「勇気の客」深田亨

 「こんばんは」
『勇気』、と染め抜かれたのれんをくぐって店に入る。カウンターが十席ばかりの古びた居酒屋。午後七時過ぎの店内は半分ほど埋まっている。
「いらっしゃい、徳ちゃん今日は早いね」
 ママが迎えてくれる。また間違えている。オレは真一で徳ちゃんではない。でもママはそんなことに無頓着だ。オレも気にするのはもうやめた。訂正したって次に来たときには、また別の客と間違えられるのだから。
「瓶ビール。冷えてないやつ」
 子供のころから、冷たいものは身体によくないと母親に言われて育ってきた。
 ママは黙って、カウンターの横に積んだビールケースから、大瓶を取り出す。オレも黙ったまま、カウンターに並べられた大皿から、巻き寿司をつまんで小皿に入れる。
 ママのお手製の巻き寿司は、先年亡くなったこの店の大将の得意料理で、それをママが引き継いだのだ。
 大将が生きていたとき、この店の名前は『男気』だった。一見好々爺めいた大将に、似合わない店名だと言う客も多かったが、古くからの常連はそれが大将のことではなく、かいがいしく夫の横で働いているママの気性にちなんで名付けられたと知っていた。
 急なウィルス性肺炎で大将が亡くなってから、ママは店の名前を『勇気』に変えた。男という字にママのマを足したんだよと冗談ぽく言うが、それは大将の意思を継いでこの店を一人で切り盛りするママの覚悟のように思えた。
 ただ、大将ロスの影響なのか、歳のせいなのか、ママは近ごろ常連客が誰が誰だかわからなくなってきたようだ。オレなんか、毎回違う名前で呼ばれる。
「吉田さん、いらっしゃい」「めずらしいね、村瀬ちゃん」「おや天道さん、今日はお一人?」
 ――とまあ、こんな調子だ。
 ママは本当に間違えた名前の相手だと思い込んでいるらしく、振ってくる話題もオレに関係ないものばかりだ。だからオレは、いつも間違われた相手のふりをして適当に話を合わせ、それでも気分よく酔うのだった。
 ところが今日は、徳ちゃんと間違われたオレに、ママはやけに酒を勧めてきた。生温(なまぬる)いビールを二本、焼酎のお湯割り、熱燗、またビール。オレは酔いつぶれて、カウンターに突っ伏して眠ってしまった。
 どれぐらい寝ていたのだろう。はっとして目を覚ますと、もうほかに客はいず、ママが黙って水を差し出した。
「真ちゃん、真一ちゃんだろ」
 ママがじっとこちらを見すえて、オレの名前を言った。
「ママ、やっと思い出してくれたんだな」
「ずっとわかっていたよ。冷えていないビールを頼む客なんて、あんたしかいないからね」
「だったらどうして違う名前を言うんだい」
「覚えていないのかい。半年前、真ちゃんはこの店を出て、表通りで車に撥ねられて死んだじゃないか。それ以来、店に入ってくるお客さんにくっついて、飲みに来るんだよ。憑りつかれたお客は気付いていないから、私はその人の相手をしてるのさ。
 でもね、真ちゃん。もう成仏しないといけないよ。いつまでもここに来てはだめ。それを言おうと、今夜は徳ちゃんに眠ってもらったんだよ」
 そうか、オレは死んでいたのか。そういえば、いつもこの店で飲んで、それからどこへ帰ったのか記憶にない。オレは迷っているのだろうか。
「ママ、そんなこと言わないでくれよ。ここを追い出されたら、どこへ行けばいいかわからないんだ」
「もうこの店を閉めるんだよ。私もいつまでもは身体が持たない。死んじゃった大将――父親と仲違いしていた息子が、一緒に暮らさないかと言ってくれているのさ」
「オレ――どうしたらいいんだ」
「心配しなくても、さっき奥さんに電話しておいた。あんたが生きていたときのように、迎えに来てあげてって。もう来るころだよ」
 ママに追い立てられるようにして、オレは『勇気』を出た。店の表に位牌を持った妻が立っていた。背中から、「徳ちゃん、起きてちょうだい」と言うママの声が聞こえた。