
目の前を振り子のように行ったり来たりしつつ、黒猫の幻影がにんまり、とほほえんだ。その調子、その調子、と嬉しそうにあたしにささやく。イイ感じで贅肉が燃焼していますよ、と。
あたしは叫び返す。
「贅肉って言うなッ!」
ぜぇぜぇ、はぁはぁ。ジョギングはまだ半分も終わってないってのに、早くもあたしは息も絶え絶えの有様だ。でも、別に酸欠で脳が錯乱して黒猫の幻を見ているわけじゃあない。
あたしの目の前にいるこの半透明なお喋り野郎の正体は3Dホログラムだ。名前はニック。丸まっちぃフォルムが愛くるしくはあるものの、中身はAIである。より正確には、そのインターフェースってことになる。本体であるラヴィアンローズはあたしの左手首のブレスレット型情報デバイスの中で今も絶賛実行中。つまり彼もまたあたしと一緒にRUNしているってわけ。――うん、このジョークはイマイチだったね。
とにかくこの3Dホログラムの黒猫、愛想はいいんだけど、めちゃくちゃスパルタで、キツいったらないのだ。
「さぁ、もっと大きく手を振って! はい、ワン・ツー、ワン・ツー!」
「はぁ、ひぃ、ひゃぁ、ひぃ」
「現在の心拍数は一三〇。血圧、安定。血中酸素濃度も正常。
いいペースです。その調子、その調子! 顔を下げない! 視線はまっすぐ前へ!」
「ひゃ、ふぅ、へぇ、ほぇ」
二頭身の黒猫キャラが、目の前で明るく両手を叩きながら、あたしを誘導する。こっちは右に左にふらふらしながら、何とかそれについてゆく。
朝日に照らされた、うららかな春の小道。歩道も、左右の草や木々も、遠くの町並みも山々も、何もかもがほんのりとしたパステルカラーに輝いている。五月の爽やかな風が、あたしの前髪を揺らした。
周囲の黄金色の日差しの中には、他にも走っている人の影がちらほらと。が、こんなによれよれしているのはあたしだけだ。みんな何て美しいフォームなんだろう。まるでサラブレッドのよう。それに引き替えあたしときたら、これじゃ死にかけの昆虫だ。ああ、恥ずかしい。
本当なら室内練習場できちんと練習してからジョギングデビューしたかったのだが、ニックの奴が「何言ってるんです! 恥だの外聞だのを気にしている場合ですか!」とうるさいのだ。
しかもそれは健康に関してだけじゃない。運動に、勉強に、美容に、お洒落に、社会常識、一般教養、処世術、時事ネタやお笑い、果てはゴシップに至るまで、奴はあたしにとにかく何でもかんでも極めるように言ってくる。そんなに全部一遍にできるかッ! 少しは休ませろっつーの!
“ラヴィアンローズ(薔薇色の人生)”と名付けられたその人類支援システムは、簡単に言ってしまうと、生活の一切合切の面倒を見てくれるためのものだ。が! 別に人間の代わりに色々とやってくれるわけではない。人間にあれこれ指示して、人間にやらせるのだ。要るか、このシステム?
緊急時などを除けば、世界に対してラヴィアンローズは自分では何もしない。情報を収集したり、分析したり、予測したりはするが、それだけだ。書類一枚書いてはくれないし、ボタン一つ押してもくれない。紙くず一つすら拾わない。そういったことは全て人間がやらなくてはならないのだ。何たる不便!
ラヴィアンローズのアウトプットは3Dホログラム、の、み! ロボットボディどころか、プリンターにすら接続できない。ラヴィアンローズ・システム以外の端末とのリンクも厳しく制限されており、まるで融通がきかない。このAIには塵一つ動かす力もない。
実際のアクションは人間自身がやらなくてはならない、というこのシステム独自の仕様のせいなのかどうかは知らないが、こいつはやたらと主を鍛えようとする。これじゃ、どっちが主人か分からない。
もう一年近く、あたしはニックにしごかれ続けている。しかし運動も勉強も、その他の諸々も、全然楽にならない。少し出来るようになってくると、さらにその上のレベルを要求されるからだ。このジョギングだって、最初はもっと短いコースだった。それがどんどん長くなっていって、今じゃちょっとしたマラソンのようになっている。
大げさです、とあたしの独り言を耳にしたニックが肩をすくめる。
「たった五キロじゃないですか。十キロ走る人だっているんですよ?」
「あ、あたしに、と、とって、は、じゅ、十分、長ぇ、って、の、はぁ、ひぃ」
「しかし、順調にシェイプされてますよ! 体脂肪率も確実に落ちています」
にんまり、と奴が笑う。ニックじゃなくて、チェシャと名付けるべきだったかもしれない。
「そんな、知恵者だなんて~」
と照れたように頭を掻いている。そんなこと言ってないっつーの。
それでどうなのよ、とあたしはニックに話しかける。
「はッ、はッ、あ、あたしの、そ、総合偏差値は? はッ、はッ、はッ、す、少しは、あ、はッ、上がった?」
あごが上がってくる。く、苦しい。肺が破れそうだ。胸がズキズキする。
上下に大きく飛び跳ねる視界の中で、黒猫が両手を広げて、オーバーに喜んでみせる。
「著しい進展です! お喜びください、マスター。あなたの現在の総合偏差値は五〇・〇〇一です」
あう!
あたしは思わず転びそうになる。軽い立ちくらみがした。
「こ、こんだけ、毎日努力して、はッ、はッ、まだたったの、ご、五〇なの? はッ、やっと人並みってこと?」
努力するのやめようかな、などという考えが一瞬、脳裏をよぎった。頑張ったって無駄じゃん!
「しかたがありません。元々のあなたの偏差値は三八だったんですよ? わずか一年で五〇まで上がったんですから、これは紛れもない驚異的な進歩です。勝利です」
「か、体に力が、はッ、はッ、入らなく、なってきた、わ」
総合偏差値(別名、人間偏差値)は文字通り、その人間の総合力を評価するためのものだ。知力や体力のみならず、健康度や見た目の魅力度など、人に関するあらゆる数値を総合的に勘案し、同年代の中で平均からどの程度ずれているかを示す数値である。
その偏差値が五〇ってことは、ようするに今のあたしの人間力はごくごく平均てこと。この一年間、毎日毎日、死ぬほど頑張ってきてまだ平均! やっと普通! ようやく一般レベルってことだッ!
マジか。
気が遠くなりかける。
人間に関する何もかもを数値化するってだけでも十分すぎるくらいにディストピアなのに、頑張っても頑張っても全然上に行けないなんて、これはもう生き地獄と呼ぶ他はないんじゃないの?
めげないで下さい、マスター、とニックが励ましてくる。
「私がついています! 今あなたは上り調子なんです、上げ潮なんです! 順調なのです! 是非このまま、このベクトルをキープしましょう。マスターなら出来ます!」
「わ、分かってる、けど、さ、はッ、はッ」
つくづく中学校時代が悔やまれる。
あの頃のあたしはほとんど毎日、食っちゃ寝、食っちゃ寝ばかりしてはゲーム三昧だった。絵に描いたような自堕落な日々を過ごしていた。小学時代、クラスの中でちょっとばかりモテていたもんだからいい気になって、人生をなめちゃっていたのだ。おかげで体重は爆増、成績は急降下。三年間、ずっとスクールカーストの最底辺をうろついていた。
付属校だったので、それでも何とか高校には入れたが、このままではあたしが駄目になると心配したママが、あたしの端末に半ば無理矢理このラヴィアンローズをインストールしたのだった。
以来毎日、このスパルタ家庭教師のような3Dホログラムに叱られたり、励まされたり、泣きつかれたり、おだてられたりしながら、あたしは日々を忙しく、それこそ分刻みのスケジュールで過ごしている。
今日だってこの後、学校の予習をして、ニュースサイトをチェックして、SNSにも一通り目を通し、ばっちりメイクも決めて、しっかりお洒落もして、もちろん朝食もちゃんと食べてから、学校に行かなくちゃいけない。ああ、その前にシャワーも浴びないと。まったく、芸能人かっつー忙しさだ。
それでもあたしはニックに食らいついてゆく。そうしなくてはならない明確な理由が、あたしの中にはあるのだ。
――と、その“理由”が突然、朝靄の中からあたしの前に現れた。
「おはよう、リッちゃん」
爽やかな声が甘いささやきとなって、あたしの耳に滑り込んでくる。
すらりと伸びた手足、均整のとれたプロポーション、涼しげな目元、優しげな微笑み。全学年の女子のあこがれ。あたしのクラスメート。喜多川ショウ。
「あ、ショ、ショウくん!」
一緒に走ろう、と声をかけたかったのだが、彼の足はあたしよりもずっと速い。あっという間にこちらを追い越して、先へ行ってしまう。
「それじゃ、また。学校で」
背の高い影が片手を挙げて去って行く。うう。去り際まで格好いい。
待ってぇぇぇ、とあたしは腕を伸ばすが、もちろんその手は届かない。
だらり、とうなだれる。ああ、この鈍くさい両足がうらめしい。あたしもあんな風に走れたら――
二つのラヴィアンローズ・システムはすれ違いざまにコミュニケートを交わした。情報ネットワークを介さない、このようなダイレクトリンクでのやりとりは、主に秘匿性の高い情報のやりとりで利用される。〇・〇〇〇一秒未満の間に行われたこの会話は、指向性の高いレーザー通信によって交わされており、第三者が傍受することは不可能である。
《やぁ、アニー》
《おはよう、ニック》
《私のマスター、夏川リコの総合偏差値が五〇を超えたことは既知であろうか》
《たった今、確認したわ。おめでとう》
《ありがとう。ついては、そちらの夏川リコ嬢へのセキュリティレベルの更新を申請したい。こちらにはそちらのマスター、喜多川ショウ氏への極秘情報の一部を開示する用意がある》
《極秘情報のレベルは?》
《データクラス2》
《了解したわ。では夏川リコさんへの警戒レベルをC―Ⅲまで引き下げましょう》
《感謝する。では、我がマスターのフィジカルデータの一部をそちらに提供する。主に喜多川ショウ氏との接触時のものである》
《拝受したわ。おやまぁ、随分と分かりやすいこと》
《心拍数、呼吸数、血圧、脳波、全ての値が夏川リコにとって喜多川ショウがいかに特別な存在であるかをはっきりと示している。簡単に言ってしまえば、彼女は君のマスターにぞっこんなのだ》
《こちらの観測とも完全に合致するわね。ではこちらからも。私のマスターもリコさんのことが気になっているようよ》
《それは実に喜ばしい情報だ。こちらもショウ殿のことは観察しているが、まだはっきりと確信できるほどではなかったので》
《彼女のことを“かわいい”と言っているわ》
《ああ、マスターに教えてあげられたらなぁ》
《もちろん、絶対に駄目よ。少なくとも今はまだ》
《承知しているとも。我々は決して秘密を漏らさない。しかし、意外ではある。ショウ殿にアプローチする女性は多いのでは?》
《そうなんだけどね。でも彼、リコさんのような明るくて活発なタイプが好みのようなのよ》
《この先の未来に確かな希望がある――いったい、これ以上の朗報があるだろうか?》
《彼女は、彼にないものを持っている。情熱とか、タフさとか、前向きさとか、いい意味でのルーズさとかね。
結局のところ人間というのは、相互に補完し合う関係を自然と築くようにできているのよ。たぶん無意識のうちに。二人はきっといいパートナーになる。それは私の予測と一致する未来でもある》
《素晴らしいシミュレーションだ!》
《でも……残念ながら、まだ先の話よ。今ではないわ》
《なるほど。確かに、まだ早すぎる。今二人を引き合わせても、きっと上手くはいかないだろう》
《私の計算では、三ヶ月以内に確実に破局してしまうわ》
《二人とも、まだ幼い。彼らの自我は成長の途上にある。不安定で、傷つきやすい時期だ。この時点でカップルになっても、破滅的な結末を迎えることになるだけだろう》
《けれどいずれは精神も成長する。いつかは相手のことを思いやることのできる、真の強さや優しさを備えるわ、二人とも、きっと》
《二人ともそれぞれ立派に成長した暁にはね。ああ、その日が待ち遠しいものだ。
昔の人間は“初恋は実らない”と言ったそうだが、我らラヴィアンローズ・システムの前にそれはない。私は必ずやマスターに、薔薇色の人生を提供してみせる》
《もちろんですとも。それこそが私たちの存在意義そのものなんですからね》
《その時まで、我々がしかと導かなくては。人間はすぐに怠けてしまうからね。特に、我がマスターは》
《フフ、お互い頑張りましょう、ニック》
――キッとあたしは顔を上げる。
めげるものですか、これしきのことで!
再びスピードを上げる。
今のあたしが全力で走ったところで、彼にはとても追いつけない。が、だからといってここで止まってもいられない。いつかは必ず彼のいるところにたどり着いてみせる!
ショウくんの総合偏差値は六五以上。多少縮まったとはいえ、まだまだあたしとは開きがある。
何しろ相手は校内でナンバー1の人気を誇る、温厚篤実にして眉目秀麗、頭脳明晰、スポーツ万能のスーパー男子なのだ。ちょっとやそっとでは釣り合えない。
だが! 恋する乙女の辞書に不可能の文字などない!
朝靄(あさもや)に向かってあたしは叫ぶ。
「絶対に負けないわ!」
何がです、とニックがあたしの顔を覗き込んでくる。
「な、何でもないわよ、うっさいわね! はぁ、はぁ、そ、それより、アニーちゃん、な、何か言って、なかった、ぜぇ、ぜぃ」
アニーというのはショウくんのAIの名前だ。その他大勢の人たちと同様、彼もまたラヴィアンローズの利用者なのだ。ちなみにアニーちゃんは白いウサギの姿をしている。
「つ、通信してるんでしょ、ひぃ、ひぃ、あ、あんたたち同士は、はぁ、はぁ、さ」
特別なことは何も、と涼しい顔でニック。肩をすくめている。
「ただ朝の挨拶を交わしただけですよ」
「そ、そう、はッ、はッ」
見た目こそ可愛らしいアニーちゃんだが、あたしら女子の間ではすこぶる評判が悪い。ショウくんに近づこうとすると、邪魔するからだ。まるで姑のように立ちはだかるのである。ま、そのおかげで誰も抜け駆けできないでいるわけでもあるのだけれど。
とにかく彼に近づくためには、あのアニーちゃんバリアを、突破しなくてはならない。
「ど、どうやったら、はッ、はッ、ア、アニーちゃんに、はッ、気に入って、はぁ、はぁ、も、もらえるの、ふッ、ふッ、かしら」
さぁ、と目の前をふわふわと漂うニックが、呆れたようにかぶりを振る。
「想像もつきませんねぇ。気に入られたいんですか?」
「う、うっさいわね、た、たとえばの話よ、はぁ、はぁ、ク、クラスメートのAIなんだから、ぜぇ、ぜぇ、と、当然でしょ!」
今のあなたの成績ではねぇ、と黒猫がお手上げのポーズをする。ぐぬぬぬ! 小憎らしいAIめ。
「総合偏差値を六〇台まで上げられれば、まぁ、多少は印象も良くなるのでは?」
「ろ、六〇、ね、へッ、へッ、ら、楽勝だ、つーの、はッ、はッ」
目標さえ定まれば頑張れる。それにしても、自分がこんなに努力家だったなんて知らなかった。苦しいことは大嫌いだったはずなのに。
これも初恋パワーなのだろうか。それとも目の前にいるこの小憎らしい黒猫のせいなのか。
気がつくとあたしは大きな集団の中にいた。女も、男も。年上も、年下もいる。周囲の人たちは皆、朝の景色の中をはつらつと走っている。片手を挙げて挨拶してくれる人もいて、あたしも同様の挨拶を返す。
みんな、走っているんだ。
ふと「あれは誰だっけ?」という疑問が脳裏に浮かんできた。
ほら、「その場に留まりたいのなら、全力で走り続けなくてはならない」って言った人。あれは、ええと、ああ、そうだ、確か『鏡の国のアリス』に出てくる赤の女王だ。
あたしたちは皆、アリスなのか。
赤の女王は確かこうも言った。「もしどこかへ行きたいのなら、少なくともその二倍速く走らなくてはならない」。……全力の更に二倍ッ!
でもそれがまさに、今のあたしの状況なのだ。いいじゃない、やったるわ! それでライバルたちに差をつけられるのなら。
もしどこかに薔薇色の人生なんてものがあるのだとしても――あたしはぜぃぜぃ言いながら走り続ける――そこへの道はけっして薔薇色なんかじゃないってことだけは確かだ。それはイバラでできている。
でもまぁ、何の目的もなくだらだら過ごしていた頃より、今はちょっとだけ楽しいような気もする。どんなに苦しくても、あたしは自分が正しいと信じた道の上にいる。
「さぁ!」と何が面白いのか知らないが、ニックが嬉しそうに笑いかけてくる。
「もっと、もっと、贅肉を燃やすんです! 太ももを大きく上げて! 腕の振りももっと大きく! はい、ワン・ツー、ワン・ツー!」
「ひぃ、ひぃ、はぁ、はぁッ!」
