラ湖のようだ。私が目覚めたときには、すでに噴火が収まってしばらく経っていたらしい。カルデラ湖の水は噴火の影響を感じさせない澄んだ色をしている。その湖は海や川から切り離されたわけではなく、内陸に自然にできあがったものであるため、魚はいないようだった。わずかなプランクトンだけが泳いでいるのが分かる。
 動くことができないので、私は日がな一日カルデラ湖を眺めていた。湖にはちらほら鳥が飛んでくる。餌になるような魚はいないが、湖の水を飲んだり、湖畔で羽根を休めたりしているようだ。鳥たちはときに私の上に降りたって、さえずることもあった。
 私は地上の生き物の過ごす時間に触れ、驚かされた。生き物の時間はマグマであった頃の私の時間感覚からすると、非常に目まぐるしいものだったからだ。
 現に私にはあっという間に感じるふた月、三月と経つ間に、湖の岸辺から草が生えはじめた。きっと、立ち寄る鳥たちの足に他の場所に生息する植物の種子がくっついていたのだろう。夏だったせいか、植物はあっという間に増えて湖の畔を取り囲むようになった。
 私がもっとも好きだと思ったのは、湖付近では見かけない炎のような鮮やかな赤い花を咲かせる植物だった。群生したその花が風に吹かれて揺れると、まるで岸辺の一角が燃えているようにも見える。その鮮やかな色合いに、私はいつもマグマであった頃の自分を懐かしく思い出すのだった。
 やがて、固くなった私の表面にさえ、鳥が運んだ草木が生えはじめた。私のお気に入りのあの赤い花も。マグマであった頃、私は冷え固まって岩になることは死を意味すると考えていた。けれど、今のこの状況は死と程遠い。自由に流れることはできなくなったが、それでも私はマグマであった頃のように生命を燃やして生きている。母なる地球の胎内から放り出されても死ぬことはなく、これほど豊かな生命に溢れる地上を見ることができたのだ。そう気が付いたら、何だかどきどきしてきた。
 冷えて固まることを恐れるマグマたちに、ぜひともこのことを教えてやらないと。この事実を知れば、外に出たいというマグマもいるかもしれない。
 私は久しぶりに、自分の下の地中を流れるマグマたちに意識を向けた。火山が休止したせいか、マグマたちは地中の深い場所に引っ込んでしまったらしい。「おーい」と呼びかけてみても、反応が返ってこない。
 残念なことだ。けれど、きっとまた機会はあるはず。
 それから長い間、私は湖の真ん中で移り変わるカルデラ湖を眺めつづけた。そこは鳥や獣にとって格好の棲み処だった。鳥や獣は生まれ、あっという間に死んでいく。私の感覚からすれば、彼らの生涯は瞬きするほどの短さだ。けれど、鳥も獣も私とは違って自らの意思で移動することができる。彼らは短い生涯のうちに、私が見たこともないような風景を目にしているのだろう。
 この美しいカルデラ湖の他にも、もっと面白い風景や美しい場所があるのかもしれない。不可能だと知りつつも、私は自分の意思で自由に世界を見て、美に触れたいと思うようになっていた。とはいえ、私はカルデラ湖の真ん中にある溶岩ドーム。マグマであった頃のように移動したいと望んでも、動くことはできない。
 そのはずだった。けれど。
 あるとき、いきなり火山が活性化して、私の下にある火口が不穏な動きを始めた。じわじわと熱が高まり、マグマが上昇しようとしているのが感じられる。最初、私はその変化を喜んだ。マグマたちに混じれば私はふたたび若々しい熱を持ち、自由に流れることができるようになるだろうから。
 しかし、すぐに噴火が何をもたらすか、私は理解した。火山活動の影響で、カルデラ湖の水は灰色に変化してしまった。魚も鳥も危険を察知したらしく、湖から逃げていく。水の性質が変化して、弱い草花の中には枯れるものも出始めた。
 ――噴火してマグマが噴き出すということは、この湖に生きる生物の死を意味するんだ。
「やめて! この湖には、多くの鳥や魚や獣が暮らしている。草花も生えている。噴火しないで!」
 私はマグマに向かって叫んだ。だが、マグマは何やら私には理解できない言葉を呟くばかり。一向に話が通じない。絶望を覚えたとき、火口の下にいたマグマがぐんとせり上がってきた。熱いマグマが私の表面に触れ、どんどん押し上げようとする。強い圧力がかかって、私の身体はミシミシと軋んだ。
 ――このままでは、身体が砕けてしまう!
 そう思った瞬間、私の身体は粉々に砕けて吹っ飛んだ。噴火が始まったのだ。粉々になった私の身体を、マグマが押し流す。
 私は一瞬、マグマに溶けてふたたび熱を取り戻せるのではないかと期待してしまった。カルデラ湖が様変わりしてしまったのは悲しいことだが、マグマであった過去のある私にとって、熱く、流動することのできるマグマでいることは捨てがたい魅力があった。
 けれど、望みはかなわなかった。マグマは流れ出すとすぐにカルデラ湖の水に冷やされ、固まってしまったのだ。私であった岩はマグマに溶けることなく無数の断片になり、カルデラ湖の水に沈んでいく。私の表面に生えていた草や苔も一緒くたに湖の底に降り積もる。
「マグマには戻れなかったね」
「それでも、生きてる」
「砕けたけど生きてるね。いったどれくらい小さくなったら、私は死んでしまうんだろう?」
「さすがに砂粒になったら、意識を保てなくなるんじゃないかなぁ」
 溶岩ドームであった私が砕けて、無数の破片になった『私たち』は口々におしゃべりをする。こんな破片になっても、私たちはまだ死んでいないらしい。破片がひと塊になっているから、私としての意識が残っているのかもしれなかった。しかし、湖の水に沈んだからといって、そこで落ち着いている暇はない。火口から噴き出した溶岩や火山ガス、火山噴出物によって、カルデラ湖が埋め立てられていく。
 やがて、噴火からひと月が経ち、カルデラ湖の上にできた不安定な埋め立て地に嵐が訪れた。私は仲間たちと共に地中にいたけれど、染み込んでくる雨水の量で激しい雨が降っているのだと分かる。やがて、私の上に降り積もった火山灰や軽石など、火山噴出物がグラグラと動きはじめた。もともと不安定な埋め立て地であるから、カルデラ湖の跡地に積もる堆積物は山の斜面を滑りはじめる。バラバラに砕けた破片である私と仲間たちもその流れに加わった。
 流れは斜面の木々や岩をも巻き込んで土石流になり、どんどん山の麓へ進んでいく。その間に私は破片の仲間たちと散り散りになって――残っていた意識も遠のいていった。

3.

 目覚めたとき、私は山の中にいた。正確に言うならば、山を構成する凝灰岩の一部になっていたのだ。
 マグマであった私が冷えて固まり、溶岩ドームになったところまではいい。まさか、溶岩ドームが吹っ飛ばされて粉々に砕け、押し流されて堆積した凝灰岩になってまで、まだ私としての意識を保っているなんて、予想外のことだ。しかも、私の中には溶岩ドームの破片だけでなく、他の土や草、灰、岩などもない混ぜになって堆積したまま岩になっている。異物が腹の中にあるようで、私は少し違和感を覚えた。
 もはやマグマであった頃の私とは、すっかり変質してしまっている。とはいえ、今の自分もまた私に他ならない。ただ、ひとつ困ったことがあるとすれば、地中深くに埋もれた岩の状態では、周囲のことは何も分からないことだ。
 ああ、マグマだった頃が懐かしい。若々しい熱を保ち、どこへでも行くことができたあの頃が。だからこそ、今、こうして真っ暗な地中にいるのは何とも退屈だ。周囲に私と同じような岩がいるため、その気になれば会話することもできる。それなのに、他の岩たちは大半の時間を眠って過ごしているようだった。
 ――見たこともない景色を見に、遠くへ行きたい。ここではないどこかへ。
 火のように激しい切望がこみ上げてくる。けれど、それは身動きの取れない岩には過ぎた望みだ。私はこのまま埋もれて、母なる地球が終わるときまでここにいるのかもしれない。私はひどく絶望したが、どうすることもできなかった。
 うつらうつらとうたた寝をしながら、長い長い時間を地中で過ごす。どれくらいそうしていただろうか。腹の中に堆積した木や草の感覚も違和感がなくなって、すっかり自分の一部のように思えるほどだ。
 そうして次に意識が戻ったのは、ガリガリという騒々しい音が聞こえてきたせいだった。音は山の岩盤を伝って私のところまで響いてくる。
 ――これはいったい何の音なのだろう。
 久しぶりに好奇心が疼く。けれど、私は動くこともできず、周囲を見ることもできない。どうせ私は岩盤の奥深くに閉じこめられて、音の正体を知ることはないのだろう。そう諦めて、ふたたびふて寝を決め込んだ。
 次に目が醒めたとき、私はびっくりした。目を開けると、私は山の側面にいたのだ。否、これまで山があった部分が削られて、私のいる場所の岩肌が剥きだしになったのだろう。ガリガリという音とともに、私は岩の中から削りだされていく。
 工具を用いて岩盤から切りだされた私は、加工されて山奥から運びだされた。いったん倉庫に入れられて、他の石材とともに時を過ごす。山の岩盤の中にいたときは、話したいと思っても周囲の石のほとんどが眠っていておしゃべりする機会がなかった。だが、倉庫に集められた石材たちは山から切りだされて間もない興奮もあってか、始終、おしゃべりをしていた。
 やがて人間たちがやってきて、私を倉庫から運びだす。トラックに積まれて連れていかれた先は、海に面した街の片隅にある建設現場だった。
 私はそこで建物を建てるための建材として使用された。まさか自分が建物の一部になるなんて。マグマであった頃には予想もしなかった事態である。またマグマであった頃のように自由にはなれないのかと、私はがっかりした。けれど、いざ経験してみると、建物の一部になるというのはそう悪い境遇でもなかった。私は学校の一部に使われていたからだ。
 カルデラ湖で生き物の営みを見つめていた私が、今度は建物の一部として人間の生活を見守ることになった。
 毎日、子どもたちが通ってくるので、私は飽きずに彼らの生活を眺めた。そうすると、時間感覚も人間たちのそれに近づいてきたようだ。一年間で子どもたちが、どれほど成長することか! 何年間も子どもたちを見守るうちに、私は次第に人間の言葉を理解するようになった。言葉が分かると、人間たちにまつわる様々な事象もよく理解できるようになる。学校の授業の中でも好きだったのは、歴史や美術だった。
 私の周囲で街は発展しつづける。その間に学校へ通ってくる子どもたちの数は増えて、減って。やがて、別の学校と合併し、校舎を移転する話が持ち上がった。子どもたちが通ってこないのは寂しいが、私にはどうすることもできない。やがて、学校が合併して移転すると、人々は小学校の建物を美術館として再利用することに決めたようだった。
 子どもたちの生活を見守ることはできなくなったが、今度は無数の美術品が私を楽しませてくれることになった。展示会があるたびに、国内や海外から美術品が集まってきて、私は退屈することがない。展示会には多くの人々が来場するのだから、なおのこと。私は展示会のたびにさまざまなパネルを読むことで、美術の知識を増やしていった。
 セザンヌの絵に出会ったのは、そんなときのことだった。『サント・ヴィクトワール山』と題された色鮮やかな絵を見たとき、私は感動したものだ。と、同時にマグマであった頃の自分や溶岩ドームとして湖の畔にいた自分を思い出した。
 けれど、かつてのようマグマの熱や流動性を取り戻したいと願うことはもはやなかった。千二百度ほどの温度のマグマになれば、もはや生物は近づけない。人間たちの営みを近くで眺めて楽しむことができなくなる。
 そうするうちに、私が建物の一部になって八十年間が経過した。私のような種族の感覚としては、数十年はあっという間のことだ。だが、建物として言うならば、私のはめ込まれた美術館は古くなってきているようだった。最近では、美術館の職員たちが引っ越しについて話しているのをよく聞くようになった。
 もし、引っ越しすることになったら、私はどうなるのだろう。たとえば、建材である私は不要なものとして解体され、廃棄されてしまう可能性もある。
 以前の私なら、動揺して、何とかマグマのあの若々しい熱と流動性を取り戻せないかと考えていたことだろう。展覧会でセザンヌの『サント・ヴィクトワール山』を観ても懐かしいと感じるばかりになった今の私は、もはや怯えることはなかった。
 マントル部からこの美術館まで、ずいぶん遠くへやってきて、姿もすっかり変わってしまった。私は人々の暮らしを眺め、次々に開催される展覧会の絵を楽しんできた建物の一部としての生活を愛している。同時に、私自身がその生活の一端を形作っているのだと誇りも持っている。
 おそらく、私のような数奇な生涯を過ごすマグマは他にないだろう。いずれ美術館が引っ越しして、私は不要な建材として解体されてしまうとしても、私は満足と共に自らの生涯を終えるつもりだ。

(井上史氏は、江坂遊会員の推薦によりご参加頂きました:2021年2月14日)